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8:過去を動かす歯車

今回は分かりづらい用語の解説をします。


[もう一つの歴史]

リエール達が生まれ育った平和な世界の事。

ガーナが蔓延した世界から派生したのでそう呼ばれている。


[抗体]

ガーナに感染するのを防ぐために、体に宿した抵抗力の事。

抗体を持つ者は老化速度が1/4程になり、

真実の歴史内では命も保護される。

その上、ノウアブルセンスと呼ばれる特殊能力も身に付く。


[ミスト]

真実の歴史ともう一つの歴史を結ぶ交通手段。

触れたものをそれぞれの世界へといざなう。


[時空ミスト]

歴史間を行き来するために、

真実の歴史側では作為的に起こせるミスト。

ただし、行き先は指定できない。


[即席ミスト]

抗体宿主の体を守るために、

抗体自身が体内の水分を使って発生させるミスト。

詳細は以下の本編にて。


[リグレット]

歴史を書き換えるために必要な鍵。

見た目は剣の形をしているが武器ではない。

現在は浴場前の手すりの上に放置という粗雑な扱いを受けている。


[ヒストリーホール]。


極めて[不思議]なその空間は、ほぼ全体がオークルに染まっており、

経由した下り階段の長さを考えると、かなりの深度に位置するにも拘わらず、

寥廓りょうかく且つ清明な内観を誇っていた。


床は半径30メートル程のラウンド型で、

ドーム状の天井は最高到達点が約40メートルあり、

頂点部を中心とした半径数メートルの円形範囲に限って、

まるでペイントに手を抜いたかの様に[色落ち]していたが、

その円形の妙な正確さは、意図的と判断する材料にできた。


だが、初めて立ち入ったリエール、フィリップ、ミュアの三人は、

それらを視野の外枠としか認識しておらず、

加えて、その広い間取りに対しても、あまり開放感を覚えてはいなかった。


そんな釈然としない所見は、

部屋を覗いた時点で否応なく目に付く光景によって引き起こされていた。


[床]ではなく[空中]を基準とした[中央のスペース]に、

約1センチ程の小さな物体が規則正しく無数に浮いており、

それらが巨大な[球]を形成する配置で空間を仕切っていて、

直径25メートル程にもなるその[集合体]に注ぐ光には、

奇妙にも[反射]がなかったのだ。


斯くも不思議な[光を飲み込む集合体]の内部は、

[巨大で艶のない黒体]になっており、

それはまるで空間に黒い穴が空いている様で、

その大きさや、そこからかすかに響く重低音は気味が悪かったが、

同時にメリハリのある明度のギャップは神秘的でもあった。


そんな集合体の円周に密接して、

反時計回りでそれを取り巻く[螺旋階段]が設置されていたが、

高さこそ頂上までカバーしているものの、長さは半周より少し長い程度で、

その[横幅]には奇妙な点が見て取れた。


上から見た図があるとすれば、

集合体の円周と螺旋階段外周の描く弧の軌道は同心円、

つまり一定の幅を保っているが、

階段の内周はその限りではなく、

集合体の[表面]との距離を一定に保っていたのだ。


つまり、水平に見た場合、まるで集合体の形状に沿う様に、

下部は幅が広く、中程で段々と狭くなり、

上部に行くにつれてまた広がる、という具合だ。


そして、その風変わりな階段の下には、

サークル状のレールが敷かれており、

どうやら階段は集合体の周りを移動させる事ができそうだった。


「あれ触っちゃだめだよ」


エルニーは黒体を指してそう言うが、触る意図など毛頭ない初見三人。


集合体から壁までの帯域に、

一箇所だけ机と椅子と棚と黒板が密集する地点があり、

先導役のエルニーが向かうその位置には、

歴史間移動準備のために来場していたジャスティスが立っていて、

黒体に圧倒されつつ近付いてくる新顔三人に向け、静かに声を掛ける。


「検査はパスした様だな」


相変わらず黒い穴に気を取られて反応のない三人に変わり、

「はい」と、応えたエルニーは、

ジャスティスの数歩前で足を止める。


それに合わせて後続の面々も立ち止まり、

やがて新顔三人も顔を正面に戻したタイミングで、

この部屋についての詳細な解説を始めるジャスティス。


「これが[ヒストリーホール]…」

「129600個の[クロックストーン]という引力を持つ石と、

[巨大な氷の真球]によって作られた[空間の穴]だ」


「え?これって氷なんですか?」


たった一つのキーワードのみに踊らされ、

再び黒体に振り向くフィリップと、それに釣られるリエールとミュア。


「いや、氷はあくまで製作の[土台]として使用されただけあって、

これ自体に氷は含まれていない」


見開いた目をそのままジャスティスに戻したフィリップが、

いかにもリアクションに困った様に固まっていたため、

ジャスティスはキャスター付きの黒板を引っ張って来て、

予定よりも更に深い切り口での説明に切り替える。


「まず、直径25メートルの氷の真球の中心点から、

全放射線上と交わる表面に丸い窪みを作り、

それら一つ一つに符合するクロックストーンを選出した後、

適所に埋め込んで行く」


「いきなり気が遠くなるでしょ?」


講師が黒板にチョークで図を描く最中、

リエールに振り返って微笑むエルニー。


それが耳に付いたジャスティスも、

図を描き続けながら補足する。


「位置によって地球からの干渉にも微量の変化が出るため、

力関係を緻密ちみつに計算し、寸分違たがわぬ配置でないと、

安定が見込めないからな」

「それに、クロックストーンの引力の強さには個体差があり、

効果範囲も強さに比例する」

「それは我々のデータベース上、平均で半径約20メートル、

最長でも半径30メートルに満たない程度で、

人が体感できる範囲となればその半分が基準だが、

至近距離ではかなりの引力を発揮する」

「しかし、強過ぎるとこの用途には不向きなため、

比較的[弱い石]が主に使用される」

「隣接している石同士のみが、

適度の引力範囲に収まり合う図式が理想だからな」

「当然、それだけ細かい条件が付き纏うと、

石の選出にも膨大な時間を要する」

「その上、加工後に引力が弱まり、

使い物にならなくなるパターンもザラにあった」


「(うわ~、やってらんねえ)」と、内懐でリエール。


ジャスティスは黒板の右隅に即興で描いた補足用の図を放置し、

描きかけの本題図へと手を戻す。


「そんな悪循環を経て、窪み全てを埋めた後、瞬時に氷を溶かす」


超絶難度の業としか思えない仕事内容をサラッと口走りながら、

図に描いた円の部分を消して行く講師。


「すると、クロックストーンの間に連帯関係が生まれ、

隣接したお互いを空間的座標に固定し合う」


ここでいきなり振り返ったジャスティスが、新顔衆それぞれと目を合わせる。


「だが、不思議に思わないか?」


突然の質問に困り果て、互いの顔を見渡す受講対象者達。


その反応を観て、[彼等は根本からして不思議である]と考えたエルニーが、

気を利かせて助け舟を出す。


「いくら計算した配置だからって、宙に浮いてるのはおかしいでしょ?」

「地球にだって引力はある訳だし」


「あ、そういえばそうだね」と、フィリップ。


彼等が幾らかの理解を持った所で、

ジャスティスが今度は黒板の左墨を使って図説する。


「クロックストーンの引力に指向性を持たせてあるのだ」

「引力減退効果のある塗料を使ってな」

「仮に石全体をそれでコーティングしたとしても、

地球側、石側、双方の引力を無効化とまでは行かないが、

対象が軽量である故、

塗布に隙間を持たせても宙に浮くだけの効果はあるし、

その隙間から微細に受ける地球の引力より、

近距離にある石の強い引力が優先されるため、

安定した配列を維持できるという訳だ」


「なるほど」


フィリップは一応の相槌を打った後、曖昧なままの部分に触れる。


「でも、そんなに大きな氷を、どうやって一気に溶かしたんです?」


「正確には、この黒い穴を空ける際、[ついでに溶けた]という感じだ」

「ここからでは分からないが、

この部屋の壁には小さな穴が無数に空いていて、

その全てが部屋の中心点に向いている」

「そして、氷の真球の中心点には、

クロックストーンの原子である[グリヴィ]を事前に仕込んでおく」


「(げんし?)」


疑問を胸に秘めたまま、とりあえず続きを聞くフィリップ。


「その二つの中心点を、それこそナノ単位のズレもなくピタリと合わせ、

壁の穴から一斉にγ(ガンマ)線を照射する」


「(なんじゃそら)」


「すると、それらが交わる部屋の中心点、

つまり、氷の中のグリヴィはγ線によって電離し、プラズマとなるが、

保有していた重力によって周囲の原子ごと収縮される上に、

超高温状態でもあるため、核同士の融合が発生する」

「その強力なエネルギーと、

周囲のクロックストーンの作用によって中心に生じる空間こそ、

[新たな世界]のキャンバスなのだ」

「言葉通り、何も書き込まれていない、空白の世界だ」

「見た目はドス黒いがな」

「そして新空間発生の際、

凄まじい勢いの崩壊熱によって氷が溶け、

瞬時に蒸発したそれは、即、穴へと吸い込まれ、

穴はクロックストーン製の外殻に引かれて適度に膨張し、

外殻はそのまま穴を維持し続けるという仕組みだ」

「次に、数多あまたの[原子]をその中に送り込み、

最近、プラネットの礎ともなった技術を使って、

