3:血と炎の道標
キャラクター紹介
リエール・シークレン 21歳 男
自由でマイペースな性格。
土壇場でも冷静さを保つ程の精神的タフさを持つ。
フィリップ・マルルーニ 21歳 男
リエールの親友。
状況適応力が強く、勇敢な一面も見せる。
ミュア・アネスト 18歳 女
容姿端麗。
明るくて人懐っこいが、色々な場面でか弱さを表面に出す。
関わった者の運命を意図せず大きく動かしてしまう不思議な女性。
物語のキーパーソン。
陽が落ちる前に水没都市脱出を成し遂げたリエール達であったが、
尽力の甲斐も無く薄闇の中にいた。
と言うのも、彼等は現在、[山々に囲まれた湖]の真っ只中を推進しており、
沈みかけの陽光が山によって遮られていたのだ。
勿論、ここがどこなのかさえ知らない彼等は、
この湖を目的地としていた訳ではなく、
単に水没都市と湖が繋がっていたため、
とりわけ意識する事なく進行した結果である。
都市が水没する以前、この湖と都市とを隔てる様に隆起した地形が、
丁度良い具合に[天然ダム]の役割を担い、
そこから漏洩した水は、川となって人々の生活圏へと流通していた。
開拓初期の小さな集落時代から、
水源、漁場、移動、運搬と、様々な面で現地人に重宝されたその川は、
当時からそれなりに広い幅を有していたが、
現在は湖の最大幅の三分の一はあるため、
事情を知らぬ者は[川]というより[湖の一部]と認識するであろう。
実質、今は流れもないので、[湖の拡張部分]と考えて良いが、
それがまだ川であった頃とは程遠い物へと変容した今節の地理は、
他ならぬ山と湖によって齎された物であった。
数十年前のある日、湖の北に連なる山の一つが突然噴火し、
大量の溶岩が湖に流れ込んだため、
急激な水位の上昇に伴う天然ダムの決壊によって激流が都市を襲い、
あの悲惨な現状に至ったのだ。
本来は家具である筈の[チェスト]に凭れて泳ぐ奇特な来訪者三人は、
当然、その元々川だった箇所を経由して湖に入ったのだが、
流石に水没都市よりも水温は低かったし、
その暗さ故に黒く見える水面の不気味さと、
自分達の都合は度外視した黄昏に対する焦りも相俟って、
それを振り払うかの様に没我の境でバタ足をくり返す。
そんな彼等が講じた策は、
進行方向右手側に見える[樹木に覆われた陸地]に沿って進みながら、
安心して上陸する事が可能な地点を探す、という単純な物であったが、
険しい程に密集した木々は、水面ギリギリまで生い茂っており、
適当な条件を満たす箇所は、未だ発見できずにいた。
勿論、地形に拘らなければ無理矢理上陸する事もできるであろうが、
山林では闇によって踏み迷う事は明白だったため、
誰もそれを提案しなかった。
妙によそよそしく感じる落ち着いた水面、落ち着いた風、落ち着いた空。
それらとはそぐわないノイズを帯びながら水上移動する三人の若者。
山々に響く野鳥の甲高い声も、
まるで自分達を威嚇しているかの様に感じられた。
「怖い…、早く上がりたい…」と、囁くミュア。
三人は水から上がるのに手頃な水辺の探索を続けるが、
行けども行けどもそれは見当たらず、
次第に[それがあるという期待]さえ薄れ始め、
やがて、湖に入る前に抱いていた手前勝手な土地勘と現実のズレから、
[ここに入るべきではなかったのか?]、
[上陸に適当な水辺なんてあるのか?]といった不安や、
[この薄暗い中をもう一度戻るべきなのか?]、
[なら、すぐ戻るか?]、[期待を信じて進むか?]といった迷いが生じた。
しかし、丁度その時、計画を再検討するきっかけに成り得る局面が訪れる。
軌道の目安である陸地が右に大きくカーブし、
地形に遮られて先の様子が確認できない箇所に突入したのだ。
引き際を感じつつあるリエールが、
その向こうの景観に弱い期待と強い懸念を抱き、
戻る事さえままならない状況に付き纏う憂慮を軽くするための言葉を発す。
「あの向こうに上がれる場所がありそうだな」
それが[ある]と推測できる情報や因子は無かった。
無論、三人ともそれに気付いていたが、
理屈ではなく[信じたい気持ち]から、
目が覚める程の声量でフィリップが答えた。
「そんな気がするな」
ミュアも震えた声でそれに続く。
「あるよね…?きっと…」
自然と三人のペースが上がる。
[先を知りたい…]、しかし、[知りたくない…]。
だが、それがどちらに転ぶにしても[知らなければならない]状況。
野鳥の声が更に激しくなる。
まるで[近付くな]と警告しているかの様に。
ミュアはそれに対して畏怖の念さえ抱いていた。
[もし上陸場所がそこに無かったら…]。
表面だけでも夢中になる事で、不安に気を傾けないよう努める三人。
やがてカーブに差しかかり、徐々にその奥が見えてくる。
「ん?あれはなんだ?」
チェスト左側に掴まるフィリップが、
不意に抱いた疑問を口に出しつつ目を凝らす。
まだ地理の明察に至るのは難しい遮蔽角だったが、
