【 第1章 : 勲章の男 】 1ー5
~昭和20年の田舎町、
極道、沼田に追い詰められた僕を
救ったのは縁深いその人だった。
【 第1章 : 勲章の男 】
《1-5》
※ ※ ※
1945年(昭和20年)5月8日---
沼田清造は、僕に迫って来た。
「皆も知っとろうがぁ。こいつはな、直樹は卑怯モンよぉ。嘘の病でお国を騙して、兵隊に行かんと戻って来よった!町の恥さらしよ!」
沼田がゲラゲラと笑い叫び散らす。道端に唾を吐く。悪意に満ちた眼差し。見ていた町衆が家の中へ戻って行く。
「どうやったらお国を騙せるんか?知りとうないんかぁ?」
町衆を引き止めんと声を更に上げて叫ぶ。甲高く声が引っくり返って、喉に引っかかった痰で沼田は咳き込んだ。その不快に怒って沼田がまたも肘鉄を振る。今度は僕がそれを寸前で躱す。沼田が更に怒る。足が出る。硬い靴底で膝を打たれて僕は蹲った。
「ちたあ、痛い思いもせえよ!若い者は皆お国の為に痛いも恐いも言わんと勇ましく闘いよろうが!」
自制心が無くなっている。陰惨な空気に包まれた朝の田舎道。
(沼田は何故僕にここまで仕掛けるのだろう?)激痛の中で思う。
(この男は戦争に何を奪われたのか?)
---「沼田、やめときなさい!」声がした。
綺麗な国民服を着た体格の良い老人が沼田の肩を掴んで制止した。
沼田が振り返って、態度を一変させた。
「旦那。」
「もう、よしなさい。」
「へへへ、旦那に言われちゃあねぇ。」
ポケットに手を突っ込んで沼田は、僕に一瞥をくれてから走り去った。
---(助かった。)と思った。
「大丈夫か?鈴井くん。」
今度は僕の具合を案じて、旦那と呼ばれた紳士に言った。
「あ、ありがとうございました。町長。大丈夫です。」僕は礼を言った。
町衆も安心した様子で朝の日常に戻っていく。
「気にするんじゃないぞ。鈴井くん。沼田もこの状況だ。誰彼なく八つ当たりしておる。気にするな。」
紳士の名は、高崎山 総兵衛。
ここ香寺町の町長であり、兵庫県神崎郡の群議会議員。町の誰もが知る名士であり有力者である。
近所の名士とは正にこの人であり、僕が役場で働けるように口を利いてくれた人である。僕の父より五つ年上で、今年還暦の初老。
極道の沼田と言えども、この老紳士には頭が上がらなかった。
僕は町長と呼び、僕は鈴井くんと呼ばれたが、普段は昔のまま、「直くん」と呼んでくれる人だった。
※ ※ ※
沼田が僕に浴びせた罵詈雑言の何割かは誤りではない。
勿論、徴兵の身体検査で僕は国を騙してはいない。生まれ付きの喘息持病。赤紙を受け取った2月。神戸へ身体検査に行った3月、僕は肝炎を発症し、事あるごとに嘔吐を繰り返した。軍は僕の徴兵を免除した。
帝国陸軍の足手まといとなる。軍務失格という診断であった。
そして僕は帰郷した。
父は一言だけ、「残念だが・・本当は嬉しい。」と言った。
他の人々は口々に「残念でございました。」と声を掛けたが、そこには若干の軽蔑が含まれていた。
覚悟を持って戻ったものの、思う以上に[徴兵失格]の色眼鏡は胸に痛いものだった。けれどこれは、
生きて国に尽くせ、家族に奉ぜよ、との天の声と思いを改めた。
懐かしい田川神社で命に感謝した。そして帰宅した。
机の上に弟からの手紙があった。
都市部から逃げてきた人々が米軍の本土空襲の壮絶を伝えていたその頃、
報道はなかった。
---前略、父上様、兄上様。千島での任務、七ヶ月を完遂いたしました。
私の苦手とする寒さからの解放には不謹慎ながらやや安堵。上官殿、私の体質に鑑みて頂き温かい南へ参ります。途中故郷に立ち寄ることは叶いませんが九州、宮崎での務めに向かいます。また御手紙致します。お元気で。仏壇の母上に忠篤相変わらず腕白ですくれぐれも安心くださいとお伝え下さいます様に。忠篤。
その時は弟が移転する宮崎に何があるのか僕にも父にも分からなかった。
空襲は日本主要都市に容赦無く日に日に厳しさを増していた。
千島列島を防衛する役目は一段落着いたとでも言いたげな文面。
一体何が真実なのか?真実を見る眼を養いなさい、と母は言い残した。
現在、僕の周りに真実はあるのだろうか?