こちらの世界に関する様々な情報をプログラムしていく」

「例えば物理的法則や、世界の形状等だが、

やはりこちらの都合の悪い部分までコピーしては、

新天地を作った甲斐がないので、

生態系からガーナを取り除いたり、

逆にあちらの世界にしかない物質を作るといった、多少の改変は当然加える」

「どちらにせよ、新世界を丸々こちらの材料で作ったりしたら、

逆に守るべきこちらの世界が滅びてしまう故、

始めの方だけ[質量増殖の法則]という力技を使い、

強引な物量アップが図られているので、元来からして変調だがな」

「ただ、これで作られた世界には限界容量があり、

範囲もせいぜい半径5万キロ程度なので

あまり調子に乗って物を増やすと外側のスペースが狭まる上、

法則を捻じ曲げ過ぎると様々な不都合が生じてくる」

「始めにこちらの物質を吸い込んだ段階で、

根本となる法則モデルが出来上がっているのでな」

「それを避ける意図で、

法則切り替えのタイミングには余裕を持ったため、

こちらの世界より若干狭く仕上がった」


「5万キロもあるのに、そこまで気を使うもんなんですか?」


リエールのその問いには、すぐ前にいたエルニーが答える。


「とんでもない、5万キロなんて少な過ぎるくらいだよ」

「そりゃ、こっちの世界での地球の直径は赤道側で12756キロだから、

地球単体を収容するだけなら余裕があるけど」

「まず第一に、その条件下では太陽と月の再現が不可能だからね」


「え?そうなん?」


「うん、月は平均で38万キロも向こうにあるし、

太陽なんて約1億5千万キロの彼方だよ」


とおッ!」


「うん、メッチャ遠いよ」

「なもんだからあっちの世界では、相対性を計算して作った小型の類似品を、

こちらの世界より随分近くに浮かべてあるんだ」


そこで再びジャスティスが開口する。


「従って、あちらの地球は公転はしておらず、

季節の変化に関しては、[太陽もどき]を遠退かせたり、上下させたり、

エネルギー量の調整等で誤魔化している」

「ちなみに他の天体も同様に偽造だ」

「最も、あちらの住民は気にもしないだろうが…」

「原子の追加によって、細かい問題も穴埋めしているしな」


「その[げんし]ってなんです?」


遂に気になっていたワードに触れるフィリップ。


「簡単に言うと、この世界のあらゆる物質を形成している[部品]の事だ」

「君達は、何がこの世で一番小さいと思う?」


自分達の無知さが次々と露にされる中、

答えに自信などあろうはずもなく、

裏をかかれる事を恐れて閉口する受講者三人。


そんな彼等に対し、いつもの様にエルニーが解説を入れる。


[蚤のみ]は僕達からすれば、

そこにいても気付かないくらいに小さいけど…」

「蚤にとっても、僕等から見た蚤の様に小さな存在もある」

「今言った原子も、より小さい原子核というのが中にあって、

それは原子より更に小さい[素粒子]という物でできてるんだ」

「今の所、素粒子より小さい物は形にはならずに、

エネルギーになると考えられてるね」


想像も付かない小規模の世界を知った三人だったが、

想像も付かない故にピンとこなかった。


「どうして、そんな事わかったの?」


リエールのその疑問にはニーニャが答える。


「あとで、[ラボラトリー]を見学するといいよ」


「うん、あそこはかなり勉強になる」と、横からエルニー。


「よく分からないけど、

いろいろあるな、ここって」と、感心するリエール。


ジャスティスが発言者のリエールに顔を向けた際、

その脇いたミュアが目に付いたため、

彼女に対して取らなければならない確認を思い出す。


「ミュアは自宅の物置に例の箱があったと言ったな?」


素早くジャスティスの方を向いて、

「あ、はい」と、うなずくミュア。


「では、あちらに戻った後、

くれぐれもそれを開けないように注意するのだ」

「通常ならロックが掛かっているはずだが、

抗体が射出されなかった所から考えると、

構造上、ロック部分も不具合の有力候補だからな」

「(あるいはその類ではなく、何者かの意図か…)」

「できれば、あの箱は人の目に触れぬ場所に隠しておいてくれ」

「君の様に、抗体を持たぬ者が助かるパターンは希なのでな」


それを聞いて、率直に浮かんだ疑問をぶつけるフィリップ。


「こっちで抗体を植えつけるのはダメなんですか?」


ジャスティスは素早くフィリップと目を合わせて応答する。


「ああ、抗体はあちら特有の法則と原子により生成されるため、

こちら側で作るのは無理なのだ」


そこでエルニーによる補完が入る。


「さっき応接間で話したでしょ?」

「どうしても足りない要素があった、って」


「あ~、言ってたな」と、うなずくフィリップ。


「ちなみに、抗体の完成品を箱ごとこちらに持ち込もうとしても、

ミストの中に逃げちゃうんだよね」


「なるほど」


リエールがとりあえず打った相槌と同時に部屋の出入口が開かれ、

登場したマルケスの姿にジャスティスの焦点が一瞬向いたため、

そのジャスティスに注目していた全員が釣られてそちらを見遣る。


「まあ、そもそも…」


再び一同の視線を引き付けるジャスティス。


「この[抗体]というのは単に[通り名]であって、

免疫グロブリンを指している訳ではなく、

基本構造も依存形態も、通常のワクチン摂取によるそれとは大分異なる」

「故に、ウイルスから毒素を抽出したり、

宿主の持つ抗原性をサンプルにしたりという一般的な手法が通じないのだ」

「抗体もルール改変による産物だからな」


ジャスティスは一旦声を止め、

向かってくるマルケスと控えめなジェスチャーでやり取りした後、

演説を再開する。


「もう一つの歴史側の超自然の法則は、

殆どが本家であるこの歴史に習っているが、

やはりせっかくの独自性を活かさぬ手はない」

「それに付随し、一定条件下で抗体の素材となる原子が生成されるよう、

問題の無い範囲に細工を施してあるのだ」

「そこから作られる素材というのが、

[ファニー]や[ファイン]を初めとする幾つかの原子だが、

どれも元は水素原子だった物を、

改造した自然の法則で性質変化させただけだ」

「例の箱を開けた際に伴うフラッシュの事を、

先に話した通り、我々はコロナと呼んでいるのだが、

実はあの光は、[ファニー]と[ファイン]が組み合わさって、

分子となる事で生成される抗体が、

刺激応答性の発光分子であるために起きる副産物に過ぎない」

「言うなれば、コロナは抗体が大気中にどう広がったかの目印みたいな物だ」

「あれは強い光が一気に放たれたというより、

微弱な光の分子が大量に撒き散らされたと考えて良い」

「そして、与える刺激の強さによっては、発光も相応の強さになる」

「普通は抗体に対して強い刺激など与える意味はないが、

一部例外がある」


ジャスティスはリエールを鋭く指差す。


「それは君に宿した[刻印]に関して言える事だ」


ドキッとするリエール。


「電気による強烈な刺激を抗体に与えると、

強く発光するだけでなく、密集度も高くなる」

「時記に嵌められた幻陰石を潜った光は、

他ならぬ抗体が発した物ではあるが、

抗体そのものが石を通過する訳はない」

「では、なぜわざわざそんな手順を踏むのか…」

「それは、強い同性質の光によって、

抗体を一点に[誘導]するのが目的だ」

「抗体は抗体自身の発するコロナに引き寄せられるからな」

「つまり刻印は、時記の内部の情報を対象に伝達すると同時に、

高密度の光によって抗体が無駄に拡散するのを防ぎ、

更に、浴びた側の吸収量も増やすという多重の狙いがあるのだ」


例によってポカンとした表情のリエール、フィリップ、ミュア。


彼等をそんな状態にさせた演説を浴びつつ到着したマルケスが、

ジャスティスの横に立つや否や、話題を少し別方向に曲げる。


「そんなこんなで、何かと扱いが複雑な抗体だが、

実の所、あれはガーナの構造がベースモデルになっている」

「ガーナの悪影響を制御し、

プラスに作用する様に修正したバージョンと言えば分かりやすいかな」

「修正の仕方が強引だがね」


それを聞いたフィリップが、自信有り気に言う。


「[毒を以て毒を制す]ですね」


「ああ、正にそれだ」


少し間が空いたため、軽く状況を整理したジャスティスは、

次のステップに移る段階であると判断できたため、本題を切り出す。


「さて、あちらに戻ってから何をするかを明示しておこう」

「まずはエルニーかニーニャ、

どちらでも良いので時記を回収し、ここに持ち帰って欲しい」


「はい」「はい」


「そしてリエール、君にはこれを渡しておく」


ジャスティスはそう言って、ポケットから[小瓶]を取り出し、

リエールに手渡す。


「君達はこれから元の世界に帰還する訳だが、

それは修行のための一時的な物であって、

幻導士である以上、本業はこちらの世界にあるのだから、

急遽こちら側に召集される事もある」

「だが、こちらに来る度に今回のような冒険が待っていたのでは、

いちいち気が滅入るだろう」

「そこでだ…」

「あちら側から潜った時空ミストの行き先が、

こちら側のどの場所になるのかは特定できないが、

それが何処であっても、その[薬]を飲むだけで問題解決だ」

「体内の抗体が適度に刺激されて[即席ミスト]が生じ、

先程君達がここに来たのと同じ要領で、

コートスクエアの中庭に移動する事ができるのだ」


「すげー」と、リエールの横から瓶を覗き込むフィリップ。


「仮にそれが猛毒の薬であっても、

