王子「白い結婚って実際どうなんだ?」婚約者令嬢「男性の性欲を甘く見すぎですわ」
王立貴族学院の昼下がり。
今日もまた、このブラックバニア王国の第四王子、ハワード・ヴァレンティアは、婚約者であるミランダ・ハインド子爵令嬢と共に、中庭の東屋で紅茶を飲んでいた。
王都は平和だった。少なくとも、王立貴族学院の中だけは。
だからこそ、ハワードは今日も、少しばかり現実からずれた疑問を口にすることができた。
「ミランダ」
「はい、殿下」
「白い結婚というものがあるだろう」
ミランダは、紅茶のカップを口元へ運びかけたまま止まった。そして、ゆっくりとカップを受け皿へ戻す。
「……また、妙な言葉をご存じでいらっしゃいましたね」
「妙か?」
「妙です。少なくとも、昼下がりの婚約者との茶会で切り出す話題としては、あまり上品ではありません」
「すまない。だが、気になったんだ」
「でしょうね。殿下はそういう人です。疑問に思ったらすぐに他人に頼れる。でもそんな素直な殿下も好きですわ♡」
ミランダは、ハワードをうっとりと見ながら小さく笑みを浮かべた。
ハワードは若干その笑顔に危ういものを感じつつ、真面目な顔で続ける。
「政略結婚した夫が、妻に『君を愛するつもりはない』と言って、そのまま夫婦関係を持たない。妻は放置され、夫は愛人のもとへ通う。そういう話だ」
「ありがちですわね」
「実際、どうなのだ?」
「何がでしょう」
「いや、その……本当に成立するのか?」
ハワードは言いづらそうに視線を逸らした。
「愛人がいるからといって、正妻に一切手を出さないものなのか? 貴族王族の男とはそんなに無欲なのか?」
ミランダはしばし黙った。
その沈黙は、淑女として言葉を選んでいる沈黙だった。
「殿下」
「はい」
「非常に品のない疑問ですが、王族教育としては重要です」
「やはり品がなかったか」
「はい」
ミランダはきっぱりと言った。
「ですが、疑問としては正しいです」
「そうなのか」
「今回も私、ミランダ・ハインドがゆっくり解説してあげますわ!」
ミランダはそう言って蠱惑的な笑みを浮かべた。
「結論から申し上げますと、愛人がいるから正妻には一切触れないという理屈は、少々男性の性欲を甘く見すぎですわ」
ハワードは目を瞬かせた。
「甘く見すぎ」
「ええ。実際そうでしょう? 仮に殿下が私と可愛い愛人が並んで仲良く誘惑してきたら、二人とも取るでしょう?」
「ん……まあ、そうだな」
ハワードは気まずそうに視線を逸らした。彼とて年頃の男である。人並みに欲望はある。
「それに、身近に反例がいる」
ハワードは何かを思い出したように、遠い目をした。
「反例?」
「弟を見てみろ。あいつ正室の他に愛人が七人いるぞ……」
「は、はちまた……七人の愛人、ビッグセブン……」
「うわ、さすがのミランダも引いてる……」
「…………弟君は反例というより事故例ですわ」
「事故例」
「はい。王族男性の欲望、庇護欲、責任感、所有欲が全部悪い方向に噛み合った事故例です」
「弟の扱いがひどい」
「ですが、白い結婚の夫君を考えるうえでは参考になります。少なくとも、本命がいるから他の女性には一切触れない……というのは男性を少々綺麗に見積もりすぎですわ」
気まずそうにするハワードを見つつ、ミランダは、平然と紅茶を一口飲んだ。
「もちろん、そういう男性が絶対に存在しないとは申しません。ですが、王族や高位貴族の婚姻として考えるなら、それだけでは理由として弱いです」
「なぜだ?」
「正妻は正妻だからです」
「説明が強いな」
「事実ですので」
ミランダは淡々と続ける。
「正妻とは、恋愛対象である以前に、家と家を結ぶ契約の相手です。婚姻には、子を成すこと、家を継ぐこと、同盟を固めること、財産と血筋を繋ぐことが含まれます」
「つまり、愛情だけの問題ではない」
「はい。むしろ王族や貴族の場合、愛情は最後に来ることすらあります」
