ガートルードの王子様
「殿下。これを。疲労回復に効く薬草茶です」
漆黒の髪の間から覗く分厚い眼鏡越しに碧色の瞳はギラギラとルセルに注がれている。
濁った茶色のどろどろの液体を差し出されて、ルセルは顔を引き攣らせた。
「いや、それもう『茶』じゃないよね…」
婚約者のガートルードに悪気がないのは理解している。けれど、だからといってその謎の液体を飲む気にはならない。これっぽっちも、髪一筋分も、ならない。
「…気持ちだけ、受け取るから」
そう言って視線を逸らしてガートルードの前を通り過ぎる。
ガートルードは茶器を掲げたまま固まっている。
…ルセルはこの婚約者を持て余していた。
*
ガートルードは丹精込めて作った茶を、今日も大好きな殿下に飲んでもらえず、消沈していた。
(…殿下はお疲れと聞いたから、疲労回復の薬草と、栄養価の高い果物と野菜と、蜂蜜と、薬酒を入れたとっておきのドリンクを作ったのに…)
ガートルードは公爵家の娘だ。次期国王となるルセル王太子殿下の婚約者として申し分のない身分の令嬢だ。
…ただし、その奇行さえなければ。
ガートルードは変わった娘だった。
幼少の頃から文字を読むのが好きで、図書室に入り浸っているようなこどもだった。
しかも、表情に乏しく、滅多に笑わない。ひたすら無表情で本を貪るように読む娘。
そんな娘を心配した両親は、引きこもり気味のガートルードを外に連れ出した。
ガートルードは艶やかな漆黒の髪に、綺麗な碧玉の瞳の、可愛らしい少女だった。そんな少女を見初めたのがルセルだ。
ルセルも最初はガートルードを可愛いと思っていたのだ。最初は。
しかし、ルセルに優しくされたガートルードは、何故か謎の液体を作るようになった。
その液体の研究に没頭するあまり、屋敷は薬草の煮詰めた臭いで充満し、ガートルード自身も薬草の臭いが染みついて、いつしか魔女と呼ばれるようになった。
黒髪は梳き流し、煮詰める際、薬草の煮汁が服に飛ぶのを防ぐために纏う黒のローブ姿のまま園遊会の会場に来てしまったことが原因だ。
一刻も早く作り立ての薬草茶をルセルに届けたかったガートルードが着替えもせずに家人が用意する馬車を待ちきれず通りかかった辻馬車に飛び乗ったために起こった悲劇であった。
衆目の中、魔女じみた怪しい格好の婚約者に謎の液体を捧げられたルセルがガートルードを避けるようになっても仕方のないところだろう。疲れている、忙しいからと口実をつけ、ルセルはガートルードを遠ざけるようになった。けれどガートルードにはルセルが急に忙しくなって疲れやすくなったことが心配でしかなかった。
項垂れていたガートルードの手からするっと茶器を抜き取ったのは、銀色の髪に紫色の瞳の、ルセルによく似た、そしてそのままルセルを大人にしたような容貌の青年だった。
「ルセルが飲まないなら、私が頂こう」
「ナリス殿下…」
現王の末弟、ルセルの叔父に当たるナリスだ。
ナリスはにっこりと笑うと、ぐいっと一気に躊躇いもなくガートルードの特製薬草茶を飲み干した。
「あ…」
「ごちそうさま、ガートルード」
そうして空の茶器をガートルードの手に戻すと、ナリスはさっさと行ってしまった。
(ナリス殿下もお疲れなのかしら…)
ナリスの後姿を呆然と見送りながらぼんやりとそんなことを思うガートルードだった。
*
数日後、侍女を伴い王城を訪れたガートルードは今日も今日とて特製薬草茶をルセルに飲んでもらえずトボトボと帰路に着くかと思われた。
しかしこの日のガートルードはルセルの執務室を出ると真っ直ぐに別の場所を目指して迷いのない足取りで進んだ。
訪れたのはナリスの執務室だった。
「ナリス、君に可愛らしいお客さまだ」
取り次いでくれたのは金髪に青い瞳の美形騎士だ。彼はガートルードを一瞥すると面白そうに笑った。
「殿下にこれを」
ガートルードが薬草茶を勧めると、ナリスは驚いたように一瞬目を見開いたが、直後ににっこりと笑みを浮かべた。
「わざわざ作ってくれたのかい?ありがとう、ガートルード。この間のお茶、飲んだらすごく身体が楽になったよ」
そう言って躊躇いもなく一息にどろどろの液体を煽る。
褒められてガートルードは頬を染めた。
「よかったです…。ナリス殿下もお疲れなのですね」
けれど少し心配になり、眉根を寄せると何故か取り次いでくれた騎士が吹き出した。
「うるさいぞエリオット」