フィリップのビジョンは、水面上にある[突起物]を確かに捕えていた。
それも複数。
「石か!?」
石だけではなく、流木や水草もあった。
それは、そこが[浅瀬]である事を意味していた。
案の定、ある程度展望が広がった位置で、砂利の水辺を追認する三人。
しかし、そんな彼等の意識は、
切に求めた[上陸地点]をいざ傍近に見る時局にも拘わらず、
まるで別の箇所を向いていた。
何故なら、それ以上に有益な情報を含んだ景観が視界に入ったからだ。
陽と入れ替わって山を越えた月光が、
水辺の奥の緩やかな傾斜に広がる山肌や、
麓に建つ[一軒の屋舎]を照らし出していたのだ。
「おい見ろ!家だ!」
フィリップが咄嗟に叫んだ。
それに驚いた野鳥が一斉に飛び立つ。
「おっしゃぁ!」
リエールも不安から開放された勢いに乗って、声を張り上げる。
「よかったぁ…」
ミュアは少し泣きそうになりつつ肩の力を抜いたが、
長時間の精神圧迫による緊張は未だ身に滞留しており、
気を抜くまでには至らなかった。
だが、取り敢えず事態の好転と解釈した三人は、
横目に見る互いの表情それぞれに[安堵の色]を感じていた。
しかし、[現地人に会える]という考えは、
全員の脳裏を掠めもしなかった。
何故なら、それが[民家]である事は外観から分かるにも拘らず、
この宵の時間帯でも明かりが灯っていない事に加え、
遠目に見る限りではあるが、先程の都市と比較して建物の形式が古く、
立地条件から考えても人が住んでいる様には思えなかったのだ。
されど、この迷い人一同は、それをむしろ好都合と捉えていた。
誰も住んでいないなら自由に使えるからだ(社会では違法にせよ)。
水面から突起した石や流木を身近に意識する頃には、
チェストも即興で与えられた役を果たし、
三人はそれを離して[湖の底]に立つ。
こうなると目の前に横たわるチェストも[進行の妨げ]となる訳だが、
力になってくれたばかりか、不安や恐怖の中を共に過ごした[戦友]を、
誰も踏み越えようとはしなかった。
フィリップが近くの丁度良いサイズの石に腰掛け、下を向いたまま呟く。
「疲れた…、&(アンド)ハラ減った…」
「いつもならまだ昼過ぎだが、飯食ってぐっすり眠りたいわ」
ミュアはこれ以上[暗い湖]にいたくないので、
[バタ足]と[歩行]の勝手の違いを感じながら、
砂利の水辺に向かった。
フィリップも立ち上がってその後に続いたが、
どうも後方でゴツゴツと何かが石にぶつかる音がする。
不思議に思ったフィリップが振り返ると、
リエールがチェストを仰向けにして引き摺っていた。
「なに持ってきてんだよ」
フィリップによる高声のツッコミが耳に入ったミュアも、
反射的に振り返る。
リエールはチェストの方を観ながら返す。
「このまま水ん中に捨ててくなんて、こいつ可哀相じゃん」
フィリップは腕組みをしつつ首を傾げて鼻で笑い、
リエールが目の前を通過するタイミングに乗じてそれに加勢した。
所々引っ掛けながら進んでいると、事情を知らないミュアから、
「ねえ、どうしてそれ持って来るの?」と、
二人にとっては前フリの様な質問が飛ぶ。
二人は顔を見合わせて微笑むと、
「可哀相だから」と、声を合わせる。
これにはミュアも笑った。
砂利の水辺に上がった後、
数メートル先にあった草むらまでチェストを運ぶと、
功を労うかの如き気遣いを含みながら、
草の上にそれを寝かせる男衆。
横になったチェストを見下ろすリエールが、
ジャケットを脱ぎながら言挙げする。
「やがてこの地を訪れる者は、このチェストに戸惑うであろう」
「だが同時に、これによって救われるであろう」
「なんで?」
羽織っているワイシャツのボタンを外していたフィリップは、
聞き捨てならないその台詞にツッコミを込めた疑問系で返す。
「すみません、適当です」
「単なる預言者気取りか」
リエールは脱いだジャケットを絞って肩に掛けると、
腰に両手を当てて民家の方を向く。
「何にせよ、今夜はあれに泊まるのが流れってとこか」
「だな」
フィリップはとりあえずそう答えると、
ワイシャツの胸ポケットに収めた薬瓶を取り出し、
ひとまず身近にあった手頃な形状の石の上に置く。
そしてワイシャツを脱ぎ、それを二つに畳んでから丸めて絞った後、
他二人のポジションに気を付けながら、縦に振り回して脱水する。
ミュアはその行動をしばし黙って観ていたが、
やがて石の上の薬瓶が気になり、フィリップに問う。
「ねえ、それ何?」
同時にミュアへと顔を向ける男性二人。
フィリップは彼女の目線から察するに、
自分が置いた薬瓶に関しての質問であると判断し、
「これ?」と、薬瓶を指して確認する。
「うん」
「これは薬だよ」
「だけど、なんの薬かは不明」
ミュアが抱いたであろう疑問を予見したリエールが口を挟む。
「例の、[君とそっくりな女の子]の熱を下げるために、
薬物庫から取って来たんだ」
ミュアはリエールの方を向いて質問を続ける。