僕は床に横になっていた。
母を思い出していた---。
※ ※ ※
★ ★ ★
昭和2年3月7日に発生した北丹後地震は、京都、兵庫の北部に甚大な被害を与え、香寺町での生活を始めようとしていた僕達家族四人にとっては、父方の本家が焼失するという物的損害、そして本家の跡取り一人息子、鈴井祥太同日出先の京丹後市で地震直撃に遭い宿で圧死するという悲劇に見舞われた。
僕の父、泰輔は、兄の弘輔の為に現地の残骸の中から、祥太の遺骨と形見となる号笛を探し帰り、兄を涙させ喜ばせた。
丁度その頃、僕は酷い悪夢に悩まされ、持病の喘息に加えて寝込む火が多くなっていった。
そう・・・祥太さんの遺骨が戻った夜に見た悪夢---鬼と大蛇が現れ、以前、僕の両親を侮辱した祥太さんを憎み、[復讐を誓った僕]の為に、大地震に乗じて彼を殺してやったのだ、と枕元で告げた悪夢---確かに・・・。
祥太さんに悔しい思いをしたかつてのあの日にも、僕は鬼と大蛇に逢った。
夢現の混じった記憶、人は通常それを夢と判断し、鬼と大蛇から、祥太が憎かろうと詰め寄られたことも夢に過ぎぬと納得する。実際に僕もそうであり、大仰な殺意ではなく深層に残置された憤懣と整理していた。
祥太さんの死は心から辛く、父が連れ戻った遺骨と形見にはあ心から手を合わせ、お帰りなさい、と思った。人の世とはそういうものではないのか?そうでなくば世間は成り立たない。
それなのに遺骨が戻った夜、怪物たちは機を合わせるかの如く僕の夢枕に立ち、僕の為に、憎き男を殺してやったと告げ笑った。
神経が過敏になっているだけだと僕は自分に言い聞かせ、悪夢の連なりの消滅を待つしかなかった。
僕元来の感受性の強さ。神経の細さ。そこから来る鬼と大蛇なのか?頭を整理して非現実的な思考を排除したい。頭がおかしくならないように、むしろ苦しい葛藤が続く。不可解な日々だった。
鈴井祥太の葬儀を終えて、本家の伯父と伯母はすっかり気が抜けたように老け込んでしまった。無理もなかった。無理もなかった。若干、苦労知らずの自由人要素はあれど、両親にとっては、一人息子、一粒種。息子に継ぎ渡すべく守ってきた水耕。これからだった。
だからこその無念ではあったが、家長たる弘輔伯父としては、不意に迷い込んできた末の弟、泰輔一家という託すべき肉親が近くに居たことは、神仏の救いとさえ思えた。
弔うことさえ諦めていた息子を、気力で連れ戻ってくれた義の男、実弟泰輔。
伯父が申し出た末弟への家督移譲。神戸や大阪で不満を抱いた、間の兄姉達とてむしろそこに委ねるしかない、との本音。本家の伯母などは、遺骨の件について大変恩義を感じ、後の事を頼みながら父に深々と頭を下げたのだった。
こうして、絶望の中、東京から逃げ落ちた我が家は、半年後に父の正家で生業を得た。
大地震という災い。身内を失う不幸。その果ての果ての顛末。
父、泰輔は僕と弟に諭した。
「明日からは、伯父様伯母様の好意で本家に住まわせて頂けることになった。田んぼも父ちゃん、母ちゃんに任せて下さる。・・・けれど、ワシらは伯父様伯母様の御恩は忘れたらいかん。お二人を大切に、敬って、お助けするんだ。」
「はい。」
父の言いたい事は痛いほどに分かった。
当然の事ながら、父が鈴井家の跡取りになろうとも暮らしが贅沢になる訳ではなく。
震源からやや離れていたこともあり、神崎郡香寺町の復興は予想よりも早期に達せられてゆく。
父、泰輔は、三軒隣の名士、高崎山総兵衛に協力し、盛り立て、地元の復興に貢献した。
五つ年上の総兵衛を、父は、兄と慕い、総兵衛も父を自分の片腕と重用した。町の復興は、実は行政の後ろ側でこの二人の若い男達が立役者だった。この働きを認められて総兵衛は町の重職に推されるようになり、名声は飾磨から姫路にも及ぶようになった。父は、晴れがましい立場を嫌い、総兵衛を支える役に徹したが、それもまた父らしい生き様だった。