ナリスが不機嫌そうにエリオットと呼んだ騎士を睨むと、エリオットは笑って手を振った。
「失礼。お疲れのナリス殿下にはしばしの休憩が必要かと。お茶…は、あるのでよろしいですね。菓子などを持って来させましょう。私は暫く外におりますのでごゆっくり」
ガートルードが戸惑っている間にエリオットはガートルードの侍女と一緒にさっさと退室してしまった。ナリスに視線を向けると、ナリスは苦笑してガートルードに椅子を勧めた。
「あれのことは気にしないでくれ。…私の休憩に付き合ってくれるかい?ガートルード」
「…はい。喜んで」
ガートルードはナリスとのお茶を愉しんだあと、退出したのだった。
*
ナリスが初めてガートルードと会ったのは八年前、王城で開かれていた園遊会だった。
甥っ子の婚約者として、顔と名前は把握していた。この時ガートルードは六歳、ナリスは十五歳だった。
この頃のガートルードはまだルセルと会うよりも屋敷で本を読んでいたい気持ちの方が勝っていた。
それに反してルセルはガートルードに会いたくてしょうがなかった。
両親に無理矢理連れて来られたガートルードをルセルは引き摺り回した。手を繋いであちこち王城の中を探検したのだ。
引きこもりがちだったガートルードは体力がなく、疲れ切ってしまった。けれどあまり表情に出ないため、ガートルードに会えるのが嬉しくてはしゃいでいたルセルは全く気付いていなかった。
ガートルードが泣きそうだと気付いたのはナリスだった。
庭園の隅の方にいた二人に近付いたナリスは、ガートルードが疲れていることを見てとり、やんわりとルセルを窘めた。
「ルセル、ガートルードにお菓子を持って来てあげてはどうかな。まだ何も食べていないのだろう?」
ルセルははっとしたように頷いて、菓子の並べられたテーブルへと走って行った。
「ガートルード、大丈夫かい?ルセルが迷惑をかけたね」
ナリスが屈んで小さなガートルードと目線を合わせると、ガートルードはふわっと微笑んだ。そして安心したのか、くたりと意識を失ってしまった。
「え?ガートルード!?」
ナリスは小さな体を抱えて城内の控室へと走ったのだった。
*
園遊会の会場で倒れたガートルードに、ルセルは泣きながら謝った。
そして宮廷の薬師が調合した特製の薬草茶をガートルードに飲ませたのだ。
ガートルードはルセルの心が嬉しかった。その薬草茶はとても苦かったけれど、身体の奥からぽかぽかと温かくなり、疲れが取れるようだった。
それから、ガートルードは薬草茶づくりにのめり込んだ。
*
ナリスはガートルードが倒れてしまった時の衝撃が強く、それ以来それとなく王城内でガートルードが行き倒れていないか気に掛けるようになった。
やんちゃなルセルに引き摺り回されて、疲れ切っていないだろうかと。
薬草茶を薬師に作らせたのはナリスだ。それから一月ほど毎日ガートルードに届けさせたのも。ルセルの叔父である自分の名は出さずに、ルセルの名で届けさせたのは当然の配慮だった。
虚弱体質を改善させる効果のある茶を調合させたのだ。それを毎日飲んだガートルードは元気になり、薬草茶に興味を持ったのだった。
*
ガートルードはナリスを小さなころから知っているため兄のように慕っている。
(ナリス殿下はいつもお優しくて、本当のお兄様みたい…)
大切な兄とも慕う人に薬草茶を飲んでもらえてガートルードはほくほくだった。
(殿下の疲れが取れるといいな)
ルセルの分は今日も父親が飲むことになるだろう。
(いいか…。お父さまもお疲れのようだから)
薬草茶は日持ちがしない。作ったらすぐに飲んでもらわなければ効用が薄くなってしまう。
(効用の長持ちする食品を作ってみようか…)
そのようなことを考えながら王城の回廊を曲がった時だった。
ガートルードは前方にルセルを発見した。嬉しくなって駆け寄ろうとして、――彼が一人ではないことに気付いた。
ルセルは可愛らしい令嬢と一緒だった。ふんわりとした栗色の髪に明るい空色の大きな瞳。纏うドレスは桃色で、令嬢によく似合っていた。
「………………」
ガートルードは言葉を失い二人を凝視した。
回廊の角に突っ立っている黒ずくめの人物に二人も気付いて硬直した。
「ガ、ガートルード…」
ルセルが酢を飲んだような顔をした。その表情にガートルードは心臓を握り潰されたような衝撃を受けた。