「なんの薬か確かめないで飲ませるつもりだったの?」
リエールとフィリップは、顔を見合わせてニヤつく。
「正確には[注射]するつもりだったのさ」
言葉を発したフィリップの方を素早く振り向くミュア。
「ひどい…」
「そうでもないさ」
すぐに別方向から飛んできたフォローに反応し、
ミュアは再びリエールの方を向く。
「ちゃんと医者がいたからね、(かっこ)美人の」
「俺達は薬を取って来るように頼まれただけだ」
フィリップは大分水気が抜けたワイシャツを着用し、
石の上の薬瓶を拾うと、
足下に注意しつつ、民家の方に歩きながら話を続ける。
「だけど俺たちゃ専門家じゃないんでね」
「どれがどの薬なのか、全然分かんなかったってわけ」
「(かっこ)単に聞き忘れただけなのは内緒」
「ふふっ、そこを聞き忘れるなんて」
可愛らしく微笑んだミュアも、
フィリップが接近してきたのをきっかけに振り返って歩き出す。
「あ、それで何本も持ってるんだね」
「まあな」と、リエールも歩きながらジャケットを羽織る。
「要は数撃ちゃ当たるってヤツさ」
「粋がって言う事か」と、向きを変えずにフィリップ。
そうこう声を交わしつつ、山の方から湖へと流れる小川を跨いだ三人は、
先頭にミュア、続いてフィリップ、最後尾にリエールという隊列で、
民家の庭に足を踏み入れる。
その平屋の手前の白い壁には窓穴が二つ確認できたが、
肝心な窓が嵌まっておらず、
木製のドアは頑丈に補強されてはいるものの、
若干朽ち気味且つ埃塗れで、
草葺きの屋根には所々に雑草が見受けられた。
右手側には民家と隣接した石造りの車庫があり、
赤く塗られた大きな木製の荷車が置かれていたが、
片側の車輪が外れているのか、バランスが取れていなかった。
「鍵がかかってるかも」
ミュアがドアの風貌から得た印象と常識を元にそう呟く。
「そんときゃ、窓から入りゃいいんだ」
「な!フィリップ」
「おまえよくやるもんな!」
リエールがフィリップの行動パターンを[非常識]と分別して当て付ける。
「皮肉んな」
そう答えつつドアの前に立ったフィリップは、
右足のつま先でそっとドアを押してみた。
ゴツ…。
加えた力はドアに吸収される。
それを観てリエールが近寄ってきた。
「やっぱ鍵が掛かってんのか?」
フィリップもそう思ったが、ドアを良く調べた所、
元々取っ手だったであろうと思われる部分が突き出ていたので、
それを掴んでゆっくりと手前に引いてみる。
すると、ギチギチと滑りの悪い音を立てながら開くドア。
続いて中を覗くが、フィリップ自身による月明かり遮断効果で、
床から壁にかけて自分の影が伸び、
内部の空間把握が困難な状態だった。
「中はどうなってんだ?」
その問いにフィリップが答えなかったため、
半端に開いたドアを全開にして家の中を覗き込んだリエールは、
次の瞬間、彼の沈黙の理由が判り、
「なるほどな…」と、納得する。
「だけど入らなきゃどうしようもないだろう」
リエールはそう言ってフィリップの背中を肘でグッと押すが、
フィリップはそれを堪えて自分で中に踏み込む。
入口のすぐ左手側に、大きな引き臼や、
何に使うか分からない木製の装置があったが、
見えるのはそれらの一部だけで、
その奥までは暗くて確認できなかった。
続いて右手側を向くと、窓から差し込んだ光によって、
[散らかった]というより[荒れた]室内がうっすらと観覧でき、
凹凸の激しい床や、そこに横たわった家具の表面には、
多量の埃が積もっているのが見て取れた。
そんな仕切りの無い部屋の奥には、
右寄りに狭まった奇妙なスペースが設けられていて、
そこは床から20センチ程の高さまで壁が一回り余計に出っ張っており、
その出っ張り部分に厚い木の板を固定しただけの[用途不明な台]があったが、
上部の棚に置かれた器具類や壺の形状を見て、
すぐにそれが調理台であると判断できた。
しかし、リビングであろう空間は酷かった。
ひっくり返った円形のテーブル、割れた花瓶や食器、蓋の取れたポット、
横たわった火かき棒、半焦げの薪、
赤黒く染まったカーペット等が散乱していて、
まるで、獰猛な生物が室内で大暴れしたかの様な散らかり具合だった。
だが、四つある木製の椅子だけは壁際にきちんと並んでおり、
一番左の椅子だけ[ひじ掛け]が付いていた。
その壁に設備されているオーブンや暖炉の右横に、
見るからに使い古された[ふいご]が二つ掛けてあって、
そこから真下に当たる位置に筒状の金属棒が転がっていたが、
片側の先端に、[肉片]の様な物が付着していて、
それが原因かどうか判らないが、若干の腐臭が鼻に付いた。
暖炉の扉は開けっ放しで放置されていたため、
灰が外側に少し散らばってはいたが、
内部には部分的に焦げた薪が何本か残っており、
火種さえあれば使用できそうだった。
そんな暖炉の周りには、
[赤茶けた染み]が広範囲に渡って付着していて、
良く観ると、同様の染みは床や天井の至る所にぽつぽつと見受けられた。
