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10:無慈悲たる後ろ盾

新規登場キャラクター


《シーザ・ラハム》 男 39歳

身長185センチで体格も大きい。

エルニーやニーニャの先輩にあたるベテラン幻導士。


用語解説


[コロナ]

抗体が箱の中から放たれた時に発光する現象の事。

強いフラッシュの様に見えるが、

大量の抗体がそれぞれ微量に光りながら広がっているだけで、

速度は光速とは程遠いが、それでも人間から見れば一瞬。


[即席ミスト]

真実の歴史でのみ、抗体が宿り主を保護するために発生させる霧。

宿り主の命の危険を感じると、抗体が汗腺からそれを噴出させ、

ポストロジーのコートスクエアまで自動で運んでくれる。



バターカップに戻ったリエールは、

妙な名目で召集を受けた七名が待機中の二号室に騒々しく立ち入るが、

誰一人として振り向く者はいなかった。


その反応加減と、静まり返った室内の空気から不安を覚え、

急いでベッドとの距離を詰めるリエール。


するとそこには、既に顔まで真っ黒に染まったミュアが、

微動だにせず横たわっていた。


リエールは焦りの色を濃厚に出しながら、

彼女に被せられた毛布を手荒く捲り上げ、

まるで炭化した様なその体に向けて箱を構える。


しかし、いざ蓋を引いたその時、

箱自身からの強い抵抗によって開放が阻止された。


その手応えは箱が[ロック状態]である事を示していたが、

見た限り鍵穴も無い点から、開錠には何かしらの工夫が必要の様だった。


にも拘わらず、冷静さを欠いている彼は、

ただひたすら力に訴え続ける。


「ちくしょ、開けよ!この!」


そんな中、箱の底を支える彼の左手の人差し指の付け根に、

[小さな突起]が触れた。


リエールはその妙な感触を受け、

一旦作業を止めて箱をひっくり返すと、

底の四隅それぞれに[黒い粒状の出っ張り]があり、

そこに何気なく触れてみた際、中へ押し込む事ができると分かった。


ピンときた彼は、左前腕部と掌で底の左側にある二つの突起を押さえた後、

若干オロオロ気味に細かい動作を複数挟んだ挙句、

何故か[片足立ち]になる。


そして水平まで上げた左大腿部に箱の右側面を乗せ、

突起全てを押し込んだ状態にしてから、再び箱の蓋に手を掛ける。


すると期待通り、今度は抵抗なく内側を晒す箱。


だが同時に、もう一つの期待は悲しい程あっさりと裏切られた。


そう、抗体が放たれる事は無かったのだ。


沈黙の中、驚きと疑問の表情に囲まれたリエールは、

空しさと悲しさと絶望感から脱力し、箱と膝をその場に落とす。


前のめりになった上体に合わせて反射的に突き出された両腕も、

まるで芯が抜けた様に力無く[くの字]に折れ曲がり、

やがて額まで床に着けて小刻みに震え始めた彼を、

[疑問]と[遣る瀬無さ]の入り混じった心境で見詰める一同。


しかし、そんな傍観者達の中で、

唯一、転がる箱の方を目で追っていたロートレックの声が、

悲愴な面持ちを伏せつつ打ちひしがれるリエールに対し、

意外な光明をもたらした。


「おい、その箱は…、もしや…」


体勢と表情はそのままに、ゆっくりと彼を見上げるリエール。


「お前、[それ]をどうやって[うち]から持ち出した!?」


答える気力も湧かず、またもや顔を伏せるリエールだったが、

やがてその言葉に含まれた奇妙な点に気付き、

見開いた目をゆっくりとロートレックに戻す。


「…あるのか!?」


「ん?なんだって?」


リエールは鋭く立ち上がって白髪交じりの熟年者に詰め寄り、

「あんたの家に、こうゆう箱があるのか!?」と、興奮気味に問う。


「あ…、ああ、それはうちにあった箱ではないのか…」


ロートレックは彼の勢いに押されつつそう答えると、

再び箱へと焦点を合わせ、先程よりつぶさ検閲けんえつする。


「確かに、よく見ると細部は違う様だが…」


「答えてくれ!」


その強い言葉で、素早くリエールに向き直ったロートレックは、

若干たじろぎながら解説を始める。


「20年ちょっと前だったと思うが、

私の家の地下室にそれと似た箱が突然置かれていたのだ」


「それはもう開けちまったのか!?」


「いや、色々試したが、どうしても開けられなかった」

「あれは恐らく、蓋が固められているのだろう」

「それどころか、箱自体、五人がかりでも持ち上がらず、

梃子を使ってもまるで動く気配さえなかった」

「器具を持ち込んで片付けようとも思ったが、

下手すると階段や床が抜けてしまうからな」

「そんなこんなで、未だに放置してある」

「まったく…、誰がどうやって持ち込んだんだか…」


周囲の知覚者達は、きょとんとした様子で二人のやり取りを見詰める。


そんな彼等にとっては、この場と一切関連性を感じない話の中から、

全身に血がたぎる程の有益な情報を見出したリエールは、

今いる部屋の窓から確認できるロートレックの住居に振り向き、

表情を引き締める。


「地下室だな…」


質問とも独り言とも解釈できる呟きの後、

夜風の吹き込む窓からせきを切った様に外へ飛び出すリエール。


そのままロートレックの家まで全力でせると、

ノックどころか体当たりで玄関を突破し、

屋内にいた中年家政婦がその衝撃音に驚いて尻餅をつく様を余所に、

リビングのテーブルに置かれた[灯火付きの燭台しょくだい]を掴むと、

脇目も振らず地下室へと駆け下りて行く。


埃が舞う冷ややかな空間に蝋燭ろうそくの灯を掲げて早々、

実に不自然且つ邪魔っ気な形で床に置かれた[箱]が照らし出され、

渋る事なく燭台を場に放ったリエールがそれを抱え上げる。


階上から地下室に愕然とした面持ちを覗かせていた家政婦は、

荒れ狂った様相で階段を上ってくる強盗まがいの男に威圧感を覚え、

無言で身を退かせつつ、目の前を通過したそれを顔で追う。


そして全開の玄関から嵐の様に去って行った彼を見送り、

半ば放心状態のまま固まる家政婦。


ロートレックの家から箱を持ち出したリエールの勢いは収まらなかったが、

バターカップの窓は外からだと少し高い位置にあるので侵入には適合せず、

彼は[もどかしさ]を[しゃかりきな疾走]に反映させつつ、

正規の出入口に回る。


そして、一秒立ち止まる事さえ拒むかのていで、扉を乱暴に蹴り開け、

猛烈な驀進ばくしんによって地響きを起こしながら二号室に帰還する。


そんなリエールの脇に抱えられた箱を見て驚嘆するロートレック。


「お前、どうやってその箱を…」


質問等聞こえていないかの様に、

ベッドの対角にあるコモードの前に立ったリエールは、

部屋にいる全員の位置を考慮しながらミュアに狙いを定め、

力強く箱を開いた。


カッ!!


まばゆい閃光が一同を包み、緩やかな霧が空気に溶け込む。


沈黙。


静粛。


その場で意識を持つ者全員がそう感じた。


虫や蛙の鳴き声は、空間に混じっていたかも知れない。


されど、それを気に止めるだけの余白が彼等の意識にはなかった。


だが、突如として部屋に響いた重々しい音が、

そんな彼等に気付けを促す。


ゴトッ!!


