百歳客家
宮城より西に二里ばかり行ったところに、『百歳客家』という屋敷があった。
客家とは南方の風習で、円形、または回の字状に作られた三、四階建ての家屋のことで、中心に廟があり、それを見下ろすように内側に面して回廊がある。外側は煉瓦や石積みで城塞のように厳格に閉じていた。
その家屋がなぜ北京にあるのかといえば、一族の祖にあたる人物は福建の出身であり、蔵を兼ねてここに伝統的な土作りの客家を建てた。一代で豪商と呼ばれるほどに栄えたが、さらに歳を重ねて隠居をすると、皇帝が親しみをこめて『万歳爺』と呼ばれるのになぞらえて、人々は彼のことを『百歳爺』と呼んだ。
それが『百歳客家』の由来である。
始祖より何代か後、清朝の中期。
李花は九千九百九十九万九千九百九十九両で百歳爺の八人目の孫息子に嫁ぐことになった。しかし実際に支払われたのは九十両の銀貨の袋五つだったが、靴職人である李花の父にとっては数年分の稼ぎに相当した。
それでも豪商で鳴らす燕家の嫁にしては少ないほうで、現在の『奥様』など参議の家柄の出であるから、九百九十九両の袋三つを結納金としたそうだ。
燕家の基礎は、始祖の代にほぼ築き上げられた。元々、南を拠点に北に結んで交易していたが、北京に客家を建ててのち、宮城へ品物を納める権利を手に入れようと企んだ。
なかなか取り入るきっかけが得られずにいたが、始祖はそこで一計を案じた。十歳になる自分の次男を浄身することにした。つまり男の徴を切り落として、宦官にするのである。
浄身後、療養も兼ねて三年の間、宦官としての教育を受けさせたあと、役人たちに心付けをばらまき、どうにか後宮に仕官がかなった。幸い一人の皇妃の寵愛を得て、以後百歳爺は贅沢品を後宮に商う権利を得た。
以後、一族のなかで見目の美しい利発な男子が産まれると、その両親の家内の序列に関係なく浄身させた。そして後宮に仕官がかなえばその者が燕家の次男である。燕家が商家として繁栄してのちも、後宮とのつながりは絶ちがたいものとなっていた。
李花の婚礼の席は一応燕家の格式をもって行われた。この煤けた赤の花嫁衣装を着るのは李花で十五人目。近くで見ればところどころの金糸が抜けていて、縁起物の模様は不完全な形のままである。この衣装とともに実家に手伝いに来たすぐ上の嫁は、二年前に燕家の『次男』の正夫人である春蘭が嫁入りしたときに身につけていた衣装のすばらしさを、花嫁仕度の間ずっと話していた。百歳客家では、宦官として後宮に仕える者を『次男』の座に置き、隠居の百歳爺、現当主に次ぐ地位を与え、『若様』と呼んだ。
花嫁行列が百歳客家に到着すると、李花は一室に通された。そこで、李花は真新しい花嫁衣装に着替えさせられた。
「まあ、これは春蘭様のご衣装だわ」
付き添いの嫁が嘆息した。先ほど、夢見るように語っていたあの衣装がこれなのだろう。
「まだ正真正銘の若い娘さんなのだから、あの衣装ではかわいそうと春蘭様が」
衣装を持ってきた叔母がそう云った。
あらためて百歳爺のもとに挨拶に行くと、百歳爺の片脇に、李花よりすこしばかり年上の美しい娘が座っていた。あれこそ若様の夫人である春蘭なのだろう。主役である李花など霞んでしまうほどに華やかな、淡い桃色と若草色が鮮やかに刺繍された服を着けている。
一方、『奥様』の片脇にいるのは、嫁の英華で、決して見劣りする仕立てではなかったが、良家の夫人に相応しい慎ましやかな色合いである。
英華はいずれ燕家の令夫人として跡取りを産み、燕家を支える。
だが、宦官の嫁である春蘭にはそれがない。
『官』であるからには俸禄もある。夫人を迎えることも珍しくはない。だが、夫人が子をなすことはない。もし子が出来れば、浄身が偽りであるか、夫人が浮気したかのどちらかであるから。
その身の上を考えれば、娘のように着飾ることぐらいは許されよう。
廟の前で婚礼を終え、夫と二人で列席する百歳爺と百歳婆に三礼三拝の挨拶をする。百歳爺の片脇で春蘭が優しくにっこりと微笑んでくれた。桃の花の綻ぶような美しい笑顔なので、李花は思わずぼんやりと見とれてしまった。