ガートルードはクルリと踵を返すと、元来た道を全速力で駆け戻った。
出口とは真逆の方向へ走っていることは頭から抜けていた。
ただあの二人の姿をこれ以上見たくなかった。
走りながらガートルードは泣いていた。涙が両の目から途切れずに溢れてくる。ガートルードの後ろには侍女がくっついて、若い淑女が二人全力で王城内を走る姿に衛兵は目を丸くした。幸いこの区域は許可された者のみが通行を許される区画で、この時間はガートルードたちの他は誰もいないようだった。
とはいえ、全力で走るのは疲れるし、汚い泣き顔は衛兵にも見られたくない。ガートルードは空き部屋に飛び込んだ。侍女も一緒に滑り込む。
入った部屋の扉のすぐ脇に身体を丸めて小さくなってガートルードは嗚咽を堪えるようにえぐえぐと泣いた。
一応ここが王城で、周りに衛兵がいることは思い出したので号泣は出来ない。ただ溢れる涙が止まるまで、ここで隠れていたいだけだ。
「お嬢さま…」
侍女が労わるようにハンカチを差し出すと、ガートルードは受け取って分厚い眼鏡を外して目に当てた。
ガートルードは気付いてしまった。
自分がルセルにどう思われているか。
令嬢に向けるルセルの表情は柔らかく、好意が透けて見えた。対して直後に自分に向けられたのは、異物を見るような眼差し。
ガートルードの頭の中に、先ほどの令嬢のふんわりとした柔らかい色合いが浮かぶ。
可愛いと、素直に思った。対して自分はどうだろう。
漆黒の髪に、黒いローブ、黒に近い深緑色のドレス。暗くて重い印象だ。その上分厚い眼鏡。全然可愛くない。
ガートルードはそれまで外見や客観的印象を全く気にしたことがなかった。
流行やドレスにも興味がなかった。だからガートルードのドレスは実用第一の簡素で汚れが目立たない、地味なものだ。
それではダメだったのだと、漸く気付いた。
ボロボロと泣く主に侍女は胸を痛めた。――その時、扉が開いて誰かが侵入して来た。
「ガートルード」
侵入者は小さく丸まっていたガートルードをぎゅうっと抱きしめた。そのまま軽々と抱き上げ、幼子をあやすように優しく背中を撫でる。
「何があった?話してごらん」
「…ナ、リス殿下…?」
ナリスはガートルードを抱き上げたまま長椅子へ座り、少女を膝に乗せた。ガートルードは気持ちに余裕がないため自分がどんな体勢なのか気付いていない。
ナリスの手が優しくガートルードの背中を撫でる。
ガートルードはその優しさに縋り付いた。涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「…ルセル殿下が…」
途切れ途切れに、見たこと、感じたことをナリスに話す。
全部話し終えると、ナリスが言った。
「ガートルードは可愛いよ」
「……え…?」
伏せていた顔を上げると間近にナリスの秀麗な顔があった。紫色の綺麗な瞳が優しくガートルードを見つめている。
「華美なドレスなど纏わなくとも、ガートルードは綺麗だ」
乱れた黒髪を丁寧に横に撫でると、ナリスはガートルードの目尻の涙を指で拭った。
「ルセルのために一生懸命薬草茶を作るところとか、一途なところとか、純粋なところとか、優しいところとか、全部君の魅力だよ。はにかむ笑顔も可愛いし、黒い髪も綺麗だ。君の碧の瞳は極上の宝石のよう」
呆然とナリスの言葉を聞いていたガートルードの頬がじわじわと紅く染まる。
「…それは薄紙に包まれたように君の眼鏡と前髪が隠してしまっているけれど、ほんの少し捲ればすぐにわかることだ。ルセルも早く気付けばいいのに」
ナリスの細くてしなやかな指が優しくガートルードの髪を梳く。
ガートルードはか細い声で呟いた。
「……そんな風に言って下さるのはナリス殿下だけです…」
ナリスは真っ赤に染まったガートルードの顔を愛おしげに見つめた。この子は碌に化粧もしないので、これだけ泣いても顔面が化粧崩れで汚れることもなく、ただ純粋にぽろぽろと零れ落ちる涙は宝石のように美しい。計算も駆け引きも知らない純情な少女。
ナリスはガートルードを守ってやりたかった。
この子は無防備過ぎる。
そっとガートルードの頭を胸元に引き寄せて、こめかみに口付ける。
「!」
「…これは涙が止まるおまじない。…止まった?」
びっくりして涙は止まった。ガートルードがこくりとこどものように頷くと、ナリスは悪戯が成功した少年のように笑った。
その笑顔に胸が震えた。
(……?)
