16:美しき光弦
キャラクター紹介
《レッシュ・ウィニア》 23歳 女
超絶的な美女幻導士。
エルニーと同じノースクトル出身。
彼の妹、リューシュと名前が似ているのは、
日本人女子の名前に〇〇子、〇〇美、と付ける様に、
ノースクトルの風習で名前の尾にシュを付ける事が多いため。
[ヴィタリバーウォール]という、
川を囲む様に栄える街の支部に勤務する。
近くの乾燥した岩山に建つ遺跡[カルターン]を調査していると…。
港でミュア達を見送ったファードが自分の住むアパートメントに戻ると、
部屋は普段と異なる香りで歓迎してくれた。
住人は玄関で軽く一息吐くと、一旦ベッドに腰掛け、
しばらく窓の辺りを眺めていたが、
充満するシチューの匂いによって不十分な満腹度に意識が向いたため、
立ち上がってキッチンに向かう。
そして鍋に残っている冷めたシチュ-を皿に盛りつけた彼は、
それをテーブルへ運んでゆっくりと食事を再開する。
港とは裏腹に物静かで手狭な空間の中、食器同士のぶつかる音が細やかに響く。
ファードは喉の滑りを良くする為、テーブル上のティーポットを手に取るが、
想定外の軽さから中身の行方を思い出し、直ぐにそれを下ろす。
その際、先程妹が起こした小さなアクシデントのイメージと共に、
彼女の発した言葉がふと頭をよぎった。
「(床はあんまり濡れてないね)」
記憶の声に反応した彼は、何気なく紅茶の零れた辺りを見下ろすが、
絨毯に残る染みの広がり方から考えて、
確かに床までは殆ど到達していない様だった。
しかし、そんな確認をした事で、ふと二次的な懸念が浮かぶ。
「(まさか、裏側にまで染みてないよな…)」
もし絨毯の裏側にまで紅茶が滲み出ていたら、
早めに拭かないと床までベタベタになると考えたファードは、
持ち前の几帳面さに背を押され、
一旦食事を中断してテーブルと椅子を絨毯の外に運ぶ。
そして足で絨毯を捲り上げ、その裏側と露呈した床を目視する。
絨毯の裏は薄汚れていて、
紅茶をこぼした部分の反対箇所もしっかり染みになっていたが、
意に反し、ファードの注意が引き付けられたのはそこではなかった。
繊維で濾した紅茶が床を浸している部分に、
赤紫色をした[文字]の様な物が浮かび上がっていたのだ。
一文字ははっきりと確認できるが、隣の文字は一部しか姿を表しておらず、
どちらもファードの知識にはない文字だったが、
なんとなく、ラフに書かれている印象があった。
不思議に思ったファードは、
とりあえず絨毯を足で折り曲げ、床を大きく晒す。
次に、流し台の下の雑巾とバケツを引き摺り出した後、
キッチンの隅に置かれた大きなミルク缶を持ち上げ、
中の貯水を勢い良くバケツに注ぐ。
そして雑巾に水を含ませて強く絞り、
少しベタ付き始めている床の紅茶を払拭に掛かる。
水気が足りないせいか、軽く擦っただけでは汚れが余計に伸びたので、
再び雑巾をバケツに入れ、今度は弱く絞って含有水分を多目に残す。
だが、その状態の雑巾で床を擦った矢先、奇妙な現象が起きた。
先程まで半分しか確認できなかった文字が、完全に浮かび上がったのだ。
それどころか、雑巾が触れた範囲に幾つかの文字が次々と現れ、
見た限りそれは文章ではなく、数文字程度で構成された単語の数々で、
思ったより広い範囲に表記されている様だった。
ファードは立ち上がり、
隠顕性質の塗料で書かれたそれらの文字を、険しい顔で見下ろす。
そのまま数秒間考えた後、
絨毯の端を両手で掴んで部屋の隅までズリズリと引き寄せ、
露になった[濃色部分]の真上に雑巾を突き出すと、
それを強く絞って多量の水を撒き散らした。
すると、みるみる内に不可解な文字群が出現する。
それは規則正しい並びとは言えず、
縦横斜めといった具合でいい加減に配置されており、
加えて、第一印象の通り、あまり上手とは思えない筆跡だった。
だがファードには、その時点で文字以上に気掛かりな要素があった。
撒き散らした水の一部が、
床に敷き詰められたパネルの伏目に流れ込んでいるのだ。
住人はしばらくその様子を眺めていたが、
やがて何気なく流入箇所をつま先でノックしてみる。
ドン…ドン…。
吸収の軽いその反響と過剰に揺れる床板から、
その下に小さい空間があると推測できた。
石畳の街角に建つアパートメントの床に対して、
パネルの下は当然固い地面だと思い込んでいたファードは、
[下が空洞になっている]という事実の食い違いに戸惑いながらも、
やはりその下の状況には強い興味を持つ。
ファードは問題の隙間に靴の側面の角を引っ掛けて、
[蓋]と思しきパネルの内側に向かって力を加えてみた。
パカッ…。
あっさりと外れるパネル。
空洞に差し込む微弱な陽光が、その下にある[何か]の一部を照らし出す。
一枚外した状況から、他のパネルも外せる事を悟ったファードは、
その[角張った何か]を探るため、
先程と同様に足で近隣のパネルを捲って行く。
パネル一枚外す毎に[謎の物体]の姿が明瞭化して行く中、
垣間見える直方体について住人が抱いた印象は、
「(箱?)」であった。
しかし、計九枚を剥がし終えても尚、
物体の全容までは露呈しなかった。
というのも、パネルの[梁]として張られた[長方形の板]が三枚、
格子状に残っていたのだ。
だが、その板も作業過程でグラグラと揺れていたため、
簡単に取り外し可能と推測できた。
案の定、固定されていないそれらを造作無く撤去し、
ほぼ確信まで行っていた過程の裏付けを取るファード。
勿体ぶって姿を見せた直方体は、やはり[箱]と識別され、
一見しただけでは材質こそ分からなかったが、
青く艶やかな表面からは、
[床下]という場所に不似合な高級感が醸し出されていた。
にも拘わらず、デザインは非常にシンプルで、
装飾らしい装飾は殆ど施されておらず、
目立つ点と言えば、蓋と本体を繋げる蝶番部分と、
上面に見られる、[太陽]を模した小さなレリーフのみだった。
状況的に、前の住人が隠した財産ではないかと見ている現在の住人は、
特に警戒する素振りもなく、
幅の狭い穴を開脚して跨ぎ、前屈姿勢で箱の側面を両手で掴むと、
それを一気に力強く持ち上げる。
予想以上の[軽量]に勢い余って、バランスと期待を崩したファードだったが、
無表情のまま体勢を整え、雑に箱を床へと下ろす。
そして、そんな[箱]の仕組みや目的など知る由もない彼は、
一切の躊躇無く蓋を開けた。
空間に青い閃光が広がった直後、誰もいない部屋には奇妙な霧が漂っていた。
それは澄んだ水だったが、黒く見えた。
回視により、右手側数メートル先の上方から光が差し込んでいる事が分かり、
唐突かつ強制的に呼吸を止められたファードは、急いでそこに向かう。
