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荘太は千夜の部屋を出ると、階段を駆け下りていった。一階に戻ると、先程は通らなかった奥の方へ向かう。
そこは、洋風なこの家にただ一つの和室だった。荘太は、襖の前に立って呼吸を整える。この部屋に入る時はいつも緊張してしまっていた。
意を決してゆっくりと襖を開ける。そして敷居をまたがず、そのまま声をかける。
「朝だよーそろそろ起きませんかー」
奥の布団で眠る人物からの答えはない。声がむなしく部屋の中に響いた気がした。
「はー……。やっぱりだめかあ」
荘太はあきらめて部屋の中に足を踏み入れた。布団が敷かれ、板の間に本が並べられているほかには見当たるものがないほど簡素な部屋だった。そろりそろりと近づいていく。中ほどまで来るともう一度呼んでみた。
「朝ですよー。そろそろ起きませんかー」
やはり返事はない。荘太は悲しくなった。それでもまた距離を縮めてく。
布団まであと一歩、というところで、さっきまでぴくりともしなかった布団が大きく跳ね上がった。しまった、と思ったときにはもう遅かった。足を取られた瞬間に荘太の体は畳の上に投げ出されていた。
仰向けになった荘太の目に、明るい栗色の長い髪がなびいて見えた。
「……荘太?」
凛とした声が降ってきた。のぞきこんでくる大きな瞳は色素が薄く、澄んでいる。
荘太は体を起こした。
「万葉!毎朝毎朝寝ぼけて人を投げるな!」
「……ごめん」
この神高家の二女、万葉はあらゆる武術を修めている。その儚げな容姿からは想像できないが、普通の男子高校生である荘太はもちろんのこと、大柄の男も軽く倒してしまうほどだ。度々変な男が寄ってきても自分で自分の身を守ってしまうので、荘太は男である自分の立場がないといつも思っている。しかし、それは昔からのことで、今は本人の好きなようにさせている。
「どうしても体が勝手に動いてしまうから」
万葉がぽつりと言った。
「はー……いつになったら俺は投げ出されずにすむんでしょうね」
「大丈夫。受身がだんだん上手くなってる」
「いや、そういうことじゃない」
荘太は即座につっこんだ。万葉の発言はどこかずれていることが多い。それも昔からだった。
「と、じゃあ、俺もう行くから」
朝練まで時間がないことを思い出し、荘太は部屋を出て行こうとした。しかし。
「もう、行くの」
「うん。そろそろ出ないとまずいから」
「ねえ」
「何」
「一限の数学当たる」
「知ってる」
二人は同じクラスだ。
「教えて」
荘太の頭にかっと血がのぼった。こんな急いでるときに言うな!
「無理。ほんとーに時間ない。早く行って明良あたりに教えてもらって」
「荘太の方がわかりやすい」
「今日は無理。教えてほしかったらもっと早く……」
荘太はぎょっとした。万葉の目がとても悲しそうだったからだ。荘太は乱暴に頭をかき混ぜた。
「わかった。朝練終わったら教えてやるから。それまでに自分で出来るところはやっておくこと」
「うん」
万葉の顔が明るくなった。あまり感情が顔に出る方ではないので、クールなどと人からは言われているが、長年の付き合いから、荘太は少しの表情の変化で万葉の気持ちが手に取るように理解することができた。
「じゃあ、またあとで」
今度こそ荘太は部屋を出て行った。万葉の耳に母の瑛子に挨拶する声と玄関の扉が閉まる音が遠くで聞こえた。万葉はつぶやいた。
「なんで今日そんなに時間なかったのかな」
「新曲聞かせたから」
突然割り込んできた声に、万葉は片眉をあげた。
「愛姉」
妹に不機嫌そうな顔を向けられても、愛貴は気にするそぶりを見せなかった。
「別にいいでしょー?たまには」
「……よくない」
「もー、荘太はあんただけのものじゃないのよ」
愛貴は呆れ声で言った。
「そうだ。しかしそれもあんまり伝わってないな」
いつの間にかいた彩貴が言った。千夜と一夜もぞろぞろと部屋に入ってくる。
「彩兄……」
「もー彩兄ー、それはー前からでしょー?いまさらー」
千夜がさらに傷をえぐる。一夜があわてて言った。
「でも、万姉、いいじゃん。勉強教えてくれるんでしょ。特別だよ」
一夜は一番下ながらこの兄弟の中で唯一気を使える人物だった。
「ありがとう、一夜」
万葉は心が温かくなった。弟は優しい子だ。
「でもーいいかげんーどうにかしたらあ?」
落ち着いたように見えた空気を千夜がぶち壊した。それに彩貴も賛同する。
「そうだな。恋人になってもいないのに自分だけにかまってほしいなどとずうずうしいにもほどがあるだろう」
万葉はぐうの音も出なかった。それはずいぶんと前から自覚していた。しかし長年の関係を変える勇気がないままだった。そうしてぐずぐずしている間に、いつしか自分の恋心を兄弟たちに知られてしまっていた。
万葉は長い間黙ったあと、これだけ言った。
「……着替えるから全員出ていけ」
おそらく次からは話が動き始めるはず、です。