「目元を冷やす物を用意させよう。その顔のままじゃこの部屋から出せない」
からかうように言われてガートルードは真っ赤になった。相当みっともない顔なのだろうと思った。だが、ナリスはくすっと笑った。
「可愛い過ぎるからだよ」
柔らかく頭を撫でられて、さらに紅くなる。
王城の女官が呼ばれて、ガートルードの目元を冷やし、軽く化粧を施してくれた。王城の出口までナリスがエスコートしてガートルードと侍女を馬車に乗せてくれた。その間ガートルードはぼんやりとまるで人形のように従い、屋敷に帰り着くまで心ここにあらずといった風情だった。
ナリスにこめかみに口付けされてから後の記憶がない。
気が付いたら屋敷の自分の部屋にいた。
(え!?…あれ、もう夜?)
しかも日はとっくに沈んで、自分は夜着姿だ。食事をした記憶も、風呂に入った記憶もすっぽり抜け落ちている。
侍女のネリーを呼ぶ。
「私…お夕食ちゃんと食べた?お風呂にも入ったのかしら」
「はい。ただ、旦那様や奥様が何をお尋ねになってもお返事をなさらないので、とても心配されていました」
「えっ……。それは…ごめんなさい…全然覚えていないわ」
夢心地とはこういうことをいうのだろう。
ふわふわと浮いているように、現実感がない。
無意識に手をこめかみに当てる。ぶわっと顔に熱が集まる。
(……おまじない…すごい。本当に止まった)
何故かドキドキと心臓が痛い程脈打つ。
流れた涙と共に、哀しみと胸の痛みも流れたのだろうか。あの時の、ルセルと令嬢を見た衝撃は薄まって痛みはほとんど感じない。
(ナリス殿下が…慰めて下さったからだわ……)
翌日からガートルードは台所に籠って特製薬草ケーキ作りに没頭した。
ナリスから花が届けられた。一輪の綺麗なバラ。それを見てまた心臓がおかしくなった。
一週間後、ナリスが公爵家を訪れた。
台所の入口に現われたナリスに、ガートルードは手に持っていたすり鉢を床に落とした。ガチャンと派手な音が響くが、心臓がガンガンとうるさく鳴ってガートルードはそれどころではなかった。
「よかった。君が王城へ来なくなってしまったから、心配していたんだ」
ナリスはほっとしたように軽く息を吐くと、優しく微笑んだ。
(で、殿下…)
何に動揺しているのかは自分でもわからないが、とにかくガートルードは身動きできないほど混乱していた。思考回路は完全に麻痺している。
「ガートルード?」
言葉を発さないガートルードに、ナリスが訝しげに眉根を寄せて一歩近づいた。ガートルードは反射的に一歩後ずさり、先ほどすり鉢と一緒に落としたすり棒を踏んでしまいよろけて尻餅をつきそうになった。
「危ない!」
咄嗟にナリスが腕を伸ばしてガートルードの身体を抱き留めた。
ガートルードの顔が茹で蛸のように真っ赤になった。
「ガートルード?どうし……」
ナリスの瞳が驚きに見開かれる。長い指がガートルードの頬に触れた瞬間、ぶわりと少女の目尻に涙が盛り上がった。
「…わ、わからないの…。動悸が苦しいし、血圧も上がっています。私、おかしくなっちゃった…」
ぽろぽろと涙を零しながら動揺するガートルードをナリスは呆然と見つめる。ナリスが切なげに瞳を伏せたことにガートルードは気付かなかった。
「……そんなにルセルのことがショックだった?」
(…ルセル殿下…?)
ガートルードはびっくりしたように目を見開いた。この一週間、全く忘れていた。
ナリスに問われて漸くその名を思い出したくらいだ。そのことに自分でも驚いた。
確かに目撃した直後はショックを受けた。けれどそれはすぐに薄れた。淋しさは感じているけれど、それだけだ。
ガートルードはふるふると首を横に振る。
「違います…。そうじゃなくて…」
では何がこんなにも心を搔き乱しているのか。ガートルードは無意識にナリスの紫色の瞳を見つめた。澄んで綺麗な紫水晶のような瞳。
「あ……」
どくりと胸が痛む。
ぎゅっと心臓を押さえると、ナリスの顔が心配そうに曇った。
「…休息が必要のようだね」
言葉と共にふわりと抱き上げられた。
「え!?」
ナリスは側に居た侍女にガートルードの部屋へ案内するよう言いつけるとすたすたと歩きだした。
ガートルードが呆然としている間にいつの間にか自室の長椅子に降ろされていた。
「君のことだからこの一週間ずっと薬草茶作りに没頭していたのだろう。…少し休んだ方がいい」
ナリスの指が労わるようにガートルードの頬を撫でる。
ガートルードの心臓がどくどくと暴れ出す。
「…一週間前から、心臓がおかしいのです…。心臓を宥める薬草ケーキを作ろうとしていますが、全然、効果がなくて…。どうしていいかわかりません…」
