幸せになれる条件
ふと見上げるともうあんなに空が高くなっている事に気がついた。
ああ…あれからもう十年経ったんだな。
十年前ー
日曜日の昼下がり、家の中から聞こえて来るのは俺を呼ぶ娘の声と妻の声。しばらくすれば息子も学校から帰って来るだろう。そうすればもっと家の中は賑やかになるな。
幸せってこう言うことを言うんだろうな。以前、妻に幸せになれる条件ってあったら何かしらって言われた事があったが、今のこの状況がそれなんじゃないのかなって俺は思ってるよ。
あの時はこんな平和な日々が訪れるなんて微塵にも想像出来なかった。
それだけあの時の俺は俺の人生の中でどん底を味わったから。
「またあの蕎麦屋さん?私もっと他の所に行きたいんだけどなぁ。まあでもパパとママと一緒だしいいや」
「だよねー姉さん」
「ねー」
そんな無邪気な子供達の言葉に俺はくしゃりと笑みを浮かべた。
注文してた蕎麦がやってくると子供達と妻が目配せをしながら俺の前に箱を出した。
「**********」
その言葉は俺の耳から脳へと変換されるまで時間がかかった。
箸をポロリと落とし、涙ぐむ俺に子供らは照れた様に頭をかいて、妻は俺の手に自分の両手を添え涙を流していた。
そう、これは俺達家族のストーリー。
俺達家族が家族として幸せになる条件を得たストーリー。
十年前の今日、あの日あの時 俺は地獄を味わった。
娘はその時小五だった。いつもお洒落でたまに生意気な事を言ってくるが、親父の俺からしてみれば目に入れても痛くないくらい可愛い娘だ。
あの日の早朝、悲劇が起こった。集団下校中の児童の列に居眠り運転の軽トラックが突っ込み、児童達数人を巻き込みそのまま数十メートルほど引きずり停車。結果五人の重軽傷者を出した。
今までこんな事件なんて起こったことがなかったからか、当時は地方新聞にも載ったほど。
その数時間後にこの事件で俺達夫婦に激震が入った。娘もだが当時十二人で集団下校していた児童の中で重傷を負ったのが、年長の娘とその親友の二人。足の骨を折るなどだった。娘の場合は折れた肋が肺に刺さり一時は危篤とも言われた。
二人とも輸血が必要なほどの重傷で、仕事中だった俺と妻の携帯にも警察から事故の連絡が入って来た。
社長と常務にすぐさま娘が事故に遭った事を話し、俺と妻は急いで病院へと向かった。
妻は車の中でブルブルと震えていた。
今思えば、この時の妻の震えは真実を知られてしまうと言う恐怖から来た震えだったんだ。
「大丈夫だ。あの子は俺達の娘だからな」
「……」
バカな俺は娘を思って泣いている妻を慰めていた。
輸血をするために俺は自分の血を差し出そうとしたが、看護士からは家族でも一応は血液型を調べない事には安易に輸血は出来ないと諭され、俺と妻はそれぞれ輸血するために採血&検査をしてもらった。
俺の血は不適合だと言われ、俺は愕然。俺はO型だからどの血液型にも適合するはずだと看護士に詰め寄った。
妻の顔を見れば青い顔をしていた。妻も不適合だったらしく、携帯を握りしめてた妻は携帯で誰かを呼び出していたようだ。
半時も間を置かずに病院に現れたのは常務だった。
「常務?どうしたんですか?」
「君の奥さんから連絡が来て、AB型rhマイナスの血液が必要だって聞いたからやって来たんだ」
常務のお陰で娘は無事に五体満足で退院する事ができた。
あの時から俺は自分の中にモヤモヤとした物が渦巻いているのを感じてた。
ある日の夕方、あれは夕食前だった。俺は徐に娘の前に座り綿棒を見せた。
「?お父さん何それ?」
「ああ、これか。検査用のキットだ」