「夢がないな」
「白い結婚の話で夢を見ようとする方が危険ですわ」
ハワードは返す言葉を失った。ごもっともである。ミランダは、そこで少しだけ声を落とした。
「正妻に手を出さないということは、単に寝室へ行かないというだけではありません。正妻との子を作らない。正妻の実家との婚姻契約を実質的に履行しない。後継者問題を放置する。夫婦不仲の噂を流す。愛人の影響力を公然と示す。そういう意味になります」
「……なるほど。思ったより多方面に燃えるな」
「燃えます。よく燃えます。積み上がった火薬くらいよく燃えますわ」
「ミランダはすぐ燃やすな」
「燃えるものを燃えると申し上げているだけです」
ミランダは微笑んだ。その笑みは美しかったが、内容は物騒だった。
「そもそも、夫側が愛人に本気で惚れていたとしても、それは正妻に触れない理由としては弱いのです」
「本命がいるから、では足りないのか」
「足りません」
「即答だな」
「それは男性の性欲と所有欲を、いささか上品に見積もりすぎですわ。世の男性は女性が思う以上に脳内はピンク色です!」
「酷い偏見を見た!」
「あくまで一般論の話ですよ。一般論」
ハワードは渋い顔をする。
「ミランダ」
「はい」
「君は時々、貴族令嬢らしからぬ切れ味を見せるな」
「殿下が貴族らしからぬ話題を振るからです」
「それはそう」
ミランダは涼しい顔で続けた。
「高位の男性が美しい正妻を迎え、なおかつ彼女が法的にも社会的にも自分の妻であるなら、愛人がいるからといって一切関心を持たない、というのはかなり特殊です」
「特殊」
「はい。愛人は愛人、正妻は正妻、と考える方が、貴族社会の男性としては自然です。主菜があるから甘味を食べぬ、とは限らないでしょう?」
「それはそれで最低ではないか?」
「最低です。ですが、最低であることと、あり得ることは別です」
「嫌な真理だな」
「教育とは、時に嫌な真理を学ぶ時間ですわ」
ハワードは遠い目をした。
「では、白い結婚が成立するには、何かしら強い理由が必要と?」
「その通りです」
「例えば?」
ミランダは指を一本立てた。
「第一に、妻への強い嫌悪です」
「嫌悪」
「妻本人、あるいは妻の実家への敵意が強く、触れること自体を拒む場合です。ただし、この場合は婚姻関係そのものが火薬庫になります。正直、初夜からこれでは、破局も時間の問題ですわ」
「最初から火薬庫案件というわけか」
「はい。さながら仲の悪い民族同士を、同じ国に無理矢理統合しようとするかの如き所業です」
「よほどトップが有能でなければ内戦になるやつだ……」
次に、二本目の指を立てる。
「第二に、愛人への過剰な忠誠です。『君だけを愛している』と証明するために、正妻に触れない」
「一見、誠実に聞こえるな」
「王侯貴族としては不誠実ですわ」
「そうなのか?」
「正妻との子を作らず、家同士の契約を軽んじ、愛人への感情を国家や家の継続より優先しているからです」
「なるほど。誠実の向きがダメなのか」
「ええ。愛人には誠実でも、家には不誠実です。感情論で全方位に砂をかけています」
三本目。
「第三に、政治的理由です。正妻に子を産ませると困る場合」
「それはまた物騒だな」
「敵派閥の娘を形式上妻に迎えたが、その血を後継者に入れたくない。あるいは愛人の子を後継者にしたい。そういった場合です」
「陰謀の匂いがする」
「実際陰謀ですもの」
四本目。
「第四に、身体的あるいは精神的な問題です」
「それは……」
「なんとなく察しましたね?」
ミランダは平然としている。
「性的不能、対人恐怖症、性への過去の心的外傷、宗教的誓約、同性愛……。そういった理由で夫婦関係を持てない場合もあります。この場合、愛人がいるから、という説明自体が虚偽である可能性もあります」
「なるほど。この場合、愛人自体いない、ということもありうるのか」
