灰色の修道女
灰色の修道女
第1章 ベーカー街
その朝のベーカー街二二一Bは、珍しく平穏だった。
ロンドン特有の薄い霧が窓の外を漂い、通りを行き交う馬車の音がかすかに聞こえてくる。
私は暖炉の傍らの椅子に腰掛け、朝の新聞へ目を通していた。クリミア戦争以来の習慣だが、一日の始まりは紅茶と新聞がなければ落ち着かない。
もっとも、私の同居人にはそうした習慣はない。
シャーロック・ホームズは窓際の実験台に向かい、試験管と薬品の並ぶ混沌とした世界へ没頭していた。
白い煙が細く立ち上る。
ホームズは試験管を目の高さへ掲げると、真剣な表情でその変化を観察した。
「ホームズ、今度は何をしているんだ?」
私が尋ねると、彼は振り返りもせず答えた。
「煙草の灰に含まれる微量金属の研究だよ。」
「また灰かね。」
「また灰だ。」
ホームズは平然と言った。
「スコットランドヤードの連中は、いまだに足跡と自白ばかり追いかけている。だが犯人は常に何かを残すものだ。灰であれ泥であれ、人は自分という存在を完全には消せない。」
そう話しながら彼は試験管へ薬品を一滴落とした。
液体は淡い青色へ変化した。
「なるほど。」
ホームズは満足そうに頷く。
「また何か発見したのか?」
「いや、むしろ仮説が一つ間違っていたことが証明された。」
「それで満足そうだな。」
「失敗した実験ほど有益なものはないよ、ワトソン。」
私は苦笑しながら新聞の続きを読み始めた。
暖炉の上にはホームズの郵便物が無造作に積まれ、ペルシャのスリッパには煙草が詰め込まれている。
化学薬品の匂いとパイプ煙草の香りが混じり合い、ベーカー街独特の空気を作り出していた。
長年暮らした今では、その雑然とした光景さえ私には心地良く感じられる。
その時だった。
階下の玄関扉が開く音がした。
続いて、ミセス・ハドソンの声。
さらに、重々しい足音が階段を上ってくる。
私は新聞から顔を上げた。
「依頼人かな?」
しかし、ホームズは試験管を置いたまま微かに笑った。
「いや。」
「その足音は知っている。」
「百七十ポンド以上の体重。仕立ての良い靴。急いでいるが運動不足。そして今朝は機嫌が悪い。」
彼は暖炉の前へ移動しながら言った。
「兄さんだ。」
次の瞬間、二二一Bの扉が勢いよく開いたのである。
一人の巨漢の紳士が部屋へ入ってきた。
マイクロフト・ホームズである。
しかし、その表情は明らかに不機嫌だった。
ベーカー街二二一Bへ辿り着くには十七段の階段を上らなければならない。どうやらその十七段が、彼の機嫌を著しく損ねたらしい。
巨体のマイクロフトはひどく息を切らし、ハンカチで額の汗を拭うと、まるで国難に直面した宰相のような深い溜息を吐いた。
「シャーロック、お前のこのおぞましい住居はどうにかならんのか」
そう言いながら彼は部屋を見回した。
「化学薬品の臭いといい、この階段の数といい、人間の住む場所ではないぞ」
椅子に腰を下ろす前から不機嫌を隠そうともしない。
私は慌てて立ち上がった。
以前にも一度会ったことはあったが、ホームズ自身が「イギリス政府の脳髄」と評した男が、こうして我が家へ現れるだけでも異常事態である。
私は部屋で最も頑丈そうな肘掛け椅子を勧めた。
マイクロフトは重そうに身を沈めると、挨拶もそこそこに弟へ視線を向けた。
「シャーロック。私が自らここへ来た理由は分かるな?」
突然の問いだった。
だがホームズは驚きもせず、むしろ心底愉快そうに笑みを浮かべた。
「おや、太陽が西から昇ったのかな。それともホワイトホールが火事にでもなったかい?」
彼はパイプを指先で弄びながら続けた。
「あのマイクロフトが、自分の意思で馬車に乗り、ベーカー街の泥を踏み、この階段を上って来るなんてね。そこまで君を追い詰めたのは、一体どこのどなただい?」
マイクロフトは鼻を鳴らした。
「お前も毎日、隅々まで新聞を読んでいるのだろう、シャーロック。今この瞬間、紙面を賑わせている事件のうち、私が関与しているものがどれほどあるか、お前なら把握しているはずだ」
そう言うと、苛立たしげにコートの襟を緩める。
ホームズはパイプへ火を点けた。
「ざっと五件といったところかな、マイクロフト。」
マイクロフトの眉が僅かに動く。
「そのうち四件は、君が安楽椅子から一歩も動かずに片付けられる机上の問題だ。」
ホームズは煙を吐いた。
「だが残る一件だけは違う。」
「ほう?」
「どれほど優れた頭脳を持っていても、現場へ赴き、泥を踏み、証拠を拾わなければならない。」
ホームズは愉快そうに笑った。
「言うなれば、『犬の鼻』が必要な事件だ。」
私は二人の会話についていけず、交互に顔を見比べた。
その様子に気づいたのか、マイクロフトがこちらへ向き直った。
「ワトソン君。今朝のタイムズを取ってくれたまえ。」
私はテーブルの上の新聞を手渡した。
しかし彼は受け取ろうともしない。
「三面の下段だ。」
私は言われた箇所へ目を落とした。
「名門女子寄宿学校セント・アグネス校で生徒一名が失踪。警察は家出として捜査中……」
「その下。」
「同校教師の突然の辞任。体調不良によるもの、とあります。」
「さらに下だ。」
私は眉をひそめた。
「元外交官ヘンリー・ラドフォード卿の死亡記事ですね。」
「そうだ。」
マイクロフトはゆっくり頷いた。
「さて、シャーロック。お前ならこの三つの記事から何を見る?」
ホームズは一瞥しただけで答えた。
「簡単だよ。」
「失踪した少女は家出ではない。」
「教師の辞任も事実ではない。」
「そして外交官の死は偶然ではない。」
私は思わず声を上げた。
「何だって?」
ホームズは肩をすくめた。
「問題は、その三つがどう繋がっているかだ。」
そしてパイプを口元へ運ぶ。
「だが一つだけ確かなことがある。」
彼は兄を見た。
「兄さんが自らベーカー街へ来たということは、その糸の先がホワイトホールまで伸びている。」
部屋に沈黙が落ちた。
やがてマイクロフトは深々と溜息を吐いた。
「まったく……。」
巨漢の兄は苦々しげに言った。
「だから私はお前を嫌うのだ、シャーロック。」
しかし、その声には僅かな諦めと、弟の才覚への隠しきれない評価が滲んでいたのである。
マイクロフトはしばらく黙っていた。
やがて観念したように大きく息を吐く。
「その失踪した少女の名は――シビル・ローズベリー。」
私は思わず身を乗り出した。
「ローズベリー?」
「そうだ。」
マイクロフトは頷いた。
「現内務大臣ローズベリー卿の一人娘だ。」
私は思わず新聞へ視線を落とした。
ただの女子生徒失踪事件ではない。
内務大臣の娘が寄宿学校から姿を消したのである。
「なるほど。」
ホームズは静かに呟いた。
「ようやく兄さんがベーカー街の階段を登った理由がわかった。」
「内務大臣直々の内密依頼だ。」
マイクロフトは苦々しい声で言った。
「警察が無能というわけではない。しかし相手が相手だ。下手に公表すれば新聞は大騒ぎになる。野党は政争の具にするだろう。外国の連中に余計な憶測を与える可能性もある。」
彼は私を見た。
「つまり、表向きは単なる家出少女だ。」
そしてシャーロックへ視線を戻す。
「だから他の者に任せるわけにはいかなかった。」
「それで君が出てきたのか。」
ホームズの声には面白がる響きがあった。
「いや。」
マイクロフトは即座に否定した。
「だから私がここにいる。」
その顔には、まるで国家予算を単独で背負わされた財務大臣のような悲壮感が漂っていた。
「勘違いするな、シャーロック。私はすでに限界なのだ。」
そう言うと、肘掛け椅子へさらに深く身を沈めた。
「ホワイトホールから馬車に揺られ、この忌まわしい階段を十七段も上って来た。」
ハンカチで額を拭う。
「ここに来るのが私の活動限界だ!」
私は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
しかしホームズは遠慮なく声を上げて笑った。
「活動限界だって?」
「笑うな。」
「いや失礼。国家の命運を握る男が、たかが十七段の階段に敗北するとはね。」
「たかがではない。」
マイクロフトは真顔で言った。
「あれは建築上の暴挙だ。」
「なるほど。」
ホームズは頷いた。
「それで君は自ら捜査に乗り出す代わりに、私という便利な猟犬を使うことにしたわけだ。」
「ようやく理解したか。」
「報酬は?」
「内務大臣の感謝。」
「安いな。」
「なら断れ。」
「いや、面白そうだ。」
ホームズの灰色の瞳が輝いた。
私はその表情を見て悟った。
彼はすでにこの事件を引き受けることを決めている。
「それで兄さん。」
ホームズはパイプを置いた。
「シビル・ローズベリー嬢はいつから行方不明なんだ?」
マイクロフトの表情が初めて真剣なものへ変わる。
「三日前だ。」
「そして、ここからが本題になる。」
部屋の空気がわずかに変わった。
先ほどまでの兄弟の軽口が消え去る。
マイクロフトは低い声で続けた。
「少女が消えた夜、セント・アグネス校では奇妙な目撃証言があった。」
「ほう?」
「複数の生徒が、校舎内で『灰色の修道女』を見たというのだ。」
ホームズの口元に、獲物を見つけた猟犬のような笑みが浮かんだ。
「怪奇現象か。」
「くだらん。」
マイクロフトは吐き捨てた。
「私もそう思う。」
「だが、シビル嬢はその翌朝、跡形もなく消えた。」
部屋に沈黙が落ちた。
そしてホームズは静かに立ち上がった。
「ワトソン。」
「何だね?」
「どうやら退屈な日常は終わりらしい。」
そう言って彼は窓の外の霧深いロンドンを見つめた。
ホームズは「セント・アグネス校か。悪くない」と呟くと、自室へ支度に向かった。
階段を上がる足音が遠ざかる。
私は旅行鞄の準備でも始めようかと思ったが、その時だった。
「……ワトソン君」
不意にマイクロフトが私を呼び止めた。
先ほどまで不機嫌そうに肘掛け椅子へ沈んでいた巨体が、いつの間にか立ち上がっている。
帰ろうとしていたらしい彼は、ドアノブへ手を掛けたまま私を見ていた。
「どうしました、マイクロフト?」
私が尋ねると、彼は珍しく言葉を選ぶように沈黙した。
やがて低い声で言った。
「あの男を――よろしく頼む。」
私は思わず目を瞬かせた。
「ホームズを?」
「他に誰がいる。」
そう言ったものの、その声にはいつもの皮肉も傲慢さもなかった。
マイクロフトは窓の方へ視線を向けた。
「あいつは自分の能力を過信するような愚か者ではない。」
「しかし、自分の肉体に対しては驚くほど無頓着だ。」
彼は苦々しげに続けた。
「一度事件に熱中すれば食事を忘れる。睡眠を忘れる。挙げ句の果てには、自分が疲労していることさえ忘れる。」