フィリップはそれらを見渡しながら、ゆっくりと静かに内部を探索する。
リエールもフィリップのすぐ後ろから付いてきていたのだが、
前を歩くフィリップが突然しゃがみ込んだので、
背中を膝で蹴ってしまった。
「いて!」
連鎖反応で立ち止まったリエールの背中に、
ひっそり付いてきたミュアが軽くぶつかる。
「どうしたの?」
ミュアから受けたその質問を、フィリップへと繋げるリエール。
「どうした?」
フィリップは返答せず、拾い上げた[半焦げの薪]を見詰めていた。
「マッチがあるかもな」
薪を暖炉方面に放り投げ、部屋中を見渡しながら立ち上がるフィリップ。
「探してみるか…」
彼の役回り宣言を仕事開始の合図と捕らえたリエールは、
今後の環境整理活動に備えて身軽になろうと考え、
少しキョロキョロしてから玄関近くにある窓穴の前に立ち、
ポケットの中の薬瓶を一つずつ取り出して穴の縁に並べて行く。
やがて規則正しい列を作った計五種類の薬瓶は、
注がれた月光にそれぞれの持ち色を加えて秀麗な輝きを放つ。
「あ~なんか良いね、それ」
先程の立ち位置のまま、マッチの保管場所に見当を付けていたフィリップは、
ミュアが発したその声に一瞬振り返った後、厨房へと歩き出す。
リエールは裏返ったポケットを整えながらミュアの前を横切り、
ひっくり返ったラウンドテーブルの側に立つと、
その脚部を掴んで引き起こし、テーブルの本来在るべき姿勢に直す。
次に、暖炉左の壁際に並んでいる四つの椅子を、
右手側から順に運び出し、テーブルの周りに配置し始める。
一方、まだ窓際で薬瓶に現を抜かしているミュアは、
時折瓶を手に取り、コルクの栓を開けて香りを確かめたりしていた。
リエールは二つめの椅子を運ぼうとした出鼻に、そんな彼女が目に付き、
「ミュアもマッチを探すの手伝ってあげて」と、仕事を促す。
すると、別の角度から別の声で返事が飛んできた。
「いやいいよ、あったから」
咄嗟にフィリップの方を向くリエール。
「はやっ!もう見つけたの!?」
その質問の答えは、行動で返ってきた。
赤みを帯びてゆらゆらと揺れる照明が、
目を細めるフィリップを薄闇に浮かび上がらせたのだ。
「何処にあったんだ?」
フィリップは火の付いたマッチを摘むその手の小指で棚を示し、
「そこ」と、単純に答える。
「どうやって火を付けたの?」と、ミュア。
「そこのザラザラした壺で」と、また小指をそれに向けるフィリップ。
「それより、早く何かに火を移さないと…」
反応したリエールが、
近くにあった[赤黒く染まった小さなカーペット]を拾い上げ、
燃焼中のマッチを摘むフィリップへと差し出しながら歩み寄る。
フィリップは相棒が持つカーペットに急いで火を当てるが、
思ったより耐火性が強く、
結局点火には至らぬまま、マッチの[持ちしろ]まで火が及んだ。
「だめだ、この程度の火じゃ弱い」
火付きのマッチを手放し、
皮袋から二本目を取り出して棚の上の壺に擦り付けるフィリップ。
その時、何故か薬瓶の一つを携えたミュアがリエールに近付く。
男二人から疑問の目を向けられつつ瓶の蓋を開けた彼女は、
中の液体をカーペットに少量だけ垂らした後、
それによって染みになった部分を指しながら、
「ここに火を付けてみて」と、フィリップに進言する。
フィリップが黙ってそれに従うと、今度は驚く程スムーズに点火できた。
「ほら!」
ミュアが誇らしげに胸を張る。
「なんでなんで?」
フィリップが感心して仕組みを聞くと、
ミュアは薬瓶を二人に提示しつつ答える。
「これ、消毒する時に使うアルコールみたい」
リエールとフィリップは、口を開けたまま顔を見合わせてうなずいた。
「あ~、なるほど」
男性デュオで納得した後、リエールが下を向き、
「アルコール…、ふふふ…」と、新しめの思い出を呼び起こして笑う。
「匂いを嗅いでみて分かったの」と、微笑むミュア。
「俺にとっちゃ軽いトラウマな[アレ]ね」と、フィリップ。
間髪いれずにリエールがそこに食い付く。
「おまえはアルコール漬けだった過去を持つもんな」
事情を知らない者には誤解を招くその言い回しに、
まんまと騙される紅一点。
「え!?そうなの!?」
「うん、ランプを腹の上に落としちゃってさ」
「なんとか大火傷は免れたけどね」
フィリップの冗談抜きな返答に、ミュアは少し考え込むが、
すぐに解釈のブレに気付き、
「ああ、な~んだ」と、再度微笑む。
「あれは命の危険性をを含んでたな」
リエールはそう言いながら振り返り、
火の付いたカーペットを暖炉に放り込む。
そして、さっき運ぶ予定だった椅子を持ち上げ、
暖炉の前に背を向かせて置くと、
紺色で薄手の生地のジャケットを脱いで椅子の背凭れに着せた。
それを観たフィリップは、
「あ、俺も俺も」と、皮袋とポケットの中身全てをテーブルに置く。
続いてベージュの半袖ワイシャツを脱ぎ、
それを二つ余った椅子の内、右側にある方の背凭れに掛ける。