萎えた両腕から箱を落としたリエールは、

まるでそのまま倒れ込みそうな自分に反応した防衛本能が、

無意識に足を前へと出しているかの様に、

精根薄い容態のままミュアへと歩み寄る。


そう、ゆっくりと弱々しく…。


「(…そんな…)」


周囲の目線を集める彼は、口に出しかけたその言葉を飲み込んだ。


未だ胸に残る微かな希望を、

声と共に放ってしまいそうに思えたからだ。


しかし、事情を知っている人間ならば、

誰もがその言葉を口にしようとしただろう。


変化は見受けられなかったのだ。


「ミュア…」


ベッド横の床に膝を突き、黒ずんだミュアの左手を握るリエール。


その時、静かに部屋に入って来た人影があった。


気配を感じたリエールが振り返ると、部屋の入口にニーニャが立っていた。


だが、リエールの期待とは裏腹に、

彼女が持っていたのはハンドバッグだけだった。


そして、恐縮しながら報告を始める。


「あ…、あのね…」

「ミュアちゃんの家をよく探したんだけど…」

「その…」


険しい顔に涙を浮かべつつ、ニーニャを見詰めるリエール。


その時、ニーニャがミュアに視線を向け、

両手を口に当てつつ、堪えていた涙を溢れさせる。


「…よかったぁ…」


その想定外な言葉に驚いて、リエールはハッとした顔で鋭くミュアに向き直る。


するとそこには、見る見る内に肌の色艶を取り戻して行くミュアの姿があった。


先程まで歪んでいた表情も、

まるで木漏れ日の中、ハンモックで昼寝をしてるかの様な安らぎに満ちていて、

呼吸も正常に戻っていた。


そして、ゆっくりと瞼を開いた彼女は、記憶を辿っているのか、夢心地なのか、

何度もスローな瞬きを繰り返し、

やがて傍らにあったリエールの顔に不思議そうな表情を向ける。


ポカンと口を開けたまま、彼女の寝惚け眼と数秒間視線を合わせた後、

頬に涙を残したままで笑みを返し、その起き抜け顔の額を軽く押すリエール。


周囲の面々は、目の当たりにした奇跡の様な出来事に対する感動と驚愕から、

声も出せずにいた。


ミュアは自分を囲む見知らぬ面々を見渡した際、

視界の下方に捕らえたニーニャの姿に気付いて顔をそちらに傾けるが、

彼女がリエール同様に涙している事を受け、

疑問として引っ掛かる因子について、比較的身近な知り合いに囁き声で尋ねる。


「どうして泣いてるの?」


呆気に取られた顔を見合わせたニーニャとリエールは、やがて互いに微笑む。


「ったく、いい気なもんだ」


リエールがそう呟きながら顔をミュアに戻した直後、

ニーニャがベッドに近付きながら提案する。


「さぁ、少し休んでお風呂に入るといいよ」

「汗びっしょりでしょ?」


「あ…」


まるで水を撒いたかの様にびしょ濡れの服と毛布とシーツに気付くミュア。


「やだー、何これー…」


ニーニャは近くにいる受付嬢に、

「すみませんが、お水とタオルを彼女に」と、

気の利いた要求をする。


「はい」と、明るくそれに応じる受付嬢。


「リエールよ…」


突然背後から低い声の呼び掛けを受け、

泣き上がりの顔を向けるリエール。


「[これ]は一体何なのだ?」と、ロートレックが箱を指差す。


「何故、お前一人で持って来られた?」


リエールは返答に困り、目線でニーニャに助け船を求めるが、

当のニーニャは床に放置された[二つの箱]を見て驚いていたため、

仕方なく自分で適当に答える。


「箱も人を選ぶのかな」


「あれ何処にあったの!?」


突如、リエール達の会話に若干高いデシベルで割り込むニーニャ。


全員が反射的にそちらを向く。


ニーニャの勢いに少し戸惑いながら、

「このロートレックの家に…」と、髭を生やした初老の男を指すリエール。


すると今度は、紹介を受けたばかりのロートレックが話を繋げた。


「20年ちょっと前、私の家の地下室に誰かが勝手に持ち込んだのだ」

「階段を下りてすぐの所に、無造作に捨て置きおって…」

「当然、開けようとする訳たが、鍵が掛かっていると言うより、

蓋が接合されているんじゃないかと思える程にビクともしなかった…」

「そうなると、邪魔なので片付けるのが道理だが、

どうにも持ち上げられず、これまでずっと放置しておいたのだ…」

「だが、今こうして、リエールによって軽々と運ばれてきた…」

「それに、ようやく開かれたと思えば、中身は光と蒸気…、

何故私の家に、こんな奇妙な箱を置いたのだろう…」


それを聞いたニーニャが、

だらしなく床に転がる箱を起こしながら説明する。


「実は、ある年齢を越えなければ、子供にだって持ち上げられるし、

開ける事もできるんです」

「この箱を開ける資格として、どうしても若さと好奇心は必要ですから…」

「(観念が柔軟な内じゃないと、精神崩壊しかねないし)」


「資格?」


「あ!いけない!」


丁度水を運んで来た受付嬢を含めた全員が、その声に驚く。


「エルニーがまだ戻ってないのに…、箱開けちゃった…」


事の次第がよく分かっていないリエールが少し焦り気味に訊き返す。


「え?何かまずいの?」


「念のため、この部屋に入った人全員に抗体を植えつける予定だったの…」

「それで、エルニーはこの宿にいた旅行者の人を追いかけて行ったんだけど…」


受付嬢は理解に苦しむ話を耳に入れながら、

水入りグラスを乗せたシルバートレイをミュアに差し出す。


「どうぞ」


ミュアは少し上体を起こしてグラスを受け取り、水分補給する。


「なるほど…」と、それを見ながら呟くリエール。


「抗体?」


先程までの体の重さが抜け、すっかりコンディションを回復させた女医が、

聞き捨てならないワードについて質問する。


未知の病を目の当りにした医者が、

その抗体に興味を持つのは当然の事だと承知していたが、

通常の医学での理解を越えていると判断したニーニャは、

彼女からの問い掛けに対し、

「いえ、あの…」と、少し硬い微笑みで誤魔化した後、

静かな後ろ歩きで退室し、廊下からリエールに手招きをする。


いぶかしげに目を丸めたリエールは、

ズボンのポケットに手を突っ込みながら誘いに乗る。


やがて廊下に踏み込んだ彼の袖を掴み、

少し引き寄せてから話を続けるニーニャ。


「ベッドの横にバケツがあるでしょ?」


リエールは振り返って確認する。


「ああ、変な匂いがするな」

「酸っぱいような…」


「多分、あれがあるっていう事は、フィリップも来てると思う」


「え?なんで?」


ニーニャがリエールの横から部屋を覗き込みつつ、

バターカップの関係者に尋ねる。


「サウナってありますよね?」


ギクリとする主人と受付嬢。


「あ…、ありますけど、今はちょっと…」


露骨に焦る二人に微笑みながら、言葉を追加する湿った美女。


「もう隠さなくていいですよ、フィリップがいるんでしょ?」


主人と受付嬢は、それを聞いて顔を見合わせる。


「ミュアちゃんが回復した事を彼に伝えたいんですが、

サウナはどこですか?」


「あ、じゃあ、呼んできますね」と、受付嬢がサウナへ向かう。


それを見送りながら、リエールが口を開く。


「あれはフィリップの汗か…」


「当たりー」

「[抗体]を持つ人の汗を塗り込むと、浸食を少しだけど抑える事ができるの」

「エルニーがフィリップに指示したのね」


「なるほど」


「それで、さっきの話だけど…」


バケツに視線を向けていたリエールが振り返る。


「エルニーが旅行者を連れてくる前に箱を開けちゃったから…」


その言葉を指摘と受け取ったリエールが、

自らの行動に含まれる正当性を主張する。


「ミュアを助けるためには仕方なかったんだ…」


「うん、分かってる」

「あなたを責めてるんじゃないよ」

「私でもそうしたもん」


玄関に焦点を会わせながら本題に戻るニーニャ。


「でも、その人が感染してたら、[あっち]に送るしかないかもね」

「[抗体]を植えつけないままで…」


彼女はそこで再びリエールの方へ顔を戻す。


「でも…怖いのはそれじゃないわ…」

「その旅行者が、他の誰かに触ったり触られたりしてなければいいけど…」







エルニーが駅に到着するまでの途次とじ、例の旅行者の姿はなかった。


まだ新築に近い小さな平屋の木造駅舎を目前にしてペースを弱め、

軽く周囲を見渡しながら息を乱しつつ中へと立ち入ったエルニーは、

窓口に座る唯一の駅員に声を掛ける。


「あの、すみませんが…」


初老の駅員は体位を変えず、

硝子製のスクリーン越しで視線だけ美顔の客に向けた後、

焦点からズレた眼鏡の位置を直す。


