2:歴史の迷い人
登場人物紹介
リエール・シークレン 21歳 男
本作の主人公
自由奔放な性格。
イマイチパッとしない普通の青年な印象だが、
その実、素晴らしい潜在能力を持つ事に、
当人さえまだ気づいていない。
地元の住人からは、一応イケメンと評価されている。
フィリップ・マルルーニ 21歳 男
リエールの幼馴染で親友。
なにかと暴走気味なリエールの制御とツッコミを担当。
リエール同様、まあまあイケメンの部類。
ミュア・アネスト 18歳 女
容姿端麗。
まだ精神的に弱い部分が目立つが
不思議と関わった人物の運命を大きく変えてしまう少女。
物語のキーパーソン。
[白い闇]に触れた直後、リエールは呼吸が止まっていた。
[水中]なので無理もないが…。
水深は3メートル程で、その水はかなり透明度が高く、
加えて明るかった。
それ故、直ぐに周囲の情報が把握できた。
そこは[居間]だったのだ。
煉瓦の壁、使い込まれて黒ずんだ暖炉、ドアや窓の嵌まっていた穴、
家具は見当たらず、床一面に水草が生えてはいたが、
そこは広くて立派な造りだった。
疑問点を挙げるなら、部屋が水浸しである事を除けば、
なぜ内部をはっきりと認識できる程に明るいのか、という部分だろう。
原因は至って単純で、その部屋には天井が無く、
眩しい程の日差しが注ぎ込んでいたのだ。
となると[元々部屋だった場所]と言うべきだろうか。
突然の環境変化に遭遇したリエールだが、
まずは困惑よりも呼吸を優先する方針を即座に打ち立て、
水面までの距離を確認した後、強く底を蹴って上昇する。
「ぉ…!ゴホッ!ゴホッ!」
浮上地点のすぐ近くで、水面より高さのある[塀]を発見した彼は、
その縁に掴まってしばらく咽た後、
若干崩れ気味なその塀に這い上がって跨り、呼吸を整える。
息は落ち着いても頭は混乱状態にあるリエールは、
とにかく状況を具体的に理解しようと顔を上げた矢先、
異様な程の妙境が未整理の意識に入り込んできた。
目の前に広がるその概観は、
もはや文明の痕跡と成り果てた[都市]だったのだ。
水没して朽ちた軒並みが数キロメートルに渡って続いていて、
水面より上に突き出ている建物も多数確認できるが、
その殆どは酷く崩壊しており、
遠景には多少雪の残った山々が聳え立っていた。
周囲を見渡すため、ゆっくりと視界を右にスライドさせると、
ふと横目に付いた[違和感]があり、パッとそちらに注目した瞬間、
リエールは息を吸い込みながら目を見張る。
その違和感の正体は[壁]であった。
とてつもなく巨大な壁が、町の一辺を覆う様に威風堂々と建っており、
先程の違和感は、もはや威圧感へと変容していた。
壁には幾つもの大きくて四角い穴が一定間隔で空いており、
そこから緩やかに流れ落ちる水の軌道に沿って苔が生えていた。
陽の光は壁の手前を照らす角度だったが、
穴の奥は陰になっていて確認できず、
奥は何処まで続いているのか、そしてそこに何があるのか、
なぜ水が流れているのか、どういった理由で穴が空いてるのか、
そして何より、この巨大な壁自体どんな目的があるのか…、
それらの疑問が、この壁の威圧感をより深い物とした。
リエールが唖然としながら、その壁を眺めていると、
突然目の前の水面が大きく凹み、次の瞬間大きく盛り上がった。
水しぶきが夕立の様に降り注ぎ、
激しい波紋で水鏡に映る空や雲やリエールも揺れる中、
水面下から気泡が立ち上る。
リエールは一瞬驚いたが、その水の透明さ故に何事かすぐに分かった。
何せ、今しがた自分もその洗礼を受けたのだから。
やがて泡の発生源がリエールに後頭部を向けた状態で浮かび上がり、
大きく咳き込んでから首を左右に激しく振ると、
立ち泳ぎのまま、乱れた呼吸を整えつつ前髪を両手で掻き上げる。
すると、その向いてる方角上、真っ先に[壁]が視野に入ったため、
先程のリエールをリピートした様に目を見張るフィリップ。
あえて沈黙を維持し、その様子を後ろから客観視するリエール。
「なんだ…あれ…」
案の定、後ろからでも驚愕の表情が感じられる様なリアクション。
リエールは手で水を掬って、
数十秒前の自分同様に喫驚するフィリップの後頭部へと飛ばす。
それを受け、表情を維持したまま振り返ったフィリップは、
塀の上でニヤつきながら小さく手を挙げているリエールを見て、
体ごとそちらに向き直り、しばし無言で立ち泳ぎを続ける。
リエール側も、次のアクションをお笑いネタ方面に繋げるか、
シリアスな方向に繋げるかの瀬戸際で迷いながら、
フィリップをじっと見詰めていた。