そしてその椅子を暖炉の前まで運び、
床に散乱した食器の破片を足で退かして設置する。
着用中の湿った薄紫のTシャツが肌に吸い付くフィリップは、
着たままそれを両手でバサバサと波立たせ、
肌と生地の間に空気を含ませた後、
背凭れを掴みながら椅子に跨る形で座り、
ワイシャツ越しに背凭れに凭れ掛かった。
ミュアはアルコールの瓶をラウンドテーブルに置き、
壁際に一つ残った[ひじ掛け付きの椅子]に向かうと、
それに半分腰を下ろしてひじ掛けを掴み、
そのまま椅子を持ち上げて暖炉の側まで運んだ後、
腰と椅子を同時に下ろして着席する。
二人が暖炉の前に位置取った状況を観たリエールは、
テーブルを叩きながら、
「せっかくこれ用意したのに」と、功績をアピールする。
「悪いな」と、あっさり返すフィリップ。
リエールはしばらくそれに執着した様な体勢で、
暖炉に向いている二人に含みのある目線を送っていたが、
やがてフィリップ同様にポケットの中身を全てテーブルに置くと、
最初に配属した椅子の背もたれを掴み、
ギ~ギ~と引き摺きずる。
そして、先程ジャケットを着せた椅子と、
その隣のミュアの座る椅子の間にそれを運ぶと、
反転させて勢い良く座り、前屈みで膝に肘を突いて手を組んだ。
「しかし、ここは建物こそ古いが、
うちら以前の出入りはそう昔でもないみたいだな」
フィリップが突然発表した推測に、
「え?なんで分かるの?」と、ミュア。
「住んでいたのか、うちらみたいに迷い込んだのかは定かじゃないが、
多目に見ても過去三年以内くらいの範囲で、
誰かしらの侵入があったはず」
「え~、なんで~?」
「それだろ?」と、マッチ入りの皮袋を指すリエール。
「ああ、お前も気付いたか」
ヒントが出ても相変わらず不思議そうなミュアに、
フィリップが続けて解説する。
「そのマッチは着火効率修正後のタイプだし、
世に出てからまだ三年くらいしか経ってないからな」
「そんなに前だったっけ?」
「ナティッドは田舎だから浸透が遅かったが、
発売はそれくらい前だったそうな」
「なるほど」
「それに、未だシケてない所を見ると、
もっと最近寄りと見て良いだろう」
「んだな、せいぜい一、二年前って所かも」
「そうなんだ~」
ミュアの相槌を節目に、しばし沈黙する三人。
暖炉の中の[赤黒く染まったカーペット]の燃え具合は未だ弱く、
それを歯痒く思ったフィリップが立ち上がり、
左足を椅子近くに残したままテーブルの方に大きく踏み込んだ後、
腕を一杯に伸ばしてテーブルの上の瓶を取り、
踏み込んだ足にグッと体重を乗せた反動で椅子の方に戻る。
そして、瓶のコルクを抜きながら暖炉の前にしゃがみ、
中身を火の付いたカーペットに振り掛け始めた。
フィリップの動作の大きさに焦ったリエールが、
「全部かけるなよ」と、念を押す。
「わかってる」
火の勢いが増し、暖炉は眩しい程の光を放つが、
その仕切りの無い空間でさえ、全てを照らすには至らなかった。
暖炉の側壁で光が遮られているために明かりの広がる角度が浅く、
照明効果が出ているのはリビングだけだったのだ。
だがそれでも、[染み]の正体を識別するには事足りる条件だった。
ミュアが床の染みをしばらく観察した後、それをつま先で示しながら、
「ねえ、これもしかして[血]じゃない?」と、八分目程の確信を述べる。
反応して同時にそこを観る男二人。
「…」
「そうっぽいな」
フィリップがそう言った矢先、何かが激しく地面を蹴る音と振動を感じた。
そして[それ]は、紛れもなくこの[廃れた民家]に向かっていた。
奇妙に思った三人が窓を振り返った瞬間、
轟音と共に[それ]が民家にぶつかった。
家全体が大きく揺れ、三人の座った椅子は横滑りし、
ジャケットの掛かった椅子は倒れた。
窓穴の縁とテーブルに置かれた瓶が一斉に床に落ち、
割れる事なく右往左往する音が騒音にかき消される中、
椅子から振り落とされた三人は、
一瞬観えた[それ]を再確認するために窓の方を向く。
するとそこには、
現世を共有する物とは思えない程に喫驚する姿があった。
大きく広がった左の窓穴から、
2メートル以上もの巨大な[顔]が屋内に侵入していたのだ。
血色のない黒い肌、削ぎ落ちて骨が露出している鼻、
顎の関節が無いかの様に垂れ下がる口、
左右二つずつの赤く鋭く光る丸い目は、
不気味に虚ろでピントが合っておらず、
更に顔そのものの左右が、
非対称どころか全く別物の様に相違している面構え。
リズムの狂った呼吸を荒立て、
金切り声を上げながら激しく上下に首を振るその形相は、
顔の倍以上もある長さの黒い毛髪に覆われていた。
まるで自制心を持たず、
本能にのみ従っているだけの如き猛悪さを感じるそれは、
窓穴のサイズなど全く意識していない様子で、
強引に体を押し込もうと断続的に踏ん張り、
その度に民家は大きく揺れた。
驚きのあまり声も出せない三人。
特にミュアの脅えは酷く、驚愕の表情で硬直したまま腰を抜かし、