抗体の性質上、ここに戻って来る事はできるが、

苦しみは普通に感じるし、

その苦しみや痛みの度合いが高ければ高い程、

抗体にかかる電荷が大きくなって過剰に反応してしまい、

ミスト移動の出口が遠退いてしまう」

「かと言って、中途半端に刺激しただけではミストの濃度も低く、

身に付けている服飾品の一部が置き去りなんて事もある」

「その薬は、それらの問題を全てクリアした上で、

移動時間を限りなく最短に近付けるよう、

何年も掛けて研究開発された物だ」

「勿論、個体差はあるがね」


不思議そうなリアクションの三人に構わず、

ここで再度本題から外れるジャスティス。


「そもそもミストとは、なんなのか…」

「即席ミストの場合は、

体内の水分を抗体が汗腺から表に放出する事で、

周囲の空間に水蒸気を生じさせ、それを素に作られるのだが…」

「抗体に流れた脳からの電気信号が何倍にも増幅され、

ファニーを含む汗の水蒸気に伝導し、

それを形成していた個々の原子が、

[β(ベータ)イオン化]と呼ばれる変貌を遂げて[群]を成す」


「(うわ、また始まったし)」と、内心リエール。


「それが、相対する[プラス]と[マイナス]の派閥に分かれるのだが、

その時の勢いで引き離れないように、

増幅した電気で互いを結び合う」

「連鎖として、水蒸気が高密度に集合するが、

同時に増える[水気]の効果で、

βイオンの数が、元々片寄っているマイナス側により傾く」


「(基礎知識がないから理解不能)」と、底意でフィリップ。


「しかし、余分なマイナス側も、

電気を引き寄せようとする作用は健在だ」

「そうなると、電荷のバランスが合わないために、激しく伸縮する」

「その際、周囲の分子を引き寄せて衝突させるため、

それらを取り巻く電子の運動が活発になり、

分子の中心から電子が離れて行く」

「だが、分子はすぐに状態を安定させようとするため、

電子を引き戻すのだが、

活発になった分だけ電子は強いエネルギーを持っていて、

そのままでは戻せないので、

余計なエネルギーは光として大気に逃がされる」

「即席ミスト発生時にフラッシュするのはそのためだ」

「当然、水分と共に体から外に出た抗体も、

その様に引き寄せられて衝突する」

「その際、[波長の短い電磁波]が発生する」

「それは、物質を強く透過する習性があるのだが、

体内にプラスミドとして取りついている抗体に関しては例外なのだ」


「(完全に独走状態だな、僕もわかんなし)」と、脳内でエルニー。


「我々が、[インサイドワクチン]と呼んでいるそれは、

受けた電磁波を拡張し、

取り付いた本体ごと[透過の習性]を遂行してしまう」

「ミストに飲まれて姿が消えるのは、

光さえも透過してしまうからなのだ」

「更に、重力も流してしまう故、

ある意味では時さえもすり抜けていると言えるだろう」

「その点はリグレットの仕組みに近い物があるな」

「だが、唯一、その状態でも影響を受けてしまうものがある」

「それが[抗体の記憶]だ」


「(うう…、もしかして解らないの私だけ?)」と、胸中でミュア。


「抗体は、こちら側では存在しない筈の物であるため、

元々あるべき場所に戻ろうとする」

「それが[この空間]なのだ」

「[記憶]は本来なら、直線的な軌道を取ってこの空間に向かう」

「だが、この部屋の壁や床や天井が、

抗体の記憶による座標サーチを遮断しているのだ」

「無論、扉もそういった役割を果たしている」

「だが天井の中心部にだけは、見ての通り、その細工をしていない」


ジャスティスが天井の色落ち部分を指差した事により、

一同の視線がそこに集まるが、

「何故なら…」と、続く言葉で再び彼に注目が戻る。


「ここは[リグレット]のあった部屋の真下にある」

「つまり[泉]の真下なのだ」

「ホールから発せられる特殊な電磁波を泉経由で漏らす事で、

抗体の記憶に錯覚を起こさせ、泉へと誘導できるのだ」

「それは当然、ミスト状態の抗体宿主を泉に接触させる事が目的だ」

「まあ、本来はリグレットの特性付加に利用した仕掛けだったりするが」


「(やったー、この辺は勉強したから解る)」と、心の裡でニーニャ。


「ともあれ、あの泉は特殊な溶液で、

イオン化を安定させ、ミスト状態を解除する効果がある」

「いちいち[あちらの歴史]に直行されては煩瑣はんさだからな」

「ちなみに、リグレットのあった部屋には遮断加工はされていないが、

ここより更に低地からのミスト移動の場合でも、

本家のホールより泉の優先で軌道が向く」

「それ程に、泉の誘導効果は高い」


あまりに退屈過ぎて、エルニーのブルゾンを掴み、

体重を掛けて遊ぶリューシュ。


ジャスティスからの言葉が止まったので、

直行という言葉から歴史間移動に対して疑問を抱いたフィリップが、

「あの~」と、申し訳なさそうに低く挙手をする。


一同の注目が一気に集まったため、

それを発言権の獲得と解釈し、

少し不安を込めた質問をぶつけるフィリップ。


「ミストで行き来する時、

入った場所と出口ではやっぱ地形が違う訳だから、

移動先で地面の中とかに出てきたりってあるんですか?」


「その点は心配いらない」と、即答のジャスティス。


「時空ミストの出口は、[水分]によって作られる」

「その際、βイオンは自然に生成される事から、

それは、[雲]に近いプロットだと言えるが、

雲や濃霧ではムラが有り過ぎる上に動いているため、

水分が多くとも出口には向かない」

「それ故、結局水中にしか出口は生成されない」

「君達がこちらに来た時も、水中だったろう?」


三人は浅く連続でうなずく。


そしてお決まりの様にエルニーが横からヘルプを追加する。


「ただし、ある純度以上に澄んでいて、

硬度の低い軟水にしか出口はできないんだ」

「だから、塩分濃度の高い海とか、

水素イオン濃度の低い酸性の湖や沼にも出口はできない」

「海でも一部には塩分が薄い場所もあるけど、

圧力が強過ぎて作る余地がないから安心して」

「他の条件としては、水温や酸素濃度、

おまけに[明度]なんて物もある」

「あ、つまり明るさの事ね」

「とは言え、薄暗いと言える位でも、

他の条件によっては出現もあるけどね」

「まあこうやって特徴を挙げていくと、

不自然に至れり尽くせりの条件が揃っているようだけど、正にその通り」

「実は抗体が宿主の体に悪影響を与えない範囲で、

都合の良い出現場所を選んでいるんだ」

「なので、[暗闇の水中]なんて恐ろしい場所には出現しないし、

突然冷たい水に出て心臓麻痺なんて事もない」

「夜の時間帯に歴史間移動する時は、

相当に月が明るい場合でもなければ、

大抵は人間の生活圏内に出現するし」

「ほんと、心配はいらないよ」

「(あ!ある意味別の心配があるけど)」


「そっかあ、抗体すげーな」


リエールの感服表明の後、フィリップが独り言の要領で呟く。


「ん?そう言えば…、どうして俺達は、

それぞれ近い場所に現れたんだろう?」

「場所は特定できないくらいブレるんですよね?」


良い質問を受けたジャスティスが、水を得た魚の様に解説を始める。


「近い期間で生じた時空ミストは、その出口も大方近い場所に現れるのだ」

「もぐらの掘った穴の様に、一度経由されたルートはしばらく残り、

他のルートと合流しやすいからな」

「特に君達二人は同じミストを使ったのだから、

場所もタイミングもほぼラグはない」

「そして、ミュアはおそらく…、リエール達のおよそ48時間…」

「つまり、二日程後に箱を開けたのだろう」

「それ位の誤差範囲だった」


そこでマルケスからの付け足しが飛ぶ。


「ただ、そういったトンネルが同時に複数できてしまう事もあるので、

団体が一度に歴史間移動した場合、

出口が二分三分されるというパターンも多い」


「ふーむ…」


腕組みをしながら、少し考え込んだ素振りを見せたリエールが、

やがて先程から頭に引っ掛かっていた疑問を打ち明けた。


「でも何故、他のみんなにはこの瓶を渡さないんです?」


「あ、私とエルニーは持ってるよ」と、ニーニャがすぐに答える。


「飲んだことある?」


「うん、オレンジっぽい味だけど、あんまりおいしくない」


「うん、おいしくないよねこれ」と、それに賛同するエルニー。


「おまえ達は、すぐ脇の話で盛り上がるな」


マルケスが微笑みながら話の逸れを防ぐ。


そしてジャスティスに目配せすると、

それに応える様にジャスティスが続けた。


「フィリップには、この瓶を受け取るかどうかを本人に決めさせる」

「幻導士と成るには、これまでの生活を一変させる必要があるからな」

「押し付ける訳にも行かないだろう」


若干の沈黙が流れる。


フィリップに迷いはなかったし、

周囲にも迷っていると感じさせたくなかった意識もあり、

志を込めた言葉によってその沈黙を断ち切るフィリップ。


「もちろん、受け取ります」


黙ってそれを見守っていたリエールだが、

既に幻導士として採用済みと思っていた親友に対し、

就任の否応を確かめるという意外な展開に、

少々戸惑っていたが、その言葉でホッとした。


「こいつだけじゃ心配なんで」と、

リエールを親指で指しながら微笑むフィリップ。


「保護者気取りか」と、鼻で笑うリエール。


フィリップの意思を確認したジャスティスは、

彼の前まで静かに歩み寄り、

「歓迎しよう、幻導士フィリップ」と、瓶を差し出す。


「はい、よろしくお願いします」


それを受け取りながら、深々と頭を下げるフィリップ。