この短時間で立て続けに起きた不可解で奇妙な出来事に対し、
当然ながら[不安]や[混乱]を少なからず感じている二人だが、
そんな一連の体験を共にした[良く知る顔]に再会できた安心感から、
やがてお互いに意図せず笑みが湧き上がる。
フィリップはリエールに水を飛ばし返すと、
「いきなり消えるなよな~!」と、そちらに向かってゆっくりと泳ぎ出す。
「消えると分かってたら消えなかったさ」
リエールは跨った壁の上から幼馴染に手を差し伸べるが、
当の幼馴染はそれを無視して彼の横によじ登った。
「…、親切は素直に受けろよ」
「手を借りたら余計に登りにくいだろ」
「それもそうだな」
見知らぬ土地、判らない帰り方、だが帰りを待つ者の存在、
[すぐに戻るつもり]が裏切られたストレス、
気にすれば心理的ダメージとなる要素の数々だが、
今は夢中で[不安]は表に出ていなかった。
風が吹いた。
不謹慎ながらも、二人はその新鮮な空気に心地好い緊張を覚えた。
リエールがそれをきっかけに提案する。
「とにかく、ここから離れよう」
「そうしよう」
即賛同したフィリップだったが、一度背筋を伸ばして周囲を見回し、
「当然…、泳いで行くんだよな?」と、答えの分かり切った質問をする。
リエールも同じ様に周囲を見回した後、少し考えて言った。
「…泳ぐしかないな」
フィリップが気難しい顔つきで、頭を掻きながら答える。
「正直、泳ぎは得意じゃないんだよな~」
リエールも薬瓶によって膨らんだトラウザーのポケットを摩りつつ言う。
「俺もだ」
[巨大な壁側]とは反対の[山側]約30メートル程先に、
水面から20センチ程上まで[平らな屋根]が突き出ている箇所があり、
それに気付いたフィリップが、そこを指差しながら言う。
「あの平べったい屋根が、第一チェックポイントだな」
着用しているワイシャツのボタンを上から順に留めるフィリップの脇で、
リエールはそれまで跨いでいた壁の上に立ち、飛び込みモーションに入る。
しかし、飛んだまでは良かったが、どの部分から着水するかで迷い、
結局水平に近い角度に傾きながら、曲げた膝から飛び込む形となった。
ピッターン!
水に叩き付けられた様な飛び込み方のおかげで、
見栄えの悪い波紋が立つ。
「うーわ、ダサッ!」
そう言いながら、無難に足から飛び込むフィリップ。
水面に浮上したリエールは、中途半端にクロールっぽく泳ぎ出す。
フィリップは純粋な平泳ぎでそれに続く。
リエールが第一チェックポイントである[平たい屋根]に到達し、
よじ登って小憩しようとした際、すぐ先の水面下数センチ程の高さに、
足場にして進めそうな[煉瓦作りの塀]がある事に気付いた。
よく見ると、その塀を隔てた左側は他に比べて水草が多く、
元々は庭園である様に受け取れた。
その更に左側に広範囲に渡って土台石が敷かれている事から、
どうやらこの煉瓦作りの塀は、大きな屋敷を囲んでいた物の様だ。
フィリップが平たい屋根によじ登って来た頃、
リエールは既に塀の上をバシャバシャと歩いていた。
フィリップは、一瞬リエールが水上歩行してるのかと思って驚き、
「なにそれ!?」と、目を大きくしながらじっくり見入るが、
すぐにトリックを暴いて同様のイリュージョンをやってのける。
だが次の瞬間、ある[きっかけ]を受けてバランスを崩す二人。
リエールのすぐ右側で、例の[水面凹み]が起こったのだ。
続いて水面が持ち上がり、
揺れる水鏡に立つ気泡と共に浮かんできた未確認物体が、
リエールの足下に頭を出した。
「ぁ…コホッ!」
自分の影の中にいるその人物を見下ろすリエールは、
その秀麗な容姿から、
「(女の子?)」と、判断。
その娘は大きく呼吸しながらリエールの膝の辺りを見ていたが、
やがて恐る恐る顔を上げ、彼と視線を合わせる。
リエールはその時、更にピンとくる物を感じた。
「(この娘は…!?)」
ゆっくりとしゃがみながら、
「やあ、熱はもう下がったのかい?」と、
初会話には符合しない妙な台詞で女性に接すリエール。
そう、リエールの記憶から照合されたその顔は、
[バターカップ]で治療を受けていた娘の物と一致したのだ。
リエールが遮っていた日差しを、
彼がしゃがんだ事で諸に受けたその娘は、
手を額にあてながら少し霞んだ細い声で答えた。
「え?」
「あ、あの…えっと…」
応えに窮する娘を、
「でも、どうして君までここに?」と、追い討つリエール。
「え…?えっと…」
キョトンとする娘。
リエールはその反応を見て、
同じくキョトンとした顔をフィリップの方に一瞬向けるが、