激しい動悸のため、声は掠れてしまった。それでも一生懸命言葉を紡ぐガートルードをナリスは辛抱強く聞いてくれた。
「…一週間…ずっとナリス殿下のことで…頭がいっぱい…でした」
「…………え?」
ナリスの瞳が驚きに見開かれる。
「どうしてなのかわからないです……。自分のことがわからなくて怖い……」
ふるふると震えるガートルードをナリスは思わず腕の中に閉じ込めた。
びくりとガートルードの身体が跳ねた。
「……ガートルード。君は本当に…」
「……ナリス殿下……?」
参ったな、と呟いたナリスの声とともに吐息がガートルードの耳に落ちる。ガートルードはぎゅっと目を瞑って身体を縮めた。何やらぞくっと悪寒がしたのだ。
「……聞かせて、ガートルード。一週間、君の心を占めていたことを」
ガートルードが顔を上げるとナリスの紫色の瞳が優しく細められた。
「話せば分かるかもしれない。君の力になりたい」
ガートルードは疑うことを知らない純粋な乙女だった。ナリスの瞳が悪戯っ子のように煌めいたことに気付かなかった。
「……殿下に、か、可愛いって言って頂いて、…すごく、嬉しかったのです。……その時から、心臓が、少しおかしくて……、でもおまじないの時から、もっと、身体まで熱くなって…熱が出たみたいに、記憶もなくって。……お花を頂いたときも、胸がぎゅって、痛くなって……ずっと殿下のことしか考えられなくて……」
「………………………」
ナリスは撃沈した。ガートルードの発言は破壊力があり過ぎた。
「…殿下?お顔が赤い……」
ガートルードの手が心配そうにそっとナリスの頬に触れた。その手をナリスは優しく包んだ。
「……ガートルード、その胸の痛みは君にとって不快なもの?……おまじないは?」
ガートルードは魅入られたみたいにナリスの紫水晶の瞳を見つめた。どくりどくりと、先ほどからまたしても心臓がおかしい。けれど不快かと問われれば、それは違うと言える。
「いいえ……、でも、……怖い……」
何故か目尻に涙が浮かぶ。けれど直後に涙が止まった。瞼にちゅ、と口付けられ、ぺろりと涙を舐めとられたためだ。
「!?」
「…私もこの一週間、ずっと君のことを考えていたよ」
「え………」
一瞬心臓が止まった。
「…泣いていないだろうかとか、今どうしているのかとか」
じわじわとガートルードの頬が紅く染まる。胸に浮かんだのはふわふわとして、温かい感情。
――嬉しい。
ほんのりとガートルードの顔に笑みが浮かんだ。
(心配…して下さったのかな。あの時泣いてしまったし…。…やっぱり殿下はとてもお優しい方だ……)
心配をかけてしまったというのに、嬉しいと感じてしまう自分にガートルードは戸惑った。
(不謹慎よね。いけないことだわ)
慌てて口元を引き結ぶ。けれどそれを解こうとするようにナリスの指がガートルードの頬に触れ、唇が額に触れた。
きゅうっと心臓を掴まれたような心地がした。
「…殿下」
「…ガートルード。私を見てくれないか。……君の結婚相手として」
ガートルードは息を止めた。呆然と目の前の相手を見つめる。美しい紫水晶の瞳は懇願するようにガートルードを見つめ返した。
「……結婚……?」
戸惑いを浮かべるガートルードにナリスは苦く笑った。
「…君がルセルを慕っていることは知っている。正式な婚約者であることも。でも今ならまだ間に合う。君を泣かせるような男に君を預けることなど出来ない。……告げるつもりはなかったのだけれど……。私は意志が弱いな。我慢出来なかった」
自嘲気味に笑うナリスにガートルードは胸が痛んだ。
けれど今は何一つ考えられない。思考が完全に麻痺して言葉が浮かばない。
「…あの…わ、私……」
ナリスは混乱するガートルードの唇にそっと指を置いて微笑んだ。
「今すぐ答えを出さなくていい。…ゆっくり考えて。私は君が答えを出すまでいくらでも待つ」
そう言ってナリスはガートルードをそっと胸に抱きしめた。
「……ガートルード。私にとって君は『天使』だよ。君が私の隣にいてくれたら私は天国にいるように幸せだと思うけれど…君が笑顔でいてくれるなら、私は遠くから見ているだけでもきっと幸せだよ」
ガートルードにはその後五日間の記憶がない。
誰が話しかけても心ここに在らずと言った様子でぼんやりしていた。
ふわふわふわふわと心がどこかへ舞い飛んでしまって戻ってこない。
毎日ナリスから届けられる花にどくどくと胸が高鳴り、刺激の強さにくらくらとして薬草ケーキ作りも手に付かない有様だった。