「それは確かに……。」
私には反論できなかった。
何度も見てきた光景だからだ。
「あいつにとって脳は最も重要な道具だ。だが、それを支える身体を粗末に扱う。」
マイクロフトは鼻を鳴らした。
「実に非合理的だ。」
そう言いながらも、その眼差しには兄としての憂慮が滲んでいた。
「それに今回は相手が悪い。」
彼は静かに言った。
「ローズベリー閣下が私へ助けを求めてきた。それだけでも十分異常だ。」
「そうなのですか?」
「あの人物は自ら問題を解決する側の人間だ。」
マイクロフトはゆっくり首を振った。
「それが助けを求めた。」
「つまり事態は、見た目ほど単純ではないということだ。」
私は少し背筋が寒くなるのを感じた。
先ほどまでの兄弟の軽口とは違う。
英国政府の中心にいる男の、本音だった。
マイクロフトは私を真っ直ぐ見た。
「シャーロックがどれほど優れていようと、背後から飛んでくる弾丸までは推理できない。」
「……。」
「現場であいつの隣にいるのは君だ。」
その灰色の瞳がわずかに和らぐ。
「ホワイトホールの私ではない。」
そして彼は小さく頷いた。
「頼んだよ、ワトソン君。」
その言葉は、英国政府の高官としてではなく、一人の兄としてのものに聞こえた。
「もちろんです。」
私は即座に答えた。
「ホームズは私が見ています。」
「そうか。」
マイクロフトは短く言った。
だが、それで十分だったらしい。
その時、階上から足音が聞こえてきた。
次の瞬間には、マイクロフトの表情はすっかり元に戻っていた。
先ほどの感情など存在しなかったかのように。
ホームズが帽子とステッキを手に部屋へ入ってくる。
「待たせたかな?」
「いや。」
マイクロフトは素っ気なく答えた。
「ではな、シャーロック。」
そして弟を一瞥する。
「無駄に泥を服へ付けて帰ってくるなよ。」
ホームズは笑った。
「それは保証できないな。」
「だろうと思った。」
マイクロフトは深々と溜息をつき、扉へ向かった。
こうして英国政府の脳髄は、十七段の階段という難敵に再び挑むため、不機嫌そうな足取りでベーカー街を後にしたのである。
第2章 列車の旅
ロンドンを発った列車は、灰色の煙を吐きながら南東へと進んでいた。
窓の外では煉瓦造りの家並みが次第に姿を消し、代わってなだらかな牧草地と石垣が続いている。
向かいの席ではホームズが長い脚を組み、目を閉じていた。
一見眠っているように見えるが、私はそれが思考中の姿勢であることを知っている。
しばらく沈黙が続いた後、私は耐えきれず口を開いた。
「ホームズ。」
「うん?」
目は閉じたままである。
「一度整理してくれないか。」
「何をだい?」
「今回の事件だよ。」
ホームズは薄く笑った。
「君はいつも読者の代弁者だな、ワトソン。」
「そうかもしれん。」
「では整理しよう。」
彼はようやく目を開いた。
「現在判明している事実は四つ。」
一本の指を立てる。
「第一に、シビル・ローズベリー嬢が三日前に失踪した。」
二本目。
「第二に、その直前にセント・アグネス校の教師が突然辞職している。」
三本目。
「第三に、元外交官ヘンリー・ラドフォード卿が死亡した。」
そして四本目。
「第四に、複数の生徒が“灰色の修道女”を目撃している。」
私は頷いた。
「確かに。」
「問題はこれらが一つの事件なのか、それとも複数の事件が偶然重なっただけなのかだ。」
「私は一つの事件だと思っている。」
「なぜだ?」
ホームズは窓の外へ目を向けた。
「偶然は一度なら起こる。」
「二度でも起こる。」
「だが三度続くと、それは誰かの意思だ。」
「つまり何者かが動いている?」
「その可能性が高い。」
私は腕を組んだ。
「しかし、失踪した少女と外交官に何の関係がある?」
「そこだよ、ワトソン。」
ホームズの灰色の瞳が鋭く光った。
「そこだけが見えない。」
「だから面白い。」
私は苦笑した。
どうやら彼は完全に事件へ夢中になり始めているらしい。
「シビル嬢とはどんな人物なんだ?」
私が尋ねると、ホームズは背もたれに身を預けた。
「兄さんから聞いた話によれば、十七歳。」
「年相応のお嬢さんかね?」
「いや、むしろ年齢以上に聡明らしい。」
「ほう。」
「語学は優秀。歴史と政治にも関心がある。討論好きで、教師相手にも平気で意見を述べるそうだ。」
「なかなか気の強そうなお嬢さんだな。」
「気の強いというより、頭の回転が速いのだろう。」
ホームズは窓の外へ目を向けた。
「少なくとも、理由もなく家出をする類の人物ではない。」
「つまり失踪には何か訳がある。」
「その可能性が高い。」
私は頷いた。
そうでなければ、内務大臣が密かにマイクロフトへ助けを求めたりはするまい。
「ローズベリー卿はどんな人物なんだ?」
「有能だ。」
ホームズは即答した。
「兄さんよりも有能かね?」
「それは難しい質問だな。」
私は笑った。
「君は答えられないのか。」
「兄さんが聞いていないことを祈るよ。」
ホームズはわずかに口元を緩めた。
「ローズベリー卿は現在の政界でも有数の実力者だ。」
「政敵も多いだろう。」
「その通り。」
彼は指先で窓を軽く叩いた。
「内務大臣の一人娘が失踪したとなれば、それだけで政治問題になりかねない。」
「だから公に騒ぎ立てられないのか。」
「そういうことだ。」
しばし沈黙が流れた。
列車は森の中を走り続けている。
やがて私は思い出したように尋ねた。
「ところで、その灰色の修道女というのは何なのだ?」
「もちろん幽霊ではない。」
「即答だな。」
「もし本物の幽霊なら、兄さんは私ではなくカンタベリー大主教を呼んでいる。」
私は思わず笑ってしまった。
「確かに。」
「だが。」
ホームズはそこで少しだけ表情を引き締めた。
「この怪談は重要だ。」
「なぜ?」
ホームズは肩をすくめた。
「地元では古くから伝わる怪談らしい。」
「というと?」
「修道院だった時代、この地にひとりの尼僧がいた。」
「ふむ。」
「彼女は禁じられた恋をしたとも、あるいは修道院の秘密を知ってしまったとも言われている。」
「なるほど。」
「そしてある夜、忽然と姿を消した。」
「それ以来、その亡霊が現れるというわけか。」
「そうらしい。」
私は窓の外の曇天を見やった。
「いかにも古い修道院らしい話だ。」
「怪談というものはね、ワトソン。」
ホームズは静かに言った。
「真実から生まれる場合もあれば、真実を隠すために生まれる場合もある。」
「今回は後者だと?」
「まだ分からない。」
彼は細く目を閉じた。
「だが私は、誰かが意図的にその伝説を利用している気がしてならない。」
列車は大きく揺れながら森を抜けた。
窓の外には深い広葉樹林が広がり、その向こうには曇天の下、なだらかな丘陵が霞んで見える。
やがて丘陵の向こうに銀色の海が現れた。
曇天の下のイギリス海峡は鉛色に沈み、海から吹き上げる霧が白い帯となって谷間を這っている。
ホームズはその景色を眺めながら静かに言った。
「シビル・ローズベリー嬢は生きている。」
「そう思うのか?」
「兄さんの態度がそう教えてくれた。」
「どういう意味だ?」
「もし死体が発見されていたなら、あの男はもっと冷静だった。」
そう言うとホームズは再び目を閉じた。
「だから我々は間に合う。」
「少なくとも今のところはね。」
私はその言葉を聞きながら窓の外へ目をやった。
やがて丘陵の向こうに銀色の海が見えた。曇天の下のイギリス海峡は重々しい鉛色をしており、海から吹き上げる霧が白い帯となって谷間を這っている。
その霧の向こうのどこかに、シビル・ローズベリー嬢の消息を知る者がいるのかもしれなかった。
列車は長い汽笛を鳴らし、セント・アグネス校の最寄り駅へと近づいていったのである。
セント・アグネス女子寄宿学校は、東サセックス州ルイスの南方数マイルに位置する名門校である。
海を望む丘陵地帯の高台に建てられたその学園は、十八世紀に閉鎖された旧修道院を改築したものであり、古い石造りの回廊や尖塔、礼拝堂などに修道院時代の面影を色濃く残していた。
眼下には深い森が広がり、その先にはイギリス海峡が見渡せる。晴れた日には白い帆船の姿も望めるが、海霧が立ち込める夜には校舎全体が霞の中へ沈み込み、まるで俗世から切り離された孤島のような姿を見せるという。
ロンドンから列車で数時間という距離にありながら、その閉ざされた環境と厳格な教育方針によって、古くから貴族や閣僚たちの娘を預かる学校として高い評価を受けていた。
もっとも、生徒たちの間では別の理由でも知られている。
夜更けに灰色の修道女を見た者には災いが訪れる――。
旧修道院の時代から語り継がれるその伝説は、近年では単なる学園の怪談として扱われていた。
しかし、シビル・ローズベリー嬢の失踪によって、その名は再び不気味な現実味を帯び始めていたのである。
駅へ降り立った我々を迎えたのは、潮の香りを含んだ冷たい風だった。
ロンドンではまだ秋の気配が残っていたが、この海辺の土地ではすでに冬が近づいているようにも感じられる。
ホームズは襟を立てると、駅前に待機していた馬車へ視線を向けた。
御者は我々の名前を聞くと帽子を取って会釈した。
「セント・アグネス校までお送りいたします、旦那様。」
「ありがたい。」
我々は馬車へ乗り込んだ。
車輪は湿った道を軋ませながら丘陵地帯を進んでいく。
やがて海を背にした森が現れた。
背の高い樫やブナが密集し、その枝葉は灰色の空を覆い隠している。
その様子を眺めていた私はふと思い出した。
「しかし不思議だな、ホームズ。」
「何がだい?」
「内務大臣の娘が失踪したというのに公表されている記事はずいぶん小さい。」
「むしろ当然さ。」
ホームズは窓の外を眺めたまま答えた。
「もしローズベリー卿の娘が誘拐されたと世間が知ればどう思う?」
「大騒ぎになるだろうな。」
「そうだ。そして最も困るのは犯人ではない。ローズベリー卿自身だ。」
「なぜだ?」
「内務大臣が自分の娘さえ守れなかったとなれば、政治的な打撃は計り知れない。」
私は頷いた。
なるほどと思う。
「だから家出ということにしているのか。」
「少なくとも現時点ではね。」
ホームズはパイプを取り出した。
「もっとも兄さんがベーカー街まで階段を上ってきたという事実だけで、この件がただ事ではないことは分かる。」
私は思わず笑った。
「確かにあれは国家的緊急事態だった。」
「うむ。あと三段多かったらイギリス政府は機能停止していたかもしれない。」
ホームズは極めて真面目な顔で言った。
私は吹き出したが、彼は本気でそう思っているらしかった。