駅員の返事は無かったが、雰囲気から次の言葉を待つ姿勢と判断し、

少し早口で用件を述べるエルニー。


「この駅に、体格が大きくて、髪を後ろで縛ってて、

旅行者の様な格好の男の人って来ませんでしたか?」


駅舎内のベンチを無言で指差す駅員。


エルニーが示された先を向くと、

そこには宿の主人から聞いていた特徴とピッタリ一致する人物が、

地図を両手で広げつつ、前屈みに腰掛けており、

自分の物と思しき風采ふうさいを次々と声にしたエルニーに視線を送っていた。


「あの人でしょ?」と、駅員が小声で確認を取る。


沈黙したまま数秒間見詰め合ったエルニーと旅行者だったが、

やがてお互いに驚愕の表情へと変わり、事態は思わぬ方向に展開した。


「あー!!」

「シーザ先輩!シーザ先輩じゃないですか!」


「おお、やっぱりエルニーか」


開いたままの地図をベンチに伏せ置き、立ち上がるシーザ。


「あれ?お前、今期はポストロジー勤務だったと思ったが」


「ええ、そうですけど、ちょっと[こっち]に出張中で」

「先輩は[こっち]でなにしてるんです?」


「マルケスさんあたりから聞いてないか?」


「ええ」


「毎年恒例の[点検旅行]だ」


「あー、なるほど、今年からシーザ先輩になったのか」


「アルシャドさんに、『飽きたからお前行って来い』って、押し付けられた」


「あ!」


エルニーは暖気に話し込んでいる場合ではない事を思い出し、

顔をシーザの方へ固定したまま体を出口へ向ける。


「旅行者の正体が先輩で良かったけど、今はゆっくり話していられないんです」

「急いで戻らなきゃ」


「何かあったか?」


慌ただしい素振りで駅舎の玄関へ向き直りつつ答えるエルニー。


「すみませんが、ここで説明する時間はないので、付いて来てもらえますか?」

「是非とも協力してもらいたいし」


そう言って駅舎から飛び出し、早急に復路を駆ける彼を見たシーザは、

一瞬ためらってから素早く地図を畳んでリュックに収め、

窓口に近付いて駅員に言う。


「あの荷物、ちょっと預かっておいてくれ」


眼鏡を介さない上目使いでベンチ上の荷物を見遣る駅員。


そんな彼の応答を待つ事なく、

エルニーの後ろ姿を追い掛けるシーザ。


沈み行く夕陽と瞭然たる月明かりに照らされた広大な平原、

それを分かつ様に伸びる一筋の砂路地、

ほんのり夜へと染まり行く空にはっきりと浮かぶ雲、

この季節にはなんとも心地の良い爽やかな風。


こんな気忙きぜわしい状況では、

それらを満喫できるゆとりがない事を残念に思いつつ走るエルニーに、

先程までゆとりの真っ只中を漂っていたシーザが追い付いき、横に並ぶ。


エルニーはそんな彼を横目に見ながら、現行の筋合いを明かす。


「まずは良い報告があります」

「[リグレット]が引き抜かれました」


「おお、ついにか」

「抜いたのはどんな奴だ?」


「えっと…」

「先輩が泊まった宿にいるかもなので、会ってからのお楽しみという事で」


シーザは何故そんなところに[資格を持つ者]がいるのかを訊きたかったが、

脇の話を発展させ過ぎるのも不謹慎な雰囲気があるので控えておき、

「流れ的に、次は悪い報告か?」と、事態の核心に迫る。


「はい、残念ですが」


牧場に差し掛かった二人は、そこの関係者の様なナリをした老人と遭遇する。


「こんばんは」と、すれ違い様に走りながら会釈するエルニー。


「はい、こんばんは」と、老人。


エルニーの挨拶からワンテンポ遅れて、

「こんばんは」と、素っ気なく挨拶するシーザ。


「はい、こんばんは」と、テンポ遅れに比例した返事を背中に受ける二人。


そんな老人の目線を意識しつつ、エルニーがシーザの顔を覗き込む様に言う。


「先輩もあの宿で見ましたでしょ?」

「ベッドで苦しむ女の子を」


「ああ、昨日の嵐の中を歩いてきた女性客だな」


「そうです」


「あんな暴風雨を浴びたら、風邪のひとつも引いて当然だ」


「いえ、あれは風邪じゃないんです」


「何か重病だったか?」


「彼女は…、ガーナに感染していたんです…」


「何?」

「あれは変異の初期症状だったと?」


「…はい」


エルニーは要点を伝え、それ以上何か説明するとすれば、

質問に対する答えとした方がうまく説明できると考え、

受けの方針に切り替えて黙々と走る。


一方、突然深刻な事態を明かされたシーザは、

まず、そこから発展するかも知れない更に深刻な局面について、

対処方と同時に思案し始めたため、しばらくはエルニー同様に静粛を保つが、

やがて情報不足な点が浮上し、呟く様に問う。


「[こっち]にガーナを持ち込んだのは誰だ?」


「あの本人です…」


一瞬、呆れた様な表情に変えてから答えるシーザ。


「馬鹿な、感染者をこっちに送るとは…」

「彼女は[あっち]の人間だろう?どうゆう意図があって…」


「いや、[こっち側]の人です…」


「何?それは矛盾してるな」

「抗体はどうした?」


走りながら俯くエルニー。


「ほんとに奇妙な偶然だったんです…、彼女は抗体を持たないままで現れた」


「箱の不具合で抗体が射出されなかったのか?」


「いえ、誰かが開封済みの箱のロックを外して、

わざと彼女の家に仕掛けたとしか思えないんです」


「思ったより複雑な状況だな」


「ええ、彼女が感染した事がきっかけでリグレットが引き抜かれ、

リグレットを引き抜いた人の言葉で彼女はあの宿にいる」

「上の人がよく言う[時の導き]…、なんでしょうね、これも」


「好ましい結果に導かれるかは別だがな」


談話に少々の間が空く。


「確かに、どんな結果に繋がっているか今はわかりません」

「でも、どの時点を結果とするか、過程とするかは、僕等が決められる」

「そうですよね?」


エルニーは手紙の内容を思い起こす。


「ああ…、しかし今回は…」と、シーザは黙り込む。


「[良い結果]を作る」

「それだけです」


強い不安を抱きながらも、自らを奮い立たせんとするエルニー。


それを聞いたシーザも顔を上げて微笑む。


「そうだな」


走りながら目を合わせてうなずき合うエルニーとシーザ。


「で、これからどうするつもりだ?」


「報告はポストロジーにも行ってるはずだから、

この付近の箱配置を担当した人と連絡を取っているかもしれない」

「まず宿に行って現状を見た後、

一度ポストロジーに戻って情報を集めようかと」


「担当者がどこに置いたか覚えていれば良いが」

「配置は案外やっつけ作業な所があるからな」


「何にせよ、

トランスファーベースギリギリの過去に行かないと始まらないから、

どの道ポストロジーへは行く事になりますし、

時間の許す限り箱の捜索を続けようと思います」


「そうか、ところで…」


「ん?」


「ポストロジーに報告が行ってるって事は、

お前の他にも動いている人員がいるんだな?」


「はい」


「じゃあ、導きの手紙は受け取ったか?」


「はい、受け取りました」


「箱の探索についての指示はなかったのか?場所とか」


「はい、そうゆう指示はなかったですし、

僕への指示に関しては既に果たしましたけど、

書かれた内容をこなすだけでは心配で」

「手紙を書く側からすれば、

あえて[情報を伏せる]という選択が重要な場合もありますし、

警告にない限り、できる事はやっておこうかと」


「そうだな」

「(流石エルニー…、良い心掛けだ)」


そんな会話の最中、

遥か前方で煌く[町の明かり]が、彼等の視野に入った。


「こんなに遠くまで来ていたのか、思ったより時間が経ってそう」

「あの部屋に入った全員がもう集まってるなら、急がないと」


「案外、未来のお前が既に解決済みかも知れないな」


「だといいですが、転送処置とかの方向ではない事を祈りますよ」







バターカップの風呂場で軽く入浴を済ませたミュアは、

ニーニャが近くの生活雑貨店で購入してきた衣類を着用していた。


変異前であっても、発症後の汗は感染する危険性を孕むので、

ミュアの衣類は、クリーニングに出す予定だった上着も含め、

先程までベッドで使っていたシーツや毛布、

果ては、彼女の看病に当たった女医の白衣や私服と一緒に、

廃棄処分品として梱包されたためである。


ミュアが二号室に戻った頃には、新しいシーツがベッドに備えられており、

部屋の中央にラウンドテーブルと椅子も配置されていて、

既に着席済みのニーニャ、リエール、フィリップは、

おしゃべりに興じながら、食卓に料理が並ぶのを待っていた。


この土地の一般的な夕食時よりも大分早いタイミングなのだが、