直後、自己中心的な見解をしていた事に気付く。
「あ、そうか…、君は寝てたから俺達を見てないんだったな」
相変わらず無言の娘は困惑の表情を返す。
大きくて可愛らしい瞳に見詰められ、
照れを感じて再びフィリップの方へ視線を反らしたリエールだったが、
やがて下唇に歯を立てながら娘と目を合わせ、爽やかに微笑みつつ、
「俺はリエール」と、右手の親指を自分に向けて自己紹介する。
続けて、リエールはフィリップに広げた手を向け、
反応した娘もその手を目で追う。
「こいつは…」
リエールに紹介を任せる事なく、
「フィリップだ」と、自分で名乗るフィリップ。
「そう」と、腕を脱力させてパタンと下ろすリエール。
しかし彼女は反応せず、
驚嘆した面持ちをフィリップの後方に向けて固定していた。
どうもフィリップの紹介の際に目に付いた[壁]に驚いている様だ。
その情勢をしばらく観察していた男二人だったが、
やがてリエールが立ち上がり、
進行方向とは逆方向に少し避けながら娘に言う。
「上がりなよ」
リエールの方に鋭く顔を戻す娘。
彼女は言われるまま、リエールのすぐ前に這い上がると、
両手で前髪を撫で上げ、そのまま髪を束ねて含んだ水気を絞る。
ロング丈の白いタンクトップに、紺のショートパンツという、
ただでさえ露出多めなコーディネートに加え、
水濡れによって上着の透けた美女を目の当たりにし、
少し視線のやり場に困る男性陣。
「私は、ミュア」
とても美しい腋の下を披露しつつ自己紹介を済ませたミュアは、
手を無造作に下ろすと、周囲をゆっくり見渡しながら、
「私…、どうしてこんな所にいるの?」と、どちらにともなく尋ねる。
「俺達も君と同じクチさ、ついさっき来たばかりで、
ここがどこなのか分からないんだ」
フィリップがザブザブと二人との距離を縮めながらそう答えた。
ミュアはフィリップの方を向いて問う。
「どこから来たの?」
「俺等はナティッドから」
「君はどうやってここに?」と、横からリエール。
「えっと…」
「え~…」
ミュアは神妙な面持ちでしばし考えるが、
「え…、ヤダ…、えっと…」と、気の動転を露にする。
「ピカピカの白い[箱]を開けてから…、[湯気]みたいなのが…」
[箱]と[湯気]という二つのキーワードから、
リエールが辻褄を合わせる。
「ああ、君もあの[箱]を開けて、[霧]に触ったのか」
見知らぬ二人と共通する認識がある事を知り、
即座に顔を上げるミュア。
しかし、フィリップは首を傾げる。
「箱は落とし穴の下にあるはずなのに、どうやって…」
「あ、そういやそうだ」
「それに、あの変な扉と一緒で、箱も俺には開けられなかったが…」
「そうなん?」
「ああ、それどころか持ち上がりもしなかったよ」
「マジか、人を選ぶ法則性がイマイチわからんな」
「だな」
その会話を耳にしたミュアは、何故か狐につままれた表情。
だが、それにはお構いなしでリエールが質疑する。
「どうやって箱を開けたの?」
「え?普通に…手で…」
「そうじゃなくて、つまり、
どうやって箱のある場所まで行ったの?」
「え?鍵を開けて…」
「鍵?」
「あのドア、鍵なんて掛かってなかったけど」
「え!?」と、口に両手を当てて驚くミュア。
予想もしていなかったタイミングでのオーバーリアクションを観て、
見開いた目を合わせるリエールとフィリップ。
だが、次のミュアの発言により、
幾らかの謎が解け、そして幾らかの謎が生まれた。
「うちの[物置]に、あの箱を置いたのはあなた達なの!?」
「え?」
リエールとフィリップは再び視線を合わせる。
「君は廃鉱から来たんじゃないのか?」
「え…?ハイコウ?」
「えっと…、どうゆう事?」
ミュアは不思議そうにリエールとフィリップを交互に何度も見た。
「君の言う[箱]っていうのは、君んちの物置にあったの?」
「うん」
「そっちが言ってるのは、うちにあった箱の事じゃないの?」
混乱したリエールが、とにかく情報を整理する。
「ちょっと待って、一旦まとめよう」
「俺等は、君の熱を下げるための解熱剤を廃鉱に取りに行って、
帰りに変な穴を見つけて、その先に行ったら箱があって、
それをパカッて開けたら本が入ってて、
その本を箱ごと持ち帰ろうとしたら地下に落とされて…」
「え…?私と全然違う…」
「箱を開けたら本が入ってたの?」
「そう」
ミュアはジェスチャーを織り交ぜながら、自らの体験談を語る。
「私は、物置を片付けてたらその箱があって…」
「開けたら、なんて言うか…、[濃い水蒸気]?