そんな彼が水面から顔を出すと、周囲にいた鳥達が驚いて一斉に飛び立った。
「ゴホッ!ゴホッ!」
水辺に上体を凭れ掛け、体内に激しく酸素を取り込むファード。
そして、呼吸が落ち着いた頃、ゆっくりと顔を上げて周りを確認する。
するとそこは、乾いた黄土色の石壁に囲まれた窮屈な空間で、
砂の積もった狭い石階段が左手側の上方へと伸びており、
その先に目線を向けた際、視界上部に太陽が見えた。
濡れた服に砂を付着させながら、
階段下の平らな足場に這い上がったファードは、
食事の後の水泳により若干の吐き気を催しながら、
ゆっくりと立ち上がって髪を掻き上げ、混乱しつつ辺りを探り始める。
改めて良く見回すと、その人工的な地形から判断するに、
ここはこの土地に暮らす人々(?)が使う[水汲み場]の様だったが、
風化した石壁や、手入れのされていない階段から考えて、
現在人が住んでいる気配は無く、
その階段もファードの身長以上の高さまで伸びていたので、
今の位置からでは周辺がどうなってるのか分からなかった。
晴れ渡った空から注ぐ強い日差しを控え目に照り返している水面を見下ろすと、
その透明度の高い水の中も石壁の部屋の様になっていて、
目測で3メートル程の深さがあった。
ファードは周囲を簡単に把握すると、今度は事態の分析に取り掛かる。
[何故、俺はこんな所にいるんだ…?]、
[あの箱を開けた後、何が起こったんだ…?]、
[そもそも、あの箱は一体…]、
しばらくあれこれ考えていたが、やがて緩徐な動作で階段を登り始めるファード。
だが、階段を登り切った先に広がっていた光景が、更なる混乱を駆り立てた。
そこは[遺跡]だったのだ。
古い文明の面影を持った石造りの建造物が、
乾いた砂と石の大地に幾つも点在し、
右手側には風に削られた黄土色の岩山が聳えていたが、
その面積にも拘わらず草木一つ見当らなかった。
それに対し、左手側に広がる低地には、
鮮やかなシーグリーンの草原が局所的に茂り、
それらの成長源となる幅の広い鉄紺色の川が、
山の方からゆったりと流れていた。
近場にピントを戻した彼が、より詳細に視覚検分してみると、
建造物は殆どが部分的に崩れている程度で、
表面の風化を除けばなかなか状態が良い物が多く、
建築密度は薄かったが、二つの建物がピッタリくっ付いている場所もあった。
路地の敷石は殆どが砂に埋まっていたが、
沢山の石柱が路地を縁取る様に規則正しく並んでおり、
その都市としての構成から見て、かなり大昔の遺跡であると予想できた。
しかし、最近人の出入りがあった事も同時に分かった。
当今にそこで戦争でも起きたかの様に、
血糊の付着した剣や槍や矢等の壊れた武器が散乱していて、
壁や地面には乾いた血痕が無数にあり、
その遺跡の間を吹き抜ける熱風は、妙な腐敗臭を運んで来ていたのだ。
そんな小気味の悪い土地に訳も分からず放り込まれた青年が、
水を滴らせながら当てもなく歩き始めた矢先、
彼の右手側で、かなりの重量感を伴う[動作気配]がした。
不意に足を止めるファード。
そこからは壁に遮られて確認できないが、
右に伸びる石畳の道に[何か]がいる様だ。
ファードは警戒しながら、気配を消してゆっくり進む。
やがてその[何か]の一部を目視できる位置まで歩を進め、
モゾモゾと動く巨大な[それ]を凝視するも、識別には至らず、
更に詳しく調べようと半歩程進んだ次の瞬間、
[それ]の[胴体]らしき部分にあった一本の筋が、
バッ!っと勢い良く上下に開いた。
反射的にファードは固まった。
それは[目]だったのだ。
直径3メートル以上もあるその充血した巨大な目はしっかりとファードを捉え、
瞬刻の後、[巨大な何か]はサイズに似合わぬ機敏さで激しく体勢を変えた。
固い質感の表皮に覆われた胴体は高さ4メートルはあり、
長さも太さも不揃いな六本の脚は、それぞれの関節数もバラバラで、
アンバランスに傾きながら立ち上がった姿は、
約6メートル以上の体高を持つ[蜘蛛]を彷彿とさせる印象であったが、
その怪物には頭が無かった。
脚は全て胴体から生えているにも拘わらず、
その胴体の80%を占有する[一つの目]、
そして、そんな異質極まりない特徴に加えて、
胴体の後方に垂れ下がる腹部には、
太く鋭い二本の牙と、体に対して縦に裂けた様な涎まみれの口が見えた。
流石に危機感を覚えたファードは、数歩後退りした後、
その[一つ目蜘蛛]の向いている方向に、全力で走り出す。
ズシズシと周囲を振動させながら、それを追う[一つ目蜘蛛]。
だが、逃避者は服や靴の中が水浸しな事もあって、
怪物に速度で引けを取っており、
そのまま走っても追い付かれるのは時間の問題だった。
だが、怪物の挙動を目算した結果、
猪突猛進型の習性である事が推測できたため、
それらを[撒き]に利用できないか、知恵を駆使する事にしたファード。
まず、先程から数多く目に付く[石柱]の合間を、
緩やかなジグザグに進んでみたが、
怪物は[そんな物]等一切気にせず、
轟音と共に次々とそれらをなぎ倒しつつ追ってきた。
ファードは期待を裏切られた上、その蛇行で余計な距離を進んでしまったため、
ショックを受けている暇さえ無い程に追い付かれ、流石に切羽詰る。
もはや同じ進行方向では逃げ切れないと判断したファードだが、
先の蛇行で得られた情報もあった。
それは、どうやら怪物は後ろの二本足だけが偏って太く力強いために、
前方への推進性は良いが、方向転換が不得手だという事だ。
となれば、もはや第一の発想に従うしかないと、
正面にあった建物を取り囲む塀の前で立ち止まり、
それを背にして怪物の方を振り返るファード。
そこに[一つ目蜘蛛]が迫る。
ズーン!と、重い音が轟き、崩れる石の塀。
だが、激しく舞う砂煙の中から走り去る人影があった。
非常に単純ではあるが、逃避者は[寸での所で脇に避ける]という、
切迫を逆手に取った大胆な策に出たのだ。
しかし、その作戦が大きな成果を上げた訳ではなかった。
巨大蜘蛛は数歩後退し、よろけながら不器用に方向転換すると、
何事も無かったかの様に再び狩猟対象を追い掛け始めたのだ。
それでも、かなりの余裕を得る事に成功したファードは、
建物と建物の間にある[細い路地]に駆け込む。
しばらくして、
彼の読み通り、巨大な物体が強引に路地へと突っ込んだ鳴動が後方から届く。
だが、それくらいで獲物を諦める様な生易しい性格でない事は、
その酸鼻な風貌が物語っているため、
追手の勢いが弱まっている隙に、
振り返る事なく細い路地を全力で走り抜けるファード。
しかし、その読みは嬉しい方向に外れた。
路地を挟む建物の石壁を崩し、
大量の砂煙を巻き上げつつ尚も追跡しようとする巨大蜘蛛の上方から、