朝からまともな食事を取っていないリエールとフィリップからの要望で、

急遽、ディナーの支度が成されたという経緯である。


本来、ノーチェックのリエールとフィリップは宿のサービス対象外なので、

要望を出す権利を持たないが、

ミュアの回復によって生じた[和気]と、

子供の頃からの[馴染み]を駆使してその辺を誤魔化し、

贅沢な料理に有り付こうという腹だ。


「あ、ミュアちゃんここ~」


その勧誘に従い、ニーニャとリエールに挟まれた席に腰掛けたミュアは、

「そこは?」と、ほぼ向かいに位置した唯一の空席を指す。


「エルニーがそろそろ戻ってくるから」と、ニーニャ。


五人分のスペースを設けてもまだ余裕のある円卓に、

店のトレードマークである黄金色の花、

[バターカップ]の描かれているポットとソーサーが置かれ、

その後しばらくして、シンプルな白い皿に盛り付けられた熱々の料理が、

受付嬢と宿の主人によって運ばれて来た。


食卓に並んで行く[ハトのロースト]の香ばしい薫りが、

長く空腹状態をキープしていた四人の食欲を深める。


そんな彼等に対し、

現在[女給]として活動中の受付嬢が、業務的な質問をぶつけた。


「食前酒はいる?」


「もちろん」「もちろん」


言葉を重ねるリエールとフィリップ。


「アラモサの12年モノで」


「はい、かしこまりました」


続いて女性陣の注文を取る女給。


「お二人は?」


ミュアとニーニャは顔見合わせをした後、小声で会議を始めた。


「お酒はあんまり…」


ニーニャの言葉に、

「私も」と、共感するミュア。


「紅茶でいいよね」


「うん」


議論が纏まり、女給の近くに座るニーニャが注文を発す。


「私達、紅茶がいいな」


「はいはーい、かしこまりました」


女給が部屋を出た後、リエールの[手堅さ]をフィリップが指摘する。


「こうゆう時は、

どーんと[ルーズペリア30イヤーオールド]でも頼めばいいのに」


「金持ってないし…」


それを聞いたミュアは、リエールにぎこちなく突っ込む。


「じゃあ、堂々と注文するなー」


言葉の後、彼女が一瞬見せた[照れ]の仕草を見たニーニャが、

「そうよねー」と、空かさず笑顔でフォローする。


ミュアも右隣のニーニャにパッと向き直り、

「ねー」と、笑顔を傾ける。


リエールとフィリップが女性陣のやり取りを見て笑みを零したのも束の間、

ミュアからの突っ込みがぐうの音も出ない正論だと二人同時に察し、

真顔を見合わせる。


「そういやそうだよな…、やば、金払えないぞ」


後先を考えずに突っ走っていた事を自分で露呈させたリエールだったが、

直後、身近にも同様の問題を持つ人物がいると気付く。


「というかミュアも宿賃持ってなかったよな?」


「チェックアウトの時に支払うって言ってたから、

とりあえずみんな集まってから一度家に帰ってお金取ってこようと思ってた」


「あ、私が払うから平気よ」


サラッとそう言い放ったニーニャに注目する他三人。


「えー、悪いよう!」と、お金を持っていないミュア。


「そうだよ」と、お金を持っていないフィリップ。


「わーい」と、お金を持っていないリエール。


「経費いっぱい渡されたから、私が払うよぉ」と、微笑むニーニャ。


黙り込む金欠三人衆。


「ツケにしてもらうとか…」


フィリップがぽつりとそう提案した時、

注文の食前酒と二つのグラスを乗せたトレイを携えた女給が、

相変わらず開けっ放し状態のドアを潜る。


「はい、アラモサ12年ね」


テーブルに置かれたグラスに、

水煙を帯びた濃い小麦色の液体が少量だけ注がれる。


「それって、ウイスキー?」


グラスの中の水平線に目の高さを合わせて眺めつつ、

ミュアが素朴な疑問を声にする。


「そうそう」「そうそう」と、被る男性陣。


「私の所では、食前酒はワインが主流かなぁ…」


ニーニャの呟きに対し、

「うん、でも、食前にウイスキーってパターンも結構多いよ」と、

リエールが反論する最中、フィリップが立ち上がり、女給に耳打ちする。


「代金はツケでいい?」


だが、内緒話の甲斐もなく、全員に聞こえる程の声量で返す女給。


「あ、お金は気にしないで、これ、ミュアちゃんが元気になったお祝いね」


それぞれの顔を見渡す四人。


「やったー!いただきます!」


そう叫んで早速ハトのローストにナイフを入れるリエール。


嬉しそうに小さな柏手をするミュアとニーニャ。


ツケの交渉をした事がバレたため、ちょっと気不味いフィリップは、

「すいませんね、なんか…」と、少し身を縮めながら席に戻る。


「いいよ、じゃあごゆっくり」


部屋を後にした女給を見送ったミュアとニーニャは、きちんと手を合わせて、

「いただきまーす」「いただきます」と、行儀よくお辞儀してから、

ナイフとフォークを取る。


「いただきます」


少し遅れてフィリップがそう言った直後、

宿の玄関から衝撃音が響いた。


続いて、複数名が強く廊下を蹴る連続音が迫り、

それはやがてこの部屋の内部へと侵入した所で突然止まった。


食卓を囲む四名からの視線を浴びるエルニーとシーザは、

その至って平和なムードに意表を突かれ、息を切らしながら呆然と立ち尽くす。


「エルニーおかえりー」

「…あ、シーザさん?」


その言葉に反応して、ニーニャに視線を向けるシーザ。


「お、ニーニャか、久しぶりだな」


「こんばんは、お久しぶりです」


不思議そうな表情のまま立ち上がり、お辞儀をしたニーニャは、

次に、彼等の背後を見遣りながら小声で尋ねる。


「えっと…、駅に向かった旅行者さんは?」


その疑問を流したエルニーが、ミュアに問い掛ける。


「ミュアちゃん、もう平気なの?」


「うん、見ての通り」と、横からリエール。


それを聞いたエルニーは、ハァハァ言いながら床に座り込む。


「なんだか知らないけど、良かったぁ…」


ニーニャは右手で口を軽く押さえながら一旦席を離れると、

座り込んでいるエルニーの左腕を持ち上げて勧告する。


「ささ、椅子に座ってご飯をどうぞ」


弱々しく立ち上がったエルニーを、

予め確保しておいた席まで誘導したニーニャは、

二つ余っているソーサーの片方をエルニーの前に置き、

ティーポットの中の紅茶をそれに注ぎながらシーザに言う。


「シーザさんも食べます?」


「いや、俺はさっき駅で済ませたから、気にしなくていい」


「ねえ、状況がイマイチ飲み込めないから訊くけど」


会話への乱入で視線を集めたリエールは、シーザを広げた手で指し示し、

「こちら、エルニーが追い掛けた旅行者さんでしょ?」と、確認する。


「うん」


あっさりしたエルニーの答えを聞き、

「え?シーザーさんがそうだったんだ」と、ニーニャが驚く中、

シーザの顔をじっくり見詰めていたリエールが懐疑を発す。


「あれ?今朝会いましたよね?」


「ああ、君達は薬を取りに行った二人だな」


「はい…、でも、えっと…」


口篭りつつ、エルニー、ニーニャ、シーザの順に二回見渡したリエールは、

最寄のエルニーに顔の向きを固定して問う。


「知り合いなの?」


「この人も幻導士だよ」と、エルニー。


「マジか、すげー偶然じゃん」


「うん、そうなの」

「シーザさんは僕等の先輩で、前期は同じ勤務地だったから、

結構お世話になってる」

「こう見えて40歳くらいだよ」


その情報とシーザの容姿を照合した結果、

「わけー」と、評価するリエール。


「まだ39だ」と、シーザが細かい修正を挟む。


幻導士として新顔のリエールは、

そんなシーザに対して[大先輩]という認識を持ったため、

「あ、ここはきちんと自己紹介しておくか」と、かしこまり、

固過ぎないお辞儀に名乗りを添える。


「リエールといいます、以後よろしくです」


それに対し、微笑みとお辞儀を返すシーザ。


「ああ、よろしく、俺はシーザだ」


そのやり取りに挟まれていたフィリップも、

「俺も自己紹介しとこう…」と、立ち上がる。


動作に反応した一同からの注目を浴びながら、

「フィリップと申します、よろしくおねがいします」と、

深く頭を下げるフィリップ。


シーザもそれに合わせて頭を下げた後、

「よろしく」と、先程よりはっきり微笑む。


リエールはそれを見て、

自分の好感度がフィリップと比較して劣勢であると感じ、

もっと丁寧に自己紹介しておくんだったと若干後悔する。


「凄いですよ、リエールはあのリグレットを引き抜いたんです」


奇しくも、リエールが後悔しているそのタイミングで、

嬉しそうにリグレットの話をするニーニャ。