「さて…」「あの!」


自らの発言と重なったミュアの呼びかけに、

吐きかけた言葉を飲み込むマルケス。


「ん?」


注目を浴びた事で少し固くなりながら続けるミュア。


「私は、何かお役に立てませんか?」


皆が驚き、だがそれを表情に出さず、

陳述を控えて事態の流れを見守る。


表情をこわ張らせたミュアは、

「このまま帰るだけなんて…、

ただのお荷物だった事になっちゃうもん…」と、俯く。


ジャスティスとマルケスが、顔見合わせをして緩やかに微笑む。


「勿論、役に立てるとも」


マルケスのその言葉を聞き、鋭く顔を上げるミュア。


「なにしろ、君も時に導かれたのだから」


ニーニャがミュアの方に目を向けながら、口許で手を合わせる。


「え?」と、驚き顔のミュア。


「今回は、過去に例のないパタ-ンの連続だった」


マルケスは遠回りに語り始める。


「まず、同期に三人もの迷い人が順序良く近辺に現れた事…」


うんうんとうなずくエルニーとニーニャ。


「その内一人には抗体が宿っていなかった事…」


一瞬、ミュアを見るリエールとフィリップ。


「にも拘わらず、無事にここへ辿り着いた事…」


照れ臭そうに微笑むミュア。


「何より、三人の内の一人が、

リグレットを手にする資格を持っていた事…」


同じく照れ臭そうに微笑むリエール。


ジャスティスが表情を引き締めて口を開く。


「それら単なる偶然の様に思える運命の数々は…」

「全て[時が望んだ暦数]なのだ」


マルケスが一瞬ジャスティスに振り向いてから、

すぐにミュアに焦点を戻し、言葉を繋げる。


「ミュア…、君がこちらに現れる事を、時が望んだのだよ」

「従って、君は[我々の力になりたい]という意識を持たずとも、

気の向くまま、余計な心組みなく振る舞うだけで、

我々に挺身していると言えるだろう」


そこで若干の間を空けるマルケス。


「仮に、君が我々の[枷かせ]となる様な沙汰を起こしたとしても、

それはプラスの前兆、マイナスの因、どちらにもなりうる」

「しかしどんなマイナスでも、結果としてプラスにする事は可能だ」

「無論その逆もな」

「要は君自身がどちらを向くかが大事なのだ」


マルケスはジャスティスとリューシュを除いた面々を一度見渡し、

一呼吸置いてから話を再開する。


「君がつまずく様な行いを取って、それがその時どんなにマイナスに思えても…」

「後刻、それを活かせる時が来るだろう」

「いや…、活かさなければならないのだ」

「それを活かせない者に成長はない」

「奇妙な言い方だが、

むしろ君にはリエール達の成長のきっかけとなって欲しい」


ミュアが右手を胸の上に置いて言った。


「じゃあ、私…」

「リエール達に付いて行くね」


それを聞いたリエールとフィリップは、

いつもの様に驚きの表情で顔を見合わせる。


そしてお互いにゆっくりとニヤけると、二人同時にミュアに向き直り、

勢い良く彼女の右手を両手で握るリエールと、

左手を両手で握るフィリップ。


「ああ、一緒に行こう!ミュア」


掴んだ手を激しく上下に揺さぶるリエール。


「これからもよろしく」と、フィリップも同様のアクション。


二人の勢いに少し引き気味だったミュアも、やがてにっこりと微笑み、

「うん!」と、握られている両手を握り絞める。


しばらくその状態を維持していた三人だが、

やがてフィリップが手を緩めたのをきっかけに、ミュアも両手の力を抜く。


しかし、左手が放されたにも拘わらず、

まったく右手を放そうとしないリエールを見て、

「いい加減に放せ!」と、彼の肩を強く押すフィリップ。


ミュアだけでなく、傍観者一同も表情を緩める。


そして彼女の手を放すと同時に、

「あ、そういえば…」と、自分の[抜かり]を思い出したリエールは、

マルケスに向かって、それについての申告と確認をする。


「風呂の隣の…、なんだっけ…、服とかいっぱいあるとこ…」


「ドレッサーフォートか?」


「そうそう、そこです」

「あそこの手摺にリグレットを置いてきちゃったけど、大丈夫ですか?」


改まって述べたにしては規模の小さい問題に吹き出すマルケス。


「ああ、構わない」

「どうせ誰も持ち運べないからな」


「違いない」と、微笑むジャスティス。


同じく微笑みながら、

軽く連続でうなずくエルニーとニーニャ。


エルニーに訊いた時と同じ回答を受けたリエールは、

浮かんだ一つの結論を、そのエルニーに向かって口述する。


「もしかして、元々、持ち歩く必要もなかったってやつ?」


「まあね」

「でも、展示品としてみんなに見てもらえるから、

しばらく置きっぱなしなのも面白いかもね」


「そんなら、最初からあんなに厳重に保管しなくて良くない?」

「鎖まで巻いてさ」


「あれは、リグレットに特性を持たせる際に衝撃があるから、

蓋が飛ばないようにするための工夫なんだってさ」

「それをそのままにしておいただけとか」


「単なる[ものぐさ]かよ」


そのフレーズに微笑む若い衆を尻目に、

マルケスが近くの棚へ向かって歩きながら仕切り直す。


「さて…」

「あちらに移動した後、

何処に集合するのかを決めておかないと困るぞ」

「出現範囲を大まかに指定できるだけで、

細かく選ぶ事はできないのだからな」


「え?それって、どれくらいの範囲です?」


見開いた目をマルケスに向けるリエール。


「こればかりは[人の手]によるものだから、

その範囲も一概には言えないな」


「(人の手?一体どんな方法なんだ?)」


「運良くピンポイントで狙い目に[触れ]れば、

指定場所に行けなくもないが、それはほぼ奇跡と言って良い」

「何しろ、目測で判断するしかないのでな」


余計に謎を深めた新人三人に、

追い討ちを掛けるマルケス。


「その上、時間にもズレがある」

「基本時間軸に準じてはいるが、

メンバー全員が近い時間に現れるとは限らない」


それを聞いてより戸惑う彼等に、エルニーが例を上げて説明する。


「確認が取れたケースで、過去最高のズレとしては、

基本時間から±六日っていうのが記録されてるね」


マルケスはエルニーが話し始めたので、

その隙に棚を開けて中を模索し始める。


「ただし、それは[向こうの世界からこっちに来た場合]の話で、

こっちから行くのとはまた方法が違うし、

尚且つ調査目的の実験で得たデータだから、

迷い込んじゃったパターンの中には、

いつの時間から来たのか分かってない人も多いよ」

「未確認も含めれば、年単位の報告例もあるし」


「うわあ、やばいなそれ」


痛々しい物を見る様な表情でそう呟くリエールに、

救済的な情報を添えるエルニー。


「でも、それには特定の条件が必要で、

君はその条件に該当しないから安心して」


「その条件ってのは?」


「あ、その辺は後でゆっくり話すね」

「(この中で条件を満たすのはリューシュのみだし)」


エルニーから発言権が譲渡されたと見受けたマルケスは、

体勢を変えずに話を再開する。


「今エルニーが言った通り、

歴史間移動の方法は[あちら]と[こちら]では異なる」

「[こちら]から[あちら]に行く場合は比較的精度が高く、

大半は±三時間から18時間以内に集中していて、

希に大きくズレたとしても三日程度だ」


「結構でかいですね」と、苦笑するフィリップ。


「ああ、だが相当に稀な例であるから、過剰に臆せずとも良い」

「それからもうひとつ…」

「歴史間移動が短期間で狭い範囲に多発すると、

その前兆で気象が狂い、出口周辺に嵐が起こる場合が多い」

「あくまで前兆なので、嵐の中に出現するとは限らないが、

当人達の安全を考慮し、

歴史間移動の前には全員にこれを渡しておくのが規則となっている」


そう言ってマルケスは、棚からパック状の何かを取り出し、

これからホールを潜る予定の各々に配る。


「[エアコート]だ」


パックから広げて、興味深そうに観察する新メンバーの三人。


フード付きの[カッパ]の様なそれは、

見るからに滑らかな質感の表面に触れると、

かなり摩擦の弱い生地にの下に、クッションの如き弾力性があった。


「ここより遥か西のワモーネ大陸南部に位置する、

[ラル森林]は知っているな?」


エアコートを広げたまま、マルケスに顔を戻す三人だが、

誰一人うなずきはしなかった。


マルケスはそんなリアクションに構わずに話を続ける。


「その森林に生い茂る[アゾナ]という木の樹皮の内側を薄く剥がし、

その樹液から作った接着剤で張り合わせた生地を使っている」

「樹皮の内側は、水を弾く性質が強いのでな、

雨の中を歩くのに重宝するだろう」

「アゾナの樹林近くに暮らしている[トル族]の知恵だ」

「更に、生地と生地の間には空気が含まれていて、

水中でも浮く事ができる」

「君達が気にする[ファッション性]はイマイチだがね」

「嵐で増水して流れが激しくなった川等には出口は開かないが、

それを着用すればどこに出ても安心だ」

「そうでなくとも、嵐の真っ只中を歩いて、

折角のおめかしが台無しというのは嫌だろう?」


「どっちにしても水浸しは避けられないがな」と、横からジャスティス。


「ははっ、まあな」と、微笑んだマルケスは、次に机の側に移動する。


「送り出す場所はリエール達の故郷であるナティッドにするが、

集合場所はどうする?」


顔を見合わせるリエールとフィリップ。


「バターカップあたりが分かりやすくていいんじゃないか?