やがて馬車は森の中へ入った。
木々の間から海霧が流れ込み、辺りを白く煙らせている。
御者が振り向いた。
「見えてまいりました。」
私は窓の外へ顔を向けた。
丘の頂上にそれは建っていた。
灰色の石で造られた巨大な建物である。
幾つもの尖塔が曇天へ突き刺さり、長い回廊と高い窓が連なっている。
修道院。
その言葉が真っ先に頭へ浮かんだ。
学校というより、中世の古城に近い。
周囲には深い森が広がり、その向こうには鉛色の海が見えた。
風に乗って遠くで鐘の音が響いている。
「なるほど。」
私は思わず呟いた。
「何だい?」
「灰色の修道女が出るという話も分かる気がする。」
ホームズは校舎を見上げた。
「ワトソン。」
「うん?」
「怪談が生まれる場所には二種類ある。」
「ほう。」
「本当に奇妙な場所と、人間が奇妙なことをしている場所だ。」
彼の灰色の瞳が校舎の尖塔を見据える。
「さて、このセント・アグネス校がどちらなのか――」
馬車はゆっくりと正門の前で停止した。
「それを確かめるために来たのさ。」
重厚な鉄門の向こうで、セント・アグネス女子寄宿学校が静かに我々を待ち受けていたのである。
第三章 セント・アグネス校
正門をくぐると、馬車は石畳の中庭へと進んだ。
校舎は近くで見るとさらに巨大だった。
灰色の石壁は長い歳月を物語り、尖塔は曇天へ向かって鋭く突き出ている。回廊の窓には鉛色の空が映り、海から吹き上げる霧が建物の足元を這っていた。
学校というより、むしろ古い修道院そのものだった。
馬車が玄関前で停まると、一人の老婦人が待ち構えていた。
黒いドレスに身を包み、背筋を真っ直ぐ伸ばしたその姿には、近寄りがたい威厳があった。
「ミス・ドロシア・ウェルズ校長ですかな。」
ホームズが帽子を取った。
「ええ。」
短い返答だった。
握手はしたものの、歓迎の色はほとんど見えない。
「ロンドンからお越しくださいましたことには感謝いたします。」
そう言って一拍置く。
「ただし、ここは女子寄宿学校です。」
その声には微かな警戒心が滲んでいた。
「生徒たちの平穏な生活を乱されることは望みません。」
私は思わず眉を上げた。
明らかに牽制である。
しかしホームズは少しも気を悪くした様子を見せなかった。
「それは結構です。私も騒ぎを起こすつもりはありません。」
「そう願います。」
校長はにこりともせず言った。
やがて我々は校長室へ案内された。
大きな暖炉が燃え、窓の向こうには海が見えた。
だが部屋の空気は決して暖かくなかった。
「まず確認したいことがあります。」
ホームズが言った。
「新聞記事についてです。」
「と言いますと?」
「ミス・マーガレット・アシュクロフト。」
校長の表情が僅かに動いた。
ほんの一瞬だったが、私は見逃さなかった。
「新聞では辞職されたと報じられていました。」
「そうでしたね。」
校長は平然としている。
「この記事は事実ですか?」
「半分は事実です。」
「半分?」
「体調を崩しておりましたので、一定期間職務から離れておりました。」
校長は少しも動揺した様子を見せない。
「ですが現在は復帰しております。」
「なるほど。」
ホームズは静かに頷いた。
「タイムズ紙は辞職と報じていましたが。」
「新聞記者というものは些細な違いを好まないようです。」
校長は冷ややかに言った。
「休職も辞職も、彼らにとっては同じなのでしょう。」
私は少し違和感を覚えた。
いや、それはずいぶん強引な説明ではないだろうか。
だが校長はまるで疑問の余地などないと言わんばかりである。
「現在も学校に?」
「もちろんです。」
「お会いできますか?」
「構いません。」
校長は机上のベルを鳴らした。
しばらくして扉が開く。
入ってきたのは三十代後半ほどの女性だった。
灰色の落ち着いたドレスを身につけ、知的な印象を受ける。
美人というよりは、温和で誠実そうな女性だった。
「ミス・マーガレット・アシュクロフトです。」
彼女は軽く会釈した。
「お会いできて光栄です、ミスター・ホームズ。」
「こちらこそ。」
私は思わず彼女を観察した。
この女性が例の教師なのか。
辞職したと報じられながら、今は何事もなかったように学校へ戻っている。
ますます分からなくなった。
「ローズベリー嬢とは親しかったそうですね。」
ホームズが尋ねた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
アシュクロフト先生の瞳が揺れた。
「ええ。」
「優秀な生徒でした。」
「失踪について何か心当たりは?」
沈黙。
ほんの数秒のことだったが妙に長く感じられた。
「……ありません。」
私はその答えを聞きながら、無意識にホームズを見た。
彼もまた彼女を見つめている。
だがその表情から何を考えているのか読み取ることは出来なかった。
ホームズが静かな動作でアシュクロフト先生に質問する。
「ローズベリー嬢にあなた以外に親しい人物はいましたか?」
「同じクラスのイーディス・フェアバーンと親しくしておりました。」
「仲の良い友人だったと記憶しています。」
「ええ。失踪した朝も最初に異変へ気付いたのは彼女でした。」
「なるほど」
やがて校長が話題を変えた。
「もっとも、生徒たちは失踪事件より別のことばかり話しております。」
「灰色の修道女ですか。」
ホームズが即座に言った。
校長は深いため息をついた。
「くだらない怪談です。」
「ですが広まっている。」
「ええ。」
「それもかなり。」
校長は不承不承頷いた
「生徒達は何でも幽霊のせいにしたがるのです。」
ウェルズ校長はそう言って肩をすくめた。
ホームズは微かに笑った。
「学校というものは昔から怪談の温床ですからね。」
「まったくです。」
「もっとも。」
ホームズはゆっくりと立ち上がった。
「その怪談が事件と無関係であると証明するのも、私の仕事でしょう。」
校長は慎重な視線を向けた。
「どうなさるおつもりですか。」
「校内を見て回りたい。」
ホームズは窓の外の尖塔を見上げた。
「生徒達への聞き込みも行いたいと思っています。」
校長の眉が僅かに動く。
「授業への支障は避けていただきたい。」
「もちろん。」
「女子寮への立ち入りは許可できません。」
「必要になれば改めて相談します。」
ホームズは穏やかに答えた。
その口調は柔らかかったが、一歩も譲る気がないことは私にも分かった。
数秒の沈黙の後、校長はため息をついた。
「分かりました。」
「学校内の調査を許可します。」
「ミスター・ホームズ。」
「学校内の調査を許可する以上、滞在場所も用意しております。」
「旧修道院の南棟にゲストハウスがあります。」
「来賓や理事が訪れた際に利用する建物です。」
ホームズは興味深そうに眉を上げた。
「それはありがたい。」
「もっとも。」
校長は厳しい視線を向けた。
「これは私の判断ではありません。」
「というと?」
「ロンドンからの強い要請です。」
その言い方に、私はマイクロフトの姿を思い浮かべた。
ホームズも同じだったらしい。
「なるほど。」
彼は口元をわずかに緩めた。
「兄は相変わらず抜かりがない。」
「学校の運営上、本来なら外部の方を校内へ宿泊させることは致しません。」
校長はきっぱりと言った。
「ですので、どうか生徒達への影響は最小限に。」
「もちろん。」
ホームズは軽く会釈した。
「我々も静かに過ごしますよ。」
その返答に、校長はあまり信用していないような顔をした。
アシュクロフト先生も静かに会釈した。
「何かお力になれることがあれば申し付けてください。」
「感謝します。」
ホームズはそう答えたが、その眼差しは相手を観察することをやめていなかった。
やがて我々は校長室を後にした。
重い扉が閉まると同時に、私は思わず息を吐いた。
石造りの回廊には他に誰もいない。
遠くから授業中の少女達の声だけが聞こえてくる。
「ホームズ。」
「何だい?」
「どう思う?」
「何についてかな。」
「決まっているだろう。」
私は振り返って閉ざされた校長室の扉を見た。
「あの二人だよ。」
ホームズは少し歩きながら答えた。
「校長も。」
「アシュクロフト先生も。」
「何かを隠している。」
私は思わず立ち止まった。
「やはりそう思うか。」
「少なくとも全てを語ってはいない。」
ホームズはあっさりと言った。
「校長は新聞記事の説明を急ぎすぎた。」
「私も同じことを思った。」
「そしてアシュクロフト先生は、ローズベリー嬢の話になった瞬間に表情が変わった。」
「つまり犯人か?」
ホームズは肩をすくめた。
「そこまでは言っていないよ。」
「だが。」
彼は窓から見える灰色の海へ目を向けた。
「二人とも、私達に知られたくない何かを抱えている。」
「それが事件の核心かもしれない。」
「あるいは全く別のことかもしれない。」
「どちらにせよ。」
ホームズは微かに笑った。
「ようやく面白くなってきた。」
そう言うと彼は回廊の奥へ歩き出した。
「まずは生徒達だ。」
「子供は大人ほど上手に嘘をつけないからね。」
こうして我々は、最初の証言者であるイーディス・フェアバーンに会うため、学舎の奥へ向かったのである。
授業中だったため、アシュクロフト先生は我々を図書室へ案内した。
図書室は古い修道院の書庫を改装したものらしく、天井まで届く本棚が並んでいた。西側の高窓から差し込む薄い陽光が、室内を静かに照らしている。
「フェアバーンさんを呼んで参ります。」
そう言い残してアシュクロフト先生は部屋を出て行った。
しばらくすると扉が再び開いた。
一人の少女が遠慮がちに入ってくる。
十六、七歳ほどだろう。
淡い栗色の髪を肩の辺りでまとめており、腕には二冊ほどの本を抱えている。
派手さはないが、どこか知的な印象を受けた。
「イーディス・フェアバーンです。」
アシュクロフト先生が紹介した。
「この方々がロンドンから来られた探偵さんです。」
少女は少し緊張した様子で頭を下げた。
「イーディス・フェアバーンです。」
「シャーロック・ホームズ。」
「ジョン・ワトソンだ。」
彼女は再び会釈した。
アシュクロフト先生は一瞬イーディスへ視線を向けた。
「知っていることを正直にお話しなさい。」
「はい、先生。」
その返事を聞くと、アシュクロフト先生は静かに図書室を退出した。
扉が閉まる。
ホームズはしばらくイーディスを観察していた。
だがその視線は決して威圧的ではなかった。
「フェアバーン嬢。」
「はい。」
「ローズベリー嬢とは親しかったそうだね。」
イーディスの表情が少し曇った。
「親友でした。」
「いつ頃から?」
「入学した年からです。」