「おお、彼がそうなのか」

「思ったより若いな」


ナイフとフォークを再び手にしながら、笑顔で浅くうなずいて見せるリエール。


その時、ミュアが少し乗り遅れ気味に動き出す。


「あ、あの…」


ガラガラと椅子を押しながら立ち上がり、

「ミュアといいます」と、固く浅くお辞儀をするミュア。


「どうも、よろしく」と、微笑みながら上目使いでお辞儀を返すシーザ。


「ニーニャ…、ミュアちゃんの家には、箱はなかったんでしょ?」


エルニーが間を置かずにそう切り出す。


ニーニャは目を見開いて視線だけをエルニー向け、

その可愛いらしい唇を軽く舐めてから答えた。


「うん、ミュアちゃんの家にはなかった」

「この町にあったみたい」

「でも、なんで知ってるの?」


苦笑するエルニー。


「君が教えてくれたんじゃないか…」


「ん?」


不思議そうなニーニャだったが、すぐ答えに気付く。


「あ、未来で[導きの手紙]を書いたのね、私が」


「うん」

「それはそうと、ちゃんと部屋に入った人全員にコロナを浴びせたよね?」


「ああ、シーザさんを除けば、そのはずだけど?」


リエールの大雑把な返事を受けたエルニーは、またもや苦笑する。


「(念のために調べておかなきゃ…)」

「で、その使った箱はどうしたの?」


他の面々は口に物が入っていたため、再度リエールが答える。


「この宿の倉庫に保管してもらう事になったよ」


口に含んだ料理を飲み込んだニーニャが、

「ちゃんとロックを確認したから安心して」と、

エルニーの気懸かりを読んで拭う。


「それなら、迂闊に開かれる心配はないか…」


その言葉の後、しばらくは誰も何も言わなかった。


ワイワイと楽しい食事にしたかった初期メンバーの四人だが、

真面目モードのエルニーと、予想外の客の出現に気を遣ってしまい、

ハメを外せずにいるのだ。


「さて、これからどうしようか?」


自分が場を沈黙させたみたいで気不味いエルニーが、そう仕切りなおす。


「旅支度をしなきゃね」

「出発まで、私達はここに泊まるとして…」


そこで言葉を区切り、リエールとフィリップを交互に見るニーニャ。


流れを察したリエールが、目の前の料理をフォークで示しながら答える。


「これ食ったら、家に帰るよ」

「持って行く物とかまとめたいし…」


「右に同じ」

「一応、黙って出るわけにはいかないからね」と、フィリップ。


ここにいても仕様がない上に、お邪魔している感を覚えたシーザが、

言いたい事と話題の方向が一致したので、ここぞとばかりに開口する。


「じゃあ、俺はそろそろ駅に戻る」


シーザは背中に注目を浴びつつ撤退を開始するが、

廊下に出た所で二号室の面々に振り返り、

「無駄足で良かった、皮肉抜きで」と、微笑む。


そんなシーザの姿がドア枠から消えた時、

「あ…、待って」と、フィリップが呼び止める。


再び二号室へと顔を覗かせるシーザ。


「カルネラ方面に行くんですか?」


「いや、イフスの方だが?」


その事情を聞いたフィリップから飛んできたのは、

シーザにとって悲しい返答だった。


「じゃあ、次の汽車は明日の昼前ですよ」


「えっ!?」


驚くシーザに対し、

「はい、宿泊決定」と、そっぽ向きながら拍手するエルニー。


「なにその無責任な振る舞い…」


エルニーに突っ込むシーザに対し、ニーニャが問う。


「シーザさんは、いまお金持ってるんですか?」


「いや、駅に置いて来た…」


見兼ねたエルニーが発案する。


「僕がフロントに行って新しく部屋を借りてくるよ」

「とりあえずこの部屋の契約を二人部屋に代えてもらって…、

そこをニーニャとミュアちゃんの部屋として…、

あとは僕等の二人部屋をもう一つ借りる感じかな」


それを聞いたシーザが、少し慌しく言う。


「いや、気を使わなくて良い、俺は駅で寝る」

「俺が抜けた三人なら、この部屋の他にもう一部屋で済むし、

余計な追加料金を節約できる」


「この部屋、強引に二人泊まる事もできるよ、

タダで布団だけ借りれるし」


営業側にも精通したリエールが、知る人ぞ知る小技を紹介する。


「裏技か」と、シーザ。


「ただし、飯は付かないけどね」と、フィリップ。


リエールからの情報を聞いたエルニーは、

「その方法で、先輩も気兼ねなく泊まれますね」と、シーザに微笑む。


「むぅ…、断る理由より受ける理由に分があるか…」

「(駅にいても暇だしな)」

「では、提案に甘えて、泊まって行く事にする」

「だがとにかく、一旦駅に戻って荷物を取って来る、駅員に悪いし」

「(やれやれ、また往復か…)」


「あ、そうだ」


突如、そう発したリエールが、周囲の目線の的となる。


「金を節約したいなら…、

エルニーとシーザさんは、俺んちに泊まるという策もあるよ」


それを聞いたフィリップが、素早くエルニーに振り返って言う。


「そうだ、それがいいんじゃない?」

「わざわざ、お金使う事ないよ」


「でも…、悪いんじゃない?」と、内心断りたいエルニー。


「いや、全然」


ケロッとした表情でそう言い放つリエール。


「この男の家は、二人暮しの割に広いから」と、

ナイフを持った右手をリエールの肩に乗せるフィリップ。


エルニーはシーザの方を振り向いて、

「どうします?」と、相談する。


シーザは元々このメンバーにいた訳でもなかったし、

リエールの家族に気を遣ったり遣わせたりの境遇も心地良い物ではないので、

「いや、初対面でいきなり泊めてもらうのは流石に気が引ける」と、

釣れない答えを返す。


自分が軽率に出した提案が、彼等の迷惑に成り得ると悟ったリエールは、

「ですよねー」と、微笑みながらあっさり引き下がる。


そんな彼を後押ししたフィリップも、判断を先輩に委ねたエルニーも、

リエールの呆気ない退きに意表を突かれてフォローのタイミングを逃し、

微妙にいとわしい静粛が漂う。


「じゃあ、荷物を取りに行ってくる」


向きを反転させたシーザの背中に向かって、

「先輩ごめん…、付き合わせちゃって」と、エルニー。


「気にするな、状況が状況だったしな」


シーザはそう言いながら、室内にいる全員の視界から消え、

「いってらっしゃい」「気をつけてー」といった声を耳に入れながら、

玄関に向かって廊下を歩いて行く。


だが、彼がフロントに差し掛かったその時、

玄関の扉がいきなり大きく開き、一人の少年が駆け込んできた。


目算から10歳前後と思わしきその少年は、

何故かとても焦っている様子で扉を閉めると、

誰もいない受付カウンターの後ろへと一目散に走る。


そちらには運営一同のプライベートスペースしかないので、

従業員の誰かに急ぎの用でもあるのかと思ったシーザだが、

予想に反し、少年の足音はカウンターの後ろで突然途切れた。


しかし、そんな平々凡々たる事象の中に、

露骨な形で含まれた一つの[不自然さ]が、シーザに歩みの中断を促す。


というのも、少年は立ち止まってはおらず、

明らかにカウンターの下へと[潜り込んだ]のだ。


直接見た訳ではないにせよ、

振動や動作音からそう判断するのが妥当な状況を不思議に思ったシーザが、

確認のためにフロント脇からカウンターの裏側を覗き見ると、

案の定、息を切らした少年が脅えた表情で身を縮めていた。


気配を感じて顔を上げた少年は、

シーザと目が合った途端ビクンと揺れて頭を抱え込んだが、

「どうした?こんな夜中に」という落ち着いた口調を受け、

恐る恐る質問者に向き直る。


その時、少年の後方にあるスタッフ休憩室から、

フロントの音と声を耳にした受付嬢がパタパタと小走りで現れたが、

彼女はカウンターの下に潜む人影には一切気付かず、

ペースダウンしながらシーザとの距離を詰める。


そして、腰に巻いたショートエプロンで手を拭いつつ、

一見、モラルに反している様な挙動を取るシーザに対して、

「どうかされました?」と、笑顔で問い掛ける受付嬢。


「(あれ?この人、夕方前に出て行かなかったっけ?)」


何も答えずに彼女をチラ見した後、すぐに少年へと視線を戻すシーザ。


その仕草に誘発されて振り返った受付嬢は、

[伏在する小さな客]に意表を突かれ、

「わっ!びっくりした!」と、小さく飛び跳ねる。


「そこで何してるの!?」


少年は二度目の詮索を受け、涙目になりながら震える声で答えた。


「外に[変なの]がいるの…」


「なに?」


シーザは早歩きで玄関へ移動すると、扉を少し開いて外の様子を探る。


だが次の瞬間、シーザは驚く間もなく後方に弾かれた。


ドカッ!!


