1章:親友
今朝登校してきた俊介の雰囲気は、親友の雄二でなくとも気づけるものだった。陰鬱な雰囲気が漂っている。勿論彼は、俊介を放っておくことなどできなかった。
「おはよう、俊介」
何気ない朝の挨拶。自然と話しかけられたはずだ。落ち込んでいる相手に対して過剰な反応をとることが喜ばしい結果をもたらさないことを彼は知っていた。
「おがっ……ょヴ―――」
「……っ」
彼は驚愕に目を見開いた。俊介の声は枯れていた。一か月叫び続けても果たしてこのような声になるものだろうか。声帯に異常があるのは明白だった。
注視すると顔も酷い。何をしたら頬がそんなに腫れるのだろうか。右頬に浅い傷口も確認できる。目の隈も異常だった。決して不細工ではなかった俊介の顔が、休日に見ない間、別人のような有様になっていた。
過剰な反応はしないと決め込んだ彼だったが、咄嗟に驚嘆の声を漏らした。
「おい……俊介。お前……」
果たして親友の声は届いたのだろうか。その言葉に全く耳を傾けず、自らの席まで歩いていく。今にも倒れそうな足取りで。
応じなかった事実など気にせず、席についた俊介にかけよった。異常事態だ。明らかに休息を取るべきだ。そう判断せざるを得なかった。
「なあおい、俊介、ほけんしつ―――」
「うるざっ……だまれ」
「…………ッ!?」
――初めての罵倒だった。いや、初めてというのは正確ではないのかもしれない。中学、高校とお互いを認め合った3年前。それ以来言い争いがなかったわけではない。しかしそれはお互いに信じ合っているからこそのものだったはずだ。信じ合っていたからこそ実直に、素直な気持ちをぶつけ合えたのだ。
ところが今の俊介の反応はどうだろうか。確かに俊介の気持ちを察したかと言われれば、ほとんどできてはいないだろう。だがそれにしても、何も言わず、話さず、拒絶するのはあんまりじゃないだろうか。
――韜晦を決め込んでいる俊介に、これ以上話しかけることはできなかった。3年間で培った彼への信頼が、知らず頬をつたって落ちていった。
初めて雄二が涙を見せた。辛いことがあってもいつも笑顔で傍にいてくれた雄二。言いすぎた。少なくとも、何も言わずに突き放すべきではなかったはずだ。俺は心のなかで謝罪した。
いつもの授業風景だが、俺が見ている風景は全く別のものだった。黒板を写しながら時々雄二を見る。その姿は、常に窓のほうに視線を注いでいた。いつもなら授業に集中しているはずの雄二がそこにはいなかった。
さっきの……気にしてるんだろうか。そう思わずにはいられなかった。ずっと親友だった。お互いに認め合っていた。だが……俺は形だけとはいえ、傷つけた。些細なことかもしれなかったがしかし、雄二との関係性の最大の禁忌を犯してしまったように思えた。
知らず、机にシャープペンを突き立てていた。後ろの席のやつに注意され、我に帰る。
……頼るべきだったかもしれない。素直に自分の気持ちを吐露すれば、どれだけ救われたかわからない。
心の片隅に閉じ込めていた後悔が、熱が退いた頃、津波のように押し寄せてきた。教師の目を気にすることもなく、俺は机に突っ伏し思案した。
昨日の事故で俺が失ったのは一人ではなかった。親を失い、恋人も失った。その時の俺は何を考えていたのだろう、気づけば時間だけが過ぎていた。ただ一つ感じたことは、何故俺だけ部屋でのうのうと生きているのだろうという罪悪感だった。
母と、彼女の志保。女手一つで俺を育てた母は、ゆくゆく結婚するのかもしれない俺等の付き合いを反対した。志保が一つ年上だったからだ。世間体を重視していたのだ。
しかし最初こそ反対されたが、徐々に徐々に志保は、俺の母の心を開いていった。ついには二人で旅行に行くにまで至った。
俺の記憶には今でも鮮明に焼きついている。志保を見るときに見せた母の、あの笑顔。そして何より、志保の安堵した表情。
『しゅんちゃんは男の子だから、家でお留守番していてね。女二人でしか話せないこともあるんだから』
母の口からあんな言葉が出るとは俺自身、思ってもみなかった。その時志保は、母に認められたのだと思う。それが俺には自分の事のように嬉しかった。
その旅行の帰り、二人は帰らぬ人となった。
気づけば拳を握りこんでいた。皮膚が切れているのだろうか激痛が走るが、かまわない。痣だらけの手だろうが、母と志保はもっともっと辛い思いをしたのだから。
悔しさで飽和した俺の心は、やがて痛みを受け付ける隙間も許すことはなくなった。