「では彼女のことはよく知っている。」
「たぶん。」
少女は小さく頷いた。
「少なくとも、家出なんてする人ではありません。」
その言葉に私は思わず顔を上げた。
迷いのない口調だったからである。
ホームズも興味深そうに身を乗り出した。
「そう言い切れる理由は?」
「シビルは何かから逃げる人ではありません。」
イーディスは静かに答えた。
「むしろ危険だと思ったら、自分から向かっていくような人です。」
私は列車の中でホームズから聞いた人物像を思い出した。
どうやら誇張ではなかったらしい。
「失踪した朝、最初に異変へ気付いたのは君だそうだね。」
「はい。」
少女の顔から血の気が引く。
「朝食の時間になっても来なかったんです。」
「前日の夜は?」
「夕食の後で少し話をしました。」
「どんな話を?」
イーディスは少し迷った。
「変なことを言っていました。」
ホームズの目が細くなる。
「聞こう。」
「誰かが自分を見ている気がする、って。」
図書室の空気がわずかに変わった。
「具体的には?」
「分かりません。」
「本人も分からないと言っていました。」
「ただ――」
「ただ?」
イーディスは声を潜めた。
「その頃から、灰色の修道女の話がまた広がり始めていたんです。」
ホームズと私は顔を見合わせた。
ついに怪談そのものの証言が出てきたのである。
「灰色の修道女のお話をご存じですか、ホームズさん?」
イーディスは声を潜めて言った。
「いや。」
ホームズが答える。
「この学校がまだ修道院だった頃のお話です。」
少女は抱えていた本を胸元へ引き寄せた。
「今から二百年以上前、この修道院にはアグネスという若い修練女がいたそうです。」
「修練女?」
私が尋ねる。
「ええ。正式な修道女になる前の女性です。」
イーディスは頷いた。
「アグネスはとても真面目な人だったそうです。でもある夜、修道院で行われていた"何か"を見てしまった。」
「何か?」
「そこは誰も知りません。」
少女は小さく首を横へ振った。
「古い伝説では禁じられた恋だったと言われていますし、修道院の隠された財宝だったという話もあります。」
「随分と曖昧だな。」
「はい。」
イーディスは少し不安そうに微笑んだ。
「でも、どの話でも共通していることがあります。」
「何だい?」
ホームズが尋ねる。
「アグネスは修道院の秘密を知ってしまった。」
図書室の窓を風が叩いた。
「そして翌朝には消えていたそうです。」
「失踪したのか。」
「誰にも分かりません。」
イーディスの声はさらに小さくなった。
「森を探しても見つからなかった。」
「海岸も。」
「地下室も。」
「修道院中を探したのに。」
私は思わず身震いした。
古い石造りの校舎を思い出したのである。
「それから?」
「それから何年も後になって。」
イーディスは窓の外へ視線を向けた。
「夜の回廊を歩く灰色の修道女が目撃されるようになったんです。」
「そのアグネスだと?」
「そう言われています。」
ホームズは黙って聞いている。
「灰色の修道服を着ていて。」
「顔は見えない。」
「そして誰かを探すように校内を歩いているんです。」
「誰を?」
「それも誰も知りません。」
少女はゆっくり首を振った。
「ただ――」
「ただ?」
「灰色の修道女を見た者には災いが訪れると言われています。」
「災い。」
「病気になったり。」
「事故に遭ったり。」
「あるいは大切なものを失ったり。」
図書室はしばらく静まり返った。
やがて私は尋ねた。
「君は信じているのかね?」
少女はしばらく考えた。
そして窓の外の曇った空を見ながら答えた。
「以前は信じていませんでした。」
「以前は?」
「でも今は……分かりません。」
その声には本物の不安が混じっていた。
「シビルが消える三日前。」
彼女は続けた。
「ベアトリス・モア先輩が、『見た』と言ったんです。」
そして少し躊躇した後、こう付け加えた。
「でも……」
「何だい?」
「もし本当に調べるなら。」
少女は不安そうに図書室の扉へ目を向けた。
「旧修道院棟には、夜は近づかない方がいいと思います。」
私は思わず身を乗り出した。
「なぜだ?」
イーディスは真剣な顔で答えた。
「みんな、そこで灰色の修道女を見ているんです。」
ホームズの瞳が静かに輝いた。
「なるほど。」
「そのベアトリス嬢にも会わせてもらえるかな?」
イーディスは小さく頷いた。
「はい。」
そう言うと彼女は立ち上がった。
「今なら昼休みです。たぶん中庭のテラスにいると思います。」
我々はイーディスに案内され、図書室を後にした。
回廊を抜けると海の見える石造りの中庭へ出る。
数人の生徒たちが談笑していたが、その中でも一人背の高い少女がすぐに目に入った。
「ベアトリス先輩。」
イーディスが呼ぶ。
少女はこちらを振り返った。
十七、八歳ほどだろうか。
長い黒髪を後ろでまとめ、どこか気の強そうな顔立ちをしている。
「何?」
そう言いかけた彼女は、ホームズと私を見て眉をひそめた。
「その方達は?」
「探偵さん。」
イーディスが答えた。
「シビルの件を調べているそうです。」
ベアトリスはあまり嬉しそうな顔をしなかった。
「またですか。」
「また?」
ホームズが尋ねる。
「警察にも散々聞かれました。」
「だが私は警察ではない。」
「それは見れば分かります。」
少女は少し生意気そうに言った。
私は思わず苦笑した。
ホームズはむしろ愉快そうである。
「では時間を取らせない。」
「灰色の修道女について聞きたい。」
ベアトリスの表情が変わった。
先ほどまでの強気な様子が少しだけ消える。
「イーディスから聞いたんですね。」
「君が見たと。」
「見ました。」
即答だった。
そのあまりの迷いのなさに、私は思わず顔を見合わせた。
「どこで?」
「旧修道院棟です。」
「いつ?」
「シビルが消える三日前の夜。」
ホームズは何も言わず耳を傾けている。
「私は自習室から寮へ戻るところでした。」
ベアトリスは続けた。
「回廊を歩いていると、前方に誰か立っているのが見えたんです。」
「先生ではなく?」
「違います。」
「どう違った?」
「灰色の修道服を着ていました。」
風が吹き抜ける。
中庭の木々がざわめいた。
「顔は見えたのかい?」
ホームズが静かに尋ねた。
「見えませんでした。」
「なぜ?」
「フードを深く被っていたからです。」
「なるほど。」
「ただ。」
ベアトリスは声を潜めた。
「向こうも私に気付いたと思います。」
「ほう。」
「その人影は立ち止まると、ゆっくりこちらを向いたんです。」
私は無意識に身を乗り出した。
「それで?」
「怖くなって逃げました。」
ベアトリスは苦笑した。
「情けない話ですけど。」
「いや。」
ホームズは首を横に振った。
「十七歳の少女としては極めて正常な反応だ。」
ベアトリスの表情が少し和らぐ。
「その後は?」
「振り返りませんでした。」
「つまり、それが本当に人だったのかも分からない。」
「はい。」
ホームズは顎へ手を当てた。
「面白い。」
「何がです?」
「君の話だよ。」
ベアトリスは訝しげな顔をする。
「私は正直に話しました。」
「疑ってはいない。」
ホームズは微笑んだ。
「ただ、君は見たことと想像したことを分けて語っている。」
「それは重要な証言だ。」
私は内心感心した。
確かにベアトリスは、
"幽霊を見た"
とは言っていない。
"灰色の服を着た人影を見た"
と言っているだけなのである。
ホームズはさらに尋ねた。
「旧修道院棟で目撃されたという話は他にも?」
「あります。」
答えたのはイーディスだった。
彼女は少し不安そうに辺りを見回した。
「最近になって急に増えました。」
「どれくらい?」
「ここ一か月ほどです。」
「シビルが消える前からか。」
「はい。」
「なるほど。」
ホームズは小さく呟いた。
その灰色の瞳は校舎の奥にある尖塔を見つめている。
どうやら彼の興味は完全に旧修道院棟へ向かっているらしかった。
「ホームズ。」
私は小声で尋ねた。
「どう思う?」
彼は視線を動かさないまま答えた。
「ワトソン。」
「何だ?」
「我々はようやく幽霊を一歩現実に近づけた。」
「どういう意味だ?」
「ベアトリス嬢が見たのは怪異ではない。」
ホームズは静かに言った。
「少なくとも足のある何者かだ。」
そして微かに笑った。
「となれば、追跡する価値がある。」
第四章 灰色の修道女
その日の夕刻、海は鉛のような色をしていた。
西の空に沈みかけた太陽は厚い雲に阻まれ、わずかな光さえも海霧の中へ呑み込まれている。
夕食を終えた生徒たちは各自の寮へ戻り、セント・アグネス校は静かな夜を迎えようとしていた。
しかし、我々にはこれからが本番だった。
客室へ戻ると、ホームズは早速校舎の見取り図を机の上へ広げた。
それはウェルズ校長から借り受けたものである。
「夜の散歩には少々大袈裟ではないかね。」
私が言うと、ホームズは笑った。
「散歩ならね。」
彼は細長い指で校舎の一角を示した。
「ベアトリス嬢が目撃したのはこの旧修道院棟だ。」
「なるほど。」
「そして興味深いことに、近頃の目撃談はほぼこの周辺に集中している。」
私は地図へ身を乗り出した。
「偶然ではないと?」
「幽霊に縄張り意識があるなら別だがね。」
ホームズは肩を竦めた。
「私は人間の方がありそうだと思っている。」
そう言うと懐中時計を取り出した。
「十時だ。」
「見張るのか。」
「もちろん。」
「君はまるで期待しているように見えるぞ。」
「しているとも。」
ホームズは立ち上がった。
「幽霊が出るか、嘘つきが出るか。どちらでも収穫だからね。」
私は苦笑しながらリボルバーを上着の内側へ入れた。
「まったく。」
「君と一緒にいると、怪談ですら張り込みになる。」
「それが私の長所だよ。」
やがて校舎の灯が一つ、また一つと消えていった。
十一時を回る頃には、広大な修道院は完全な静寂に包まれていた。
我々は客室を抜け出し、人気のない回廊を進んでいた。
石床の上に響く足音は妙に大きく聞こえる。
高窓の外では海風が唸り、時折、どこかの扉が微かに軋む音がした。
私は思わず襟を掻き合わせた。
「寒いな。」
「海霧だ。」
ホームズは前を見たまま答える。
「夜明けまでには校舎全体が霧の中だろう。」
我々は旧修道院棟へ通じる回廊へ辿り着いた。
昼間に見た時以上に不気味な場所だった。
長い石造りの廊下は闇の奥へ消え、窓から流れ込む霧が床を白く覆っている。
その様子はまるで雲の中を歩いているようだった。
「なるほど。」
私は思わず呟いた。
「何だね?」
「生徒達が怯えるのも無理はない。」