「きゃあぁぁ!」


激しい衝突音と悲鳴を聞いたリエール達は、

倉卒に食事を中断して確認に走る。


そして慌しく廊下に出た一同が目にしたのは、

フロント前で尻餅状態になったシーザと、

彼の前方に立つ[朧気おぼろげな人型の形貌けいぼう]だった。


角張りのある動きでじわじわとシーザに迫る[それ]は、

確かに[人型]であると識別できるにも拘わらず、

[立体感が掴み難い]という奇妙な特徴を持っており、

[朧気]という印象はそこに依存していた。


というのも、その体はまるで[シルエット]の如く、

艶の無いダークブラックの色調だったのだ。


しかし、一同の意識がその要素に留まったのは瞬刻でしか無かった。


[朧気な生物]が[人間味]と[多角的な暗示]を身に帯びていたため、

全員の見方が[各々の前提]に沿って一変したからだ。


なんと、人にあらざると思わしき[朧気な生物]は、

桃色のTシャツにグレーのスウェットパンツ、

更には、土に汚れた白い靴下まで着用していたのだ。


ところが、外観から成る[不気味な点]は、

異様な見目形を包む人為的ファッションというミスマッチだけに在らず、

その一挙一動にも見て取れた。


ダラリと顎を垂らしたまま不規則なリズムの呼吸を繰り返し、

変に折れ曲がった腕関節を鋭く広範にカタカタと震わせ、

上体を後方へ反らしながらの[急角度な内股]という、

非常にアンバランスな足運び…。


だが、それらを序の口と思える程、

極め付けに[不気味]なインパクトとなっているのは、

傾いた顔に掛かる長髪の隙間から覗かせた、

[虚ろな赤い眼]であろう。


大きく見開かれながらも生気は無く、

非常に小さな黒目部分は若干の指向性を以って忙しなく動いていたが、

左右のピントはまるで噛み合っておらず、

潤いが枯渇した瞳の表面は、見るからにザラッとした質感があった。


そんな荒ぶる下目使いに視線をぶつけつつ立ち上ったシーザは、

迎撃体勢を整えながら呟く。


「[ヒューグロウ]…、だと!?」


廊下に出た一団の先頭に立つエルニーも、

シーザの前に立つ[人型]を見て息を呑む。


「(なぜ…、あれが[こっちの世界]に…)」


そんなエルニーの後ろから、

「なんだあいつは?」と、ある程度クールに質問するリエール。


だがその返答はニーニャから飛んできた。


「あれは[ヒューグロウ]…」

「ガーナに浸食された[人間]が変異した姿よ…」


「えっ!?」「なに!?」「!?」


驚愕の一報を耳にしたリエール、フィリップ、ミュアは、

咄嗟にニーニャへと振り向く。


「それじゃ…」


リエールが何か言い掛けたその時、ヒューグロウと呼称された怪物が、

目前のシーザを他所に、何故かフロントに立つ受付嬢の方に向きを変え、

迅速且つ身軽な動きでカウンターに飛び乗った。


「しまった!香水の匂いか!」


シーザがそう叫んだ瞬間、

ヒューグロウがむちの様にしなる左腕をスイングし、

受付嬢を薙ぎ倒した。


「ちっ!」


舌打ちしつつ、ベルトホルダーからフォールディングナイフを取り出すシーザ。


それを見たエルニーが、

「だめ!先輩!」と、強い声でシーザを抑止する。


「出血させてしまうと、[こっち]じゃ処理が難しい!」


「くっ!不便だな[こっち]は!」


ナイフを手放し、怪物との距離を詰めたシーザは、

カウンターの上にいる怪物の腰に腕を絡め、

ある程度力を抑えて床へと投げ落とす。


「あのお姉さん、大丈夫なの!?」と、泣きそうなミュア。


「平気よ、あのお姉さんには抗体があるもの」と、落ち着いた口調でニーニャ。


エルニーは仲間達の方を一瞬だけ振り向いた後、

ヒューグロウの特徴について分析した結果を発表する。


「見たところ、あのヒューグはまだ変異したばかりだ…、

運動性の変化に順応が追い付いてないと思う」

「それに、服装や髪型からして[女の子]のはず、

となれば、バネはともかく、力は増幅分を足しても人並みと考えて良い」

「今なら簡単に拘束できる」


ミュアとフィリップは、[女の子]というキーワードを聞いて、

ある衝撃的な部分に気付く。


それは、特にフィリップにとって、悪夢とさえ思える要素を含んだ物だった。


「まさか…、あいつは…」


その微かな呟きを耳にしたニーニャとミュアがフィリップの方を向くと、

彼は放心したような面持ちで、小刻みに震えていた。


一方、ヒューグロウへの対処に意識を向けているエルニーは、

軟体な怪物の拘束に奮闘するシーザへと加勢に走る。


「先輩!押さえ込んで!今ロープを借りてきます!」


「ああ!わかった!」と、発案者にうなずき、

体格の差を活かしてヒューグロウに圧し掛かるシーザ。


カウンターを飛び越え、まずは受付嬢の容体を確認するエルニー。


「大丈夫ですか?」


受付嬢は床に顔を伏せたまま、声無く震え上がっていて、

そのすぐ傍で小さくなっている少年も、そんな彼女と相似した動静だった。


次にエルニーは、騒ぎを聞き付けて奥から現れた主人と長男に焦点を向け、

「すみませんが、ロープを!」と、掛け合うが、

彼等は目の前の異常な光景に戸惑っているためか、

その要求が耳に入っていないかの様にただ棒立ちしていた。


現状の経営者達からロープを拝借するのは困難と判断したエルニーは、

受付嬢が着用しているショートエプロンの結び目をほどき、

強く引っ張って剥ぎ取った後、それを持ってシーザの元へ素早く移動する。


「縛っちゃいましょう」


先程からシーザの仕事振りを眺めていただけのリエールもその言葉を聞き、

ここぞ貢献すべきタイミングと見て[捕り物真っ最中]の現場へと走り寄る。


当然、仰向けの怪物側も奇声を上げながら抵抗する姿勢を示すが、

シーザによって両手首と両大腿部が強く床に押し付けられているため、

ほぼ身動きが取れない容態であった。


そんな力関係に介入せんとするエルニーの手に、

ロープの代役たるショートエプロンが握られているのを見たシーザは、

膝を怪物の両大腿部に乗せたまま、上体のみを引き起こす。


若干動く余地を得たヒューグロウは、案の定、激しく上体を揺すり始める。


空かさずサポートに回ったエルニーが、

怪物の背すじに膝を突き立てながら両前腕部を掴む。


シーザはそれを確認すると、握っていた怪物の手首を一旦離し、

エルニーだけに腕の抑制を委ねる。


下手をすれば[隙]と成り得るその瞬間だが、

冷静なエルニーは危な気無く怪物の両腕を背中側でクロスさせる。


直後、怪物の顎の下に肩を潜り込ませたシーザが、

交差状態の両腕を再度押さえた。


おかげでハンズフリーとなったエルニーは、

エプロンにてヒューグロウの両手首を拘束しようと試みる。


だが、怪物はもぞもぞとうごめいている事に加え、

両手を激しくバタバタさせており、

尚且つ人間よりも関節がずっと柔軟なのもあって、

その作業は円滑に行えなかった。


そこに丁度良く増援のリエールが参加し、

うるさく抗う両手を掴んで静止させる。


「ありがと」


エルニーは礼を言いながら怪物の両手首を複雑に縛り付ると、

突然廊下側に振り返って叫んだ。