瓦解した建物の上層そのものが降り注ぎ、その巨体を押し潰したのだ。
建物の崩壊する激しい騒音を背に受け、ファードは走りながら後方を振り向く。
そして事態を理解し、ペースを徐々に弱め、やがて立ち止まる。
「ふぅ…、まいたか…」
舞い上がった砂塵に体ごと向け、息を乱しながらしばし眺めた後、
身を反転させて歩き出すファード。
「何処なんだ…、ここは…」
そう呟きつつ脇目を振ると、すぐそこの地面にある[下り階段]に気が付いた。
つい先程、似た構造を見たばかりである事から、
それが[水汲み場]への階段である事を推理したファードは、
体中に付着した砂と、ザラザラになった口内や喉を考慮して、
迷わずその階段に足を運ぶ。
大人一人通るのがやっとなくらいに幅の狭い階段を降り、
水辺にしゃがみ込んだ彼は、両手で水を掬い上げ、それを口に含む。
そしてブクブクと口内洗浄した後、口の中の水を背後の壁に吐き、
続けて口に含んだ水で喉をリフレッシュさせる。
二種類のうがいをこなした後、水をガブ飲みするファード。
そして、体中の砂を水で洗い流そうとしたその時、彼は奇妙な点に気が付いた。
日光はかなり急角度で照り付けていた筈なのに、なぜか周囲の明度が低く、
その上、水面に[糸を引いた液体]が滴り落ちていたのだ。
次の瞬間、ファードは水鏡に映る異様な物体に気付き、
ハッと表情を引き締めて見上げる。
そこには驚愕の光景があった。
粘液を帯びながらゆっくりと開閉する大きな穴、
その穴の縁から生えた、二本の尖った太い牙、
ゴオォォ…という低い音とともに吹きつける血生臭い息。
[一つ目の巨大蜘蛛]だ。
ファードがとっさの衝撃的事実に硬直していると、
巨大蜘蛛はキシャアアァァ!と、耳の張り裂ける様な絶叫を上げ、
二本の牙で獲物に襲い掛かる。
だが、ファードは屈んだ体勢でいたために牙は届かず、
それを歯痒く思った巨大蜘蛛は、
細くて長い前足を水汲み場の狭い隙間に侵入させる。
その鋭利な先端が、ファードの上碗を引っ掻き、服の袖を千切る。
伏せてもその蜘蛛の手は届く程の長さであると理解したファードは、
水の中に逃げるしかなく、
躊躇する間もなく暗い水の中に飛び込み、潜って水面を見上げる。
「(しばらく姿を隠せば、奴も諦めるかも知れない)」
ファードはそんな一縷の望みを持っていたが、
巨大蜘蛛は諦めるつもり等毛頭無く、
前足で水面をバシャバシャと激しく攻撃し続ける。
とてもそこから出られそうもない状況下にも拘わらず、
やがては呼吸のために浮上しなければならないというジレンマ。
それに伴う過度のプレッシャーの中、
常人なら心拍数の上昇により酸素が更に不足する物だが、
ファードは意外にも冷静に考えていた。
「(同様の水場が二つあったという事は、
この広さの町なら、更にいくつもの水場があると思っていいだろう)」
「(ということは、この水路は他の水場と連結しているはずだ)」
水中は薄暗かったが、目を凝らして見回すと、
正面に四角い水路があるのが分かった。
高さ、幅共に1.5メートル程の水路は、
成人男性でも余裕で通れると判断したファードは、
急いでその水路へと突入する。
そして真っ暗な水中を数メートル直進した所で、
ふと、右手側から左手側に向かって微かな流れを感じ、
水路に分岐があると気付いた。
他に当てがある筈も無く、とりあえず流れに従って進むファード。
彼は勇ましく表情を引き締めていたが、その実、神経は張り詰めていた。
[蓄えた酸素量で間に合うだろうか…]、
[それ以前に、この方向で良いのだろうか…]、
[出口があり、そこから出られたとしても、
こんな危険地帯から抜け出す事ができるだろうか…]、
[そして、その後何処に向かえばいいのだろうか…]。
暗黒と液体に身を包まれながら、場所も定かでない出口を求める不安感は、
無我夢中になる事でなんとか緩和していたが、
そんな数多くの不安が、後に束になって襲って来る事は既に薄々感じていた。
だが幸いな事に、それは単なる杞憂のままで済んだ。
丁度苦しくなってきたタイミングで、
何の前触れも無く、彼の横目が仄かな明かりを捉えたのだ。
それは日光よりずっと暗く、色も橙だったが、
何にしても出口である見込みは強いため、
ファードは[薄明かり]へと伸びる水路への分岐点で、
壁の角を掴んで強引に方向転換する。
明かりを進行方向正面に捉えると、
やはりそれは上から注ぐ光である事が分かり、
やがてその真下に到着すると、案の定、そこには水面があった。
水路の底に立ち上がり、水面から上半身を晒すファード。
「クハァッ!」
瞼を閉じながら首を細かく振って顔の水気を落とし、前髪を掻き上げた彼は、
腰に手を当てて息を整えながら周囲を見渡す。
そこは天井も高く、広々とした間取りの大部屋であったが、
露骨に不可解な点があった。
朽ち果て具合と散らかった様子から廃墟である事は明白な上に、
人気が全く無い空間にも拘わらず、
壁に設置された燭台が、いくつか使用中だったのだ。
水中から見えた明かりの発光源もその一つで、
ファードが自分の頭上にあるそれを見上げて観察してみると、
火が灯った蝋燭は、まだかなりの長さが残っていた。
ともあれ、とりあえず乾いた床に降り立つファード。
窓一つ無いその部屋は、床も壁も石造りで、
光の届く範囲だけを見ても、
朽ち果てた木製のテーブルや椅子の残骸、薄汚れたテーブル掛けやナフキン、
皿の破片や折れ曲がったカトラリー等が疎ら程度に散乱していて、
侵入口となった水場は、隣に設置された調理台や薪型焜炉から見て、
どうやらキッチンの水源として使われていた様だった。
かように注意深く探ってみても、
先刻体験した様な身の危険を感じさせる存在は特に見当たらなかったため、
ファードは一時的な安堵を覚える。
ただ、窓が無いという事で通気性は相当悪いらしく、
外よりも一層強烈な異臭が立ち込めており、鼻に堪えた。
「(ここは食堂なのか…?)」
「(いや、街の風化具合から見て、
ここは廃墟になってからかなりの年月が経っているはずだ)」
「(それこそ何百年、何千年という単位でな)」
「(そう考えれば、木や布の素材が、
今もこの程度の風化で残っているのは不自然だし、燭台も新し過ぎるな)」
「(これらは後から何者かに持ち込まれた物だろう)」
「(大方、外に落ちていた武器の数々を持ち込んだ連中が、
食堂として使った広間という所か)」
そんな仮説を立てながら、
着ている上着を絞りつつ部屋を散策するファード。
「(蝋燭に火が灯っていると言う事は、やはり誰かいるのだろうか…?)」
そう思った直後、何かが影の中でゴソゴソと動いた。
反射的にそちらを向いたファードは、