ホームズは小さく笑った。
「怪談は雰囲気の良い場所で育つものだからね。」
我々は使われていない礼拝堂跡の陰へ身を潜めた。
そこからなら回廊全体を見渡すことが出来る。
十分。
二十分。
三十分。
何も起こらない。
聞こえるのは風の音だけだった。
私は少しずつ自分の考えが間違っていたのではないかと思い始めていた。
その時だった。
ホームズの手が私の腕を掴んだ。
「ワトソン。」
その声は囁きに近かった。
「右だ。」
私は息を呑み、彼が見ている方向へ目を向けた。
回廊の遥か彼方。
濃い霧の向こうに。
ぼんやりと灰色の影が立っていたのである。
長い修道服。
深く被ったフード。
人影は音もなく回廊を歩いていた。
まるで本当にこの世の者ではないかのように。
私は思わず息を止めた。
「ホームズ……。」
「静かに。」
灰色の修道女はゆっくりとこちらへ近付いてくる。
そして不意に立ち止まった。
私は冷たいものが背筋を走るのを感じた。
その時だった。
ホームズが、ひどく奇妙なことを言ったのである。
「おかしい。」
「何?」
「思った通りだ。」
彼は低く呟いた。
「やはり妙だ。」
その灰色の瞳は修道女の姿を鋭く見据えていた。
だが、その視線に恐怖の色はなかった。
まるで何かを確認した者の眼だったのである。
灰色の修道女はしばらくその場に立ち尽くしていた。
まるで我々を見ているかのようだった。
私は思わずリボルバーへ手を伸ばす。
しかしその瞬間、人影はふいに身を翻した。
「動いた。」
ホームズが低く呟く。
修道女は回廊の奥へ向かって歩き始めた。
いや。
歩いているというより滑るように進んでいる。
霧がその足元を覆っていたため、なおさら不気味に見えた。
「追うぞ。」
ホームズが立ち上がる。
我々は礼拝堂の陰から飛び出した。
石床へ靴音が響く。
こちらの気配に気付いたのか、人影も速度を上げた。
長い灰色の修道服が霧の中で揺れる。
「待て!」
私が叫んだ。
当然返事はない。
修道女は回廊の角を曲がった。
ホームズが真っ先にそこへ飛び込む。
私も続いた。
しかし――
「いない。」
私は呆然と呟いた。
そこには誰もいなかった。
左右へ伸びる石の廊下。
閉ざされた窓。
施錠された扉。
隠れる場所などない。
ホームズはしばらく無言だった。
やがて足元を見下ろした。
「ワトソン。」
「何だ?」
「こちらへ。」
私は近付いた。
床には泥の跡が残っていた。
霧で濡れた靴底の痕跡である。
「足跡か。」
「そう。」
ホームズは膝をつく。
「幽霊にしては随分と物質的だ。」
私は苦笑した。
ホームズは指先で跡をなぞる。
その表情が僅かに変わった。
「なるほど。」
「何か分かったのか?」
「女性だ。」
「何?」
私は思わず声を上げた。
「本当に?」
「ほぼ間違いない。」
ホームズは立ち上がった。
「小さすぎる。」
「足跡がか?」
「そうだ。」
彼は回廊の先を見つめる。
「しかも歩幅も狭い。」
「女性が修道女の格好をしていた?」
「可能性は高い。」
私は思わず校長室で会った人物を思い出した。
いや。
同時に思い出した。
もう一人。
「アシュクロフト先生……。」
ホームズは返事をしない。
しかし否定もしなかった。
その沈黙がかえって私の疑念を強めた。
失踪直前のシビルと親しかった。
新聞では辞職したことになっていた。
質問にはどこか歯切れが悪かった。
そして今。
深夜の旧修道院棟を歩く謎の女性。
偶然にしては出来過ぎている。
「やはり彼女が何か知っているんじゃないのか?」
私が言うと、ホームズは窓の外へ視線を向けた。
海霧が回廊へ流れ込んでいる。
「おそらく知っている。」
「なら。」
「だが違う。」
「何が?」
ホームズは珍しく考え込むような表情をした。
「説明がつかないんだ。」
「何が説明できない?」
「修道女そのものではない。」
彼は静かに言った。
「修道女を見せる理由だ。」
私は首を傾げた。
ホームズは続ける。
「もしアシュクロフト先生だとしよう。」
「うむ。」
「ならなぜ毎回、目撃される危険を冒してまで旧修道院棟を歩く?」
私は答えられなかった。
確かにその通りだった。
隠れたい者なら隠れる。
だが灰色の修道女はむしろ見つかるように現れているのだ。
「誰かが噂を利用している。」
ホームズは小さく呟いた。
「だが、その目的がまだ分からない。」
遠くで時計が十二時を打った。
その重々しい鐘の響きを聞きながら、私は再び霧の立ち込める回廊を見つめた。
そして生まれて初めて、セント・アグネス校には本当に幽霊がいるのではないかと思い始めていたのである。
翌朝、私が目を覚ました時には、窓の外に淡い朝霧が広がっていた。
旧修道院ゲストハウスの窓から見える尖塔は半ば霧に隠れ、その向こうには鉛色の海が広がっている。
私は寝台の上で身を起こした。
そして予想通り、ホームズの寝台は空だった。
「やれやれ。」
私は苦笑した。
昨夜の目撃以来、ホームズの頭脳が休息を許しているはずがない。
着替えを済ませて食堂へ向かうと、案の定ホームズはすでにそこにいた。
窓際の席でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
「おはよう。」
「おはよう、ワトソン。」
「何時から起きている?」
「四時半。」
私は呆れて椅子へ腰を下ろした。
「君はいずれ早死にするぞ。」
「その時は診断書を頼む。」
ホームズは平然と言った。
その時だった。
食堂の窓の外を、一人の女性が足早に横切った。
黒いドレス。
引き締まった表情。
厳格な顔立ち。
私は見覚えがあった。
「ブラックリー先生だな。」
ホームズも視線を向ける。
「ああ。」
「随分早い。」
「教師というのは勤勉なものさ。」
そう言ったものの、ホームズは席を立った。
「どうした?」
「少し散歩を。」
私はため息をつきながら後に続いた。
ブラックリー先生は本館を抜け、裏手へ向かっていた。
まだ朝食前の時間である。
生徒達の姿はない。
やがて彼女は校地の端にある小さな門の前で立ち止まった。
その先は駅へ続く山道だった。
「誰か待っているのか?」
私が囁くと、
「静かに。」
とホームズが答えた。
門の外にはちょうど郵便配達人が立っていた。
ブラックリー先生は一通の封筒を渡す。
配達人は帽子を取ると、そのまま去っていった。
それだけだった。
だがホームズの表情が僅かに変わる。
「何か問題か?」
私は尋ねた。
「いや。」
ホームズは静かに言った。
「教師が手紙を書くこと自体は珍しくない。」
「だが。」
「なぜ正規の郵便ではなく、ああして朝一番に渡さなければならないのだろうね。」
私は返答に窮した。
確かに妙である。
その時、遠くから馬車の音が聞こえた。
重厚な四輪馬車が校門をくぐってくる。
校内にいた使用人が慌ただしく動き始めた。
ホームズが小さく眉を上げる。
「客人らしい。」
馬車は正面玄関前で停止した。
御者が扉を開く。
最初に降りてきたのは長身の老人だった。
銀髪。
鷲のような鼻。
高価な杖。
そして、この世の誰よりも他人を見下すことに慣れた顔。
「なるほど。」
ホームズが呟く。
「誰だ?」
「ロード・モンタギュー・フェアファクス。」
私は思わず声を上げそうになった。
ローズベリー卿最大の政敵。
その人物が今、目の前にいるのである。
フェアファクス卿の後ろから、もう一人の男が降りてきた。
四十代半ばほど。
黒いフロックコート。
温和な顔立ち。
役人らしい落ち着きを備えた男だった。
目立つところは何もない。
むしろ人混みに紛れてしまいそうな人物である。
その男は校長へ丁寧な礼をした。
私は特に気にも留めなかった。
だが。
「ふむ。」
ホームズが小さく言った。
「どうした?」
「いや。」
彼は視線を細めていた。
「少し興味深い。」
しばらくして、校長室へ我々も呼ばれた。
ウェルズ校長の顔は露骨に不機嫌だった。
フェアファクス卿は暖炉の前に立っている。
その姿だけで部屋が狭く見えた。
「失踪事件とは実に遺憾ですな。」
彼は言った。
「ローズベリー卿もさぞ心を痛めておられるでしょう。」
言葉は丁寧だった。
しかし声には嫌味が滲んでいた。
私はたちまちこの男が嫌いになった。
ホームズも同様らしかった。
ただし彼が見ているのはフェアファクスではない。
その傍らにいる男だった。
「ご紹介しましょう。」
フェアファクスが言った。
「私の政治顧問です。」
男は穏やかに会釈する。
「セシル・ハーコートと申します。」
ホームズの瞳が僅かに動いた。
ほんの一瞬だった。
だが私は見逃さなかった。
会談が終わり、校長室を出た後で私は尋ねた。
「ホームズ。」
「何だい。」
「何か気になることでも?」
ホームズはしばらく黙って歩いていた。
回廊の窓の外では海霧が流れている。
やがて彼は静かに言った。
「フェアファクス卿は嫌な男だ。」
「まったく同感だ。」
「だが。」
ホームズは立ち止まった。
「私は嫌な男より、善良そうな男の方が気になる。」
「誰のことだ?」
ホームズは窓の外を見つめたまま答えた。
「セシル・ハーコート。」
そして小さく呟いた。
「どうやらこの事件は、私が思っていたよりも政治の臭いがするらしい。」
その時だった。
回廊の向こうで、ブラックリー先生の姿が見えた。
彼女はフェアファクス一行を認めると、一瞬だけ顔色を変えた。
そしてすぐに立ち去ったのである。
ホームズの灰色の瞳が鋭く光った。
「なるほど。」
「何がわかった?」
私は尋ねた。
ホームズは微かに笑った。
「ようやく何本かの糸が一本に繋がり始めた。」
そう言って彼は回廊の奥――旧修道院棟の方向へ歩き出したのである。
第五章 旧修道院の秘密
私も少し遅れて旧修道院棟へ入った。
旧修道院棟の回廊でホームズを発見した。
彼は膝をつき、窓枠の下を熱心に調べている。
「君を探していたよ。」
「それは光栄だ。」
ホームズは顔も上げずに答えた。
「朝食は?」
「忘れていた。」
「やれやれ。」
「心配するな。君が見つけてくれると思っていた。」
私は呆れてため息をついた。
マイクロフトの言葉が脳裏をよぎる。
――あの男を頼む。
「何を調べているんだ?」
私が尋ねると、ホームズは立ち上がった。
「昨夜の続きをね。」
「修道女か。」
「その通り。」
彼は回廊の奥を見た。
「ワトソン。昨夜の出来事で一番興味深かったことは何だと思う?」
「足跡だろう。」
「違う。」
ホームズは首を振った。
「彼女は消えた。」
「だから問題なんだ。」
「角を曲がった先には誰もいなかったじゃないか。」
「そのことではない。」