「ニーニャ!」

「テーブル掛けを外して持ってきて!」


指示を受けたニーニャは迅速に二号室へと駆け込む。


だが、テーブル掛けを外すには、テーブル上の料理を片付けるか、

部屋を散らかす覚悟で引き抜くかのどちらかだったため、

ニーニャは発想を変え、ベッド上のシーツを急いで外す。


そんな彼女が到着するまでの間、

「足首を押さえてください」と、シーザに要求するエルニー。


それに従い、体勢を維持したまま怪物の両足首を掴んだシーザは、

大腿部の抑止を解除した瞬間、素早く後方に下がり、

掴んだ足首を床に強く押し付ける。


直後、腹筋運動の様な動作を取る怪物の上体を、

リエールがしっかり押さえる。


そこへ現れたニーニャが、

気を利かせて紐状に捻っておいたシーツをエルニーに手渡す。


エルニーは受け取ったシーツで早々にヒューグロウの足を縛ると、

カウンターの向こうにいる宿の主人を見上げて尋ねる。


「これを監禁できる部屋ってありますか?」


宿の主人は相変わらずの調子で、

口を開けたままエルニーへと視線を向けるだけの反応に留まる。


見兼ねたリエールが、

「そこの部屋の鍵取ってくるわ」と、

カウンターに手を突いて飛び越え、床に伏せた女子供おんなこどもを尻目に、

宿の主人と長男を掻き分けて休憩室に入る。


それを見て、ヒューグロウを肩に抱え上げるシーザ。


そしてほんの数秒後、再び出入口を塞ぐ二人を押し退けて出てきたリエールは、

「これ、一号室のやつ」と、

カウンターの向こう側にいるニーニャへと鍵を放り投げる。


それをキャッチしたニーニャは先陣を切って一号室のドアを開け、

邪魔にならない位置まで下がる。


二号室の半分程の広さしかないその部屋に一歩だけ踏み込んだシーザは、

抱えた怪物を中に放り投げてドアを閉める。


エルニーと並んで仲間と合流したリエールは、

ニーニャから鍵を返却された際、

彼女の後ろで立ち尽くすフィリップとミュアに気付くが、

その深刻な面持ちに只ならぬ雰囲気を感じ、少し遠慮気味に尋ねる。


「どうした?」


その言葉で彼等に振り向いた他の面々にも、

異常さが一目で分かる程に青褪めた顔をしたまま、

無言を決め込むフィリップとミュア。


「大丈夫?」と、心配そうなエルニー。


すると突然、フィリップが一号室へ向かってゆっくりと弱々しく歩き出し、

その軌道上から退いたシーザの前を放心状態で通過すると、

震える手でドアの取っ手を掴み、押し開ける。


そして部屋の中へ立ち入った彼は、

暴れる怪物の側で膝を落とすと、[彼女]をじっと見詰め始めた。


それに続いて一号室に足を踏み入れたミュアも、

やはり力無くフィリップの背後に歩み寄り、悲しそうに俯く。


何事かと部屋を覗き込むリエール、ニーニャ、エルニー、シーザ。


「ユリア…」


フィリップはそう呟くと、一気に涙を溢れさせて叫んだ。


「ちくしょおぉぉ!!」


間近で彼の声を受けたミュアが、両手で顔を押さえつつ泣き崩れる。


咄嗟に彼女の元へと駆け寄るニーニャ。


部屋の中で激しくもがいているヒューグロウが、

フィリップの妹、[ユリア]であると気付いたリエールも、

頭の中が真っ白になる程の衝撃を受け、全身が固まった。


「ヒック…」

「ごめんなさい…」

「ごめんなさいぃ…」


泣きじゃくりながら謝り続けるミュアの背中をやさしく摩るニーニャが、

「どうしたの?」と、心配そうに問う。


「ヒック…、ハァ…」

「わ…、私…」

「わ…、私が…、ヒック…」


言葉さえ続かない程に乱れたミュアの容態から、

事情を知らない幻導士達も薄々と状況を飲み込む。


「フィリップの家族か…」


一番後ろにいたシーザがそう言ったものと思い、振り返るエルニー。


だが、シーザの後ろには、気配を消したジャスティスが立っていた。


「ジャスティスさん…」


エルニーのその言葉で、ミュア以外の全員が振り向く。


ゆっくりと部屋に立ち入ろうとするジャスティスに、

道を空けるシーザ、エルニー、リエール。


「フィリップよ」

「他に家族はいるのか?」


相変わらず落ち着いた口調のジャスティス。


フィリップは、金切り声を発しながら暴れるユリアの方を向いて答える。


「両親が…」


「そうか…」


ジャスティスはユリアに接近し、注意深く観察する。


「ここまで変異するには、抗体を持つ者の汗を塗り込まない場合、

およそ20時間強…」

「最低でも、あと二人の[感染者]がいると見て間違いない」


「ジャスティスさん!」


無神経とも思えるジャスティスの発言に、エルニーが大声を張り上げた。


ジャスティスは廊下に立つ面々に振り返り、冷静を保ったまま言う。


「お前達、そこで野次馬の様に群がっている暇に、感染者を捜してくるんだ」

「既に変異している可能性もあるのだぞ」


その厳しい言葉に黙り込む一同。


続けて、フィリップへと向き直るジャスティス。


「いいか」

「リグレットが鍵となれば、お前の家族も元に戻せる」

「気持ちは分かるが、今は再びお前の様に悲しむ者を出さないために、

できる限り勤める事が先決ではないのか?」

「それとも、お前はそれができぬ程度の覚悟で幻導士となったのか?」


涙を零したまま、黙ってユリアを見遣るフィリップ。


次にジャスティスは、号泣しているミュアにも激を飛ばす。


「そしてミュアよ」

「この者が身を呈してお前に成長のきっかけを与えてくれたのだ」

「だが、それはあくまで[きっかけ]の範疇に過ぎない」

「それは受容する者の心一つで正にもなり、負にもなる」

「お前が今の悲しみを、悲しみのままで心に携え続けるなら、

それこそ、この者に顔向けできぬ行為と思え」


俯く一同に、声を和らげて続けるジャスティス。


「だがミュア、お前が責任までも感じる必要はない」

「こうなったのは私の責任だ」


俯いていた全員が顔を上げ、ジャスティスに目線を向ける。


「事もあろうに、ポストロジー内でお前の感染を許してしまったのは、

私の監督不行き届きだ」


ジャスティスはそう言いながらミュアの前に片膝を付き、

「すまなかった」と、頭を下げる。


それを見たミュアは、濡れた驚き顔を左右に細かく振りながら、

ジャスティスの右腕に両手を添える。


そんなミュアの両手を優しく掴んだジャスティスは、

自分が立ち上がる動作に便乗させてミュアも立たせ、

少し表情を和らげて次の声を発す。


「気に病むな、この者は元に戻せる」

「世を平和にする理由が一つ増えたと思えば良い」


ジャスティスの一言一言は、妙に安心できる雰囲気があり、

少し楽になったミュアは、先程より落ち着いてきていたが、

それでも涙は止まらず、静かに泣き続けた。


自分以上に苦しいであろうミュアのその状態を見たフィリップは、

ユリアを除いた全員に背を向けつつ、

目を細めて涙を押し出しながら震える声でジャスティスに問う。


「リグレットが鍵になれば、こいつを元に戻せるんですね…?」


「そうだ、全てはリエールの成育によって落着できる」


片膝を床に突いたまま、リエールに振り向くフィリップ。