先程のトラウマもあり、警戒して身構える。
そして、しばらくその方向を睨んでいたが、
結局、その後は何の動きも無かった。
しかし、そう簡単に安心できない彼は、視線を気配のあった方に固定したまま、
床に落ちていたナフキンと、折れたテーブルの足を拾うと、
最寄りの灯に向かいながら、ナフキンをテーブルの足の先端に巻き付ける。
そして、ナフキンで包まれた部分を蝋燭の火に当て、
光明を宿した[即席松明]を、動きのあった箇所に投げた。
カランカラン…。
静かな建物の中に、テーブルの足が転がる音が響く。
すると、妙なうめき声がいくつも聞こえた後、
はっきりと[黒い人型の何か]が、
部屋の中から廊下へと駆けて行く姿が見えた。
「今のは…?」
ファードはより詳細な調査をすべく、
放った即席松明まで走り寄り、それを拾い上げて廊下を照らす。
だが、幅の広い廊下は彼の想定よりずっと奥まで続いていて、
手元にある燈明では、特に情報は得られなかった。
しかし彼は、また松明を投げようとは思わなかった。
というのも、廊下の途中、
崩れた天井の穴から陽光が差し込む箇所があったのだ。
明暗の差により、現在位置からでは光の向こう側の様子は分からなかったが、
少なくとも、確認できる位置に怪しい姿は無かった。
とりあえず、松明を持ったまま日光の中に移動したファードは、
その場所から数歩先に横たわる物体を見て、若干ドキッとする。
「(人…?)」
だが、人にしては体勢が不自然で、手足が奇妙に折れ曲がっていた。
「([飾り物の鎧]…か…)」
そう結論付けようとした矢先、
その[甲冑]の内側が血に染まっている事に気付く。
「(いや…、本物の鎧だ)」
平伏した騎士用の[甲冑]に歩み寄り、
屈み込んでそれを調べているファードの背後で、
大部屋に点在する蝋燭の火を掻い潜るかの様に、無数の黒い影が蠢く。
静かに素早く動くそれらの気配を感じたファードが振り返った時には、
既に大部屋への道は奇妙な動きをする人型の生き物達によって塞がれていた。
六体のヒューグロウは、体を不自然に捻りつつ奇声を発しながら、
廊下に立つ[繁殖手段]に対し、鋭くも虚ろな眼光を向ける。
立ち上がって彼等に向き直るファード。
しかしその矢先、背中側からも闇に潜む他団体の奇声が聞こえた。
「囲まれたか…」
ファードはそう呟きつつ、
赤錆びた甲冑の腰に付いた鞘から半端に抜け出ている[剣]を引き抜き、
大部屋方面のヒューグロウ達に切っ先を向ける。
直後、彼に飛び掛かるヒューグロウ。
だが、その単純な軌道を読むなど、素人のファードでもそう難しい事ではなく、
彼は剣による横一閃で、怪物の胴体を真っ二つにする。
ヒューグロウの悲鳴が木霊し、どす黒く濃厚な血液が周囲に飛び散る。
だが、後続のヒューグロウは、先発の凄惨な姿を見たにも拘わらず、
全く怯む事なく襲い掛かってきた。
陽の光に照らされた狭小領域の中、
一本調子な怪物達を、俄仕込みの剣術で次々と迎撃するファード。
鋭い爪によって若干傷付きはしたが、なんとか正面の六体を排除した頃には、
体も服も床も壁も血みどろの状態で、かなりの悪臭が立ち込めていた。
横たわる同種をも食料と認識するヒューグロウにとっては、
その強烈な匂いでさえ食欲をそそる因果となるため、
廊下の奥に待機していた数匹も、
嗅覚と視覚から得た情報に釣られてファードへと強襲を掛ける。
そう来るだろうと予測していたファードは素早く振り向き、
先陣と同じ様に冷静な対処による場の鎮圧に掛かる。
やがて第二陣も全て始末し、異形の生物によるほとぼりが冷めた頃、
ファードは、やたらとベタ付く濁った血液で全身を赤黒く染めていた。
彼は顔や髪に付着したそれらを大まかに取り払い、
続いて着用中の服を見下ろすが、
そこで初めてクリーニング不能レベルの汚染状態である事に気づき、
しばし放心した様に立ち尽くす。
しかし、流石にこのままでは心地悪過ぎるので、
先程の水場で少しでも汚れを落とそうと、大部屋へと振り返った。
だが次の瞬間、日光の差し込む天井の穴から、
一体のヒューグロウが出現してファードの背面に降り立ち、
着地の反動と並々ならぬ全身のバネを使い、彼に飛び掛かった。
気配と音に振り返るファードだが、
間合が近過ぎて既に手遅れな状態だと悟ったその時、
彼は瞬く間に二つの奇妙な事象を見る。
廊下の奥で何かが黄金色に発光し、
ヒューグロウの進行が[空中で止まった]のだ。
それは、まるで繋がれた犬が、
鎖の長さの限界まで走って強制停止を受けた様な急転ぶりだったが、
ファードが一瞬の光景から得た印象では、
停止の力が作用したのはヒューグの[腰]辺りで、
勢い余った怪物の手足が前方に伸び、攻撃対象を掠めた。
そして、ドサッという軽めの着地音と、
謎の[金属音]を伴わせながら床に接触するヒューグロウ。
ところが、地に寝そべるヒューグロウの体は、
背中から落ちたにも拘わらず、寝返りを打ったかの様に横寝状態で、
その腰には鋭く光るナイフが突き刺さっていた。
「(ナイフ…?飛んできたのか…?)」
「(おかしい…、明らかに背中側へと引っ張られた感じだったが…)」
「(この角度でナイフを受けて、なぜあんな動きに…?)」
事態の飲み込めないファードは、陽光の届かない闇に向かって剣を構える。
だが、闇から現れたその姿に、ファードの視線は否応無く支配された。
それは、とても美しい女性だったのだ。
身長は165センチ程で美白肌のスマート体型、
艶光りする栗色でサラサラの長髪は、
バングとフェイスラインを残してカーマインのリボンでポニーテールに纏められ、
大きな眼を半開きにしたような二重まぶたに、
キリリと細く、緩やかな角度で釣り上がった眉、
スラッとした鼻は若干高めで、小鼻と言うよりは少し大きな程度、
潤いのある薄紅の色っぽい唇は薄くも厚くもなく、
それらが見事に調和している極めて秀麗な顔立ちは、
状況とのギャップと、丁度良い角度の陽光による演出効果を受けて、
更に輪を掛けた美しさへと飛躍していた。
だが、その優れた美貌は頭部だけに留まらず、
服飾品とスタイルの相性も抜群に良く、
鴇色で伸縮性の良さそうな薄い生地のブラトップ、
その上から左胸に重ねた革ベルト付きの金属製胸当て、
括れのある腹部は美しく引き締まっていて、
縦に長めの細くて可愛らしいヘソの下には、
トップと同じ鴇色且つ同じ素材らしき質感の、大胆に角度の付いたショーツと、
オシャレ目的で腰に巻かれたカーマイン(リボンと同色)のサッシュ、
そしてその細身に装着するには大分締め付けの弱い革製のウエストポーチ、
素晴らしい脚線美の太ももに巻かれた細い革ベルトには、
同じく革製だが何も収まっていないナイフ用のシース(鞘)、