っぽいのが出てきた所までは覚えてるんだけど…」
フィリップが即座に割り込む。
「[濃い水蒸気]…、多分あの[霧]と同じ物だろうな」
「だな」と、うなずくリエール。
「どうやら、うちらの開けた箱とは構造も別物みたいだな」
意味が分からずに黙りこくるミュア。
「あ、ごめん、箱開けた後どうしたの?」と、仕切りなおすフィリップ。
「それが…、開けた途端、水の中にいたとしか…」
「ここに来るまでの間が思い出せないの…」
「いや、そこは多分一瞬でここに来たんだと思う、俺等もそうだし」
「え?なに…それ…」
「うん、まさしく[なにそれ]だけどね」
説明の付かない超常現象だが、
それを既に身を以って立証してしまっている三人に静寂が流れる。
「でも、確かにこっちと全然違うな…」と、リエール。
「あの…、さっき言った[私の熱]って何の事?」
ミュアのその問いに、今度はフィリップが応対する。
「君は昨日、ナティッドに来ただろ?」
目を見開いた彼女は、
「ううん、ナティッドには二年くらい行ってないよ?」と、大否定。
「え?マジで?」
「うん」
今まで礎として考えてきたデータの内の一つが消去され、
その認識の大部分が支離したリエールは、
焦った様に早口で聞き返す。
「え?トーテスに住んでるんだよね?」
「うん、何で知ってるの?」
その質問を流して続けるリエール。
「じゃあ、昨日、夕方から嵐が来たでしょ?その時はどこに?」
「え?昨日?」
眉間にしわを寄せるミュア。
「トーテスで嵐が来たのは…、
えっと、三日前?の夕方から…かな?だったよ?」
「あれ?変だな、うちらトーテス寄りに住んでるけど、
そこが食い違うなんて…」
「(第一、ここ最近ずっと晴れてたような…)」
かなり引っ掛かる疑問だが、
現時点では考えても答えは出ないと思い、
リエールはとりあえず他の可能性から確認する。
「双子じゃないよね?」
「うん、兄はいるけど双子じゃないよ」
「じゃあ、単に別人かな」
「それにしても似てるなあ、髪の長さも一緒くらいだし、
トーテスからという繋がりもあるし」
「まあ、逆に言えばそれしか繋がりないけどさ」
「…」
ミュアは最初、リエールが誤解しているだけかと思ったが、
妙に共通点があるその別人の話は気味が悪く、
それを機に、急激な環境変化によるストレスも深層から込み上げ、
脱力感を覚え始めた。
だが、ミュアのそんな精神状態に気付かないフィリップが、
重ねて彼女に確認を取る。
「ミュア、物置にあった箱には覚えがないんだよね?」
「うん…、今まであんな箱は見た事もなかったのに、
何故か物置の隅にあったの」
若干声を震わせながら続けるミュア。
「先週入った時は絶対になかったよ、ずっと鍵もかけてたし…」
「鍵は玄関前のマットの下だから簡単に見つかっちゃうかもだけど…、
何か盗られた気配はなかったし、窓は荷物で塞がってるし…」
「そいつは奇妙だ…」
会話が途切れ、三人とも自分以外の二人を何度も見渡す。
「仮に誰かが入って箱を置いたとして、それは何のためだろう…」
「ミュアの話を聞いてる限りでは、
[箱を置くために侵入した]としか考えられないし…」
「このタイミングで置かれているのも変だよな」と、リエール。
「ああ…、しかも、おれ達には一致する情報も多いのに、
話が微妙に噛み合わない…」
「[何か]がズレてる…」
「一体何が起きてるんだろう…」
ミュアはフィリップのその言葉で脱力感に拍車が掛かり、
それがきっかけで意識の奥にあった混乱に注意を傾けてしまった。
「えっと…、あの…」
「ごめんなさい…」
脅えた相好で震え始めるミュア。
「どうしたの?大丈夫?」
リエールのその気遣いが、
ミュアにとっては[心配されている自分]への焦りや、
惨めさを駆り立てる素材となり、より不安感が高まる。
ミュアは俯くと、震えた声で、
「ヤダ…、どうしよ…」と、両手で口を押さえて小刻みに肩を揺らす。
「ヒッ…、ヒック…、怖い…」
元から顔が全面的に濡れているため、
涙の目立たない彼女の泣き顔を観て、
リエールとフィリップは互いの困った表情を見合わせるが、
ミュアの露出した綺麗な肌と、
それに調和した女性的で可愛らしいその仕種から、
彼女を異性として意識し始め、不謹慎にも一瞬表情が緩む。
しかし逆にその意識のせいで、
彼女を励まそうにも若干の緊張が伴った。
だが、この状況を打開しない事には始まらないので、
縮こまって泣いているミュアの方へパッと振り向いたリエールは、
彼女の持つ[自分だけ違う]という孤立感だけでも取り払おうとする。
「あ…あのさ…、不安になる気持ちは分かるけど…」
「時期がズレてても、君も俺達も[ミラディア]から来たのは確かだし」
「君は一人じゃないよ」
フィリップも慰めに加わる。
「そうだ、仲間だよ」
「ひょっとしたら、また何人かボコボコ出てくるかも」
リエールは相棒の介入に後押しされ、少しノリを軽くして続けた。
「ま、知らない場所に来た時って、土地勘ないからな」
「それで余計不安になっちまうもんさ」
鼻で笑うフィリップ。
「知った風な口利きやがって」
「でも、確かにこの男は[迷子慣れ]してるから、言葉に重みがあるよ」