それを機に、今度はリエールが注目を浴びる。


しばらくフィリップと顔を見合わせたリエールは、

やがてゆっくりと彼に歩み寄る。


そしてフィリップと目線の高さを揃え、

凛とした面持ちと弁舌で宣言する。


「すぐにという訳には行かないだろうけど、

絶対リグレットを鍵に変えてみせる!」

「約束する!」

「俺だって、ガキの時から知ってるユリアがこうなったのは辛い!」

「何が何でも元に戻してやりたい!」

「だから俺の成長を傍で見ていてくれ!」

「もし俺がいつまでも青二才のままだったら、お前が俺に活を入れてくれ!」


親友の真剣な眼差しを見詰めるフィリップは、

自分の態度が彼に重圧を背負わせてしまった事と、

この男が道を踏み外さないように、

自分がその傍らで羽翼とならねばならない事を悟る。


しばし見詰め合った後、互いに顔を綻ばせる二人。


フィリップは袖で涙を拭き、深く息を吐く。


「ああ、わかった…」

「言っとくが…」

「じれったくなったら、マジで蹴り入れるかんな!」


「おう!」


右手と右手をがっしりと組み、力強く立ち上がるリエールとフィリップ。


その光景に深く感慨したニーニャ、エルニー、シーザも、

お互いを見渡しつつ微笑む。


フィリップは自分の顔に両掌を強く打ち付け、

「よし!感染者がいないか手分けして捜そう!」と、

悲しみと使命感の間を行ったり来たりしている心境を包み隠して言い放つ。


エルニーもその意気に合わせ、

「OK!行こう!」と、握り拳を胸の前に挙げる。


「うん!がんばろ!」と、ニーニャも笑顔で場を盛り上げる。


「よし!そうと決まれば急ごう」と、シーザもやる気を見せる。


ミュアはフィリップが立ち直ろうとしている事を感じ、

それに恥じない様、泣き顔のまま精一杯微笑んでうなずいた。


「世話の焼ける連中だ」


そう呟いたジャスティスも口角を緩ませるが、

すぐに表情を引き締めて問題解決の姿勢に戻る。


「だが、もし既に変異していたら、

[ノウアブルセンス]も覚束無い新人にとって、

例えヒューグロウ程度の相手でも危険だ」

「[こちらの歴史]では、迂闊に武器は使用できない上に、

抗体による簡易ミストが発生しないからな」


ジャスティスはそこで一瞬の間を空け、一同を見渡す。


「そうなると、新人を単独で行かせる訳にも行くまい」

「丁度、どうゆう理由でか知らんがシーザもいる事だ」

「変異していた事を想定し、二人一組で任務に当たれ」


それを聞いたエルニーが、

メンバーそれぞれの顔を確認しながらチームを即興編成する。


「となると…」

「僕とリエール君、先輩とフィリップ君、かな」

「ニーニャ達はここに残って、情報管理を」

「何か動きがあれば、周辺住人から報告が来るかも知れないし」

「(それからミュアちゃんのケアと、ユリアさんの監視も…)」


「わかったわ」と、指示の意図を理解してうなずくニーニャ。


エルニーもうなずきを返した後、立ち並ぶリエールとフィリップに振り向き、

心を鬼にして言う。


「対象が変異していると過程しても、

おそらくこの近辺はまだ襲撃を受けていないはず」

「騒ぎが小さ過ぎる」


「襲撃?」と、フィリップ。


「変異後は攻撃性が増して、人だろうと犬だろうと馬だろうと、

健全な生き物を見境なく襲うんだ」

「例えそれが自分より強い猛獣であっても、一切臆せずに襲い掛かるよ」

「それは変異体にとって、言わば[交配]…、

感染を広める事で同種が増え、同種を取り込む事で進化するというプロセス」

「ガーナウィルスの恐ろしさは、

感染体の意思をむしばんでまでそれを成そうとする、

[繁殖への執着心]にあるんだ」

「(…ユリアさんもここに来るまでの間、何かを襲ってなければいいけど)」


それを聞き、ふと疑問が浮かんだリエール。


「ガーナは空気感染はしないけど、触られたら感染するんだよな?」


「うん」


「ちっちゃい虫とかは勝手にまとわりついてくるけど、

ああゆうのにも感染するの?」


エルニーは一瞬天井を見上げてから回答する。


「感染はするけど、変異はしないね」

「というのも、蚊とか、ハエとか、小さな虫の体って、

ガーナが住み着くには符合した環境ではないの」

「栄養量が少ないから、ガーナそのものを維持できないんだ」

「つまり、変異の作用が働いても、変異完了まで体が持たない訳」

「だから、感染した虫が病気を広めたって報告は今の所ないね」

「そりゃ、怪物に触れた直後に人に触った…、とかなら別だけど、極論だね」

「まあ、ある程度の大きさで、

ガーナにとって最低限の栄養補給手段を持つ虫なら…、

例えばスズメバチとか、大きめのクモとか、ムカデとかなら、

変異が確認されているものもいる」

「ただ、人間サイズの変異体が自分から襲うのは、

せいぜい犬より大きい生き物が主だね」

「それから、[匂い]には優先的に興味を示す傾向がある」

「かと言って嗅覚が鋭いという訳でもなく、むしろ鈍いからこそ、

[強烈な匂い]という情報に過剰反応する、って感じ」

「この辺なら、牧場の牛とかが狙われやすいと思うよ、大きいし匂いも強いし」

「ところでフィリップ君の家は、民家が密集している所にあるの?」

「それとも、牧場の近く?」


フィリップはリエールと一瞬だけ顔を見合わせてから答える。


「両方の中間って感じかな」


その時、リエールとフィリップが問題に気付く。


「あ!」「あ!」


再度、顔を見合わせる二人。


「レイラさんが危ない!」と、フィリップ。


「レイラさん?」と、反射的にエルニー。


「リエールのお母さんだ!」

「隣同士なんだよ!俺とこいつの家は!」


リエールは激しい不安にかられ、鍵を放って宿の玄関へと駆ける。


「あ!待って!」


呼び止めも虚しく、より勢いを増して宿を飛び出したリエールを見て、

エルニーは追行スタート体勢を取りつつ仲間の方を向く。


「フィリップ君達は、宿からロープを借りて持ってきて」

「とりあえず人を縛るのに手頃なのを四本」

「まずはフィリップ君の家付近で手掛かりを捜すから、そこで落ち合おう」


早口でそう言い放ち、すぐにリエールの後を追うエルニー。


「よし、じゃあロープを借りてこよう」と、フロントに向かうシーザ。


フィリップもそれに続こうとしたが、一歩踏み込んだ所で不意に立ち止まり、

精神状態が気懸かりだったミュアに振り返る。


「ミュア、気にしないで」


泣き顔を上げるミュアに微笑みを返し、走り出すフィリップ。


しばらく様子に見入っていたジャスティスが、

ズボンのポケットから[長方形の小箱]を二つ取り出し、

それをニーニャに手渡しながら口を開く。


「私は[彼女]が[感染源]を残していないか調べる」

「こちらへ来る前に処理斑を緊急要請しておいたが、

もしそのメンバーがここに到着したら、

合流を待たず、早速仕事に取り掛かるよう伝えてくれ」


「はい」


ジャスティスはミュアとニーニャの視線を背中に感じながら、

静かに且つ素早くバターカップを後にした。

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