丁度泊まれるし」


リエールが皆に聞こえる様に意識しながらそう提案する。


「あそこ、あれで意外と快適だから、いいかもな」と、

それに同意するフィリップ。


ニーニャがフィリップの顔を覗き込む様にして、

「バターカップ?」と、当然疑問点となるキーワードについて問う。


フィリップはニーニャと視線を合わせて詳細を語る。


「ナティッドで、ただ一軒の宿屋だよ」

「カムカスター橋を渡ってすぐなんだけど…」

「あ、もし反対側から来ちゃったらわからないなあ」

「パブの前を通って、

次の丁字路の右折側の道に沿って建ってるんだけど」

「わからなかったら、そこらの人に聞いて」

「でもまあ、わかると思うよ、一軒だけやたら都会風な建物だし…」


浅く何度もうなずくリエール。


「OK、バターカップだね」


エルニーはそう確認しつつパックを広げ、

背後で上着を引っ張っているリューシュを軽く押して退かす。


マルケスはエルニーが用意に入ったので、

「では、みなも[エアコ-ト]を着用してくれ」と、

机の上の細長い棒を手にする。


言葉に従い、エアコートを配られた全員がそれを羽織る。


一番早くエアコートを身に付けたエルニーが、

襟を整えながらリエールに尋ねる。


「ところで、君達がミストに触れたのは何曜の何時くらい?」


「えっと…、金曜…だよな?」


エルニー同様、襟を整えながら二回うなずくフィリップ。


「の…、朝だから…、多分七時ちょい過ぎくらいじゃないかな」


「だな、お前を迎えに行ったのが六時ちょっとだったから」


「OK、じゃあ皆、もしその時間より前に出てしまったら、

リエール君とフィリップ君に会っても接触しないように気を付けて」

「例え何かの拍子で彼等の方から声を掛けてきても、

名前を呼ばれるなりしない限りは他人の様に振舞ってね」

「まあ、出現時間が近ければ服装で分かるけどさ、念のため」


「わかった」と、フィリップがうなずく横で、何故かにやけるリエール。


「くくく…、俺は戻ったら速攻着替え、

君等にわざと他人行儀で接する事で困らせてやるぜ」


「ややこしいからやめろ」


リエールの後頭部に突っ込みを入れながら、

下らない陰謀を阻止するフィリップ。


同世代の面子がそれに微笑む中、

「タラップの位置は調整済みだな」と、螺旋階段を見上げるマルケス。


そして手に持った棒を黒体上部の一箇所に向けつつ、

「では…、あの辺りか…」と、小声で呟き、

そのポイントを目指して歩き出す。


それを見たジャスティス、エルニー、ニーニャも移動を開始したので、

リエールとフィリップも少しそわそわしながら彼等を追い、

更にその後方からリューシュをくっ付けたミュアも続く。


幅の広い螺旋階段を半分以上登った所で立ち止まり、

「この位置だ」と、

ヒストリーホールの表面のある地点を棒で指し示すマルケス。


リエールは前にいるメンバーを抜いてそのポイントを確認するが、

特に目標物も無く、他と何ら変わりない箇所だったため、

その地点とマルケスを交互に見ながら硬直する。


「ここに触れるだけで良い」


ジャスティスがエルニーの肩に手を乗せて提案する。


「まずは、お前が見本になってやってくれ」


「はい」


エルニーはエアコートのフードを被り、

スタスタと指定された位置まで移動すると、

リューシュの方を振り向いて言う。


「じゃあ、行ってくるから、部屋散らかすんじゃないよ」


リューシュは返事をせずに、意外にもニコニコしつつ、

ジャスティスの右脚にしがみつきながらうなずいた。


エルニーはリューシュに微笑みながら小さく手を振った後、

「行って来ます」と、マルケスに軽くお辞儀をし、

ためらいなくヒストリーホールに触れる。


フッと、姿を消すエルニー。


無言で驚く新人三名。


その様子を楽しむニーニャとリューシュ。


そのまま少々固まった新人達だったが、

やがてリエールの背後にフィリップが迫り、

「お前が初めて消えた時もあんな感じだった」と、

小声で言いながら、リエールの背中を軽く肘で押す。


その勢いで、少しよろけながらマルケスに接近するリエール。


「いいか、くれぐれも自分に会うなよ」


「え?」


「向こうにはもう一人の…」

「下手すれば複数の[自分]がいるかもしれない」


「会ったらどうなるんです?」


「それは君自身と状況次第だが、

何かと不都合が生じる場合が多いのでな」

「移動後は、まず日付と時間を確認するよう心掛けてくれ」


「なるほど、わかりました」


その言葉の後、特に躊躇もせず、

何気ない素振りでマルケスの指し示す地点に触れたリエールは、

先のエルニー同様、一瞬で姿を消す。


ミュアは少し脅えている様子だったので、

気を使ったニーニャが、優しく手を引いてそこまで誘導する。


「私も最初怖かったけど、実際に触ったらそうでもなかったよ」


心配そうにニーニャの方を見てそれを聞いていたミュアだが、

やがて接触ポイントに視線を送りながらフードを被り、

一歩踏み込んで恐る恐る手を伸ばす。


しかし、何処で空間が区切られてるのか、

微妙な位置が分からず、

予想ではもっと奥だと踏んでいたミュアは、

腕も半伸ばしの状態で消える。


それを確認したニーニャは、フィリップの方を振り向いて、

「さ、次どうぞ」と、その地点を右手で指差す。


フィリップはそう言われる前にポジションに着いていて、

特に何かするでもなく、思い切り良く闇に触れる。


ニーニャはジャスティスに向かって、

「じゃあ、行ってまいります」と、

軽くお辞儀をしてから、リューシュに手を振ると、

リューシュもノリ良くそれに答える。


そして振り返った彼女は、マルケスにも軽くお辞儀をし、

素早くエアコートのフードを被って、

ハンドバッグを持った左手をヒストリーホールに伸ばす。


ニーニャが円滑な流れで吸い込まれた後、

急激に減少した人気の効果で場に漂う静粛の中、

ジャスティスがふと口を開く。


「だが、あのミュアという娘…、素質はかなりある」


「ああ」と、共感するマルケス。


「恐怖からこれだけ早く立ち直る精神力…」

「仮に、ただ[無神経]なだけだとしても、それも素質の内だな」


「違いない」と、微笑むジャスティス。


「ちがいない」と、とりあえず真似するリューシュ。







薄明かり、激しい雨音、ぬるい水。


恐怖と動揺が、ミュアの意識を数秒間だけ支配した。


だが、すぐに平衡感覚を取り戻し、呼吸も可能となった彼女は、

臆するより先に、見開いた目から得た情報の処理を優先する。


直接視界には入っていないが、

仄かに揺らぐ人為的な光が左手側から場に差し込んでおり、

その[仄かさ]が物語る通り、時間帯は夜分で、

凄まじいまでの豪雨が降り注いでいたが、

ミュアはその雨滴に晒されてはいなかった。


そこは屋内だったのだ。


彼女はエアコートの浮力により、

水面に横になって浮いている状態にも拘わらず、

臀部も脚部も踵も[水底]に着いていたため、

すぐに上体を起こして顔の水気を手で拭い、

異常な窮屈感を覚えながら水溜まりの底に立ち上がる。


「(浅い…)」


膝より少し上程度しかかさのないその微温湯ぬるまゆは、

大人一人が丁度横たわれる大きさの[細長い箱]に溜まっており、

その色や質感やサイズ等から、

「(お風呂だ…)」と、悟ったミュアは、

[自身の体積]と[出現による衝撃]の併合で、

半分以下に減少した貯水を土足で濁らせつつ、

エアコートのフードを外して髪を両手で絞る。