ふ〜んと何気なく俺を見上げる娘に俺はさも真実とばかりにこんこんと説明をした。
「今後またああ言った感じの事故があるかもしれない。お前も知ってるだろ?爺ちゃんの親戚で遺伝性の病気になった人がいるんだよ。俺も可愛いお前がもしそんな事になったらと思うと正直怖いんだ。知り合いの会社でそう言った検査をやってくれるところがあるから頼もうと思ってる。こないだみたいな事がまた起こらないとも限らないだろ?今後の心構えのためにも協力してくれ」
「うん。わかったよ」
案外娘は割とあっさり俺に頷いた。
数週間後、娘の口の中をぐりぐりしたことを聞いた妻が俺に大激怒。
「何でそんな勝手な事をするの?」
だから俺は言ったよ。
「娘の体を守るためなんだよ。俺の親戚が遺伝子性の病気になったって言っただろ?それに今の医学なら遺伝子レベルで検査すればなりやすい病気もわかるって言うしさ。なんならお前もやってみるか?」
「わ、私は大丈夫よ」
妻は目を右往左往させていかにも何か隠してますよと言わんばかり。
ここで留めを指しておくかとばかりに俺は言葉を続ける。
「人間大丈夫大丈夫って言ってるときほどヤバいんだって。早めに知っておいて損はないからさ。あ、ついでに親子鑑定もしてもらうか?」
「な、なんで?!そんなの必要ないじゃない!!」
お前がウソを吐く時って必ず右の眉がキュッと上がるんだよな。
何でそれが上がってんだろな。
「俺の同級生の子が娘と四つ違いで中学生なんだけどな、今物凄い反抗期なんだってさ。それこそ、『あんたなんか父親じゃない』って言って来るくらい。同じ父親としてはそれを娘に言われたら辛いんだよな。でもさそんな時に鑑定書見せてさ『俺とお前は遺伝子レベルで繋がってんだぞ。』なんて言ったら娘も反抗する気もなくなるだろ?」
立て板に水のごとくするすると言葉を走らせる俺に、妻はもう顔面蒼白。
これはもう浮気&托卵決定ってことだよな。恐らく今妻のお腹にいる子もそうなんだろうと思うと俺は怒りや哀しみよりも体温が音を立てて落ちる様に急激に冷えてくのを感じた。
俺の手の中にある見覚えのない茶封筒を目にした妻は俺の前に手をついて土下座。
「どうしたの?」
俺は何も知りませんよとばかりに妻を心底心配する良き夫の態度で妻に駆け寄った。
もちろん心の中では空に拳を上げて雄叫びの勝利のポーズをとってる。
事は遡る事十五年前。
当時の俺(大卒二十二)と妻(高卒十八)で年は違うが同期。
よく同期会でその時のグループで飲み会を開いていた。
研修後俺は営業へ。妻は受付嬢と部署も全く違ったけど三年後に妻は秘書課に異動。俺は営業課係長へと昇進。
当時秘書課で妻の上司だった男が俺の部署に異動してきた。その時に妻を紹介され付き合い始めたのが切っ掛け。
その後、俺と妻の関係はトントン拍子に進み、一年半の交際の末、結婚。
結婚後も妻は有資格者だったもんだから、仕事を続けていた。
俺と妻の二人で二馬力でガンガン働いていた。
妻が妊娠を切っ掛けに仕事を退職すると言ってたが、休職し産後は娘を保育女に入れ、職場復帰した。
約半年前に妻は両親を飛行機事故で亡くし、その後妻は退職し専業主婦として子育てと家計管理に努めてくれた。
妻からは「離縁してください」と一言。
だが俺は首を縦に振らなかった。
まだ妻が何を恐れていたのかを知る必要が俺にはあるから。
俺は目の前で土下座をし続ける妻の手を取ると、優しく語りかけた。
「責任感が強く優しい君にこんな仕打ちをさせたのは一体誰だったんだ?僕が君ならそいつを到底許せる事は出来ない」
とこんな風に。