六日目に漸く侍女に話しかけられていることに気付いた。
「…お嬢さま。……殿下がお見えになっております」
「…え、殿下!?」
今のガートルードの頭には殿下=ナリスしかなかった。だから応接室で待っていたルセルを見て驚いて動きが止まった。
「……久しぶりだね、ガートルード」
「………………………………………」
ガートルードは言葉を返せない。突っ立ったままの彼女にルセルは座るよう促す。
「少し…話がしたいんだ」
殿下が来ていると聞いてどきどきと高鳴っていた胸が冷水をかけられたように急速に冷えた。
「………はい」
ガートルードはルセルの向かいに座った。侍女には後ろに控えて貰っている。ルセルは一人だった。
「二週間ぶりかな」
「………はい」
「……君が王城に来なくなったのは…俺がフェルメル伯爵令嬢と一緒にいたのを見たから、なのかな」
ガートルードはそういえばそんなこともあったなと、二週間前のことを遠い出来事のように感じた。あの令嬢はフェルメル伯爵令嬢というのか、とぼんやり思う。
きっかけであったことは確かだが、それが原因かと問われると違うと言える。
ガートルードは首を横に振った。
「…いいえ。……私の心臓がおかしくなって、それで」
「え!?……心臓病?」
ルセルの顔が蒼褪めて、心配そうにガートルードを見つめる。
薬草ケーキ作りに忙しくて、と続ける前にルセルに遮られたので言葉はそこで途切れた。
(あれ…でも今は普通みたい……)
ガートルードは自分の状態を確かめる。この二週間ずっと、どきどきしたり痛かったりしたのに。
ナリス殿下がいたからだ、と気付いた途端に胸がどくどくと鳴った。
(あ……)
ガートルードが胸元をぎゅっと掴んで顔を顰めたのを見て、ルセルは慌てた。
「ガートルード、具合が悪いのかい?」
「あ…申し訳ございません…殿下…。私…」
「いや、突然押しかけた俺が悪い。…安静に――」
「いいえ、大丈夫です…殿下、お話とは…」
「……いや、出直すよ」
ルセルは落ち着かなげに立ち上がるとそそくさと部屋を出て行ってしまった。
ガートルードは長椅子に座ったまましばらく放心していた。ルセルを目にして自分の立場を思い出した。
(私は…ルセル殿下の婚約者……なのよね)
ずきりと胸が痛んだ。何故?今更ではないか。
ガートルードがぎゅっと胸元を押さえたその時――。
馬の嘶きと玄関の扉が勢いよく開かれる音が聞こえた。侍女のネリーが「様子を見てきます」と素早く部屋を後にする。
(……?)
ガートルードは物思いから覚めて窓に寄って外を覗こうとした。
「ガートルード!」
「!」
ガートルードはその声に身体が震えた。振り向いてその人の姿を目に入れたい。
けれどガートルードがその人の姿を捉えるよりも早く、近付いてきたその人に抱きしめられていた。逞しい胸に頬が押し当てられ、その人の姿が見えない代わりに心音が聞こえた。早鐘を打つ激しい音が。
「具合が悪いと聞いて…心配で…」
ガートルードを抱きしめるナリスの腕は震えていた。
ガートルードの胸が震えた。痛い程ドキドキと脈打っている。
「…ナリス…殿下…」
吐息のように呟くと、ナリスが腕を解いてガートルードの顔を確認するように見つめた。
「…ルセルに何を言われた?」
「……殿下に…?」
こてりと首を傾げるとナリスは戸惑ったようだがそっとガートルードの頬に触れた。
「……具合は?」
「……殿下、どうしよう……心臓がいたい……」
「今すぐ王城へ行こう。宮廷侍医に診て貰おう。ルセルが医師団を君の屋敷に派遣すると言っていたのを止めてきたのだが…」
言いかけてナリスは唇を噛んだ。
外で馬車の車輪の音と馬の嘶きが聞こえる。ざわざわと大勢の気配も。
「……あの馬鹿甥……」
何やら低温の今まで聞いたことの無い低い声が聞こえた。
ガートルードが顔を上げると窓を睨み付けていたナリスがふっとガートルードに顔を向け、安心させるように優しく微笑んだ。
「ガートルード。君は安静にしていなさい。何も心配しなくていいから――」
「殿下!……行かないで…」
部屋を出て行こうとするナリスの腕の袖口を咄嗟に掴んで、口をついて出た言葉に誰より驚いたのは言ったガートルード本人だった。
ナリスの秀麗な顔に驚きが浮かぶのを見てガートルードは狼狽えた。
パッと掴んでいた袖口を離すが、目はナリスの紫水晶の瞳から逸らせない。
「…殿下のことを考える時だけ…心臓がおかしくなるのです……。…でも、お側に……居たいです…」
ナリスが僅かに目を細めてガートルードを見つめた。