そして無意識に発光源へと目を向けるが、

のっけから状況把握を著しく妨げる問題に打ち当たった。


浴室のドアこそ開いているものの、

その向こうから差し込む光はバスタブを囲う薄いカーテンに遮られていて、

部屋の様子どころか自分の周囲さえも良く分からなかったのだ。


「(とりあえずここから出なきゃ)」


そう考えた彼女は、足を湯船に浸したまま、

光に面した側のカーテンをゆっくりと捲った次の瞬間、

今度は衝撃的な問題に直面した。


ドアの向こうがリビングになっていて、

天井から吊り下げられたランプの明かりの中、

カップが一つ置かれたテーブルの上に頬杖を突いた中年女性が、

体をこちらに向けていたのだ。


背筋を冷やりとさせながら、身を縮めるミュア。


だが、れ髪を後頭部で縛ったその女性は、

どうもテーブルに広げた本にがっつり見入っている様で、

横目に捕らえたであろう浴室のカーテンの微細な動きと、

その隙間から覗く目線には気付いていなかった。


ミュアは恐る恐るカーテンを閉め、

今度はリビングからは直視できない範囲に位置するカーテンを、

波立たせない様に気を付けつつ横に分ける。


角に干してある洗濯物、

湿った黒い石の床に散らばる石けんやブラシ、

着替えらしき衣類が丁寧に畳まれて収納されている籠、

壁に固定された横木に掛かった一枚の白いタオル、

壁上部の小さな窓、

それらを見渡しながら、

「どうしよう…」と、囁くミュア。


しばらくの間、なす術なく棒立ちしていると、

リビングから話し声が聞こえ始めた。


騒音で良く聞き取れないが、

どうやら家族の一人が帰宅して話し込んでいる様だ。


ミュアが反射的な勢いでリビング側のカーテンをそっと捲ると、

例の中年女性がほんの数歩先の位置に立っていた。


焦って即カーテンを閉めたミュアだったが、

一瞬見えたそのビジョンを良く思い起こすと、

中年女性は自分に対して右側面を向けていて、

尚且つ、ドアの向こうの右手側にある台の上で、

なんらかの作業中であったと解釈できたため、

もう一度カーテンを慎重に捲ってみる。


すると今度は、リビングに戻る彼女の後姿がランプの光を遮っていた。


その両肘が前方に向けて曲がっている事から、何かを運んでいる様だが、

すぐに体の向きが変わったため、

それがトレイに乗せたカップであると判明する。


そしてリビングにいるもう一人、

顔は確認できないが、椅子に座って新聞を広げる人物の前に、

何らかの飲み物が入ったカップをゆっくりと置く。


「(やだ、くつろぐ態勢が整っちゃってるじゃない)」


再び椅子に腰掛けた中年女性の顔がはっきりと見えたので、

逆に自分も見られてしまうリスクを含むと気付いたミュアはカーテンを閉め、

口許に軽く握った右手を当てながら、会話だけでも聞き取ろうと耳を澄ます。


「わかった!?」


ビクッとするミュア。


どうやら中年女性が、新聞を広げた人物に対して説教をしている様だ。


微かに聞き取れる声から判断するに、若い男と思われるその人物は、

穏やかな口調でなにやら中年女性に言い返すと、

椅子を擦らせて立ち上がり、

コツコツと何処かに向かって歩き出したのが分かった。


「ちょっと、お風呂は!?」


正にそのお風呂でステルス中の[招かれざる客]からすれば、

心臓が飛び出しそうになる程驚愕する一言を、

豪胆にも大声で繰り出す中年女性。


「(お風呂!?)」

「(見付かっちゃうー!)」


ミュアは焦りながらも、

声の反射角度から住人達が今はこっちを向いていない事を察し、

窓側のカーテンを必要最低限に捲り、バスタブの縁を跨いで外に出ると、

手前側へ大胆に開け放たれたドアの後ろに隠れる。


「表でイヤッて程水浴びしてきたから、パス」


若い男のその言葉は、今背中を着けている壁方向から聞き取れた。


「風邪引くよ!」と、中年女性の声が男を追うが、

返事と呼べる声は無く、

ただ階段を駆け上がる振動と足音のみが壁を伝って届き、

やがて天井に達したそれらは、強いきしみとなってから落ち着いた。


どうやら真上が彼の部屋になっている様だ。


男が浴場に来ない事を知ったミュアは、

息をいて胸を撫で下ろす。


だが、気を緩めたのも束の間、再び緊張が走った。


雨音に混じる[軽めの足音]に気付いたのだ。


ミュアが困惑する要素は二つあった。


一つは、それが明らかにミュアの潜む風呂場へと迫っている事。


そしてもう一つは、

それに気付いた時には既にかなり接近した位置まで来ていた事だ。


存在さえ認識していない客人に対し、

自身への対処法を考える時間さえ与えず、

薄暗い風呂場にそそくさと立ち入る住人。


開けっ放しのドアの後ろに潜伏中のミュアは、

口を両手で覆い、目を見開く。


そしてドアの陰からそっと顔を覗かせ、

確認したその後姿までの距離の近さに、心拍数が否応なく上昇する。


だが、同時に幸運と感じる要素も絡んでいた。


先程まではノイズでしかなかった嵐の騒音が、

気配を掻き消すのに一役買ってくれており、

更には、浴槽が入口から右手側にずらして置かれているため、

角度的に身を潜めるスペースが充分にあったのだ。


それらを幾許かの拠り所とし、ミュアは慎重にドアの向こう側を覗く。


不法侵入者に背後から監視されているとは露知らない住人は、

バスタブを取り巻くカーテンを勢い良く捲り、

上体を屈めて湯船を覗き込む。


「あら?」


明らかに貯水の減り具合と濁りを始め、

飛沫に濡れたカーテンや床に気付いた事によるその発言に、

ギクリとするミュア。


そしてバスタブの周囲を少し見渡した後、

湯船に手を入れる中年女性。


「(わわ!?まさかお風呂に入るんじゃ!?)」


抜き差しならない状況に固唾かたずを呑むミュアを他所に、

リビングからの弱い光を左半身に受ける中年女性は、

湯船から手を引き上げて何やら呟きながらキョロキョロしていたが、

やがて出口に振り返り、その横に置かれた着替え入りの籠を抱え上げると、

ドアを閉めつつあっさりと風呂場を後にした。


数秒呼吸を止めた後、

ゆっくり息を吐きながら、肩の力を抜くミュア。


だが直後、重ねて緊張が走る。


ドアが開き、つい先程出て行ったばかりの居住者が再び入ってきたのだ。


しかも今度はドアの開きが甘く、

ミュアの姿をまるでカバーしていない状態だった。


余りの焦りに硬直するミュア。


そんな彼女のほぼ正面、角に干された洗濯物の前に立った中年女性は、

それを一枚一枚取り込み始める。


[振り返ったら見られてしまう位置関係]、

[見付かったらどうするか]、

[言い訳するか]、[逃げるか]、

[この際、今こちらから声を掛けてしまうか]、

あらゆる思考がミュアの頭を駆け巡る。


その時、洗濯物の回収を済ませた中年女性が、

錯雑したミュアの立場を顧慮こりょする事無く、

自分のタイミングで振り返った。


寒さもあって、鳥肌を立てるミュア。


だが、次の瞬間、事態は予想外の展開を見せた。


中年女性はミュアの姿が視界に入ったにも拘わらず、

一切リアクションのないまま、浴室を後にしたのだ。


ミュア自身は理由が分からず呆気に取られていたが、

これまた幸いな事に、彼女を取り巻くドアの影と、部屋からの逆光が、

その目立つ姿を覆い隠してくれていた事に加え、

中年女性が濡れた床に意識を向けていたため、

集中力の偏りが生じたという偶然の成り行きであった。


ドアが閉じると同時に、稲光が小さな窓から差し込んだ。