もう随分前から覚悟を決めてたんだろう。妻は自分の部屋の鏡台の引き出しの中から一冊の黒手帳とUSBメモリーを俺に渡すと再び俺の前で土下座をした。
手帳の中身を見て俺は怒りよりもなによりも妻がこれまでこんな事に耐えて来てたなんて知る由もなかった自分に腹が立ってしょうがなかった。
封書の中には産婦人科の堕胎用紙の紙が二枚。
これだけで妻が他の男の種を芽生えさせてたんだと知ったよ。
人間って怒りがマックスに到達すると賢者になれるんだな。
手帳にはある男の名が書いてあった。それは俺と嫁の仲を取り持ったとして俺の記憶に植え付けられてた男の名前。それが処狭しとばかりびっしりと載っていた。
◯月◯日 男に呼び出される。
「この男とはどう言う関係だったの?俺はあの時会社で初めて遭ったって聞いてたけど」
これに対し、妻の言葉は本当にありきたりのテンプレ。
「高校の先輩でした。当時付き合ってたの。彼が卒業すると同時に別れたんです。彼とはそれっきりでしたが、会社で偶然あって」
ああ…焼けボックリに火がついたってわけね。
まあ、それは俺と付き合う前の話しだったから別に良いんだけどさ。
問題がその後だ。
俺の家系は本当に男しか産まれない家系なんだよ。だから、長女が産まれた時は本当に親族全員諸手を上げて喜んだもんだ。
今回俺に妻の浮気がバレたのは妻の誤爆メール。
本来なら浮気相手に送るはずだったメールが俺に送られて来たことでバレた。
「あの時のはもう忘れて下さい。私の中では既に終わった事ですから。もう連絡しないで下さい」
これってさ。女性があの時って言う言葉を使う時は重大なことだよね。悶々とした日々が三日続いた後、気になって妻の携帯をチェック。すると出て来るわ出て来るわ。
後で気付いたんだけど、どうやら妻は俺が自分の携帯をチェックするだろうってことを確信してて、自分で携帯のロックもメール隠しのフォルダーも解錠させてた。
現在進行形で浮気はしていないにしても、半年前まで浮気していた事がわかったよ。
妻は現在妊娠七ヶ月。性別判定では男と言われてる。
ついでに言うと愛娘がこの男の種だと言うのはもう判ってる。
そう判れば、何故あの事故の時に病院に常務が駆けつけて来たのか良く判ったよ。
常務と男は叔父甥の関係。二人とも同じ血液型と来てる。
妻から男とは高校の時もだが、入社直後から完全なる主従関係で、男は自分の妻や義両親に浮気を怪しまれた時の隠れ蓑として、俺と妻を引き合わせ結婚させたのだと言う。
それさえもあの男の命令だったと聞き、俺愕然。
娘とお腹の子供も男の指示。
何も知らなかった俺は本当にお目出度いと言うか、脳内お花畑全開だよな。
男は営業の取引先との会合に妻を動向させ、美人局&一夜妻をさせてた。
これも強制指示。|あいつ
自分の叔父にも貸し出してたと聞き、俺すでに魂の抜け殻。
「じゃあ、いつ男との関係を切ったの?」
「妊娠に気付く前です」
「ああ…もしかしてお前の両親がこっちに来ようとしてたのと関係あるのか?」
「……」
妻の両親とは飛行機で二時間の距離があり、すぐに行き来出来る距離じゃない。
行くとしても年に一二回くらいだ。
妻が言うには自分の両親が亡くなって、その葬儀も親族との話し合いさえも俺に任せっきりだったことから目が覚めたらしい。
義両親の遺産を寄越せと妻の親族が煩かったから、法に則ってやってますから。文句がある方は裁判でも何でも起こして下さいと言った俺に妻は一生この人の妻でいたいと思ったそうだ。
なんだよそれ。
妻は自分と弟だけでは何も出来なかった。
(弟は現在大学生一回生)