「まあ、どうしたの、花嫁さん」
その見た目には似合わないすこしばかり低く掠れた声に、李花はっと我に返った。
豪商たる燕家の奥方の一人とはいえ、末席の李花は嫁いだ翌朝から、陽が昇るより早く働かねばならなかった。夫は他の部屋で酔いつぶれたらしく、初夜の床に訪れることもなしだったので、李花は待ちくたびれて夜半過ぎにすこしうとうとしただけで、明け方ようやく戻って来た夫に起こされた。
燕家は家風として親族以外の者は信用しなかった。商売用の店は他所に構えてそこに多くの使用人を置いたが、その財を蓄えるには城塞のような客家で、安易に使用人を家の外から雇い入れたりはしなかった。妾腹の子、孫の身分の者を雑用に当たらせた。
李花の夫は、旦那様の第三夫人のそのまた三男だったから、仕事は下男のすることも同然で、家畜の世話が主な仕事だ。
李花は炊事場に行くと、他の端下の嫁たちとともに百名余りに及ぶ大家族の食事の仕度を手伝った。
一家の朝食が済むと、とたんに李花は忙しくなる。
李花が嫁に迎えられた第一の理由は、纏足の施術が上手いことである。
靴職人の父は、纏足靴の底を作る名人で、母が布に綺麗な刺繍を施したのを、父が靴に仕立てていた。そして同居の祖母は纏足の施術の名人で、余所から頼まれるほどであった。良家では娘が七歳ほどになると、足の甲を折り曲げて、ぎちぎちと結わえ、足の膿が綺麗になるまでちゃんと様子を見守った。布が緩めば美しい蓮の蕾にならず、洗い方が悪ければ、未来の夫が頬を寄せるに相応しい艶めかしく香しい柔足とはならない。美しく香しい纏足を『金蓮』と呼ぶが、李花は祖母よりその術を受け継いでいた。
足を美しく保つのも女の嗜みだが、良家の夫人ともなれば、纏足を洗うのは使用人の仕事となる。だが、燕家では使用人を置かないので、李花が嫁買いされたのである。
李花は、まず緊縛されはじめた小さな女の子たちから足を洗ってやった。明礬をはじめとする薬の入った、消毒と消炎を兼ねた湯に足を浸して丁寧に洗ってやると、娘たちは束の間のほっとした顔をする。不自然に折り曲げられた足にはいくつも膿が出て、その傷口を綺麗にする。酷いところには赤い膏薬を塗り、再び緊縛するときには泣き叫んだりもする。
だが、きつく縛らねば余計に傷むので、李花は容赦をしない。
子供たちの施術が済むと、昼の軽い飲茶を取り、午後から最上階にある四つの大きな部屋に住む夫人たちの足を洗いに行く。
百歳婆の足を洗っていると、李花に、この家で見聞きしたことは、決して外では話してはならないと繰り返し釘を刺された。元々、李花にはそんな気持ちは毛頭なかったが、敢えて云われるからには、それなりの秘密があるのだろう。李花は好奇心よりも、なぜか胸の奥に嫌なものを感じて仕方なかった。
続いて当家の『奥様』や、若旦那の正夫人のもとへ足を洗いに行ったのだが、緊張しすぎて何を話す余裕もなかった。
そして、最後に春蘭の部屋の前に立った。
春蘭は李花が来たのを知ると、ほかの夫人たちのように奥で待たずに、戸口まで駆け寄って出迎えた。早速春蘭に昨日の衣装の礼を改めて述べると、春蘭はまたあの柔らかい微笑みを浮かべて嬉しそうに笑う。
「あなたは本当に綺麗ですもの。あの衣装も、本当の花嫁を飾ることができて喜んでいるのよ」
宦官の嫁は子を産まぬから、本当の花嫁ではないと云いたいのだろう。李花はその心を思いやり同情する。
戸口から手を引かれて中に入ると、他の部屋と同様にいくつかの小部屋に仕切られていた。中廊下を春蘭のあとについて奥に案内されるのだが、前を往く細い腰はまさに柳のようでしなやかに揺れ、ゆったりとした部屋着を着ていても隠れるものではない。
春蘭の部屋は最上階にある他の部屋のように金色のキラキラした壁掛けやら衝立はなく、落ち着いた色合いをした家具のなかで、異国の変わった飾り物などが不思議な雰囲気を醸しだしていた。
