2章:志保
――ああ、もう……こんな時間か。
とっくに下校の時刻を過ぎていた。正直、何をするにしても身が入りはしなかった。黒板に示される明日の予定も、今の俺には鬱陶しいことこの上なかった。
雄二は……すでに席にはいなかった。一緒に帰宅することこそ少なかったが、必ず下校時には呼びかけあっていたことを思い出す。 明日、謝ろう。声にしようとしたが、ヒューヒューと空気が揺れる音だけが鳴り、上手く発することはできなかった。昼食どころか水すら飲んでいないことに気がついた。机から中々離れたがらない体を無理矢理はぎ取ることにした。
――いつのまにか自宅の前に立っていた。誰もいない家に、帰宅した旨を伝える。これも上手く言葉になりはしなかった。
すぐに自室のベッドに飛び込む。体が汚れているのも気にしなかった。何もしたくなかった。すぐに眠りにつこうと思ったが、様々な感情が頭を巡ってろくに寝れはしない。こんな生活が今後、日課になるのだろう。
果たして人の死とは一体なんなのだろうか。何故、俺の周りの大切な人が死ななければならなかったんだろうか。
俺が物心つく前に父と離婚した母。女手一つで俺をここまで育ててくれた母。素晴らしい母親だった。神様は何故そんな母を殺したのだろうか。解らない。
理由は無いのかもしれない。生きている人は生き、死ぬ人は死ぬ。そう言ってしまえばそれが全てなのだろう。
母と志保が死ぬまでは、俺だってある程度は諦観していた。人が死ぬことに理由なんてない。ある日突然、奪われる。どうにもならないんだ。生きている以上必ず不条理はつきまとうのだろうから。だけど――。
俺は仰向けになり、目を閉じた。納得のいかない現実を自らの外へ締め出すために。
だけど、それでも。まだ志保と母を連れていくには早かったはずだ。二人とも人生において絶望とは程遠い立ち位置にいたはずだし、なにより俺の生きる全てだった。今ならそれがわかる。どうしても連れていくのだったら何故俺も一緒ではなかったんだろう。
母の笑顔が見たい。もしも生き返ったのなら、母は俺になんと言うのだろうか。いつも通りの生活に戻れるのだろうか。
志保に会いたい。会えたなら俺は謝り続けるのだろう。傍にいれなくてごめんね、と。
俺に尽くしてくれた志保。誕生日にサプライズパーティーをした時の驚いた表情。その後の幸せそうな顔は、一生忘れられないだろう。いっそ代わりになってあげれたらよかったのかもしれない。一人が嫌いな志保は、それを嫌がるだろうけれど。
考えれば考えるほど、自分が保てなくなりそうだった。そう遠くはない未来、俺も二人の傍にいるのかもしれない。
部屋に常備しているペッドボトルの中身を飲み干す。喉を通る冷たさすら鬱陶しかったが、幾分か喉はマシになったようだ。
「志保……」
静寂の中、ポツリと溢した一言は何とも言えない哀愁を帯びていた。
「雄二……」
今いる友にも考えを巡らせる。たとえそれが感情的になっていたとしても。自らが吐いた毒に、親友の態度が変わってしまったことはとても辛かった。長年の友情が今、崩れようとしているのだから。
「雄二の家は何で幸せなんだろう」
ふと、不謹慎な言葉がよぎる。友情が揺らいだ今だからこそ、そんなことを考えてしまうのだろうか。
「雄二の家は何故幸せなんだろう。何故誰も死なないんだろう」
更に毒を吐いた。下劣で、卑劣な、悪臭すら感じる呪詛だった。自らが発した言葉に驚いた。とてつもなく酷いことを考えた自分が最低の人間に思えた。
しかしながら俺の思考は止まらなかった。なぜ雄二の家でなく俺の家なのだろう。なんでこんなに不平等なのだろう。
一度味をしめた思考は止まらない。他人を乏しめる発言こそ、今の俺には、もしかしたら最も甘美なものなのかもしれなかった。
今日の雄二、俺の事を心配して話しかけたんだろうな。俺の事は何も知らないくせに。……そうか。何も知らないから話しかけれたのか。もしかして適当なことを言って気を紛らわせようとしたのだろうか。
確かに俺が何も言わなかったのは誤解を招く行動だったかもしれない。だが雄二のやつだって、もっと配慮してくれたってよかったんじゃないのか? いちいち干渉することが最善ではないと、判断するべきだったんじゃないのか?
自らを卑下するのと同時に、雄二がとても妬ましく、気持ち悪く思えてきた。
――そうか。
納得する。配慮しないやつにはこちらも配慮する必要はないではないか。
どこか薄ら寒い微笑を張り付け、俺は眠りについた。何故か、先ほどとは打って変わって安らかな眠りを得られることを、薄れる意識の隅で確信していた。