弟もあの男に脅されてたらしく、一時は電話がなるだけで震えてたそうだ。
妻は慰謝料として両親からの遺産9桁と自分の貯金8桁を提示して来た。俺はそれに頷きも何もせずに暫く考えさせて欲しいとだけ言って自分の部屋へ。
ベッドの上に横たわっても眠れやしない。
妻との思い出やら娘との思い出が走馬灯のように頭の中で終わりのないメリーゴーランドのようにぐるぐるなってくる。
人間って面白いんだな。
自分で解決出来ないような出来事があると、感情がなくなる。
だからかな、もう怒りなんかなかったよ。
妻には離婚よりもまず初めに君を苦しめていた者達から成敗して行きたいと告げれば、妻にあなたを鬼に変えさせてしまってごめんなさいと泣かれたよ。
俺は暫く考えた後、妻に誰か(復讐に)協力出来る人間はいないかと聞いてみた。妻は少し間を空けていると言うと俺の親友の名を告げた。
なんでも、俺の親友と妻は同じ秘書課ってことで通じる所があったらしい。
もちろん男女の付き合いはないが、彼自身は俺の妻は前世の自分の姉だと言う電波男だった。
妻と娘は一旦俺の従兄弟である寺の住職の元に預けた。
従兄弟には事の次第を伝えた後、「くれぐれも新聞に載るような人の道を外すような事をするなよ」と釘を刺された。
ただ俺は「わかってる」とだけしか応えられなかったが。そんな俺の背中に娘の「お父さん〜大好きだよ〜」の声が来て男なのに…父親なのに涙がとまらなかったよ。
今思えばあの時の娘の言葉が俺にブレーキをかけてくれたのかもしれない。
俺の親友と話し合いどうにか社長と社外で話し合いたいとの旨をお願いした。その見返りと言っては何だが、俺の親友は俺とのデート&一夜を望んだ。
実は俺の親友はイケメンで高身長に高学歴。俺はまあ高身長だが親友よりも頭半分低い感じ。体だけはガテン系。
そういやいつも飲み会の時にやけに俺の隣に座って、俺の世話ばかり焼いてたなぁと思ってたんだが、そう言うことだったのか。
親友から「俺と◯さんはお前の事を取り合ってたんだ」と聞いた時は背筋に冷や汗が一筋タラリと来たよ。
後日、親友は社長との面談を実現させてくれた。
場所は和食の某料亭。もちろん個室。
社長を上座に俺、妻、親友の三人が下座。
「本日はお忙しい中、社長のお時間を取らせてしまい誠に申し訳なく思っております ーー」
この後に社長に今回の事情と社長だけが知らない(俺も知らなかったが)内容を妻が説明した。
社長は驚きもしてない様子だった。事前に大まかな事は親友で社長秘書の方から聞いてたせいもあったんだろう。だけどそれはウソだと思いたかったに違いない。その証拠に元とはいえ常務秘書だった妻からの告白の言葉は重かったようだ。
暫しの沈黙の後、社長は「それは本当なんだろうね」の一言で俺は常務派(主に元凶がリーダーとして動いてる)がクーデターを起こす事を話した。俺は主に社長派だったし。妻も然り。内容は俺に不良債権の罪を被せ、その処理を頼んだのが社長秘書で俺の親友と言う筋書きまで出来てたって聞いた時は俺も驚いたよ。
社長秘書からの依頼ってあれば、社長はもちろん責任問題を問われて、辞めざる得ないだろう。筋書きを書いたのはもちろん元凶男で常務の甥。
そのクーデターは社内だけじゃなく取引先にまで飛び火するとも話すと、社長も黙っちゃいない。
社長に今後の取引のことや社内にある社長派と常務派があるが、常務派を一掃出来るかもしれないこと、妻の浮気男が常務の甥で彼の出世の全てが妻の美人局だったこと。自分の部下達を自分の派閥に入れるために俺の妻を貸し出してた事を話した。 今回のことで俺達夫婦は離婚することになるやもしれないことを話した。