「説得力あるだろ?」と、誇らしげにリエール。
ミュアは初対面の二人の心柄が少し理解できて若干安心したが、
完全には不安を拭い切れてないだけに、
泣くのを抑えるだけで精一杯だった。
「大丈夫、大丈夫だから」
リエールはやさしくミュアの肩を摩る。
「うん…」と、うなずくも、横隔膜の痙攣を止めきれないミュアだったが、
二人のお陰で大分落ち着きつつあった。
そして、泣いていても仕方がないと自分に言い聞かせ、
何とか二人のテンションに合わせようと努力するが、
一度ネガティブに傾いた気分を修正する程の勢いが掴めずにいた。
それを感じたリエールが、決め手となるきっかけを作ろうと試みる。
「心配ないって!ここがどこだろうが、
同じ世界である限りはきっと帰れるから」
「せっかくだ、この抜き打ち旅行を楽しもうぜ!」
ミュアはそれを聞いてうなずくと、涙を拭いながら大きく息を付く。
「ごめんね…、ありがと」
不安はまだ捨て切れずにいたが、俯いたまま頑張って表情を整え、
少し間を開けてから恥ずかしそうに泣いた後の顔を公開すると、
「ふふ…、泣いちゃった…」と、鼻を啜りながら目を擦るミュア。
続いて唇をくわえる様に内側に折り畳みながら胸を張って右手を差し出し、
「仲良くしてね」と、精一杯の笑顔を見せる。
それを見たリエールもニッコリと笑みを返し、それを両手で強く握る。
「よろしく!ミュア!」
ミュアもそれに応じてもう片方の手を添える。
「よろしく!リエール!」
リエールはわざとらしい素振りで、
ミュアの手をそのまましばらく握り続けていたが、
やがて見兼ねたフィリップがリエールの腕を強く掴み、
「ええい、いい加減に放しやがれ!」と、引き離す。
これにはミュアも自然に笑った。
リエールがそれを観て、フィリップの耳元に顔を近付けて囁く。
「ときめいちまったぜ」
フィリップが釣られて、あえてミュアにも聞こえるトーンで言う。
「俺もだ」
ミュアとフィリップは、普通に片手で握手を交わした。
「よろしく、ミュア」
「よろしく、フィリップ」
定番の様な儀礼だが、
爽やかなスマイルを見せたフィリップに好印象を持つミュア。
話に区切りが付き、事を次の展開に運ぼうとするリエール。
「さあ、第二チェックポイントを決めて進もうか」
とは言ったものの、それに当て嵌めるべき場所は判然としていた。
「となると、あそこしかないだろう」
即答したフィリップは、現在位置から100メートル程先に位置する、
ドーム状の屋根が特徴として際立だった[六角柱の建物]を指し示す。
その建物は屋根の半分の高さまで表面が黒ずんでおり、
以前はそこまで水に浸かっていた事を物語っていた。
二階部分に大人が入れる程のサイズの窓穴があったが、
水面から1メートル程上だった。
「どうやって入るの?」
ミュアの素朴な疑問に、リエールが軽々しく答える。
「一旦潜って、ドアか窓のはまってた穴かから入る…とか」
それを聞いたミュアが、両手を胸の前に当てつつ焦った口調で言う。
「え!?でも、私…」
ミュアの次の言葉を予測したフィリップが声を挟む。
「泳ぎが苦手かい?」
今度は右手を口許に当てて俯き加減で、
「うん…」と、はにかんだ様にうなずく。
その仕種は実に自然でさりげなく、可愛かった。
フィリップがリエールと視線を合わせながらニヤつき顔で言う。
「その点も共通してるな」
「えっ?」
ミュアは目を見開いて顔を上げる。
「自慢じゃないけどな…」と、数回うなずくリエール。
「まあ、無理してあの建物に入らなくてもいいけどな…」
リエールのその呟きで会話が途切れ、少し間が空く。
見兼ねたフィリップが行動を促そうと、
「とにかく、進まなきゃどうにもならないよ、
はい!進んで進んで!」と、
道を塞いている二人を押す様な動作を取る。
とりあえず、今足場にしている塀の[果て]まで歩き出す三人。
しばし無言の時が続き、その静寂は男女間に互いを意識させる。
だが、趣味も知らない程に浅い間柄は会話の起点を作りにくく、
どことなく気不味い雰囲気が漂う。
長引く程に払拭が難しくなるそれは、
今後のためを思えば早々に解消するが得策と考えたミュアは、
先頭を歩きながらその手段を思案していた。
だが、そのために[塀の果て]が迫っていた事に彼女は気が付かず、
「あっ…」と、小さく声を出しながら水面に落ちた。
リエールは普段なら笑う所だが、自分も何気なく歩いていたため、
仮に先頭だった時の事を思うと笑えなかった。
しかし、その[もし先頭だったら…]という考えから、
彼女が恥じらいを感じているだろうと気付き、
自分もわざと落ちてフォローする。
フィリップはリエールのその意図に気付き、腕を組みながらうなずく。
「あ~…なるほど…」
「ナイスな心遣いだ…」
関心はしたが、同時に[競争心]に火が付き、
自分も何かしらアピールしたくてウズウズするフィリップ。
やがて時間差で浮かんで来た二人は、お互いの顔を見合わせる。
「ふふ…、潜っちゃった」
ミュアはリエールのフォローのお陰で、あまり恥じらっていない様だった。
リエールは更に追い討ちをかけて、