ふくらはぎ下部までの丈の革製グラディエーターサンダルという、
非常に高い露出度によって爽やかなフェロモンが漂うその美女に、
少しの間、体勢を変える事無く見惚れるファード。
だが、現況が現況だけに緊張感が間に入ったため、
握った剣のグリップに力を込めて気持ちを切り替えたファードは、
まず第一に若干礼儀知らずな質問を飛ばす。
「人間か?」
「ええ」
左足に重心を置き、持ち上がった左腰に左手を当てながらそう答える美女。
ファードは彼女の自然な素振りを見て肩の力を抜き、構えた剣を下ろす。
「すまない」
「いえ、いいの」
「あ、それ…、取ってもらえますか?」
ファードに歩み寄りながら、
倒れたヒューグロウに突き刺さったナイフを指差す女性。
反射的に彼女の示した地点を見遣ったファードは、
少し間を置いてから黙ってそれを引き抜き、
グリップをジャグリングの様に軽く浮かせて反転させ、
刃の部分を摘んで近付いて来る女性に差し出す。
「ありがとう」
「私はレッシュ」
受け取ったナイフを鞘に収めつつ、簡単に自己紹介するレッシュ。
「三本しか用意してないから、いちいち回収しなきゃならないの」
機動性重視の装備とは裏腹に、
清楚に足を揃えて手を前に組んだレッシュは、
背筋をピンとした状態で倒れたヒューグ達を見回した後、
ファードにその美しい顔を向け、首を少し傾げながら、
「えっと…」と、仰向けにした右手を彼に差し向ける。
その仕草に促され、
「ファードだ」と、名乗る歴史の迷い人。
「じゃあ、ファードさん」
「服装からして、[あちら]から来たばかりなのは分かるけど…」
「腕が立つんですね、驚いちゃった」
ファードは一部に含まれた謎の言葉には触れず、
握った剣を少し上げ、それを見下ろしながら答えた。
「闇雲に振り回していただけさ」
レッシュはクスッと可愛らしく微笑む。
「そうね、結構荒々しいスタイルだったわ」
そんな彼女が、一連の不可思議なケースについて、
詳細な知識を持っている事を先の口ぶりから察したファードは、
心を圧迫していた疑問の数々を一気に放出する。
「それより…」
「ここは何処なんだ?」
「こいつらは一体何なんだ?」
「それに[あちら]とはどうゆう事だ?」
「質問は一つずつにして欲しいな」
陽光を一瞬見上げてから、順番に答えるレッシュ。
「ここは[真実の歴史]です」
普通なら精神性を疑われる様な発言から始まった演説だが、
これまでの体験を前提としたファードは、多少奇妙な話でも素直に聞き入る。
「これは[ヒューグロウ]といって、彼らは元々人間だったんだけど、
ある[病気]でこうなっちゃったの」
「今は動いてないけど、こう見えてもまだ生きてますよ」
表情を変えず、倒れたヒューグロウ達に目を向けるファード。
「そして[あちら]というのは…」
「あなたが前にいた場所…、こんな怪物なんかいない世界の事よ」
「…、いまいち意味がわからないが…」
「そうよね」
「じゃあ、付いてきてください」
「分かりやすく説明します」
レッシュはそう言って、大きく露出した美しい背中をファードに向ける。
「ああ…」
「だがその前に…、せめて口を漱がせてくれ」
再び可愛らしく微笑むレッシュ。
「そうね、ここで待ってるから、ごゆっくりどうぞ」
「そこで、[もう一つの歴史]を作り、
残った人類の一部をそちらに移して繁栄させる事で、
世界を救うための力が途絶えないようにした…、という訳なの」
「移された際、大部分の人は記憶を書き換えられましたけどね」
「余計な気張りをせず、のびのびと発展できるように」
暗い通路内で聞かされた信じ難い話に、ファードは黙り込む。
「[純白の時]はご存じ?」
「ああ、子供の頃に聞いた事がある」
受講者がそう答えている最中、突如、天井から黒い物体が降ってきた。
それは前を歩いていたレッシュの正面でクルリと回転し、
四つん這いになって床に着地すると、
間を空けず目前の美女に攻撃を仕掛ける。
だが、レッシュはそのヒューグロウの右腕を掴み、特に大きな動作もなく、
腕を引きつつ足を払ってスマートに投げる。
「決めてください」
注文を受け、倒れたヒューグロウの胸に剣を突き刺すファード。
怪物は叫びながらジタバタと暴れるが、
徐々にモーションが弱まって行き、やがて手足を曲げたまま小刻みに震え出す。
「また汚れた…」
レッシュは微笑みながら振り返り、再び歩み始める。
「それが嫌なので、直接斬り付けたりする時は、
なるべく返り血を浴びないようなやり方を心がけてます」
彼女の背を追うファードが、話を掘り返す。
「[純白の時]がどうした?」
「あれこそ、[真実の歴史]と[忌避の歴史]を分ける境目なんです」
「記録の一切残っていない[純白の歴史]なのに、
なぜ[その時]があった事を人々が認知しているのか、不思議に思いませんか?」
「歴史の上で過去はあくまでも記録でしかありません」
「それなら、その記録を書き換えて、おぞましい奇病が世に出る直前から、
再スタートさせる事もできたはずですよね?」
「ああ」
「ところがルファ様は、あえてそれをせず、
ガーナ発生から、もう一つの歴史が誕生するまでの時間を、
[純白の時]として残されたそうです」
「やがてすべてが解決した後、
いざ、この奇病に染められた歴史を根本から書き換えようとする際、
その[歴史を書き換えるという行為自体]に矛盾が生じて、
未来で起こした行動をかき消してしまわないように、
人々の記憶の奥底にうっすらと存在しながらも記録には無いという、
ちょっと複雑な前提の[空白]が必要だとか…」
人生の中で構築してきた[物の在り方]を真っ向否定する事実群を受け、
混乱を余儀なくされているファードは、
とてもレッシュの話についてコメントできる状態ではなかった。
だが意外な事に、
突如歩みを止めたレッシュの方から[その必要性が無い]事を告げられる。
「のんびりと話をしている場合ではなさそうですね」
ファードも反射的に立ち止まり、
表情を引き締めたレッシュの見据える先に目を向ける。
「フーッ!フーッ!」
闇の中に浮かぶ赤く虚ろな眼が、若い男女二人を睨み付ける。
それも複数。
レッシュはナイフを右手と左手でそれぞれ一本ずつ引き抜き、
身構えて精悍に言い放つ。
「強行突破します」
ファードはとっさに精神状態をできる限りチェンジし、
レッシュの士気に便乗する様に剣を構えた。
しかし次の瞬間、ファードに更なる混乱が訪れる。
突如、レッシュの前方が黄金色にフラッシュし、
ファードがその事象に気を取られた僅かな間に、
彼女は5メートル以上離れていたヒューグの懐にまで距離を詰めていたのだ。
そして、返り血を浴びる隙さえ見せる事なく、