ガートルードはルセルと会って、ルセルと令嬢のことを考えた。
(ルセル殿下はあの方のことをお好きなのかな……)
大好きなルセル。でも二人をお似合いだと思った。自分は彼に相応しくないとも。あの時感じた胸の痛みは仲良しの兄弟が突然恋人を連れて来たことによるショックという表現が一番当てはまる気がした。そこに令嬢に対する嫉妬はない。ただルセルが離れていくことが寂しいと思った。
ナリスに対しては全然違う。心臓がズキズキと痛むし、頭がぼうっとする。それなのに嬉しくて楽しくてふわふわする。
麻薬みたいな人だ、と思う。
「ガートルード」
名を呼ばれただけで痺れたように全身が震える。
どうしてこんなにどきどきするのだろうとガートルードは困惑する。
いつの間にか二人の間にあった一歩の距離が詰められ、ガートルードの目の前にナリスが立っていた。
「……本当に私でいいのかい?……」
ナリスの瞳は微かに何かを恐れるように揺れていた。ガートルードは目を瞠った。いつもは意志の強さを感じさせるナリスの凛とした瞳に迷いと恐れが浮かぶのを見るのは初めてだ。
ナリスは恐れていた。ガートルードに拒絶されることを。そしてそれと同じくらい彼女を奪うことを躊躇っていた。
ルセルの妃とは即ち王妃だ。対して自分は王弟。いずれは臣下に降下する身。
ガートルードが身分に拘るとは思わない。だが自分が彼女から至高の地位を奪うことに罪悪感がわかないわけではない。それでも。
「……殿下じゃないとダメです……」
縋るように見つめられてナリスの理性が吹き飛んだ。華奢な身体を引き寄せて腕に閉じ込める。
ガートルードの胸がきゅんと鳴った。
(ああ、この感情は……)
「…ガートルード。少し騒ぎになるかもしれないけど、私を信じて待っていてくれる?」
ガートルードが見上げると、ナリスの綺麗な紫水晶の瞳が柔らかく自分を見つめていた。
愛しいと告げるその眼差しにガートルードの頬は自然に綻んでいた。
「はい」
ガートルードは心臓病を理由にルセル王子との婚約を解消した。世継ぎを生むことに耐えられない身体であると診断されたのだ。王家と公爵家、双方納得しての円満解消だった。
まだガートルードが社交界デビュー前の年齢であり、公爵家の令嬢ということで王家は厳しい緘口令を出した。徒にガートルードのことを噂することのないようにとの配慮だったが、ルセルが宮廷医師団を公爵邸に派遣するという派手なことをしたためにそれは公に知れ渡ることとなってしまった。
ガートルードの身体に問題があるということで今後の彼女の婚姻は絶望的だと噂された。だから三年後、社交界の女性たちの視線を一身に集めていた王弟ナリスが彼女に求婚したことが明るみに出ると、皆驚いた。
病弱の公爵令嬢にナリスがそれでもどうしてもと懇願して結婚したのだという噂は瞬く間に社交界を駆け抜けた。
二人の恋は純愛として憧れと羨望の的となった。
ガートルードがどんな令嬢なのか知る者はあまり多くない。ナリスが彼女を極端に外に出さないせいだ。世間ではガートルードは病弱な令嬢とされており、夜会に出なくても咎められることはない。
ガートルード本人も家に籠って研究をしている方が性に合うため、夜会などには必要最小限、数えるほどしか出席しないため、世間には幻の令嬢と噂されているほどだ。
その日の夜会は出席しないわけにはいかなかった。
「……ルセルの誕生日なら簡単に断れるのだがな…」
残念そうに酷いことを言うナリスにガートルードは困ったように笑う。今日はナリスの兄である国王の誕生日だ。親族としてだけでなく臣下としても出ないなど選択肢にあってはならない。
「ナリスさま。もう誰もわたくしのことなど気にしておりませんわ」
ガートルードはナリスが自分を夜会に出させないのはルセルの元婚約者であることを好奇の目で見られないようにするためだと思っている。
実際には可愛いガートルードを他の男どもの目に映させたくない、過剰なまでのナリスの独占欲による単なる我儘であるのだが。
ナリスはちらりと目の前に立つガートルードに視線を向けた。
ガートルードは落ち着いたミルク色のシンプルなドレスを纏っている。髪は綺麗に後頭部に纏められ、白いうなじが丸見えだ。
眼鏡は外され、吸い込まれそうなほど鮮やかな碧の瞳が無防備に晒されている。
ナリスは今すぐガートルードに眼鏡をかけたい衝動に駆られた。
隠したい、閉じ込めたい。
「こんなに可愛く着飾らなくてもいいのに…」
本音に忠実に両腕に閉じ込めるようにガートルードを抱き寄せる。
「ふ、普通です!」