「俺も潜っちゃった」と、ミュアの誤魔化しをさり気なく援護する。
この辺りも巧い。
一方のフィリップは、それが悔しくて焦り、
[(華麗に飛び込んでアピールしよう)]という、
単純かつ勢い任せな発想から、
少しオーバーに飛び込みのモーションに入る。
が、次の瞬間ピタリと止まる。
と言うのも、飛び込んだ後を考慮すると、
好ましくない結果に繋がると気付いたのだ。
[飛び込む→水しぶきが上がる→ミュアにそれがかかる→印象悪化]。
「どうかしたか?」
固まったフィリップを不思議に思ったリエールがそう問い掛ける。
フィリップは力を抜きながら、
「衝動的にはなるべきじゃないな」と、呟き、
まるで湯船に浸かるかの如く、つま先からゆっくり水に入る。
リエールはその動作を見てフィリップの意図を読み、
「なるほどな」と、うなずく。
「?」
今一つ理解に苦しむミュアを観たリエールは、
「つまり、ここでカッコ付けて飛び込んだりしたら…」と、
水面を手の平で強く叩く。
飛び散った水から、しかめた顔を反らすミュア。
「こうなるだろ?」
考えを把握したミュアが、フィリップに目を向けて言った。
「私達を気遣ってくれたのね」
フィリップは二人の間に割って入る様な軌道で先陣を切りつつ、
「厳密には[君を]だけどね」と、背中側へとメッセージを残す。
ミュアは目の前を横切るフィリップを開口したまま見送ると、
リエールの方を向いてゆっくりとした瞬きを一つする。
それを観たリエールは顎でフィリップを指し、
「単に、無難な線を選んだだけのクセにね」と、微笑むと、
いつものクロールもどきのスタイルは捨て、
今度は平泳ぎでその後に付く。
困惑気味のミュアも、
多少浮き沈みしながら同じく平泳ぎでなんとか付いてきた。
リエールはそんな彼女に劣等感を与えまいと、
度々振り返りながらそのペースに合わせた。
さっきまで歩いていた塀の果ての段階で、
六角柱の建物までの距離は25メートル程度だったので、
先頭のフィリップは既に六角柱の建物にタッチしていた。
そしてそのまま手を当てながら壁伝いに入口を探すが、
半周くらい進んだ地点で[予想外の光景]と遭遇したフィリップは、
振り返って叫ぶ。
「ミュア~、安心していいぞ~」
「ん~?なに~?」
ミュアは丁度建物に到達した所だったため、
そこからはフリップの姿が確認できず、上に向かって返事を飛ばす。
「ちょっとこっち来てみ」
「ど~したの~?」
フィリップはその返事からミュアの位置を推測し、
彼女にとってベストと思われる進行ルートを提案する。
「右から来た方が早いぞ」
そう進言されたミュアのすぐ前にいたリエールが、
盗み聞きした情報を参考に軌道を反転させた矢先、
ミュアと正面から鉢会った。
「あれ?」「あら?」
彼女は左への進路を取った後にフィリップの意見を聞いたため、
新着情報よりも惰性に習って進んだ様だ。
リエールは軽くニヤつきながら身を翻し、
フィリップがいると思わしき場所を目指して再出発する。
だが、いざ辿り着いたその地点に、彼の姿は無かった。
しかし、それを見たリエールが戸惑う事も無かった。
フィリップの居場所を推測できる有力な要素があったからだ。
というのも、そこは外壁が一階から二階にかけて大きく抉れていて、
その崩れた穴の頂上部が、
水面から60センチ程上までアーチ状に突き出ていたのだ。
中を覗いてすぐ、水から上がるには丁度良い高さに二階の床があり、
水面と床の間の5センチ程の隙間の下は不気味にうす暗く、
床の上も大して明るくはなかった。
20センチ程の厚みがある石の床に手を掛けたリエールは、
浮力を利用してよじ登ろうとした矢先、
床の上に立つ人物の脚部が見えた。
リエールが顔を上げると、フィリップが見下ろしていた。
「どうしてお前が先にくるの?」
それには答えずに床へとよじ登り、
振り返って後続のミュアに手を差し伸べるリエール。
「ありがと」
ミュアがその手を掴むと、リエールは力を込めて引き上げる。
重量感なくすんなりと床に乗せられたミュアは、
徐に床に座り込んで履き心地の悪化したスニーカーを脱ぎ、
ひっくり返して中の水を捨てる。
それを眺めながら、フィリップが悔しさを込めてリエールに言う。
「狙ってたのに…」
「残念でした」
そう答えながら部屋を見渡すリエールに釣られ、
フィリップも同様の仕草で周囲の情報収集に掛かる。
仕切りのない間取りのその空間は、思ったより所々が荒れていて、
床は無数の小さな穴が目立ち、
壁は元々白かった頃の名残りがあちこちに見受けられるが、
今は表面に塗られたセメントが水によって剥がれ落ち、
石積みの肌が露呈していた。
ドーム状の天井は中央のみが平坦で、
錆び付いたシャンデリアが中心から垂れ下がっており、
壁際には脚が三本しかないテーブルや、
引き出しが全て抜け落ちているアンティークなチェスト、
蝋燭の無い燭台、
色落ちしてる絵画等が激しく散乱し、
その箇所から右手側には水中へと伸びる下り階段があった。
そんな景趣に目線を泳がせていたフィリップは、
やがて意図せず視界に入ったミュアに焦点を固定し、