三匹のヒューグロウの喉元を流れる様に次々と斬り払いつつ駆け抜ける美女。
その不可解な現象とあまりの早業に、ただ呆然と立ち尽くすファード。
彼が確認できたのは、戦闘開始の一瞬、
レッシュが[紐状の発光体]を相手に向かって飛ばした事くらいで、
その後の舞踏の如き華麗な武も、どうやったのかさえ把握しきれていなかった。
レッシュはナイフを拭かずにシースに収め、
糸の切れた操り人形の様に崩れる怪物達を挟む位置関係で、
棒立ち中のファードに呼び掛ける。
「さ、行きましょう」
レッシュの道案内を得て、[乾いた遺跡]から脱出できたファードだったが、
その方法は意外にも[水上移動]だった。
流れの緩やかな川をゆっくりと下る小さなボート上で、
未だ心に乱れの残るファードが、一旦頭を休めようと、
同乗する美女に軽い疑問を投げ掛ける。
「このボートに乗って、川を上って来たのか?」
「いいえ」と、何故か微笑むレッシュ。
「なぜあんな場所にこんなボートが?」
「ふふっ、やっぱり不思議ですよね」
「ああ」
レッシュは若干勿体ぶってから、
妙な小箱をポーチから取り出し、タネ明かしをする。
「これこれ」
「ボート輸送用の小箱を使ったんです」
「なんだそれは?」
「ふふっ、便利グッズの一つです」
基礎知識の無いファードにはまるで理解できない返答で済ますレッシュ。
「この川を少し下れば、街があるの」
もっと詳しく尋ねようとも思ったが、
ボートまでの道中、[歴史の裏事情]についてより詳しく聞かされたファードは、
頭が整理されていないのもあって余計な追加質問を避ける事にし、
腑に落ちない表情で俯いた。
しばし無言の時が流れるが、
ファードの心理面が気になったレッシュが、彼の顔を覗き込みながら尋ねる。
「大丈夫ですか?」
その言葉で顔を上げ、
ずっと頭の片隅に残っていた懸念を口にするファード。
「あんたは、あれを[病気]と言っていたが…、やはり[移る]のか?」
「ええ、感染体に触れられたり、その血を浴びたりすると移ります」
ファードは現在着用中の半端なく汚れまくった衣服を見下ろす。
「じゃあ俺も…」
レッシュは微笑んで即答する。
「大丈夫、心配いりませんよ」
素早く彼女に顔を向けるファード。
「ほら、私だってさっき怪物の手を直接掴んだでしょう?」
「ああ、俺にトドメを任せた時か」
「そうです」
「あなたも私も、あの病気に対する[抗体]があるんです」
ファードは、いつどこでそんな物を身に宿したのか全く心当たりがない事と、
何故、先程初めて会ったばかりの彼女がそんな事を言い切れるのかが解せず、
自分の体と彼女の顔に何度か視線を送ってから発問する。
「[抗体]?」
「こっちに来る前に、[箱]を開けたでしょう?」
「ああ」
「あの[箱]を開けた時、同時に[抗体]が植えつけられるの」
「そのおかげで、あの[病気]にならなくて済むの」
かなり簡潔な説明ではあったが、
沸き上がった不安が即時解消されたファードは、
その安心を表情に出しつつ数回うなずく。
「それは助かる」
「ええ、そうですね」
「でなきゃ私もこんな格好で怪物の周りをウロつきませんよ」
そう言って可愛らしく微笑むレッシュに、ファードも微笑みを返す。
「そうだな」
少し静粛が流れる。
お互いに気になる事は多いが、
まだ浅い間柄の醸し出す空気が微妙に言葉を選ばせ、
それが二人の間に軽い牽制を生む。
「あんたは何故あそこに?」
心地悪い静粛を打ち破る言葉はレッシュも考えていたが、
この状況下なら誰もが思う疑問を起用したファードがそれを遂げる。
「[設計図]を探していました」
「設計図?」
「ええ」
「アズールホリムにある[レムグリア]という都市の地下に、
何百年もの昔、[巨大な宮殿]が築かれたと言われているの」
「最近、[ガーナ軍]がその廃墟となった無人都市を占拠して、
地下で怪しい動きを取っているという情報が入って、
[うち]で調査しているのだけど…」
「その[地下宮殿]を築いた王朝こそが、
さっきの遺跡…、[カルターン]を帝都とする[ラノ王朝]だったのよ」
「そうゆう関係の記録が詳しく載っている本で調べたのだけど、
地下宮殿建設のプロジェクトは、
当時技術力で争っていた[クタリア国]を欺くため、
王を含んだ数人のみの間で極秘に練られたらしくて、
労働力となった人達も、
完成まで地下に軟禁されていたと言う程の懲り様ついでに、
その[設計図]はパズルの様にバラバラにされて王家の血族に託され、
普段はそれぞれだけが分かる場所に隠していたの」
「その一枚、[王子ロクタ]に託された部分なんだけど、
この間、それが[カルターン]にあると推測できる要素が浮上したの」
「なるほど…」
「でも気になるなぁ…」
「どうした?」
「さっき会った人型の怪物…、あれは[ヒューグロウ]って呼ばれてるんですが、
いつもならカルターンには、
あれよりずっと強くて賢くて危険指数も数段上の[ハイヒューグ]が、
群れを成して屯しているんです」
「でも、今回は不思議と彼らを見掛けなかったんです」
「凄く厄介な存在なので、ラッキーではあるんですが…、気になりますね」
「普通なら、あなたの様に大胆に戦うと、すぐに気付かれて囲まれますし」
「あの騒ぎにも姿を見せなかったのは、何かありそうです」
「あれほどの腕を持つあんたが警戒する程の相手とはな」
「かなり厄介そうだ」
「ええ、彼らは縄張り意識が強いし、
それなりに統制が取れてますから、下手に見付かると怖いです」
「あ!、いけない…」
突然ハッとして口を手で押さえる美女。
「何か忘れ物か?」
「彼らは部族的な思想もあるので、あの現場の状況を観たら、
自分たちのテリトリーが汚され、仲間が攻撃を受けたと考えるかも…」
「それがどうした?」
「攻撃的な彼らが、その状況で大人しくしてるかどうか心配です」
「何らかの報復行動を取るかも知れません…」
「彼らが見当らない事に浮かれて、少し迂闊でした…」
「…すまない」
その言葉に若干焦るレッシュは、
「いえ!あなたは自己防衛しただけですから」と、
ファードの振る舞いに正当性を持たせる。
「そう言ってくれると助かる」
少々間が空き、ファードが軽い突っ込み所に気付く。
「だが、堂々とあの危険地帯に乗り込む程に慣れてるあんたも、
過去それなりに奴らを排除してきたんだろう?」
「私、普段はどうしても避けられない時しか戦わないんです」
「基本は隠密行動で、見付かっても逃げるのがメインの選択ですね」
「さっきはつい調子に乗っちゃいましたが」
レッシュは小さく舌を出し、微笑みながら可愛らしく縮こまる。
「そうか、無駄な戦いは避ける方が賢いな」
そう言って笑みを浮かべ、また少し間が空いた所で、
不意に恐怖体験を思い出すファード。