事実、ガートルードは化粧もドレスも上品にすっきりと纏めているが、派手ではないし華美でもない。だが素材がいいため少し化粧をしただけで人目を惹くのだ。
ナリスはそれを知っていた。けれどわざわざ他の男に教えてやる必要はないと思っていたので結婚前のガートルードが眼鏡に地味ドレスだったのを放置していたのだった。
夜会に出る時のガートルードは眼鏡を外す。あまりにもドレスに不釣り合いなためだ。すると何も見えなくなるので必然的にナリスの腕から離れられなくなる。その様子は儚げで庇護欲を誘う。
ナリスにとってはガートルードが自分から離れられないことはむしろ好都合だ。自分の目の届かない所へ行かれては心配で仕方がない。
ガートルードはナリスに対して信頼して甘えきっていた。苦手な夜会も乗り切れるのはナリスが優しく導いてくれるおかげだ。
「叔父上の顔が見たこともないくらい甘々だ…」
苦汁を飲んだような顔をしてルセルは呻いた。
数年前、ルセルがある伯爵令嬢と一緒にいるところを目撃したガートルードが暫く王城に来なくなったことがあった。
その時のナリスの様子を思い出す。
*
「ルセル、ガートルードが王城に来ていない。何か聞いているか」
「……俺も知りません」
「…見舞いに行っていないのか?……手紙も出していないのか。…泣かせておいて」
「!泣いて…?いや、まさか…。ガートルードは変わった子だから…」
その言葉にナリスの中で何かの糸が切れた。
「おまえには彼女の婚約者たる資格がないな」
ルセルが何かを言おうと開きかけた口を封じるようにナリスは冷たく一瞥する。
「……もういい。暫く私の前に顔を見せるな」
ルセルはナリスの怒気に気圧された。そんなにも感情を露わにする彼を見るのは初めてだった。
*
あの時のナリスは怖かった、とルセルは思い返した。
その後、うっかりガートルードに会いに行ったことや、宮廷医師団を派遣してしまったこともナリスの怒りを誘ってしまった。
しかしそろそろ赦してほしいところだ。ナリスとガートルードは今幸せなのだから寧ろ自分は二人の仲を取り持ったキューピッドとして尊重されてもいいのではないかとすら思う。
「ガートルード。久しぶりだね」
声をかけるとナリスが冷たい笑みを浮かべた。
「ルセル殿下、妻の名を気安く呼ばないで頂きたい」
「…叔父上。いえ、クリュセ公爵。……もう、そろそろお赦しいただきたいのですが」
しょんぼりと項垂れるルセルにガートルードは可哀想になってしまった。
「ナリスさま。わたくしと殿下は幼い頃より一緒に育った兄妹のようなものなのです。婚約解消はお互い納得の上ですし、何より今は」
ガートルードはナリスの顔を見上げて微笑んだ。花が咲くように艶やかなその笑顔にルセルもナリスも目を奪われた。
「…ナリスさまと結婚できて、とても幸せです」
ナリスの顔がルセルが今まで見たこともないくらい蕩けた。
(うわー…)
既にナリスの目にはガートルードしか見えていないようだった。
ナリスはもう一秒でもこの場に留まるつもりはないらしく、素早くガートルードの腰に手を回すと出口へと向かった。
その際ちらりとルセルへ視線をやり、「国王にうまく言っておけ」と命じて。
(はいはい。…まぁ父上もわかっておられると思いますが)
ルセルは半分呆れたような眼差しで二人を見送った。でも残りの半分は大切な幼馴染のガートルードの幸せを喜んでいる温かいものだった。
*
ルセルの初恋はガートルードだ。
可愛いと思っていた。出会ったばかりの頃は彼女を引っ張り回していた。
それが成長するにつれて、ガートルードがおかしな眼鏡をかけ、黒っぽいドレスばかりを身に付け、不味い薬草茶というかよくわからない液体を自分に差し出してきた頃からルセルはガートルードから逃げ出したくなった。
強引に婚約を押し付けたのは自分だ。
それなのに今更解消など簡単に出来ないことは分かっていた。
ガートルードが自分を慕っていることを感じていたから猶更。それでもルセルは逃げ出したかった。
ガートルードを傷付けたかったわけではない。だからナリスがガートルードを攫っていったことはルセルにとっては有難かった。婚約から逃げたくても大切な幼馴染に変わりはない。幸せにしてあげてほしかった。愚かな自分にはそれが出来なかったから。
実際に二人が仲睦まじく寄り添っているところを見て、胸の奥がほんの少し痛んだことはルセル自身にも驚きだった。苦笑と共にルセルは軽く頭を振り目を瞑る。そんな想いなど消し去るように。
瞼を上げたルセルは綺麗な微笑みを浮かべて二人が向かった先とは反対側に踵を返した。