彼女が座った姿勢であれこれ動いている様をしばし眺めた後、
ふと何かを思い出したかの様に、
素早くリエールの方を向いて発声する。
「なあ、気が付いたか?」
「え?」
リエールはフィリップに向かって小さく顔を突き出す。
「俺達は朝早く家を出たのに、もう陽が傾いてきてる」
それを聞いたリエールは、近くの[窓穴]から空の様子を確認する。
「ほんとだ…」
そう呟き、少し考え込むリエール。
「時差があるくらい遠くに来ちまった…、ってことか?」
「だろうな」
足を崩して座ってるミュアに、フィリップが問い掛ける。
「ミュア、何時頃こっちに来た?」
「ん~?え~と、お昼前…かな?」
「そう言えば、お昼ご飯食べてこなかったなぁ」
多少余裕の出てきたミュア。
リエールもフィリップを見て、
「俺等も朝飯食ってないな」と、暖気発言。
フィリップは緊張感のない会話に呆れ、
現在抱えてる問題について言及する。
「おい、考えてもみろよ」
「こんな水に囲まれたところで夜になったら缶詰状態だぞ」
「何とか明るい内に人を探さないと…」
「最悪でも、暗くなる前にどうにかここを離れないと…」
リエールが暗くなった状況をイメージしながら、
そうなった場合の対策を考えている内、
先程まで所持していた筈の[小道具]を思い出した。
「ランプはどうした?」
フィリップは自分だけが前提にしていた因果を報じる。
「一応持ってきたけど、夢中で水ん中に離しちまったよ」
「仮にまだ持っていても、もう使い物にならないだろう」
「マッチも水に浸かってしまったし」
散らかったガラクタの方に真剣な表情を向けながら、
「そうか…」と、呟くリエール。
ミュアも彼の動きに釣られて無意識にガラクタ群へと視線を移すが、
そこにあった[大きめのアンティークチェスト]を見た際、
ふと頭を過ぎった[アイデア]を、そのまま発声に直結させる。
「あのチェストを浮かべて、上に乗って行こうよ」
それを聞いたフィリップは、反射的に彼女の目が示す先を見遣る。
そして横にいるリエールと一緒に数秒間考えた後、
『なるほど』と言わんばかりの表情を見合わせる。
ミュアは機敏に立ち上がって、
濡れた靴下をピチャピチャさせながらガラクタ群の傍らへ移動すると、
斜めになっている上向きのチェストを掴んで引き起こし、
そのまま床にゆっくり倒す。
そして、ドンッ!っとうつ伏せになったチェストを指差しながら、
「この、状態なら浮くかも」と、得意気に言い放った彼女を見て、
フィリップは大きくうなずいた。
「うん!そりゃいい!」
それで移動するのは面白そうと感じたリエールも、
露骨にわくわく感を出しながらミュアの側に寄り、
「ナイス!」と、広げた手を差し出す。
ニコッと可愛く笑いながら、それにタッチするミュア。
フィリップも『遅れを取るものか』と、
ミュアに接近して同じ事を試みるが、
まるでそれを『させるものか』と邪魔するかの様なタイミングで、
「よし、こいつを外に運ぼう」とリエールが場を仕切り出し、
チェストの側面側に立つ。
ミュアもそれに反応し、彼の向かいに着く。
それを見たリエールは、まずチェストの角を掴んで少し浮かせ、
出来た隙間につま先を挟んで拡張した後、
ミュアが対辺の縁を掴んだ事を確認してから、
自分も縁を掴んで合図をする。
「せーの!」
「よっ!」
引き出しと脚部がないチェストは、二人の想像より軽く持ち上がった。
乗り遅れたフィリップは横で棒立ちしていたが、
女子が力仕事染みた作業をしてるのに、
男である自分が貢献していない所に惨めさを覚え、
「代わろうか?」と、ミュアに迫るが、
「ううん、いいよ、軽いから」と、あっさり返され、余計[惨め感]が増す。
そこで彼は、オール代わりになる道具はないか、
ガラクタの山を調べる事にした。
覆い被さっている三脚のテーブルを手前に倒して裏側を探るが、
カビだらけのテーブル掛けが落ちている他は特に目立ったものは無く、
それをどうしても今使うとする場合、
燭台と組み合わせて[水かき]を作れないかとも考えたが、
そのカビの分布具合が洒落になっていなかったため、断念する。
以降も色々と見渡すが、案外あっさりと全調査候補が消化され、
無収穫にガッカリしながら振り返ると、
タンス運搬組は入口付近に到達していた。
それを見たフィリップは、せめて水面に下ろす作業だけでも手伝おうと、
走って崩れた穴に向かい、
その勢いのままスライディングに近い要領で水に飛び込む。
そして急いで浮かび上がって前髪を掻き上げ、手をパン!と鳴らし、
「はい、ゆっくりね」と、チェスト受け取り態勢を整える。
リエールは床の穴のへりに腰掛けると、
フィリップにチェストの一方を預け、自分も水中に降りた。
フィリップは片手でタンスの縁を掴んだままその下に潜り込み、
中央辺りを持ち上げる。
「ミュア、もう離していいぞ」
その言葉で、チェストはフィリップ一人に委ねられた。
しかし、出口となる壁の穴は、水面下こそ豪快に崩れているものの、
水面より上に空いた分の面積はそれ程広くはなく、
とてもチェストが潜れる幅ではないと判断したミュアが、
「どうやって出すの?」と、発案者らしからぬ質問をぶつける。