ホームズは窓の外へ視線を向けた。
「消える場所が毎回ほぼ同じなんだ。」
「何だって?」
「生徒たちの証言を整理すると、目撃談の大半が旧修道院棟の一帯に集中している。」
彼は石壁へ手を置いた。
「つまり怪談には縄張りがある。」
「幽霊にしては不自然だな。」
「まったく。」
ホームズは微笑した。
「人間なら話は別だがね。」
そう言うと彼は歩き始めた。
「少し付き合ってくれ。」
我々は旧修道院棟を探索し始めた。
使われなくなった教室。
閉鎖された回廊。
古い祈祷室。
半ば倉庫になった部屋。
修道院だった時代の名残が至るところに残されている。
ホームズは建物そのものを調べているようだった。
扉。
窓。
壁の厚み。
階段の位置。
時には立ち止まり、見取り図と実際の構造を見比べる。
「建築調査でも始めたのか?」
私が尋ねると、
「似たようなものさ。」
と答えた。
「建物は嘘をつかない。」
「人間は嘘をつくが、石壁は正直だ。」
昼近くになった頃だった。
我々は旧礼拝堂の裏手へ辿り着いた。
そこは現在ほとんど利用されていない区画である。
厚い石壁と高い天井。
昼なお薄暗い。
ホームズは突然足を止めた。
「なるほど。」
ホームズは見取り図から顔を上げた。
我々は旧修道院棟の回廊を歩きながら、使われていない教室や封鎖された礼拝堂を調べていた。
「君は昨夜の修道女を追っていると思っているだろう、ワトソン。」
「違うのか?」
「もちろん追っている。」
ホームズは微笑した。
「だが私は修道女だけではなく、この学校そのものを観察していたんだ。」
「というと?」
「それとなく食堂で確認したのだがね。」
ホームズは何気ない口調で言った。
「ここ数週間、パンやチーズ、それに保存食の消費量が微量ながら増えているそうだ。」
「生徒たちの食欲が増しただけではないのか?」
「私も最初はそう考えた。」
ホームズは首を振った。
「だが生徒数に変化はない。」
「しかも増えているのは保存の利く食品ばかりだ。」
私は考え込んだ。
「誰かが持ち出している?」
「その可能性が高い。」
ホームズは静かに答えた。
「さらに、ある使用人に話を聞いた。」
「ほう?」
「旧修道院棟で使う薪の数が、これまた最近わずかに増えているらしい。」
「薪?」
「そう。」
「暖炉の灰も以前より多くなっているそうだ。」
私は思わず立ち止まった。
「待て。」
「つまり誰かがそこで火を使っている?」
「ようやく同じところへ来たね、ワトソン。」
ホームズは満足そうに頷いた。
「食料が消える。」
「薪も消える。」
「暖炉の灰が増える。」
「そして夜ごと灰色の修道女が現れる。」
彼は古い石壁へ手を置いた。
「これらが無関係とは思えない。」
「誰かがいるんだ、この建物のどこかに。」
「しかも長期間にわたって生活している人間がね。」
そして巻尺を取り出した。
壁の長さを測る。
次に見取り図を見る。
さらに反対側へ回る。
再び測る。
その灰色の瞳が細くなった。
「面白い。」
「だから何なんだ?」
ホームズは図面を私へ差し出した。
「ここを見ろ。」
私は首を傾げた。
「壁だな。」
「その通り。」
「厚さがおかしい。」
私はしばらく見比べた。
そして気付いた。
「待て。」
「この部分。」
「図面より広いぞ。」
「ようやく分かったか。」
ホームズは満足そうに笑った。
「この建物には存在しないはずの空間がある。」
私は思わず壁を見つめた。
冷たい石壁が沈黙している。
だがその向こうには――。
「隠し部屋か?」
「可能性は高い。」
ホームズは静かに答えた。
「そして私は、それこそが灰色の修道女の消失の秘密だと思っている。」
そう言うと彼は壁を調べ始めた。
石材の継ぎ目。
古い蝶番。
床との境目。
まるで猟犬が獲物の匂いを追うように。
やがて彼の指が壁面の小さな出っ張りで止まった。
ホームズの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「ワトソン。」
「何だ?」
「どうやら我々は、三百年前の修道女と同じ道を歩くことになりそうだ。」
そう言って彼は石壁へ手を掛けたのである。
石壁は容易には動かなかった。
しかしホームズは少しも焦る様子を見せない。
指先で継ぎ目を辿り、床石との境目を調べる。
やがて彼は壁の脇に埋め込まれた古い燭台へ目を留めた。
「ここだな。」
その声には確信があった。
「ワトソン、少し手を貸してくれ。」
「どうする?」
「この燭台を回してみる。」
私は眉を上げた。
「まるで冒険小説だな。」
「建築家というものは案外ロマンチストなのさ。」
ホームズは真顔で答える。
二人で燭台を捻ると、鈍い金属音が響いた。
その次の瞬間。
石壁の奥で何かが動く重い音がした。
長い年月眠っていた仕掛けが目を覚ましたような音だった。
「下がって。」
私は慌てて後退した。
石壁の一部がゆっくりと内側へ開き始める。
暗黒が現れた。
冷たい空気が我々の顔を撫でる。
「やはりな。」
ホームズは満足そうに頷いた。
私は思わず息を呑んだ。
壁の向こうには狭い石造りの通路が続いていたのである。
「隠し通路……。」
「正確にはプリースト・ホールへ通じる連絡路だろう。」
ホームズはランタンを掲げた。
「宗教改革時代、カトリック司祭を匿うために造られたものだ。」
「本当にあったのか。」
「むしろ典型的だよ。」
ホームズは微笑した。
「古い修道院には珍しくない。」
彼は足を踏み入れた。
私はリボルバーを確かめ、その後へ続く。
通路は狭く、人一人がようやく歩ける幅しかない。
石壁には白い塩が浮き出ている。
所々に蜘蛛の巣が張っていた。
だが。
「ホームズ。」
「気付いたかい?」
ホームズは振り返らない。
私は床を見つめた。
埃の積もる通路の上に、新しい足跡があったのである。
「最近使われている。」
「そういうことだ。」
ホームズは静かに答えた。
「少なくとも幽霊ではない。」
さらに進む。
するとホームズが突然しゃがみ込んだ。
「ここだ。」
足元には小さな布切れが落ちていた。
灰色。
修道服の裾からちぎれたような布だった。
私は思わず顔を見合わせた。
ホームズの予想は当たりつつある。
灰色の修道女は確かにこの通路を利用していたのだ。
その時だった。
ふと私の鼻に微かな匂いが届いた。
「待て。」
私は立ち止まった。
「どうした?」
ホームズも振り返る。
「煙の匂いだ。」
彼の目が光った。
「その通り。」
ホームズは静かに言った。
「そして私はそれを探していた。」
私はようやく理解した。
暖炉である。
誰かがこの奥で火を使っている。
だから灰が増えていたのだ。
ホームズは続けた。
「食料の搬入量も同じだ。」
「パン。」
「チーズ。」
「保存肉。」
「ジャム。」
「どれも少しずつ消えていた。」
彼はランタンを掲げる。
「誰かが生きている。」
「誰かが食べている。」
「誰かが暖を取っている。」
そして小さく口元を緩めた。
「つまり、我々の行方不明者は死体ではない。」
私は思わず胸が高鳴った。
「シビル!」
通路はやがて行き止まりに見える場所へ突き当たった。
しかしホームズは壁を調べた。
ほどなくして小さな鉄環を見つける。
強く引いた。
すると再び重い音が響く。
隠し戸がゆっくりと開いた。
その向こうには小さな部屋があった。
屋根裏の空間を利用した秘密の一室だった。
質素な寝台。
小さな机。
暖炉。
本棚。
そして。
暖炉の前へ立ち上がった一人の少女。
金色の髪。
蒼い瞳。
驚愕に見開かれた表情。
十七歳ほど。
私たちは新聞で何度もその顔を見ていた。
「ローズベリー嬢!」
私は思わず叫んだ。
少女は青ざめた。
そして震える声で言った。
「ホームズ氏……ですか?」
ホームズは帽子を取り、静かに一礼した。
「その通りです、ミス・シビル・ローズベリー。」
そして穏やかに微笑んだ。
「ご安心を。」
「どうやら間に合ったようだ。」
第六章 真相
その時だった。
隠し部屋の入り口から、静かな声が響いた。
「その子から離れてください。」
私は振り返った。
そこにはミス・マーガレット・アシュクロフトが立っていた。
蒼白だった。
しかし、その眼だけは真っ直ぐ我々を見据えている。
ホームズは少しも驚かなかった。
「やはりあなたでしたか。」
アシュクロフト先生は何も答えない。
シビルが立ち上がった。
「先生。」
その一言に、彼女の立場が全て表れていた。
恐怖ではない。
信頼だった。
私は思わずホームズを見た。
彼は静かに帽子を脱いだ。
「ご安心を、先生。」
「私はあなたを逮捕しに来たわけではありません。」
アシュクロフト先生の表情が僅かに揺れた。
「それなら何をしに来たのです?」
「あなたが何を守ろうとしているのか確認しに来たのです。」
やがて彼女は諦めたように微かに笑った。
「やはりあなたには隠せませんね。」
ホームズは暖炉の灰へ目を向けた。
「最初の違和感は食料でした。」
「食料?」
私が尋ねる。
ホームズは頷いた。
「パン。」
「チーズ。」
「保存食。」
「学校全体から見れば僅かな増加です。」
「だが誰かが隠れて暮らしていると考えれば説明がつく。」
彼は暖炉を見た。
「薪も同じです。」
「使用されていないはずの旧修道院棟で、灰だけが増えていた。」
アシュクロフト先生は俯いている。
「そして修道女。」
ホームズは静かに言った。
「あなたは夜ごとここへ食料を運んでいた。」
「生徒達を近付けないために怪談を利用した。」
「違いますか。」
やがてアシュクロフト先生は小さく頷いた。
「……ええ。」
それだけ言うのが精一杯だったらしい。
「なぜこんなことを?」
私は思わず尋ねた。
するとシビルが口を開こうとした。
しかしアシュクロフト先生がそれを制した。
「私から話します。」
彼女はゆっくり顔を上げた。
「ラドフォード卿が亡くなる数日前でした。」
「シビルが私のところへ来たのです。」
その声は震えていた。
「怯えていました。」
「誰かに追われているようだと。」
「最初は思春期の不安だと思いました。」
彼女は首を振った。
「でも違った。」
その瞳に苦しみが浮かぶ。
「彼女は本当に危険だったのです。」
シビルが静かに続けた。
「ラドフォード卿が手紙をくださいました。」
「父に渡してほしいと。」
「ですが読む前に殺されました。」
部屋の空気が変わった。
「私は内容の全てを知りません。」
「でも。」
「誰かが父を陥れようとしていることだけは分かったんです。」
ホームズの瞳が細くなる。
「そして先生に相談した。」
アシュクロフト先生が頷いた。
「その日のうちに決めました。」