その閃き以降、光の供給口が遮断された湯殿は、ほぼ闇の空間となる。


しかし、ドアの隙間から微かに漏れるリビングの明かりに気付いたミュアは、

そこに顔を近付け、少し時間を置いてから恐る恐る隙間を覗く。


だが、その僅かな隙間で確認できる範囲は流石に狭く、

そこから察しが付く要素の中で、今のミュアが最も重要視するのは、

中年女性がまだベッドに潜る気配なしと言う点だった。


「(今、何時なのかな…)」


ミュアは推理した。


温くなったお風呂、

カップのみで他に食器の置かれていないテ-ブル、

二階へ駆け上がる男の人、

[お風呂は!?]という台詞…。


「(女の人はお風呂に入る気配はないから、

あの男の人のためにお風呂が用意してあったのね)」

「(でもすっかり温くなってたから、予想より帰りが遅かったのかな)」

「(食事は用意されてなかったし、

あの男の人は食べるつもりもなかったみたい…、

という事は、外で夕食を済ませてきたのかな…)」

「(そうだとすれば、少なくとも一般的な夕食の時間は過ぎてそうね)」

「(男の人は二階に駆け上がって行ったけど…、眠る時間なのかな)」

「でも、お風呂の栓を抜かなかったのはちょっと気になるなぁ…」

「他にもまだ帰ってない家族がいるのかな…」

「洗濯物は少なかったから、この家は二人暮らしだと思うけど…」


ミュアが脳裏に思索を巡らせている時、リビングの光量が突然増した。


どうやら、もう一つランプに火を灯した様だ。


次に、先程より僅かに暗くなる。


そしてその明かりは、徐々に暗さを増して行く。


一連の変化を観たミュアは、

中年女性がリビングの天井にぶら下がったランプを消し、

もう一方のランプを持ってどこかへ移動している物と見受ける。


そして突如、リビングが真っ暗になった。


「わ…」


ミュアは暗闇に若干恐怖しながらも手探りでドアの取っ手を掴み、

特に忍ぶ様な動作は含めずに浴場から出ると、

先程見たリビングのイメージを頼りに、

水を滴らせながらゆっくりと暗中模索するミュア。


その時、ニーズに対してベストタイミングで瞬いた雷光が、

部屋の中を一瞬だけ青白く照らした。


おかげで家具や扉の位置を把握できたミュアは、

エアコートのフードを被り、急いでリビングと合併している玄関に向かう。


そして玄関の扉の取っ手を掴み、家屋からの脱出を試みた矢先、

彼女の進行は他ならぬその扉によって妨げられた。


ゴツ…。


「(いたっ)」


ミュアは少し仰け反った後、額を摩りながら反省する。


「(…)」

「(当たり前よね…)」


ミュアは取っ手の上にあるサムターン部分を手で探り当て、

その摘みを回して開錠する。


「(ごめんなさい、勝手に鍵開けちゃって)」


然る後、取っ手を掴んだままサムラッチを親指の勘で捜索し、

予想通りの位置にあったそれを押し込んだまま扉を押す。


次の瞬間、激しい雨音が一斉に屋内へ雪崩れ込んできたため、

慌てて大雨の降りしきる外へと退出した彼女は、静かに素早くドアを閉める。


「(わぁ、すごい雨)」


ミュアは身を縮めながら、豪雨の中を歩み出す。


が、いきなり正面数メートル先に激しく荒ぶる[池]があり、

それに気付いて足を止めた彼女は、

のっけから遭遇した危険に萎えながらも、

思ったよりハードな道のりになると予想し、より用心を深めて周囲を探る。


すると、池と家の合間に[左右へと伸びる道]が微かに見えたため、

その道に習って進むという極自然な流れに身を委ねたミュアだが、

次に迫られた[方向の選択]に関しては、

何故か一切の躊躇無く[左]をチョイスする。


というのも、左方向への道は、

すぐ隣の民家から漏れる明かりに照らされていたのだ。


闇を恐れる人の性に従順な彼女にとっては、

ただそれだけで誘導を受けるに事足りる条件なのだが、

どちらかと言えば、[選択]と言うより[無意識]レベルの行動だった。


ともあれ、迷い無く定めた自分の道を、

強風と横からの雨に顔を背けつつ、

千鳥足ながら一歩一歩をしっかり踏み締めて進む美女。


「(でも、バターカップってどこかな…)」

「(さっきのおばさんに教えてもらおうかな…)」


ミュアは一瞬、引き返そうかと立ち止まるが、すぐ様ある問題に気付く。


「(あ、床が濡れてるのと、鍵が開いているのがバレちゃうか…)」


再びアンバランスな歩行を始めた彼女が、

行く手の左側に建つ[明かりの灯った民家]の前に差し掛かった時、

ふと横目に付く動きを感じ、そちらに視線を向ける。


次の瞬間、ドキッとするミュア。


その家の住人であろう若い娘が一階の窓際に立っていて、

目が合ってしまったのだ。


若干硬直したミュアだったが、

[この状況下で目が合った]というきっかけがあるなら、

見知らぬ彼女に突然道を尋ねるのも言い訳が立つと感じ、

焦点を一旦足元に向けつつ、


自分とその娘を隔てる窓に向かって歩み寄る。

そして、再び彼女と意図的に視線を合わせたミュアは、

「あの!すみません!」と、大声で呼び掛ける。


目を丸くした娘は自分の左後方に切れ良く振り向き、

そこにいる誰かに何やら言葉を飛ばした後、

またミュアの方に顔を戻し、玄関に回るようにジェスチャーで指示する。


ミュアはそれに準拠して玄関の両扉へと移動するが、

到着するよりも先に右の扉が内側から押し開けられた。


取っ手を左手で掴んだまま、

どしゃ降りへの対抗策として右手の甲を額に当てた娘が、

驚いた表情をランプの逆光で黒くしながらミュアを待つ。


玄関の階段を上り、その娘の前に立ったミュアが室内に目を遣ると、

これまた驚いた表情をこちらに向けている中年の夫婦らしき二人が、

丸いテーブルを囲んでいる景観があった。


「どうしたの?」


サイドテールの若い娘が、

桃色のTシャツにグレーのスウェットパンツという姿でミュアを出迎える。


「あ…、あの…、バターカップってどこですか?」


雨音に妨げられて声が良く聞き取れなかったその娘は、

「えー?」と、風と雨の勢いに目を細めながら、顔をミュアに近付ける。


在宅中の一同からすれば、

この美しき来訪者が口をパクパクさせている様にしか認知できないため、

その中の一人、家の主である男性が、テーブルから離れて玄関に向かう。


釣られて、テーブルに手を置いたまま立ち上がるその夫人。


「とにかく、入ってもらいなさい」


それを聞いた娘は一瞬振り返ってからすぐに顔を戻し、

「どうぞ」と、ミュアの包帯付きの左手を一瞬掴むが、

感触で異常を察してハッとしながら手放し、

今度は右手をやさしく掴んで引っ張る。


それに乗じて、ご案内モーションを取る亭主。


「あ…、いえ…、あの…」


ミュアは体重を背中側に小さく掛けるが、

背後の状況が状況だけに露骨に抵抗できず、

牽引に従って渋々玄関を潜る。


娘がミュアの手を掴んだまま扉を閉め、騒音が軽減されたのを機に、

「ささ、そこにどうぞ」と、正面の椅子を指し示す夫人。


戸惑いを隠せないミュアは、娘の方に困り顔を軽く向けてから、

「あの…、大した用事じゃなくて恐縮ですが…」と、切り出す。


「バターカップという宿を探していまして…、

どちらにあるかご存知でしたら、教えてもらえませんでしょうか?」


互いの顔を見渡して驚く家族三人。


「あら…、バターカップに行くの?」


「はい」


「この雨の中?」


「…はい」


その時、娘が横からエアコートを脱がせようと襟に手を掛けたので、