一通り俺の話しを聞いていた社長は重たく息を吐くと俺の方を見据えた。社長の口から顧問弁護士を使って良いと言われ名刺を渡された。弁護費用も社長が持ってくれると言うこともあって、俺は遠慮なく使わせてもらう事にした。
「わかった。こちらも調べるし、これからの君の行動には全て目を瞑る事にすると約束しよう。だが、一つだけ約束してくれ。人としての道を外れた事だけはしないで欲しい」
言葉は違うが従兄弟と同じ事を社長にも言われたよ。
証拠の品を弁護士に持って行ったよ。あまりの量の多さときめ細やかな詳細に弁護士もその助手も顔を見合わせてたほどだった。
一応証拠物件を第一の被害者の俺立ち会いの元で上映会があった。
部屋の中は、俺と弁護士、助手の三人。助手は女の人。
USBにあった映像は数々の裁判で幾つもの修羅場をくぐり抜けて来たと豪語してた弁護士助手の彼女が目を背けるほど悲惨な物だった。
本当に成人向けの映像。しかも心臓の弱い人は見ないでねとテロップが着くようなものまで。
全て見終わった後は只管書類起こしをしてもらった。
「これだけの証拠があると、作業もしやすいですね。映像もエゲツなかったですからね」
弁護士の助手の言葉に俺は何も言えなかったよ。
それらの証拠の品々は全て俺の妻が揃えたもんですよなんて言えるわけない。
曖昧に笑みを浮かべた俺の心が判った弁護士は助手の脇を肘で突いて黙らせた。
まあ弁護士もプロだし、本当に彼が言う様に作業はサクサク進んで行った。ちょっと揉めたのが元凶だけだったけど。その他はすんなりとこちらの対応に応えてくれたよ。
一番始めにやったことは男(浮気男ね。こいつがそもそもの元凶)の家と会社(ウチの会社ね)に内容証明を送った事。
コイツは元凶って事だし。コイツにはもっと苦しんでもらわないとなってことで、男の嫁の実家にも内容証明とDVDで焼いた映像(妻の顔はボカした)のを送ったよ。元々、この男の嫁って言うのが老舗の和菓子屋で時代を遡ればそれこそ『大奥御用達』と言う看板さえ掲げていた有名店ってこともあってか、 その後二人は離婚。 子供もいたから俺の娘と妻の腹の中にいる息子の養育費に妻へのセクハラ&モロハラ被害料も合わせて支払いをお願いした。
もちろん有責は男。当たり前だがな。どうやってかDVDの相手が妻だと判ったらしく、妻にも慰謝料が請求。だがそこは弁護士が働いてくれて、妻は『逆らうに逆らえない状況』だったことを証明してもらった。
主に、心療内科の診断書とカウンセラーからの手紙が功をそうしたのか、相手の弁護士も俺の妻への慰謝料請求は出来ないと判断。
(これは弁護士から聞いた)
そして常務派の社員達のそれぞれの家、もちろん取引先の会社にも。それが一社とかじゃなくって数社だったから弁護士さん達が一番大変だったんじゃないのかな。
そうして弁護士から殆どの人達から即金で提示してた額を振り込んで来たのを聞いた。そりゃそうだろうな。みんな自分と自分の地位に家庭が可愛いに決まってる。特に取引先の会社連中の殆どが役員ばかりだったせいもある。
これで取引先が減少するかもしれないと心配してたが、そこは社長自ら先陣をきって出た。そうして取引先で今までの取引条件よりも格上の条件(ほぼ俺の会社が有利)を飲み込ませてWINWIN。
さすがは社長。
恐れ入った。ただでは起きない。
俺は全ての復讐が終わったらすぐに会社を辞職しようと思ってたんだ。常日頃退職願を胸元のポケットに忍び込ませていたし。燃え尽き症候群って言うの?