「学校の外へ出せば見つかる。」
「警察へ話しても信用される保証はない。」
「だから。」
彼女は周囲を見回した。
「ここへ。」
私は思わず息を呑んだ。
「一人でか?」
「いいえ。」
扉の方から声がした。
そこにはウェルズ校長が立っていた。
厳格な老婦人は静かに言った。
「私も知っていました。」
私は呆然とした。
「校長まで?」
「当然です。」
ウェルズ校長はきっぱりと言った。
「生徒を守るのが我々の責務ですから。」
アシュクロフト先生の目には涙が浮かんでいた。
「辞職の記事も。」
「私を疑わせるためでした。」
校長が続ける。
「誰かが学校内を探っていることは分かっていました。」
「だから我々も騙したのです。」
ホームズはゆっくり頷いた。
「なるほど。」
「実に見事でした。」
そしてアシュクロフト先生を見た。
「あなたは誘拐犯ではない。」
「一人の教師です。」
彼女は目を伏せた。
「私はただ、生徒を守りたかっただけです。」
静かな声だった。
「もし間違っていたら。」
「もし皆を危険に巻き込んでいたら。」
「何度もそう思いました。」
ホームズは首を横に振った。
「いいえ。」
「あなたは正しかった。」
しばらく沈黙が続いた。
暖炉の火だけが静かに揺れている。
やがてホームズは壁の向こうへ続く通路を見た。
「面白いものですね。」
「何がです?」
アシュクロフト先生が尋ねる。
「三百年前。」
ホームズは言った。
「この修道院では、一人の修道女が追われる人間を匿った。」
彼は微かに笑った。
「そして今。」
「一人の教師が追われる少女を匿った。」
アシュクロフト先生は驚いたように目を見開いた。
「私はただ……。」
「同じことをしただけです。」
その言葉に、誰も返答できなかった。
灰色の修道女の伝説は幽霊の物語ではなかった。
危険を承知で誰かを守ろうとした人々の物語だったのである。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
暖炉の火が静かに燃え、その柔らかな光が石壁を照らしている。
ホームズは暖炉の上に置かれた数冊の本へ目をやった。
歴史書。
政治評論。
それに数冊の小説。
どうやらアシュクロフト先生が持ち込んだものらしい。
「教師らしい選択ですね。」
ホームズが言った。
アシュクロフト先生は疲れたように微笑んだ。
「退屈させるわけにはいきませんから。」
シビルは俯いていた。
何日も隠れ続けていた疲労が残っているのだろう。
それでも眼だけは強かった。
父親譲りなのかもしれない。
ホームズは静かに彼女を見た。
「さて、ミス・ローズベリー。」
「そろそろ本題へ入ろう。」
シビルはゆっくり頷いた。
「ラドフォード卿は亡くなる二日前に学校へ来ました。」
部屋の空気が変わる。
「校長先生にも内緒で?」
私が尋ねた。
「はい。」
「私だけに会いに。」
アシュクロフト先生が驚いたような顔をした。
初めて聞く話だったらしい。
シビルは続けた。
「ラドフォード卿は父の古い友人でした。」
「ですが、とても怯えていました。」
「まるで誰かに追われているようでした。」
ホームズの表情が引き締まる。
「そして?」
「父に渡して欲しい手紙があると言いました。」
シビルは暖炉の方へ視線を向けた。
「その手紙には、とても危険なことが書かれていると。」
「危険とは?」
ホームズが尋ねる。
シビルは少しだけ躊躇した。
「父を失脚させる計画です。」
私は思わず顔を上げた。
「失脚?」
「はい。」
「政治的なスキャンダルを作り出すために。」
「その一部として。」
シビルは拳を握る。
「私が利用される予定でした。」
部屋が静まり返った。
「誘拐。」
ホームズが言った。
「そうです。」
シビルは頷いた。
「私を誘拐し。」
「政府の失態として公表する。」
「父を辞任へ追い込む。」
私は息を呑んだ。
家出事件ではない。
本当に誘拐計画だったのである。
「だが失敗した。」
ホームズが静かに言う。
「ラドフォード卿が先に動いたからですね。」
シビルは頷いた。
「はい。」
「私は先生へ相談しました。」
アシュクロフト先生が目を伏せる。
「そして三日後。」
シビルの声が震えた。
「ラドフォード卿は死にました。」
沈黙。
ホームズだけが静かだった。
「死因は?」
「新聞では心臓発作。」
「だが私は信じていません。」
シビルは言った。
「ラドフォード卿もそうなる可能性を恐れていました。」
やがて彼女は暖炉の奥へ手を伸ばした。
そこから一冊の本を取り出す。
革表紙の歴史書だった。
そして表紙の裏から封筒を抜き取る。
「これです。」
私は思わず身を乗り出した。
ずっとここにあったのか。
ホームズが封筒を開く。
中には数枚の書類。
そして一通の手紙。
その内容へ目を通した瞬間。
彼の表情が変わった。
「なるほど。」
低い声だった。
「ようやく見えた。」
私は覗き込んだ。
「何が書いてある?」
「名前だ。」
ホームズが答える。
「計画の中心人物の。」
そして紙を差し出した。
そこには一つの署名。
見覚えのない名前。
だがシビルは震える声で言った。
「ラドフォード卿は言いました。」
「本当に警戒すべき相手は政敵ではないと。」
ホームズが頷く。
「そうだろう。」
「敵は外ではない。」
「内側だ。」
その時だった。
通路の方から微かな音が聞こえた。
誰かがいた。
ホームズが振り返る。
「誰だ!」
だが返事はない。
走り去る足音だけが響く。
ホームズの顔色が変わった。
「しまった。」
「どうした?」
「聞かれた。」
私は立ち上がった。
「誰に?」
ホームズは短く答えた。
「ブラックリー先生だ。」
一瞬。
部屋の空気が凍りついた。
「彼女は隠し通路の入口付近にいた。」
ホームズは舌打ちした。
「こちらの動きを監視していたんだ。」
「追うのか?」
私が尋ねる。
ホームズは即座に頷いた。
「もちろんだ。」
そして手紙を上着へしまう。
「ワトソン。」
「何だ?」
「君はここに残れ。」
「シビル嬢と先生方を守ってほしい。」
「一人で行くのか。」
「時間がない。」
そう言うとホームズは隠し通路へ駆け出した。
私はその背中を見送った。
だが。
妙な胸騒ぎがした。
ふと、マイクロフトの言葉が脳裏をよぎる。
”「現場であいつの隣にいるのは君だ。」
「ホワイトホールの私ではない。」
「頼んだよ、ワトソン君。」”
私は無意識にリボルバーへ手をやった。
そして小さく呟いた。
「嫌な予感がする。」
数秒後。
私は帽子を掴んだ。
「先生。」
アシュクロフトが顔を上げる。
「ホームズを追いましょう。」
その頃。
ホームズはブラックリーの後を追い、霧に包まれた断崖への道を急いでいたのである。
海霧はさらに濃くなっていた。
ホームズは旧修道院の裏手へ続く細い道を駆けていた。
眼下では波が断崖へ激しく打ち付けている。
遠くに黒い人影が見えた。
ブラックリーだった。
彼女は何度も後ろを振り返りながら急いでいる。
「止まりなさい!」
ホームズが呼びかけた。
しかしブラックリーは立ち止まらない。
むしろ足を速めた。
やがて海へ突き出た断崖へ辿り着く。
そこでようやく立ち止まった。
息を切らしながら振り返る。
「ミスター・ホームズ……。」
「なぜ逃げるのです。」
ホームズは静かに言った。
「あなたは何を誰に伝えようとした?」
ブラックリーの顔が青ざめる。
「私は……。」
「あなたはシビル嬢の捜索に協力しているつもりだった。」
「違いますか?」
彼女は何も答えなかった。
その沈黙こそ答えだった。
ホームズは続ける。
「だが利用されていた。」
「その相手の名は――」
その時だった。
霧の向こうから足音が聞こえた。
ホームズが振り返る。
一人ではない。
二人。
三人。
荒々しい男達だった。
漁師とも労働者ともつかぬ風体。
だが目だけは獣のようだった。
その中の一人が冷たく笑う。
「遅かったな、先生。」
ブラックリーの顔から血の気が消えた。
「あなた達……。」
「約束が違う!」
「令嬢を見つけるだけだと——」
「黙れ。」
男は吐き捨てた。
その声にブラックリーは震え上がる。
ようやく自分が何に関わったのか理解したらしかった。
ホームズは一歩前へ出た。
「なるほど。」
「ラドフォード卿を始末したのは君達だな。」
男は笑った。
「探偵というのは面倒だ。」
「だが、それも終わりだ。」
ホームズは周囲を見た。
背後は断崖。
左右は岩場。
男達は三人。
拳銃を持っている。
状況は良くない。
いや、かなり悪い。
「随分と芝居が下手だな。」
ホームズは平然と言った。
男の顔が歪む。
「何だと?」
「こういう場面では普通、もう少し気の利いた台詞を言うものだ。」
「たとえば?」
男は拳銃を向けた。
ホームズは肩を竦める。
「そうだな。」
「ここがお前の墓場だ」
くらいは欲しかった。
男達が怒号を上げた。
その隙を見てホームズは飛び退く。
しかし数で勝る相手に囲まれた。
拳銃が向けられる。
逃げ場はない。
「終わりだ。」
男が引き金へ指を掛けた。
その瞬間。
銃声が響いた。
乾いた一発。
男の拳銃が宙へ跳ね上がる。
悲鳴。
腕を押さえて転倒する。
全員が振り返った。
霧の向こう。
岩陰から現れた人影。
軍用リボルバーを構えている。
「その続きを聞く気はないぞ。」
ジョン・H・ワトソンだった。
続けて二発。
男達の足元へ撃ち込む。
驚いた二人が後退した。
「動くな!」
私は叫んだ。
クリミア以来、何度か使った声だった。
男達の顔色が変わる。
相手が素人ではないと悟ったのだろう。
ホームズは苦笑した。
「実に良いタイミングだ。」
「君の方は相変わらずだな。」
私は近付いた。
「マイクロフトに頼まれているのでね。」
「君を死なせるわけにはいかん。」
ホームズの口元が微かに緩む。
「なるほど。」
「兄さんらしい。」
その時だった。
後方から馬の蹄の音が響く。
さらに怒号。
「そこまでだ!」
海岸沿いの道から警官達が現れた。
先頭には地元警察の警部。
続いて数名の巡査。
男達は完全に包囲された。
ホームズは帽子についた霧を払った。
「助かったよ、ワトソン。」
「珍しいな。」
「君が礼を言うとは。」
ホームズは海を眺めた。
しばらく黙った後で言った。
「君が来なければ少々厄介だった。」
私は笑った。
「少々どころではなかったと思うぞ。」
ホームズは否定しなかった。
ただ静かに頷いただけだった。
そして彼は足元へ落ちた拳銃を見た。
「さて。」
「これでラドフォード卿殺害事件の実行犯は確保できた。」
その灰色の瞳が鋭く光る。