高崎山家と鈴井家の新頭領が町を盛り立てていく姿を見て安心したかの様に、その年、昭和2年に伯父が、翌年に伯母が、静かにこの世を去った。向こうに先立った息子を追いかけてゆく、そこに何か喜びすら感じながらの、伯父と伯母の最期だった。
死出の床で伯父は、鈴井弘輔は、僕の頭を撫でて祥太の形見のサイドパイプを僕に与えた。
「直樹や。お前が思い出してくれたから、伯父さんは息子に会えた。祥太を見つけてくれて、ありがとうな・・。」と伯父は言った。
「見つけたのは父ちゃんです。」
「いや、お前も、見つけてくれた。嬉しかったあ。」
---祥太さんの形見が、伯父さんの形見になって僕に与えられた。
「大切にせえよ。」と父は言った。
それでも生活はどんどんと悪くなっていった。
昔を思い出しても仕方がないと僕と弟が愚痴を言う度に両親は叱ったが、幼い僕の記憶には、第一次世界大戦で日本が勝ち進んだ事で生活が豊かになっていったとの記憶があった。東京時代、父の鉄線工場も忙しかった。外国の悪いヤツをやっつけて財宝を獲ってきたんだ---子供心の記憶。
第一次大戦が終わり、日本の[大戦景気]が終わる。欧州の国々を戦場とした世界大戦が終結し、欧州諸国の工業が回復すると、売れ続けた日本製品が売れないとの事態は当然の如くに生じた。戦後不況の開幕。
大国ロシアにおいては労働者が中心となり新たに、国家でも資本家でもない、「社会」自体が工場を保有する社会主義革命が勃発し、ソビエトという名の労働者兵士が政権を握る。社会主義革命を阻止したい資本主義諸国が、大戦の傷癒えぬ間にシベリアで睨み合う事態。シベリアの騒乱に遅れることなく派兵せんとした日本ではその為に生じた米の買い占めによる米価高騰を呼び、困った国民が「米を安く売れ!」と蜂起する混乱、即ち[米騒動]の拡大に繋がってゆく。日本国家はこの騒動が拡散することを防ごうと、情報を操作し情報を隠すとのミスを犯す。折しもロシア革命自体が、労働者の蜂起であった事も相交錯し、労働者が、また虐げられてきた人々が決起しかねない時限装置。それが設置されてゆくかのような暗雲が日本を覆う、
そんな時代であった。
大戦の先勝ムード、大正の綺羅びやかなモダニズム、洋風生活、ハイカラ生活の後方からヒタヒタと忍び寄っていた近代の軋み。その軋みが大きな歪みとなり弾けたのが、1923年(大正12年)9月1日の未曾有の大震災。関東地方南部を襲ったこの大地震こそが後に[関東大震災]と呼ばれる悪魔の乱心。推定最大震度7の大地震は、日本の心臓部たる京浜地帯を、そして帝都を壊滅せしめる。
日本がどこかで持ち堪えていた箍を弾き飛ばした巨大な天からのムチが、その後の日本の転落を予言する。
震災後の恐慌が、帝都の経済活動を狂わせ、行き場無きフラストレーションが被災者たちの心を狂わせる。
根拠の無い風評やデマ。「社会主義者や朝鮮人が暴動を起こし放火をするらしいぞ」との噂は拡散し、民衆は自警団を結成し、戒厳令下、軍も警察もが寄り集って数千人の罪なき人々を虐殺したのである。
帝都を正しく揺るがした関東震災から4年が経過し、1927年(昭和2年)、僕達が兵庫県神崎郡香寺で北丹後地震に遭遇していた頃、事件は更に続いていた。
関東震災に起因する不良債権、即ち震災手形の解決に取組まんとした矢先、3月半ば、時の大蔵大臣が、「東京渡辺銀行が破綻致しました」と、事実に相違なる発表。この失言を聞いた人々が預金を引き出すべく銀行に押し寄せ、所謂[取り付け騒ぎ]が発生。各地の中小銀行が休業、倒産に追い込まれるに至り、政府の迷走は加速の度を高める。
日本第三位の隆々たる商社[鈴木商店]の破産、ここ多額融資をしてきた台湾銀行の経営危機。
経済の破綻、国民の不満、政治の迷走と権力の対立構造の明確化・・・狂い始めた歯車は誰にも止められない。その中で昭和は、ゆっくりと進行する。先に待つものを誰も考えようとしない、狂気の進行であった。
※ ※ ※
雄々しく生きようとする僕達家族を、
狂気の時代が飲み込んでいく~