もはや泣く余裕さえ無かった。
リエールとフィリップは、恐怖感に完全には捕らわれていなかったが、
やはりミュアと同様に硬直していた。
だが、意識を怪物に傾け過ぎていた自分に気付いたリエールは、
ハッとして素早く立ち上がり、ミュアの方を振り返る。
ミュアは震えながら怪物を観ていたが、
やがてリエールの視線を感じ、脅えた目で彼を見上げた。
こんな状況下でも、ある程度冷静を保っているリエールは、
そんなミュアを安心させようと、その濡れた髪をやさしく摩った。
ミュアは、あの観た事もない怪物相手に何ができるのか、
どうやってこの状況を切り抜けるのかといった想像が付かず、
安心できよう筈もなかったが、
リエールの冷静さによって少しだけ緊張を回復できた。
そして激震の中、怪物に視線を送りながら、
未だ尻餅状態のフィリップにゆっくり歩み寄るリエール。
フィリップ側もその動きに反応してリエールに顔を向ける。
それを横目で察知したリエールは、
「あいつの目的は、やはり俺達だろうな…」と、呟きつつ、
フィリップと目を合わせる。
多少力んでいたフィリップだが、
リエールが意外にも落ち着いているので、
自分も一息吐いて力みを解消した後、
「だな」と、いつもながらの返事をする。
それを機に気持ちを切り替えたリエールは、
「俺はドアを塞いでくるから」と、玄関方面を鋭く見遣るが、
すぐに相棒へと視線を戻して言葉を追加する。
「おまえはミュアを守ってやってくれ」
「よし」と、機敏に立ち上がるフィリップ。
幸いにも、突進してきた怪物のサイズは入口よりずっと大きく、
[壁を破られない限り]何処からも入って来れそうになかったが、
ここが危険地帯だと悟ったリエールは、
第二第三の強襲を心配し、走って全開のドアに向かう。
そして、外側に開いたドアに手を掛けた瞬間、
ある衝撃的な事実を知ってしまった。
無数の[小さな影]が民家を取り囲んでいたのだ。
月明かりに照らされた[それ]を良く見ると、
形の崩れた[狼]の様な姿をしていて、
やはり四つの赤く光る目を持っていた。
その内の一匹が、長い舌をダラリと垂らしつつ、
ぎこちない走り方でこちらに向かって来るのを見て、
早急にドアを閉めるリエール。
だが、いくら外側からは[引いて開けるドア]でも、
鍵が付いていないため、
何かの拍子に開いてしまうかも知れないとリエールは考え、
近くにある[木製の器材]をバリケード変わりにしようと、
それを引き摺って入口の前に運びながら、
フィリップ達に今しがた得た情報を報告する。
「犬みたいな奴らに囲まれてる!」
反応して自分の方を向いたフィリップ達の視界の中で、
鍵の付いてないドアの前にバリケードを設置した次の瞬間、
リエールは見落としていた問題に気が付いて叫んだ。
「やば!窓を塞げ!」
その言葉の直後、
[狼の様な獣]が一匹、右の窓から部屋に素早く侵入してきた。
「きゃあぁぁ!」
ミュアが悲鳴を上げたため、獣の注意がフィリップ達に向く。
暖炉の明かりに照らされたその姿は、
やはり非常に左右がアンバランスで、
四本足の全ての長さがそれぞれ異なっており、
右前足と左後ろ足は膝関節さえ無く、
真ん中から裂けた様な顔の両側面に位置している合計四つの眼も、
それぞれ大きさがバラバラだった。
フィリップは近くに倒れている椅子の前脚を両手に掴み、
ミュアをかばう様に構える。
奇妙な四足の獣は低く唸りながら顔を左に傾け、
右の二つの眼でフィリップを睨む。
退く気配のない双方の鋭い眼光がぶつかり合う中、
獣側が僅かに見せた攻撃の兆しを素早く察したフィリップが、
その出鼻に合わせて椅子を横に振る。
四足の獣は顔を傾けていたため、鼻鏡に背凭れ部分を受けて吹っ飛ぶ。
リエールはそれを観て、異形の生物への対処をフィリップに委ね、
自分は木製の器材を退かした先にあった備品置き場に走り、
窓を塞ぐのに手頃な物を探し始めるが、
暗闇の妨げにより効率が損なわれていた。
一方、四足の獣は何事も無かったかの様に体勢を立て直すと、
再度フィリップに飛び掛かる。
だがフィリップは、タイミング良く椅子を振り下ろし、
それを床に叩き付ける形であしらった。
そして、尚も立ち上がる意思を見せる獣から一歩間合いを空けつつ、
「ミュア!あれをこっちに!」と、燃えたカーペットを指し示す。
ミュアはパニックになりながらもフィリップの勇ましさに後押しされ、
這って暖炉を覗ける位置に移動すると、
燃えているカーペットの端を摘み、
暖炉から引き摺り出してフィリップの後ろに滑り込ませた。
フィリップは四足の獣の起き上がり際を更にねじ伏せると、
パッと振り返って燃えているカーペットを軽く踏み付け、
そのまま足で獣の前方へと運ぶ。
だが、しつこく起き上がった四足の獣は、
燃えているカーペットに一切怯まず、
それどころか、平然とその炎を踏み越えて来た。
フィリップは相手にとって障壁となるであろうと思っていた炎が、