仕方なくそれを脱いで娘に預け、

夫人に示された椅子を遠慮がちに引いて腰掛けるミュア。


そんな彼女と入れ違う様に席を立ち、台所へ向かう夫人。


「うわ、これ着てても上着までびしょ濡れなんて…」

「大変だったでしょう?」


そう問い掛けながら、

美しき客人の肌にぴっちりと吸い付いた上着の袖を摘む娘。


「(雨で濡れたんじゃないけど…)」

「…すみません、突然来て汚しちゃって」


「あ、ううん、全然良いの」

「ゆっくりしてってね」


「ありがとう」


その会話を聞いた亭主が、

「ちょっと待っててな、拭くものを持ってくるから」と、

玄関から正面のドアの奥へと早歩きで入って行く。


「あ、いえ、お構いなく」


ミュアは単純に道を聞くだけで済ませるつもりだったにも拘わらず、

予想外に優遇措置されている事に恐縮と気不味さを覚える。


そんなこんなで出口への執着心と、視線のやり場に困った事から、

玄関横でエアコートをハンガーに掛けている娘の方を振り返って、

その仕種を眺めていた。


「あまり遠くはないけど、この嵐では危険よ」


夫人のその言葉に反応したミュアがそちらを向くと、

彼女は台所でれたコーヒーを、こちらに運んでくる途中だった。


「はい、これ飲んで暖まってね」


コーヒーの入ったカップを目の前に置かれた客人は、

座ったままお辞儀する。


「珍しい[カッパ]だね、あれ」


若い娘がミュアの隣に座りながら笑顔で言う。


「うん」と、エアコートの方を一瞬振り返るミュア。


その時、先程奥へ行った亭主が[小さく畳まれた白いタオル]を持って現れ、

それをミュアに差し出した際、

「どちらから?」と、質問も添える。


「あ…」


ミュアは再びお辞儀をしてからタオルを受け取ると、

それを二つ折りのサイズに広げながら、

「トーテスです」と、返す。


「まぁ…、それはご苦労さま」


夫人からの慰撫いぶを耳に入れつつ、

慎みのある物腰で顔や髪の水気を拭うミュア。


「カムカスター橋を渡ってすぐだよ、バターカップ」


土地勘のない相手に対して非常に分かり難く口授する娘に続き、

向かいに座る夫人が勧告する。


「だけど、ここで雨が止むまで待つと良いわ」


「ああ、そうするといい」と、亭主。


「うんうん」と、娘。


家族のその反応に後押しされて、勢い付く夫人。


「ほんとに危ないわよ、池も川も増水してるし、道も滑りやすいし」


そう言われそうな雰囲気を感じていたミュアだったが、

「でも…、バターカップで待ち合わせしてるので…」と、

申し訳なさそうに反駁はんばくする。


夫人は亭主と視線を合わせた後、

「そう…」と、残念そうな顔で軽く俯く。


「お引き止めしても悪いわね」


「いえ、そんな…」


実に気不味いミュア。


「ユリア」


突然、娘にそう呼び掛けた夫人は、

反射的に自分の方へ振り向いたユリアに、

心遣いを通わせた提案を出す。


「こんなにびしょ濡れじゃ風邪引いちゃうから、

あなたのお洋服を貸してあげて」


「はーい」


ユリアはすぐ様席を立つ。


「え!?あ!大丈夫ですので!」


「いいの」と、微笑むユリア。


夫人は続け様に、亭主へと顔を向けて言い放つ。


「フィリップはお風呂入ってるから、あなたがこの方を送ってあげて」


それを聞いて驚くミュア。


「(わ…、ここフィリップのお家だったのね…)」

「(どうしよ…、会っても大丈夫なのかな…)」


そんな彼女の戸惑いを他所に、

「ああ、着替えたら送ってあげよう」と、亭主がにこやかにうなずく。


ただでさえ初対面の彼等に世話を掛け過ぎたミュアは、

これ以上は流石に気が引けるため、その申し出を遠慮しようと思ったが、

他の手段が浮かばないのも事実で、

「あ、いえ、あの…、すみません…」と、結局流される。


それからしばらくの間、騒々しい環境音のみが漂う室内。


「(この嵐が木曜のだとしたら、今、私は過去に来ているという事だし…)」

「(今日が何曜日なのか訊いてみようかな…)」

「(でも、このタイミングで訊くのは不自然か…)」

「(まあ何にしても、フィリップには会わない方が無難ね…)」

「(そうなると、なんとか急いでここを出た方が良さそう)」


客人にそんな複雑な事情があるとは露知らず、

「それ、どうぞ」と、ミュアの前に置かれたカップを示す夫人。


俯いた姿勢でタオルを円柱状に丸めながら考えにふけっていたミュアは、

その声に反応して顔を上げ、カップに目を向ける。


「あ…、いただきます」


すっかりコンパクトになったタオルと引き換えにカップを取り、

中身を少量口に含むミュア。


その時、ユリアが着替えと紙袋を持って戻って来た。


「ごめんね、同じような色のを持ってなくて」


彼女はそう言って、薄紫のスエットをミュアに手渡す。


「(フィリップと趣味が似てるなぁ…)」

「ありがとう」


ミュアはそれを受け取ると、

人目を気にする事なくその場で着替えに入る。


勿論、下にTシャツを着用している事が前提での行動だったが、

流石にその場に居難くなった亭主は、

席を立って先程ユリアが出てきた部屋に入って行く。


水分を吸った黒のTシャツがミュアのボディラインに密着し、

くっきりと明瞭な形で露になった美しきフォルムが、

艶のある濡れ髪や白い素肌と調和してなんとも色っぽく、

同性のユリアでさえも彼女に見惚れた。


そんな含みのある視線には一切気付かぬまま、

脱いだ薄紅のボウタイブラウスをユリアに差し出すミュア。


ユリアはハッとしてからそれを受取り、丁寧に畳んで紙袋に入れる。


「これ、バターカップでクリーニングしてもらうといいよ」

「タダだから」


「へぇー、そうなんだ」


ミュアは襟の後ろと腰回りを整えた後、紙袋をユリアから受け取る。


美しき客人の出発準備が整いつつある傾向を見て、

「待ってね、うちの人呼んでくるから」と、

隣の部屋に亭主を呼びに行く夫人。


そして彼女はドアを開けた所で立ち止まり、

中に向かって二言三言発した後、何故か慌てた様子で台所へと走る。


直後、黒いレインコートを身に纏った亭主が奥から現れ、

「さ、送るよ」と、台所にいる夫人を尻目に出発宣言する。


それを聞いたユリアも慌しく玄関脇に移動し、エアコートをハンガーから外す。


「ちょっとちょっと」


玄関のハンドルに手を掛けようとした亭主を、

台所から走ってきた夫人が呼び止める。


「これこれ」


夫人が掲げているランプを見て、初めて用意の甘さに気付いた亭主は、

照れ笑いしながら受け取ったそれをテーブルの上に置くと、

同じくテーブルに置かれたマッチの箱に手を伸ばし、明かりを灯す作業に入る。


「さ、どうぞ」


出勤前の旦那に仕事着を装束させる主婦の様に、

エアコートを広げて待機するユリアと、

そんな彼女に甘え、それを羽織らせてもらうミュア。


その間にランプに火を灯した亭主が、それを携えて玄関に移動しつつ

「準備できたかい?」と、客人に尋ねる。


「はい」


ミュアはうなずきながらフードを被る。


「気を付けて」と、夫人。


「またね」


笑顔で手を振るユリアに、同じ表情で手を振り返すミュア。


ドアが開かれ、相変わらず激しい雨音が室内に立ち込める中、

ミュアは夫人とユリアの方を振り向いて、

「いろいろ、ありがとう」と、深くお辞儀をした後、

再び雷鳴轟く嵐の真っ只中へと歩み出した。

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