「あり得ます」
「それはまた話が変わるな」
「はい。デリケートな話ではあります。ただ、やはりパートナーである正室に説明をしないのは不誠実です」
ハワードは深く息を吐いた。
「では、物語でよくある愛人がいるから妻は放置する、というのは、かなり都合がよいのだな」
「都合がよい、というより、物語上の役割があります」
「役割?」
「はい。夫に愛されず放置される妻、という構図を作るためです」
ミランダの声は、少しだけ柔らかくなった。
「白い結婚ものでは、妻は精神的には傷つけられます。ですが、身体的には踏み込まれない。だからこそ、後から離婚したり、別の相手と結ばれたりする時に、読者が受け入れやすいのでしょう」
「なるほど。手を出されると、逆に話が重くなりすぎるのか」
「はい。夫が正妻を愛さず、しかし子が出来た場合、被害の質が変わります。読後感も大きく変わります」
「たしかに、それはかなり嫌だな。特に子供の立場や感情を考えると」
「ええ。ですから、白い結婚は、女性側の尊厳回復物語としては便利な装置なのです」
「装置」
「ただし、現実の貴族社会にそのまま持ち込むと、契約不履行と後継者問題の塊ですわ」
ハワードは黙って頷いた。
しばらく、二人の間に静かな間が流れた。
中庭では、学院の生徒たちが楽しそうに笑っている。若い彼らにとって、婚姻はまだ舞踏会と恋文と薔薇の香りでできているものなのだろう。
だが、ハワードは妾腹とはいえ、王族だった。そして、ミランダは王族の婚約者になる女だった。だから二人の会話は、どうしても実利に寄っていく。
「つまり、王侯貴族が白い結婚をするなら」
ハワードはゆっくりと言った。
「それは純愛ではなく、まず契約不履行として見られる」
「まとめパートに入りましたわね。はい。この時点でだいぶアカン人です」
「正妻の実家は怒る」
「当然です」
「後継者問題が起きる」
「起きます」
「愛人の立場が強まりすぎる」
「ほぼ確実に」
「周囲は夫の能力や嗜好や健康状態まで噂する」
「嬉々として」
「……嫌な世界だなあ。貴族社会って」
「それが貴族社会ですので」
ミランダは当然のように言った。
ハワードは少し考え、それから真面目な顔で彼女を見た。
「では、もし私が君と結婚して、君に『愛するつもりはない』などと言ったら?」
ミランダはにこりと微笑んだ。
「その時点で、ハインド家は対応を協議します」
「協議」
「はい。父、母、妹、叔父叔母、後見人、顧問弁護士、そして必要であれば一門衆の軍関係者を交えて」
「思ったより大事になった」
「王子殿下が婚姻契約を踏みにじるのですから、当然です」
「では、さらに愛人のもとへ通ったら?」
「殿下の健康状態と判断能力を疑います」
「……錯乱扱いってこと?」
「はい。正妻を放置して愛人へ通い続ける王子が、正常な判断力を持つかどうかは重要ですので」
「かなり辛辣ではないか?」
「辛辣ではなく、家を守るための確認です」
ハワードは天を仰いだ。
「白い結婚とは、白いどころか真っ赤に燃える火種なのだな」
「ええ。名前だけは白いですが、中身はよく燃えます」
「また燃えた」
「恋愛は火薬ですから」
「迷言だな。恋愛は火薬」
「ハインド家の女はね、重いんですよ」
「重い……?」
「とにかくこの人! と決めた王族には、どこまでもついていくのがハインド家です」
「親鳥についていく雛か?」
「理屈も政治も関係ない。好きならついていく。推し王族をディスった奴は殺す……実際、曽祖父は、ある思想家が著作で当時の王女を批判した時、出版された翌日にその思想家を襲撃したそうです」
「殺したのか?」
「はい。『俺の推しの姫様を、愚劣なる浪費姫などと書いたな? 死ね!!!!!!』と叫びながら、めった刺しにしたとか」
「狂った王党派過ぎる……」