「俺もあんたに会う前、巨大な蜘蛛に見付かって、命からがら逃げ延びた」
サラッと出たその情報を聞いたレッシュは、バッと激しく顔を上げる。
「え!?[ヒュージスピディア]ですか!?」
「ああ、多分それだろう」
「(適当だが)」
「あ!そういえば、さっき外で[あれ]が暴れてたけど…」
「もしかして、あなたが襲われてたんですか!?」
「ああ」
彼の無表情と簡素な返事に微笑むレッシュ。
「ああ、って」
「良く本部に送られませんでしたね」
「?」
理解できない言い回しで会話のリズムがズレたのを機に、
ファードは先程の話に出た用語について質問する。
「話を引き摺る様だが、さっき言った[ガーナ軍]とは何だ?」
「あの怪物達が軍隊を作っているという事か?」
「はい、最初は小さな集まりが点在していた程度だったんですが」
「今はリーダー格の変異体も多くなっていて、
段々とそれらに連帯が生まれ、軍にまで発展してしまいました」
「俺は野生の獣みたいな奴らしか見てないが、そこまで賢くなる物なのか…」
「ほとんどの場合、怪物化した者の知能は低いんですが、
他の怪物を取り込んで、どんどん能力を高めるタイプもいるんです」
「そうゆうのは[ガーナサーヴァント]と呼ばれて、
厄介な事に、知能も高くなってるケースが多くて、
きちんとした声帯があるなら、言葉を話すタイプもいるくらいよ」
「今言った[ハイヒューグ]なんかもそうです」
軽いうなずきのみを返すファード。
それを観たレッシュは、
ファードがそれに含まれた危険要素を甘く見てると推測して補足する。
「コミュニケーション能力は最大の脅威ですよ」
「肉体的にはあらゆる動物に劣る人間が、
厳しい自然界を生き抜き、環境に適応どころか、
環境の方を作り変えてしまう程に繁栄できたのは、
他ならぬ、[情報伝達能力に優れている]という部分による物がかなり大きいです」
「人間に最も近いと言われる動物、ヒト亜科のパンという種類は、
瞬間的な記憶力に関しては、人間なんて足元にも及ばないくらいに凄いですが、
情報を伝える術が乏しいために、人間と殆ど同じ[遺伝子]を持つにも拘わらず、
その姿も暮らしも、人間とは程遠い進化を辿ったのです」
ファードは聞き覚えのないワードが引っ掛かったが、
と言うより、むしろ聞き覚えのない単語の連続だが、
真面目に聞く姿勢をしっかりと取り、彼女が話しやすい空気を作る。
「人間も大昔はそうゆう能力が多々あったと言われてますが、
そういった優れた脳の機能と引き換えにして得た、
[発声によるコミュニケーション]のお陰で、
食物連鎖上では天敵という存在を持たない程の発展ができたんです」
「そう…、人間は他の能力を犠牲にして、ようやくそれを得たんですよ」
「なのに…」
「ガーナは身体的にも[優れた能力]を保ったまま、
人と同等のコミュニケーションが可能なんです」
何気なく使っている[発言]が、それ程の重要性を持っていた事と、
ガーナの危険度が想像以上であると知ったファードは、素直に態度を改める。
「なるほど、軽く考えていた」
「ガーナは現時点でも人間の天敵の様だが、一層それが顕著になる訳か」
レッシュはニッコリと微笑む。
「そうです」
「器用な手を持っている怪物なら、驚く程高度な装置も拵える事ができますし」
「剣や弓なんかの武器を使うタイプも、最近になってかなり増えてきました」
「まあ、ただ武器を使うだけなら、ずっと昔からいますけど、
より複雑で計算された技術を使うようになった…、というか…」
「そいつは手を焼かされそうだ」
「そうゆう高い知能を持った怪物達の動向が、
近ごろ随分複雑化している傾向があるの」
「何か陰謀があるとすれば、それを事前に防ぐのが最善の策でしょう?」
ファードは顔を引き締めてうなずく。
「[設計図]には、何か重要なヒントが隠されてるはずです」
その後の沈黙によって、レッシュの話の区切れを確認したファードは、
次の質問を飛ばす。
「あんたは、その[ガーナ軍]とやらの対抗組織のメンバーなのか?」
「ええ、そうよ」
「[幻導士]と言って、元々は私もあなたと同じ世界から来たの」
「こっちに迷い込んで、さっきあなたに話した事実を知って…、
どうしても力になりたいと思って、[幻導士]に志願したの」
「あなたも、その候補ですよ」
「俺が?」
「ええ」
「あの[箱]は、言うなれば人材発掘のためのテストなの」
「素質、意思なんかは第一基準じゃないわ」
「[時に導かれた]と言う要素が、重要視されてるの」
その言葉でハッとするファード。
「[時に導かれた]…」
「まさか、あいつら…」
「(そういえば妙に詳細を語りたがらなかったが…、まさかな)」
「どうしたの?」
ファードは上体だけ振り向いたレッシュと視線を合わせて尋ねた。
「いや、少し気になる事があっただけだ」
「そう」
深追いはしないレッシュ。
若干気不味くなり、再び沈黙が流れる。
だが、やはり妹達の一行が頭に引っ掛かって仕方が無いファードは、
遠回りに探りを入れてみる事にした。
「あんたはさっき、
あっちの世界とこっちの世界を行ったり来たりできると説明してくれたが…」
レッシュは細くて綺麗な髪を靡かせながら振り返る。
「ええ」
「あっちの世界…、つまり俺が暮らしていた世界にも、
あんたの組織の仕事はあるのか?」
「ええ、色々ありますよ、ただ、こっち程の危険性は含みませんが」
「妙な話だが、ただ何人かの団体で旅をするだけの仕事なんてあるか?」
「いえ、旅をする[だけ]というのは、基本的にはないと思います」
「辺境を旅して、点検や情報収集をする仕事はありますが、
あれは個人かペアだし…」
「規定以上の人口の都市には、そのために常駐してる幻導士がいますから、
大勢で旅をする[だけ]なら、[仕事]としての意義が分からないですね」
「だよな」
ボートに同乗する青年が明らかに何かを探っていると悟ったレッシュは、
爽やかに微笑む。
「ふふっ、どうしてそんな事を?」
「ああ、ここに来る前、離れて住んでいた妹が、
謎の多い仲間達を引き連れて家に訪ねて来てな」
「うんうん」
「それぞれ出身地がバラバラなんだが、
その経緯なんかを聞いてもはぐらかされて」
「ただ、その内一人が、[時に導かれた]だとか、
[組織から経費を渡されて仲間と旅をしている]だとか、
不審な事ばかりほざいていたから、少し気になってな」
「なんて人員想いな組織なの」と、口を片手で押さえて可愛く笑うレッシュ。
だがその直後、新し目の事例が一つ、レッシュの記憶から呼び起こされる。
「あ!」
「もしかして、ファードさんが住んでいた場所って、ミラディアですか?」
「ん?どうしてそれを?」
「え?そうなんですか?」