重量で少し沈み気味のフィリップは、
既に考えていた計略を、チェストを被ったまま口に出す。
「一旦縦にして沈める」
幸い、床の崩壊部はチェストの横幅以上あったため、
その籠った言葉の後、チェストが垂直に傾き出す。
そして、三分の二程沈めた時点で、
チェストの向きを穴から出しやすい角度に変えたフィリップは、
「そっち持ってくれ」と、同じく水中にいるリエールに依頼したが、
[浮力]で軽くなったチェストを運ぶのに手助けは要らない事を把握し、
「あ、やっぱいい」と、単独で動く。
ミュアは靴を履き、水に入った勢いで沈まないために、
床の穴のへりに手を掛けたまま水に入った。
外に出たフィリップは、道を挟んだ向かい側の水面下に、
足場にできそうな崩れ具合の壁を見つけたので、
そこに足を着けて立つ。
フィリップは胸より上を水面から呈出した状態で、
浮きの悪いチェストを水平にしてから少し身を屈め、
片手をチェストの下に潜り込ませて突き上げる事で空気を含ませる。
すぐ後ろに付いてきたリエールが、その様子を観て言った。
「バランス悪いかも知れないな」
ミュアは立ち泳ぎ中のリエールを通り越し、
フィリップが足場にしている壁で落ち着く。
すぐ隣にいるミュアを意識しながら、
「定員は二人までっぽいな」と、目算で予想するフィリップ。
それを聞いたリエールが、フィリップの横を通過して、
隣の水面ギリギリまで高さのある屋根に登って立ち上がり、
上体を傾けて目の前の水面を指しながら言う。
「フィリップ、それここに持ってきて」
「ちょっと乗ってみるから」
フィリップはもう少しミュアの側を満喫したかったが、
ゆっくりとチェストを引っ張ってそちらに向かう。
のんびりしたフィリップに対してリエールは、
「(はやく、はやく)」とジェスチャーでせかす。
ポジションを変えずに黙ってその様子見詰めるミュア。
タンスが目の前に到着すると、
リエールは少しためらってからそれに一歩踏み込む。
「しっかり押さえててくれよ」
そう念を押した後、
屋根に残しているもう片方の足も、グラグラしたチェストの上に運ぶ。
しかし、乗った途端に重みで浮きが悪くなる。
更に、フィリップが支えてなければバランスを取る事さえ難しかった。
それでもチェストの実用性(本来の用途とは違うが)を信じたいリエールは、
「ちょっと手を離してみろ」と、実験を試みる。
だが、フィリップのサポートが解除されて間もなく後方が水に潜り出し、
浮き上がった前方から浮力となっている空気がボコッと抜けた。
「うわ!」
当然、代わりに水が入ってくるのが摂理な訳で、結果あえなく沈没した。
ミュアはそんなリエールの慌てぶりに笑みを零す。
フィリップは沈んで行くチェストを水面より上で掴み、
浮かび上がってきたリエールに、
先程取れたデータを基にして立てた理論を突き付ける。
「三人乗ったら流石に沈むな」
ガッカリ感を振り払ってそれを素直に受け止めたリエールが、
実用の第二候補として取っておいた策謀を発表する。
「比較的軽いミュアだけ乗せて、
俺等は推進担当になるってのはいかがでしょう?」
フィリップが微笑んでるミュアを見ながら、
「だな」と、うなずく。
ミュアは何事かと思い、
「ん~?」と、笑顔で二人に近付く。
フィリップはチェストを持ち上げて、
再度屋根に登ったリエールに一辺を預ける。
そしてお互いに持つ高さを合わせて水平にし、
浮力となる空気を逃がさないよう気を付けながら、
ゆっくりと水面に浮かべた。
その脇で屋根に這い上がるミュアと、
入れ違いに屋根を掴みながら水に入るリエール。
フィリップはチェストをミュアに対して横になる角度に回転させ、
「ミュア、俺達が支えてるから乗ってみて」と、指示を出す。
リエールはフィリップの支える側に回り込み、彼の横に着くと、
チェストの向かい側を指しながら言う。
「前の方にお乗り下さい、こっちでバランスとります故」
ミュアは重心を屋根に残したままタンスを恐る恐る踏み付け、
安定性を確かめた後、体重を素早くチェストに移した。
沈みは流石に浅かったが、言われた通り前方に乗ったため、
水中の二人が支える側がその作用で若干持ち上がった。
しかし、すぐに男二人で押え付けたのでバランスを保てた。
「二人はどうするの?」
計画を知らないミュアが不思議そうに問い掛ける。
「バタ足係」と、あっさり答えるリエール。
「え~?それじゃ三人でバタ足した方が早いじゃない」
「タンスを横にしてさぁ」
リエールが少し考えて答えた。
「でもそれじゃ…」
「…」
「そうだよな…」
リエールは、フィリップの肩を勢い良く叩く。
「そうだろ馬鹿野郎!」
「おまえが言い出したんだろ!」
フィリップがリエールを押してツッコむ。
ミュアは微笑みながら水中に降りると、
チェストに横側から上体のみを凭れ掛け、
「ほら、こうやってみんなでバシャバシャって」と、見本付きで説明する。
それを観たリエールが、
「じゃあ、ミュアが真ん中ね」と、ベストなフォーメーションを提案。
三人は並んでチェストに凭れ掛かり、
静かな夕暮れに染まる水面の上を騒がしく進み出した。