050話 涙の理由
呼び止められたフィニアスは動揺した。掴まれている腕を見た後、マーサの顔へ視線を移す。まだ意識は戻っていない。こぼれ落ちた涙を左手でそっと拭った。
「……大丈夫ですよ。悲しまないでください……」
優しく声をかけ、掴んでいるマーサの手を握る。すると少し表情が和らいだように見えた。涙の理由は何だろうか。そう疑問に思いながらほっそりとした手を見つめ、ベッドへと戻してあげた。フィニアスはアランの名前が気になったものの、その場から立ち去ろうとカーテンに触れる。
「……フィニアス様? ここは……?」
振り返るとマーサは天井を見つめていた。まだ意識が定まっていないようで、心は遠くにあるように見える。
「医務室です。先生から絶対安静と言われていますので、起きないで下さい」
フィニアスはもう一度椅子に座りなおし、柔らかな静かな声で囁いた。
「絶対安静……ですか?」
思いがけない言葉にマーサはフィニアスを方へと顔を向ける。それほど重い病気とは思えず、眉間にしわを寄せた。しかし、体は確かに動かない。
「アランくんと付き合っていたんですね?」
「え? どうしてそのような……」
あまりにも突然の質問に思考が追い付かない。誰にも知られていないはずなのに。
「その……寝言で……」
フィニアスが気まずそうに視線をそらすと、マーサは青ざめた。何を言ってしまったのだろうか。付き合っていると勘違いするほどのことを口に出していたのかと混乱した。このままではアランに迷惑がかかってしまう。そう思ったマーサはらしからぬ行動に出た。
「フィニアス様、お願いです! どうか、このことは誰にも言わないで下さい。それに、付き合ってはおりません。私の片想いですのでどうか、勘違いなさらぬようお願い致します」
這うように身を乗り出し懇願する。あまりにも必死な様子にフィニアスは驚いた。
「落ち着いて下さい。誰にも言いません。さ、横になって……。しかし、関係を結んでいるのに付き合っていないとはどういうことですか?」
マーサは息を飲む。何故そこまで知っているのだろうかと益々青ざめた。もういつもの冷静なマーサではない。思考が追いつかず、黙り込んでしまった。それは肯定しているのと同じだった。
「……すみません、立ち入ったことを聞いてしまって。しかし、お腹の子はどうするのですか? アランくんには言っていないとかないですよね?」
「……お腹の子……?」
フィニアスの言っていることが全く理解が出来なかった。しかし、何かが波のように押し寄せてくるように感じ、鼓動が早くなる。
「もしかして知らなかったのですか?」
「……何を……でしょうか……」
マーサの声が震えている。フィニアスは血の気のないマーサを見て天井を仰いだ。フィニアスもまた混乱していた。
「大丈夫です、俺が力になります……。一つずつ解決していきましょう……」
半分は自分のためにそう言った。理解が出来ない。だからこそちゃんと伝えて話を聞かなければならないと思った。フィニアスは真っ直ぐマーサと向き合う。
「妊娠しているそうです。あとでちゃんと先生から聞いて下さい。また、このことはアランくんにきちんと伝えましょう」
それを聞いたマーサの瞳から次から次へと涙が零れてくる。頭の中は真っ白なのに、自分の意思とは関係なく涙だけは勝手に出ているようだった。マーサは天井に顔を戻し、制御できない涙を両手で覆い隠した。
「マーサさん……どうして……」
泣いている理由が分からずフィニアスが尋ねるが、返事はなくただ震えていた。
「……きません……」
「え?」
声が籠ってうまく聞き取れず聞き返すと、涙で顔中を濡らしたマーサが顔を出す。あまりにも悲痛なその表情にフィニアスはドキッとする。
「アラン様にはお伝えできません。優しい方ですので、このことを知れば責任を感じてしまいます……。負担をかけたくありません……。どうか、このことは……」
「……だめですよ。アランくんは責任を感じるべきだと俺は思います。二人の関係が今はどうであれ、知るべきです」
フィニアスは静かにゆっくりと嗜めた。それでもマーサは首を縦には振らない。付き合ってはいたが、別れを告げられたのだろうか。
「確かに言い難いとは思います。しかし、産む産まないに関わらず、その子のためにちゃんと二人で考えてほしい。これはマーサさんだけの問題ではないのですよ」
マーサはまた顔を覆う。フィニアスの言うことは正しいのかもしれない。しかし、どうしてもそんな気にはなれなかった。何が悲しいのかも分からず、溢れる涙を押さえる。
フィニアスは握りしめた拳に力を込め、マーサをじっと見つめていた。
「……アランくんと寄りを戻すつもりがないなら……」
渇いた喉で、フィニアスは小さく呟いた。自分でもこんなことを言うべきではないと分かっている。しかし、口から勝手に飛び出してしまったのだ。
「俺と結婚しましょう」