あっさりと突破されるという意表を突かれた局面を迎えて後退りし、
床に落ちていた薬瓶に足を取られて仰向けに倒れてしまった。
ここぞとばかりに異形の獣がそれに飛び掛かる。
瞼を強く閉じるフィリップ。
だが次の瞬間、フィリップのイメージは裏切られた。
[飛び掛かってきた結果]が感じられず、
代わりに生温い液体が降り注いだのだ。
フィリップは脇で暴れている巨大な顔の気配を気に掛けながら、
恐る恐る目を開いた。
すると、木の骨組みに乾燥した草を乗せただけの天井が観えた。
そして視界の下から、薄笑いのリエールがひょっこりと顔を出してきて、
呆気に取られているフィリップに左手を差し伸べる。
フィリップはそれを掴まずに寝たままの姿勢で見上げると、
壁際で流血しながらもがいている怪物の姿があった。
良く観ると、腹の辺りから首に抜ける軌道で矢の様な物が刺さっており、
その異物が頸椎と胸椎の間に挟まったため、
正常な動作を欠いている様だ。
じれったくなったリエールが、強引にフィリップの右手を掴んで引っ張る。
その作用に甘えて起き上がったフィリップは、
産まれ立ての子馬の様に立ち上がる努力を繰り返す獣を親指で差し、
「どうしたんだあれは?」と、リエールに尋ねるが、
その答えを聞く前に、彼が手に持っている[クロスボウ]に気が付いた。
暖炉から引き出されたカーペットの炎に、暗がりだった部分が照らされ、
そこでおそらく狩猟用に使われていたクロスボウを見付けたのだ。
リエールはフィリップが既に気付いてるにも拘わらず、
「これこれ」と、クロスボウを構える。
フィリップはそれに軽く手を乗せて下ろさせると、
「それより、今のうちに窓を塞ごう」と、
問題解決を優先する姿勢を見せる。
だがリエールが意外な立案で返す。
「いや、塞がなくていい」
少しだけ落ち着きを取り戻したミュアが尋ねた。
「どうして?」
その問いとは無関係の台詞で弁舌を続けるリエール。
「フィリップ、この化け物のツラに火を付けてやろうぜ」
フィリップは暴れている巨大な顔に目を向け、少し考える。
「確かに攻撃効果は良さそうだが、
下手したら屋根が燃えて火事にならないか?」
「だろうな」
「しかしどの道、この小屋は長くは持たないだろう」
それを聞いて、一旦周囲を見渡すフィリップ。
「そうだな…、だけど次にどこへ行けば?」
「俺がコレでなんとか活路を開くから、もう一度湖に逃げよう」
そう言ってリエールは再びクロスボウを構えて見せる。
「湖では、あれ程騒いでいたのに襲われなかったし、
ここよりは安全だと信じるしかない」
「分かった」
「ミュアは今の状態じゃ早く走るのは無理だろうから、
お前が抱えるなり、おぶるなりして先に走ってくれ」
「俺は後ろから援護しつつ追いかける」
黙ってうなずくフィリップ。
「さて、まずは数を減らしてくる」
軽い打ち合わせの後、
リエールはクロスボウを発見した備品置き場に戻り、
細長い木箱に収められた[ボルト(矢)]を箱ごと持ち出す。
一方のフィリップは作戦通り、
燃え盛るカーペットを蹴って巨大な怪物の顔の下にスライドさせた。
すぐに乾燥した毛髪に引火し、頭部を炎が覆い尽くす。
だが巨大な顔の怪物は、
まるで頭が燃えている事に気が付いていないかの様に、
首を激しく振りつつ、踏ん張り続ける。
リエールは燃焼中の巨大な顔のすぐ隣にある窓穴に移動すると、
落ちている瓶をフィリップの方に蹴りながらボルトを装填し、
窓穴からクロスボウを構えた。
そこを[トーチカ]として利用するという魂胆だ。
だが、あまりに振動が激しいので、
リエールは横で燃えた頭を振う怪物に射線を向けると、
「うるせーな」と、装填したボルトを放つ。
ボルトは怪物の横首に突き刺さったが、
依然としてその暴挙は止まらない。
リエールは、外にいる四足の獣の群れの現在位置をチラリとチェックし、
まだ距離に余裕がある事を確認してから更にボルトを装填すると、
巨大な顔を包む炎に触れる程の至近距離からトリガーを引く。
ボルトは先程のポイントより若干上に当たり、
巨大な怪物の首を貫通して壁を擦った。
すると今度は、[首の動きだけ]止まった。
と言うのも、首の上部が傷と重量によって裂け、
頭が半端に垂れ下がった状態となったのだ。
だが、それでも揺れは止まらなかった。
やはり首が半分捥げた事にさえ気が付いていないかの様に、
依然として強く踏ん張り続けているのだ。
「いやぁ!」
ミュアには刺激が強かったらしく、とっさに手で覆った顔を伏せる。
「こいつは一体…」
強張った表情でそう呟くフィリップ。
尚も冷静なリエールはすぐに現実を認め、
今度は怪物の脚を射撃しようと、窓から身を乗り出す。
だが、そこにあった姿は愕然とするものだった。
全長10メートルはある巨体の肩に当たる部分から、
牛のそれの様なしなやかな脚が生えていて、
胴体の長さに拘わらず脚はその二本だけしかない事に加え、