「一族揃って判官贔屓も相まって不遇な王族程萌える性癖なおかげで、逆に政争にも巻き込まれにくい上、一族の人間が各自で好き勝手に推しを作るから、どこかの派閥が壊滅的なダメージを食らっても、まとめて一族族滅とならず、血が繋がる、という副次効果もあります」
「かしこい」
「それほどまでに、ハインド家にとって婚姻と忠誠は重いのです」
「そういえば、君の妹も私の弟にゾッコンだったな……」
「えっ、妹、弟君に惚れてるんですか……?」
「惚れてるどころか、愛人の一人だ」
「知らなかったそんなの」
知らない間に妹がやべぇ奴と付き合っていた事を知って、ショックを受けた顔のミランダ。ハワードはこの冷静な婚約者がこんな顔をするのかと、妙な所に感心していた。
「ま、まあ、ハインド家の性癖的に妹が不遇かつ美形かつ有能王族である弟君に惚れるのはむべなるかな……」
「性癖って言った」
そこでミランダは、少しだけ頬を赤らめた。
「妹の事はともかく、私は、愛するつもりのない方と結婚するつもりはありません。ハインド家は惚れた相手にはどこまでもついて行く家系です」
ハワードは一瞬、言葉に詰まった。
ミランダは視線を逸らしながらも、はっきりと言った。
「恋に生きている妹には妹の考えがあるのでしょう。しかし政略結婚であっても、互いに尊重し、向き合い、家を作る努力はできます。最初から白くするつもりの結婚など、私には必要ありません」
「……そうか」
「はい」
ハワードは、ゆっくりと微笑んだ。
「なら、私は努力しよう」
「何をですか?」
「君と、白くない結婚をする努力だ」
ミランダは紅茶を飲もうとして、手を止めた。
「殿下」
「はい」
「言い方をもう少しお考えください」
「今のは駄目だったか」
「駄目です。かなり駄目です」
「すまない」
「ですが」
ミランダは、ほんの少しだけ唇を緩めた。
「言いたい事は、悪くありません」
ハワードはほっとしたように息を吐いた。
「それはよかった」
「ただし」
「ただし?」
「殿下には、白い結婚以前に、女性への理解と責任感をもう少し鍛えていただく必要があります」
「また訓練か」
「はい。訓練で流す汗の一滴は、実戦で流れる血を一滴節約します」
ミランダは東屋の外へ視線を向ける。そこには、学院の演習場へ続く道がある。
ハワードは嫌な予感を覚えた。
「ミランダ」
「はい」
「今日は何の訓練だ?」
「距離感の訓練です」
「距離感」
「女性との距離感、婚約者との距離感、愛人問題との距離感。そして物理的な距離感です」
「物理的な」
「はい。まずは千メートル先の的を撃っていただきます」
「またか」
「遠くを見る力は、王族に必要ですわ」
「またそういうことを言う」
ミランダは微笑んだ。
「殿下。白い結婚を避けるには、まず目の前の女性を見ること。そして、そこから先にある家、子、民、国まで見ることです」
「なるほど」
「ですから、まずは遠くの的からです」
「理屈は分かるが、繋がり方が物騒だ」
「ハインド家式です」
ハワードは深く息を吐いた。どうやら今日も、王族教育は平穏には終わらないらしい。
だが、ハワードは不思議と嫌ではなかった。
少なくとも、彼の隣には、白くも冷たくもない婚約者がいる。辛辣で、理性的で、時々物騒で、そして誰よりも現実を見せてくれる婚約者が。
「ミランダ」
「はい、殿下」
「君が婚約者でよかった」
ミランダは、今度こそはっきりと頬を赤らめた。
「……そういう言葉は、射撃訓練の後にしてくださいませ」
「なぜだ?」
「手元が狂います」
「君でも?」
「私でもです」
ハワードは笑った。
ミランダも、小さく笑った。
その日の午後、王立貴族学院の演習場では、ハワードが二百メートルまでは安定して命中できるようになっていたという。
読了、お疲れさまでした。これにて、本作は完結です。
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