寝室に案内された李花は、さっそく足を洗う仕度に取りかかった。部屋の火桶の上で滾る湯を使い湯桶の用意をすると、寝台にゆったりと腰掛ける春蘭の足を取った。美しい刺繍が施された外靴を外し、中靴を取る。そして硬く捲かれた緊縛を解く。素の纏足をさらすのは、女の秘部をさらすのと同じことだ。
白布を解いて現れたのは、それは見事な金蓮であった。小さく、両手で包んですっぽりと隠れてしまう小さな足だった。薬湯の中でほんのりと赤みのさす柔らかな足を丁寧に洗うのだが、美しい見た目とは裏腹に、手の中で感じるはずのふっくらとした感触が物足りない。
「あのね、知ってるかしら。今の万歳爺(皇帝)は女性よりも男のほうが好きなのよ」
どういう話からそんな話に転んだのかわからないが、春蘭の一方的な世間話は唐突にそんな話題になった。
「──若様はね、一族の妾の男の子に纏足をして、万歳爺に差し出そうとしたことがあるの。七歳になってすぐに、腕利きの纏足婆に託して。その子は客家の外で育ったのよ」
ああ、そういえば、と李花は昔祖母が男の子に纏足を施したという話を聞いたことを思い出した。
「ああ、それなら、もしかしたら私のお婆ちゃんのことかもしれません」
春蘭の足を洗い終えた李花は白布で滴を拭き取った。天花粉をはたいて仕上げ、緊縛の布を捲こうとすると、春蘭が李花の手を止めた。
「すこし足が痛むの。もうしばらく素足でいるから、李花も一緒にいてね。私の隣にお座りなさいな」
序列として下のほうの自分などがと思いながら立ち尽くしていると、李花の腰は春蘭の腕に抱えられ、引っ張られるように寝台の上に座らされた。
「そうそう、あなたも靴を脱げば良いわ」
勢い余ってふわりと浮き上がった足を取られると、するすると李花の緊縛が解けてしまった。
「やめてください……」
「ああ、やはり美しくふっくらとした金蓮。李花のお婆さまの腕は確かなのねえ。なんていい匂いなの」
濡れた春蘭の唇が、柔らかく突きだした李花の親指を口に含むのを感じて、李花はようやく自分の操に危機がせまっていることを感じた。甘噛みされ、舌を這わされると、背筋がぞわりとした。
寝台に横たえられた李花がそこから逃げだそうと抵抗する、女とは思えない力で両腕を縫い取られると、膝を割られ、美しい羅の布地で仕立てられたの春蘭のゆったりとした服が李花を覆っている。
「『僕』は後宮で一晩だけ陛下にお仕えしたんだけど、お気に入りにはなれずに帰された。でも、この足ではもう男として生きることができないんだよ。浄身してないのにね」
李花を見下ろすその顔が、低い声に似つかわしい男の表情になった。
「──だから、お婆さまは若様の嫁にして、女としてここで暮らす道を開いてくれたのだけど、身体が男のままだから、僕もお嫁さんが欲しくなったんだよ」
がたがたと震えていたが抵抗をやめた李花の頬を、美しく飾られた爪を持つ指が撫でた。
「泣いているの? 許してね。ずっと好きだった人を驚かせてしまった」
撫でたそこに、春蘭の唇が触れた。
「男の子だった最後の日に、僕は李花に会ったんだ。纏足婆の家で李花の名を知ってから、ずっとその名を呼んでいた。ずっと好きだった。だから、僕はあなたを妻にする」
李花はそのとき、万歳婆に釘を刺された燕家の秘密を知った。浄身していない者が後宮に入ることなど許されないのだ。たとえ、見た目は完璧な「娘」であっても。
数年後、李花は美しい男の子を産んだ。
一族の変わらぬ繁栄を願い、その子は間違いなく浄身して宮中に上がるのだろうと噂されていたが、春蘭はそれを聞いて表情を曇らせた。そしてある日、李花に宝石を渡してひそかに百歳客家から外に出した。李花は春蘭の気持ちを受けて遠くの町まで逃れると、そこでひっそりと暮らし、息子を育てた。
年が明けると居なくなった二人を捜す者もいなくなった。中庭の李の花が満開を過ぎて散りはじめると、春蘭は外壁の窓から身を投げて死んだ。