アレにかかっちゃったっぽいんだよね。
退職したら従兄弟の寺でも手伝おうかと真面目に考えてた。
俺、本当にあの時はそうしようと思ってたんだよな。
俺ってば一人っ子だったってこともあってか、妻の弟つまり義弟をめっちゃ可愛がってさ。年が十二離れた義弟が一人前の大人となって社会に出るためにカウンセラーをつけようって決めてたんだ。
あの子はほんとに被害者なんだよ。
高校三年の時に不登校になったのも、あの男が関わっていたと知った時にはマジに人道に反しても良いって思ったくらいだった俺。
俺の親友じゃないけど、義弟は俺にとっては息子同然。
そんな俺の想いを知った妻はまたおいおいと泣き出した。
常務派の社員達は次々と芋づる式にリストラされて行った。人事に召集された彼らは自分達の解雇とその理由を聞いて愕然。
もちろんその怒りは俺に。
元凶男もその仲間。俺は会議室に入れられそこでボコられた。
弁護士からは事前に武力抗争をあると思って下さい。ですが絶対にこちらから手を出してはいけません。俺さんの場合ですと殴られた相手の方が重傷となりこちらが反対に訴えられますからと言われてたから、黙って耐えてたよ。
だが元凶男にマウントを取られ首を絞められた。
「俺の女だったのに。何でお前の妻になってんだよ!死んでくれよ。お前さえ居なかったら俺は幸せだったんだ。死ねぇぇぇぇ!!」
ぐぐっと俺の首にかけられた男の両手に力が篭った。
ああ…俺の一生ってなんだったんだろう…。
もう意識が無くなりかけた時に、ふと脳裏に浮かんだのは妻と娘の笑顔だった。
カッと目を見開いた俺は男の手を振りほどき、頭突きを食らわせた。
丁度男の鼻に頭突きを食らわせたみたいで、男は悶絶してた。
その時に会議室のドアが開けられ、雪崩の様に入って来た社員達に寄って男は押さえられた。
俺の顔は血だらけで一目見ただけで、俺が一方的に殴られたって言うのが誰の目から見ても判る程度。
俺と男は救急車で病院。俺は大事をとって入院。
男はその日の内に退院。
見舞いに来てくれた弁護士が俺に一通の封筒を差し出した。
達筆な字ではあるが俺の名前が書かれてた。
「一応、担当弁護士として中身は見聞させて頂きました」
そうか…。なら大丈夫ってことなんだな。
手紙を読むと常務からだった。もう早期退職されたから元が着くけどな。
常務は妻のことを自分の初恋の人に瓜二つと言う事もあってか、妻を口説いていたらしい。だが妻から愛しているのは俺だと言われ、諦めた。だが、自分の甥からのパワハラに悩んでいる妻を助けたくて甥からの誘いに乗ってしまった。
穢してはいけないと言う思いはいつの間にか彼女を助けたいと言う気持ちに切り替わった。もし君が彼女と離縁するのならば、私が彼女を引き取ろう。その時はご連絡ください。甥の慰謝料は自分が一時的に立て替えるが、責任もって取り立てる。
今後は実家の家業を手伝う事にしたと書いてあった。
あまりにも潔い心意気に俺は涙した。
妻にもその事は話した。
「お前はこれからどうしたい?」
「私は…あなたの思う様になさって結構です。私がして来た事はあなたを裏切る行為でしたし、決して許される物ではありません。離縁してください」
もう妻の意志は固かった。
その証拠に妻から緑の紙が手渡された。
「なら、一日だけ君の時間が欲しいからくれないか?」
俺の言葉に妻は涙した。
妻は俺との最後の思い出なんだと覚悟したんだろう。
俺は日曜に妻と待ち合わせをした。
場所は横浜駅前。
そこから俺達は野毛山動物園へ。園内は子供連れの親子やカップルでいっぱいだった。
ああ…俺達もあんな風だったな。
ふと横を見れば妻も遠い目をして子供連れの親子を見てる。
駅の近くのホテルの最上階で食事をして、俺は妻のお腹にそっと手をやった。
妻はすでに妊娠七ヶ月を過ぎてた。
初めは堕すと言っていた妻だったが、それを止めたのは俺だ。
「折角産まれて来た命に罪はない」
その言葉を聞いて妻は子供のように嗚咽を上げて泣いた。
その後は水上バスに乗って海の見える公園に。
夏とは言え、少し肌寒くなって来ていたから俺は買っておいたスカーフで妻の体をそっと包み込んだ。
「あ…」
ポロリと妻の大きな瞳から涙が溢れた。
「これって初めての私とのデートコース…それにプロポーズも…」