「次はいよいよ黒幕だ。」
霧の向こうで波が断崖へ砕け散った。
事件の終幕は、もう目前まで迫っていたのである。
旧修道院の応接室には重苦しい沈黙が漂っていた。
ウェルズ校長。
アシュクロフト先生。
ブラックリー先生。
シビル。
ホームズと私。
そして、フェアファクス卿とセシル・ハースコート。
ハーコートは静かにホームズを見据えていた。
その表情にはまだ余裕がある。
だがホームズは少しも動じなかった。
「最初に疑われるべき人物はフェアファクス卿でした。」
ホームズは言った。
「ローズベリー卿の政敵。」
「シビル嬢の失踪によって最も利益を得る人物。」
「誰もがそう考える。」
フェアファクスが鼻を鳴らす。
「当然だ。」
「私も最初はそう思いました。」
ホームズは頷いた。
「しかし奇妙だった。」
「何がですかな。」
ハーコートが尋ねる。
「利益が大きすぎたのです。」
ホームズは答えた。
「ローズベリー卿が失脚すれば、真っ先に疑われるのはフェアファクス卿でした。」
「政治的利益を得る人物が、これほど露骨な手段を用いるでしょうか。」
フェアファクス卿は不愉快そうな顔をした。
しかし反論はしない。
「次に私は学校を観察しました。」
ホームズは続ける。
「シビル嬢は生きている。」
「アシュクロフト先生は何かを隠している。」
「校長も協力している。」
「その時点で一つ分かった。」
ホームズはゆっくりと言った。
「敵は学校の中に存在しない。」
「では誰だったホームズ?」
ワトソンが尋ねる。
「学校の外から学校を見張っている人物です。」
ホームズはブラックリーへ目を向けた。
「そしてブラックリー先生が現れた。」
ブラックリーは俯いた。
「私は騙されたのです……。」
「ええ。」
ホームズは静かに言った。
「あなたは共犯者ではない。」
「利用されたのです。」
「彼女は学校内部の情報を外部へ流していた。」
「その相手は誰か。」
「そこが重要でした。」
ホームズは机上の手紙を指した。
「ブラックリー先生はフェアファクス卿へ報告していない。」
「彼女は特定の人物へ報告していた。」
「その人物が私ですか。」
ハーコートが言う。
「その通り。」
ホームズは即答した。
「なぜ分かったのです?」
ハーコートの声は落ち着いていた。
「ラドフォード卿です。」
ホームズは答えた。
「彼は死の直前、シビル嬢へ手紙を託した。」
「もしフェアファクス卿が黒幕だったなら。」
ホームズは部屋を見回した。
「その名前が書かれていたはずです。」
シビルが頷く。
「でも違いました。」
「ラドフォード卿は言ったそうですね。」
ホームズはシビルを見た。
『本当に警戒すべき相手は政敵ではない』
「つまり。」
「敵は政府の外ではない。」
「政府の内側。」
ハーコートの目が細くなる。
「では内務省内部で誰が利益を得るか。」
ホームズは続けた。
「ローズベリー卿が失脚する。」
「誘拐事件は迷宮入り。」
「ラドフォード卿も沈黙。」
「その結果。」
「最も恩恵を受ける人物は誰か。」
誰も口を開かなかった。
ホームズはゆっくりと答えた。
「セシル・ハーコート。」
「あなたです。」
「あなたはフェアファクス卿を利用した。」
「視線を政敵へ向けた。」
「その間に自らは忠実な官僚を演じ続けた。」
「そして決定的だったのは。」
ホームズの灰色の瞳が鋭く光った。
「あなた自身の態度です。」
「私の?」
「シビル嬢が発見された時です。」
ホームズは言った。
「あなただけが驚かなかった。」
静寂。
「フェアファクス卿は驚いた。」
「しかしあなたは違った。」
「なぜなら。」
「シビル嬢が生きている可能性を既に知っていたからです。」
ハーコートの顔から微笑みが消えた。
「その瞬間。」
ホームズは静かに言った。
「私は確信しました。」
『この男こそが、シビル嬢を探していた男だ』
「そして。」
ホームズは最後の一言を告げた。
「ラドフォード卿を殺し、シビル嬢誘拐を計画した黒幕だ。」
セシル・ハーコートが警官に連れられてゆくと、応接室には長い沈黙が残った。
窓の外では霧がゆっくりと晴れ始めている。
シビルはようやく張り詰めていた緊張から解放されたように椅子へ腰を下ろした。
アシュクロフト先生はその肩へそっと手を置く。
その様子を見ていたウェルズ校長が静かに口を開いた。
「ホームズ氏。」
「何でしょう。」
「学校を代表して感謝いたします。」
老校長は深く頭を下げた。
「あなたのおかげで真相が明らかになりました。」
「シビルも無事でした。」
しかしホームズは首を横に振った。
「校長。」
「お礼を述べる相手が違います。」
ウェルズ校長は顔を上げた。
「違う?」
「ええ。」
ホームズはアシュクロフト先生を見た。
「真に称賛されるべきなのは、この方です。」
アシュクロフト先生は驚いたように目を見開いた。
「ホームズさん……。」
「私はただ事実を述べているだけです。」
ホームズは穏やかに言った。
「私がしたのは真相を見つけることだけです。」
「シビル嬢を守ったのはあなたです。」
「ある日、一人の少女が助けを求めてきた。」
ホームズは静かに続けた。
「証拠もない。」
「味方か敵かも分からない。」
「しかも相手は政府中枢に関わる人間だった。」
「普通なら関わらない。」
「警察へ任せる。」
「あるいは見なかったことにする。」
アシュクロフト先生は俯いていた。
「しかしあなたは違った。」
「職を失う危険も承知していた。」
「自らが誘拐犯として疑われる危険も承知していた。」
「それでも少女を守った。」
「私は教師ですから。」
アシュクロフト先生は小さく答えた。
「目の前の生徒を見捨てることはできませんでした。」
ウェルズ校長は静かに目を閉じた。
そしてゆっくりとうなずく。
「ええ。」
「その通りです。」
「私も同じ理由で協力しました。」
ホームズは窓の外の旧修道院棟を見た。
「三百年前。」
「この修道院では一人の修道女が追われる人間を匿った。」
「そして今。」
「一人の教師が追われる少女を匿った。」
アシュクロフト先生の目に涙が浮かんだ。
「あなたは灰色の修道女の亡霊ではない。」
ホームズは静かに言った。
「その伝説を受け継いだ人です。」
しばらく沈黙が続いた。
やがてウェルズ校長がアシュクロフト先生の肩に手を置く。
「マーガレット。」
「あなたを誇りに思います。」
その言葉に、アシュクロフト先生は初めて安心したように微笑んだのである。
エピローグ
翌日。
セント・アグネス校を覆っていた霧はすっかり晴れていた。
海から吹く風は穏やかで、丘の上に建つ古い修道院の石壁は柔らかな陽光に照らされている。
我々がロンドンへ帰る日だった。
荷物をまとめ終えた私は、ゲストハウスの窓から中庭を眺めていた。
生徒たちはいつもの制服姿で歩き回り、事件の影はもうどこにも見えない。
まるで最初から何も起こらなかったかのようであった。
「感心しないな。」
窓辺に立つホームズが言った。
「何がだ?」
「人間というものは忘れるのが早い。」
そう言いながらも、その口調に不満の色はなかった。
むしろ安心しているようにも見えた。
やがて校長とアシュクロフト先生が見送りに現れた。
シビルも一緒だった。
少女は以前より幾分明るい表情になっている。
「ありがとうございました。」
シビルが言った。
「お二人が来てくださらなければ、どうなっていたか分かりません。」
「礼ならホームズに言ってくれ。」
私は笑った。
「私は相変わらず後を付いて回っただけだからな。」
「そんなことはないさ、ワトソン。」
ホームズが静かに言った。
「今回ばかりは君に借りがある。」
私は思わず顔を見た。
ホームズがそこまで素直に認めるのは珍しい。
アシュクロフト先生が微かに微笑んだ。
「では私もお礼を言わせてください。」
「ホームズさん。」
「ワトソン先生。」
「シビルを信じてくださってありがとうございました。」
ウェルズ校長が言った。
「学校を代表して感謝いたします。」
「この学校はあなた方を歓迎するとは言い難い態度で迎えました。」
老校長は珍しく少しだけ微笑んだ。
「ですが、その判断は誤りだったようです。」
「それは光栄です。」
ホームズが軽く会釈する。
その時だった。
遠くで鐘の音が鳴った。
授業開始を告げる鐘である。
中庭を歩いていた生徒たちが慌てて校舎へ駆け出す。
その中にイーディスやベアトリスの姿も見えた。
平穏な日常が戻ってきたのだ。
ホームズはふと旧修道院棟を見上げた。
灰色の石壁。
尖塔。
そして、あの隠し部屋のある場所。
「何か気になるのかね?」
私は尋ねた。
ホームズは小さく首を振った。
「いや。」
「考えていたのさ。」
「何を?」
しばらくして彼は言った。
「灰色の修道女のことを。」
アシュクロフト先生は少し驚いたようだった。
「伝説というものは不思議だ。」
ホームズは続けた。
「人は亡霊の話ばかりを語りたがる。」
「だが、本当に語り継ぐべきなのは別のことだ。」
彼はアシュクロフト先生を見た。
「三百年前の修道女も。」
「そして今のあなたも。」
「誰かを守ろうとした。」
アシュクロフト先生は何も言わなかった。
ただ静かに頭を下げた。
やがて馬車が到着した。
出発の時間である。
私は最後に校舎を振り返った。
尖塔の向こうには青い海が見える。
もう灰色の修道女が現れることはないだろう。
だが、その伝説は残り続けるはずだ。
今度は幽霊の物語としてではなく。
勇気の物語として。
馬車が動き出した。
校門が遠ざかる。
窓から身を乗り出したシビルが、いつまでも手を振っている。
アシュクロフト先生とウェルズ校長も、その傍らに立っていた。
しばらくして学校の姿が丘の向こうへ消える。
私は向かいの席に座るホームズを見た。
彼は珍しく物思いにふけっていた。
「事件は終わったな。」
私が言う。
「終わったとも。」
ホームズは答えた。
「今回は実に興味深い事件だった。」
「灰色の修道女か?」
「いや。」
ホームズは微笑した。
「人間の方だよ。」
そしてパイプへ火を点ける。
「人生で最も重要な推理はね、ワトソン。」
私は笑った。
「また始まったな。」
ホームズは窓の外へ視線を向けたまま続けた。
「人間の善意を過小評価しないことさ。」
私は返事をしなかった。
その必要はなかった。
今回の事件が、その言葉を証明していたからである。
こうしてセント・アグネス校の失踪事件は幕を閉じた。
だが後年、私がこの事件を書き記すことを決めた理由は、政治陰謀でも殺人事件でもない。
一人の教師の勇気と、
それを信じた人々の物語を残したかったからである。