「ああ」
「じゃあ、もしかしたら…」
「でも、そんな偶然がある訳ないし…」
レッシュは美しいラインの顎に手を当てて、多少考える。
ただならぬレッシュの雰囲気を見て、カマを掛けてみるファード。
「リエールという男を知っているか?」
「え?まさか…」
記憶と一致する名に驚くレッシュだが、
あえてまだ確信を持たずに続ける。
「あなたの言ってる人と同一人物かどうかわからないけど…」
「一応、その名前は組織の上の人から聞いてます」
「お知り合い?」
「あの男はもしかして、その[幻導士]ってやつなのか?」
「ええ、私が聞いた人はそうみたいですね」
「[リグレット]を引き抜いた人として、早くも話題になってるから」
ファードはその不可解な言葉には反応せず、次の質問に繋げる。
「ミュアという18歳の女も一緒だったか聞いてないか?」
「そいつが妹なんだが」
「え!うそぉ…」
両手で口を押さえ、目を見開くレッシュ。
その仕草で[時の導き]を感じるファード。
「やはりそうか…、あいつら…」
「すごい…、こんな偶然があるなんて…」
「あなた、あのミュアさんのお兄さんだったんだ…」
ファードはその言葉に隠れた疑問点に触れる。
「[あの]ミュア?」
「あいつ何か英雄的な功績でも挙げたのか?」
「いえ、普通は助からない状態から助かったという奇跡の人ですので」
「なに?」
「抗体を持たないままでこちらに来たんです、ミュアさんは」
「抗体を持たないままだと?」
「箱を開ける事で抗体が付くんじゃなかったのか?」
「ええ、普通はそうなんだけど」
「彼女の場合は、いろいろな偶然が重なったって聞いてます」
「あの病気にならなかったのか?」
「いえ、感染したそうよ」
「なに?会った時は健康そうだったが…」
「あちらに戻ってから発病したらしいのだけど、
そのリエールさん達と、うちの優秀な幻導士が助けた…、との事です」
「そうだったのか」
レッシュが急に表情を明るくして尋ねる。
「ね、ね、ニーニャやエルニー君にも会ったんですか?」
「ああ、会った」
「わぁ、元気そうでしたか?私友達なんです」
「ああ、元気そうだったし、観ただけで優秀だと分かる振る舞いだった」
「でしょ?でしょ?」
「あの二人は幻導士達からも大人気なんです」
「見た目も可愛いし、ほんとすごく優秀だし」
「神の子コンビって言われてます」
「大層なニックネームだ」
「ええ、ヨーロヒュア大陸にある、
ロングブーツみたいな形で有名なイサミナ国発祥のラメン語では、
神の男の子をエル・ニーニョ、神の女の子をラ・ニーニャと呼ぶそうです」
「それにちなんで神の子コンビ」
「なるほど、面白い」
微笑みながら顔を進行方向に戻したレッシュは、
不意にその視界に入った情報を、指差し動作付きでファードに報告する。
「あ、あの街です」
彼女の示した先には、高さ10メートル程の[街壁]があったが、
それは川の軌道上に堂々と建っているにも拘わらず、
川の流れは遮られていなかった。
というのも、壁と川が交わる箇所に格子状の門が設けてあり、
そこから街壁の内部にまで川が引き込まれていたのだ。
その格子の手前にいくつかの桟橋と、
停泊している数隻の小舟が見受けられ、
川の流れに乗ってゆったりとそこを目指すボート上の男女二人は、
桟橋付近まで言葉を発する事はなかった。
「よう、戻ったかレッシュ、相変わらず色っぽいナリしやがって」
桟橋の上から声を掛けてきた中年の男に、
「ただいま」と、微笑みながらボートの中のロープを差し出すレッシュ。
「なんだいその男は?血みどろだな」
「大丈夫なのか?」
レッシュから受け取ったロープを桟橋の支柱に括り付けながらそう尋ねる中年男。
ファードの方を一瞬振り向いたレッシュは、
「こちらファードさん」と、広げた手を血みどろの男に向ける。
「たしかに見慣れない顔だが…、そんな暖気に紹介なんてしてる余裕あるのか?」
ファードは若干過剰に心配した様子の中年男に答える。
「ああ、[あっち]から来たばかりで、少々戸惑ってこうなっただけだ」
「[あっち]?」
ボートから降りようとしたレッシュが、戻ってファードに耳打ちする。
「この人は事情を知らないから…」
「なるほど」
ファードは川の上流を指し、
「あっちの方からだ」と、誤魔化す。
「その怪我は、ヤツらに襲われたんじゃないのか?」
「あ、いけない」と、振り返るレッシュ。
「その服装で街に入るのは問題ですね」
「じゃあ、えっと…」
「着替え持ってきますね、支部は入ってすぐの所だし」
「上がって待っててください」
レッシュはそう言って、
すぐそこにある全開の門からスタスタと町に入って行く。
それを見送った後、中年男の視線を気にしながら桟橋に上がったファ-ドは、
黙ってジロジロと自分を見詰める中年男に若干苛立ちながら、
それに背を向けてレッシュを待つ。
やがて、サイズを目測で選んだメンズ服と革靴を携えたレッシュが、
軽快な小走りで戻ってきた。
「さ、これに着替えてください」
何故か桟橋から少し離れた砂地で足を止め、
ファードに向かって手招きしながら着替え差し出すレッシュ。
そのジェスチャーに従って桟橋を出てきたファードが着替えを受け取ると、
レッシュは気を使って彼に背中を向ける。
「桟橋の上でこの服を脱ぐのはまずいと言う事か?」
「そうです」
「桟橋は木ですし、人が多く通りますから、血を付けてしまうのは危ないです」
「逆に砂なら、血痕が付いても埋めてしまえば良いので」
「なるほど」
中年男は相変わらず[怪しい血まみれ男]を凝視していたが、
特に気にせず服を脱ぎ出すファード。
「この汚れた服はどうする?」
ファードは上着のボタンをとめながら、砂地に脱ぎ捨てた服を見下ろす。
「それはこっちで処分します」
レッシュは振り向かずにそう答え、
しばらく待ってから、そのままの状態でファードに確認を取る。
「着替えは済みました?」
「ああ」
その言葉で振り返ったレッシュは、
目の前に立つファードの姿を見て、思わず笑みを零す。
服がダブダブな上に、あまり似合ってなかったのだ。
「あんたが選んだ服だろう」
「ごめんなさい、急いでたから…ふふ」
彼の背後で中年男もニヤついている中、
ファードは脱いだ服を拾い上げてレッシュに渡す。
それを躊躇無く受け取るレッシュを観た中年男が、
「お、おい、それヤツらの血じゃないのか?」と、慌てふためく。
「大丈夫よ」
「じゃあ、ファードさん、付いて来てください」
振り返って歩き出すレッシュを、驚いた顔のまま目で追う中年男。
「まずはお風呂に入ってもらうけど、それまではあちこち触ってはだめですよ」
「そこから病気が広まる危険がありますからね」
「わかった」