海の見える公園で俺は十五年前と同じ様に俺と生涯ともに歩いて下さい。俺の横にいてくださいとプロポーズした。
周りから見ると何やってんだよ良い年齢してと思われてたかもしれない。
妻はボロボロ涙を零しながらも、何度も頷いていた。
俺は緑の紙を出すと「なら、これ要らないよね」そう言うとライターで火をつけた。
見る見るうちに燃え上がる緑の紙。
あれだけの苦しいこと辛い事があっと言う間に灰になってく瞬間だった。
週明けの月曜日、俺はいきなり親友から呼び出された。
もしかして一夜の誘いか?と覚悟を決めたが、違ったよ。
テーラーに連れて行かれた。
そこでスーツを何着か作るんだと言われ、ふ〜ん凄いな〜それって俺への社長からの謝罪料金なのかもなって一人で思ってたんだ。
で、日曜日に俺は休日出勤を言い渡された。
別に俺に不満はない。
だけど、なんで直に取引先のホテルなんだろうって不思議に思ってたよ。
中に入るとすぐにホテルの社員と話しをして控え室みたいな処に入れられたのは憶えてる。
グレーの燕尾服を着させられ、連れて行かれたのがこのホテルのメイン、チャペルだった。
祭壇で待ってたのは俺の妻。そして妻のベールを持ってるのが日焼けした娘。ありゃ〜夏休みの宿題を全くしてないな〜と苦笑いしてしまったよ。
義弟や従兄弟家族は親族席に座って手を振ってる。
「義兄さん!早く!早く!」と俺にチャペルに入る様に促す義弟。
俺の頬が濡れているのが判った。涙を拭うとつい袖を顔に持って行ってた俺の腕を誰かが止めた。
ふと見ると社長だった。なんで? 俺の頭はまだ疑問符が並んでる。気がつけば俺の両隣には社長と俺の親父。
俺が逃げない様にしっかりと腕を組まれて…。見た目的には宇宙人に連れ去られた地球人って感じ。
俺の親父も社長も高身長&ガタイがいい。俺一七◯に対して、社長一九五。親父一九三だからな。
バージンロードを男三人で歩かされた。
両脇には会社の社員達が手を叩いてカメラや携帯で俺と親父、社長の三人を撮ってるし。
歩いてる時、涙が溢れた。
大体親父言うなよな。
「よく頑張ったな。社長さんから全て聞いたよ。罪を憎んで人を憎まずのお前を心から誇りに思う」
泣かせるじゃないか。
泣き虫の俺の背中を社長、親父が摩りながら妻に俺を手渡した。
「二人とも色々とあっただろう。だが、これから二人で魂からの幸せを歩んで欲しい」
この社長の言葉に俺は再度咽び泣いた。
神父の言葉に泣きながら誓いの言葉を口にした。一度は離婚まで考えた俺達だったけど俺と妻は晴れてまた夫妻となった。
披露宴は急遽花嫁の都合により謝恩会となった。
と言うのも、妻が産気づいた。義弟の大学病院に運ばれた妻は二時間後に珠のような男の子を出産した。
そして今日ー。
『辞令 本日付けを持って◯◯を取締役常務とする』
今、俺の隣にいてくれるのは、俺の愛しの妻であり常務秘書。
俺の側にはいつも妻と娘と息子が微笑んでくれる。
紆余曲折した俺の人生は確かに他の人に比べたら濃い物だったかもしれない。だけど憎しみばかりいても、人は幸せにはなれないってことを身を以て知った。
あれから元常務からの手紙で元凶男は畑違いの仕事で苦戦している事を知った。それでも借りたお金は摂取しているらしく、換算させるまで今居る所から一歩も出さない所存だとまで書いてあった事に笑ってしまった。
義弟はメンタルも回復し、今では立派な医師として働いている。ただ日本ではなくて海外青年協力団の医師として途上国で今も頑張ってる。
彼の口癖はもっぱら「義兄さんが俺に親身になってしてくれた事を今度は俺が他の人の手助けになれれば…って思って(途上国に)行く事にしたんだ」
背中が痒くなるようなことを言って来る義弟だが、一回りも二回りも大きくなって日本に帰って来てくれるだろうって思ってる。
俺の親友で社長秘書をやってるのと一夜デートだが、それはきっちりやった。
後ろの穴の心配も少なからずやってた俺だったけど、至って健全なデートでちょっと肩すかしだった。
だけど「これなら何度でもデートしてやる」って言っちまったもんだから。
今でも月に一度は一夜デートする事になってるのが今の俺の最大の悩みでもある。
来年、娘が結婚する。情けないけど父親として送る娘に言えるのはあんまりないな。
ただ家族の笑顔を大事にしろ。それだけだ。
それが娘にとっても、俺にとっても一番の幸せ。