両脚の伸びる角度が正面に対して八の字型になっており、
更に地面に接している[蹄]のサイズが小さいために、
立位と呼べる程の前後バランスが取れておらず、
それ故に地面を擦る程垂れた下腹部より先、言わば[下半身]が、
まるで断ち切れたかの様に存在していなかったのだ。
しかし、風貌の異常さから成る喫驚はそれだけに止まらず、
観察者の注視は意図せず執拗な物となる。
その背中にも[顔]があったからだ。
赤く巨大な充血した目は脇腹に位置していて、鼻と呼べる物は無く、
背筋に沿って縦に裂けた口には無数の小さな牙があり、
中から一本の太い管が、だらりと脱力した様に伸びていた。
だが、もはや狼狽に抵抗力の付いたリエールは、
そのグロテスクな見目形にも怯む事無く観察した結果、
壁の耐久性に対する巨大生物の力量の目安を付ける事ができた。
その不均等な側面体型に連帯する肩幅も異常に広く、
どうやらそれがまだ崩れていない壁に支えているため、
退く事を知らない巨大生物は勢いを付けられず、
ただ押しているだけの状態だと分かったのだ。
だからと言って、それを油断の理由にすべきではないとリエールは考え、
怪物からの加圧を削ろうと、手前側の脚に狙いを定めて射撃する。
しかし、その脚力が見て取れる程に筋張っている表面に加え、
地に脚をめり込ませて踏んばっているためにボルトの刺さりが浅く、
効果は感じられなかった。
それでも、振動は多少なりとも弱まるだろうと思っていたのだが、
心做しかさっきより大きくなった様に感じた。
リエールはサッと家の中に引っ込み、
ボルトを再装填しながらフィリップに向かって言う。
「何度も思ったが…、ここは何処なんだろうな」
フィリップはそれに答えず、リエールの濡れたジャケットを拾い上げると、
付着した汚れを払い、震えるミュアの肩に掛ける。
「怖いか?ミュア」
「…うん…、帰りたい…」
ミュアはとうとう静かに泣き出した。
毛の焼ける悪臭が漂う中、
リエールが再び窓穴に乗り出してクロスボウを構えるが、
四足の獣の動きが横目で感じられたため、反射的にそちらを見ると、
なんと数匹同時に民家へと向かって来ていた。
リエールは慌てて中に引っ込み、
クロスボウを構えて先頭を射るタイミングを見計らう。
だが、連射の利かないクロスボウでは、
一匹の動きを止めるのが精一杯なだけに、
やはり窓穴を塞ごうと思った頃には、
もう間に合わない位置にまで群れが迫っていた。
しかし次の瞬間、四足の怪物達が不可解な行動にでた。
突如、滑る様に急停止し、後ろに控える群れ共々、
せかせかと散って行ったのだ。
だがその直後、更に不可解な現象が起きた。
揺れが明らかに大きくなっているのだ。
奇妙にも、それは横で暴れている怪物の踏ん張りと噛み合っておらず、
どうも家の裏から発生している様だった。
「なんだ!?」
異常に気付いたフィリップが、そちらの方向に素早く振り向く。
「もうやだよぉ!」
ミュアがジャケットを深く被りながらそう叫んだのとほぼ同時に、
窓穴に嵌っていた怪物が、
燃焼中の頭部を室内に残したまま[姿を消した]。
リエールは外を見ていたのでその原因を知っていたが、
それ故に戦慄を覚え、硬直していた。
そして数秒を空け、調理場の方向、隣接した車庫より数十メートル先から、
強い振動を伴わせた重量感のある音が木霊する。
間髪入れず、事情を知らないフィリップの頭上で、
張り裂けるような轟音が鳴り響く。
フィリップが反射的に見上げると、
屋根が半分吹き飛んでいて、
その隙間から直径3メートル程の巨大な赤い目が覗き込んでいた。
事態を比較的詳しく把握しているリエールは、
急いで脅えるミュアに駆け寄って強制的に立たせ、
「早くこっちへ!」と、暗がりへ引っ張る。
だが、彼等はそこで更に面妖な光景に出くわした。
廃鉱であの[箱]を開けた時と同様に、
部屋の暗がりが一瞬だけ明るく照らされたのだ。
直後、背後から激震と轟音が届く。
リエールが振り返ると、
屋根を破壊した怪物の物であろう大樹の如き腕が、
フィリップの立っていた地点にめり込んでいた。
そしてそれが重々しく引っ込んだ事蹟には、
奇妙な事に、彼の姿はおろか、所在した痕跡さえなく、
四足の獣の押し潰れた姿と、
家具や瓶の砕けた残骸のみが見受けられた。
「フィリップ!」
床に空いた浅い穴に駆け寄るリエール。
ミュアは口を両手で押さえ、見開いた目から涙を零しつつ、
状況を良い方に考えようとしていた。
だが無情にも、すぐに情勢は改悪された。
未だ天井の残った地点で友の行方を調べていたリエールの真上から、
先程の大樹の様な腕が屋根を突き破って降り注ぎ、
片膝状態の彼を含む、軌道上全ての物体を抵抗感無く巻き込みつつ、
謎のフラッシュを伴いながら押し潰したのだ。
そして再び引っ込んだ腕が残したクレーターには、
先程同様、リエールがそこにいた事を物語る証跡さえ残っていなかった。
ミュアは激しい恐怖で脱力し、床に崩れ落ちた。