第8話 スタンピード
第8話 スタンピード
異変に最初に気づいたのは、温室外周の見張りをしていた元冒険者の青年だった。
その夜、《奈落の菜園》には重苦しい風が吹いていた。
空は赤黒く濁り、地面が微かに震えている。
青年は監視塔の上で眉をひそめた。
「……なんだ?」
遠くの闇が、揺れていた。
いや。
動いている。
地平線そのものが蠢いているみたいだった。
次の瞬間。
耳をつんざく咆哮が夜空を裂いた。
「グオオオオオオオオッ!!」
青年の顔色が変わる。
「まさか……!」
望遠魔導具を覗き込んだ瞬間、全身の血が凍った。
魔獣。
魔獣。
魔獣。
数え切れない。
狼型、猪型、飛竜種、昆虫型――無数の魔獣が黒い濁流みたいに押し寄せてきていた。
スタンピード。
しかも規模が異常だった。
「警鐘鳴らせぇぇぇ!!」
ゴォン!! ゴォン!!
都市全体へ警鐘が響き渡る。
温室都市の空気が一変した。
住民たちが家から飛び出してくる。
「な、何が起きた!?」
「魔獣の群れだ!!」
「嘘だろ……!」
子供が泣き出す。
エルフの少女が青ざめる。
老ドワーフが歯噛みした。
「この数……戦争じゃねぇか」
その頃。
健は中央制御温室で管理画面を見つめていた。
視界を埋め尽くす赤い警告表示。
『超大型スタンピード確認』
『周辺ダンジョン暴走』
『推定敵性数:四万八千』
健の眉間に深い皺が刻まれる。
「……多すぎる」
普通じゃない。
自然発生する規模を超えている。
そして管理画面の奥に、もう一つの表示が浮かんでいた。
『外部魔導干渉反応検知』
健の目が細くなる。
「……誰かが、やったのか」
その瞬間、扉が開いた。
「領主様!」
青年たちが飛び込んでくる。
「避難を始めてます! でも住民が……!」
「パニックか」
「はい! 逃げなきゃ全滅です!」
外ではすでに怒鳴り声が響いていた。
「北門を開けろ!」
「荷物を積め!」
「急げ!!」
恐怖の匂いが街に広がっていた。
健は静かに目を閉じる。
耳に入る。
泣き声。
怒鳴り声。
怯えた呼吸。
昔のギルドを思い出した。
事故が起きるたび、責任を押し付け合い、弱い者から切り捨てられていった。
あの空気が嫌だった。
だから自分は、ここを作った。
安心して眠れる場所を。
もう、誰かが怯えながら生きなくていい場所を。
健はゆっくり立ち上がる。
「避難経路は?」
「西側水路は確保済みです!」
「子供と老人優先。物資倉庫は開放しろ」
「で、でも領主様! 敵の数が――」
「わかってる」
健は穏やかに答えた。
不思議と、頭は冷えていた。
こういう時こそ慌てるな。
昔からそうだった。
事故が起きた時ほど、誰かが冷静じゃないと全員死ぬ。
健は外へ出る。
冷たい風が吹きつけた。
遠くの地平線。
黒い波が迫ってくる。
大地を埋め尽くす魔獣の群れ。
咆哮だけで空気が震えていた。
『うわ……』
『なんだこれ』
『終わりだろこんなの』
配信コメント欄も恐怖で埋まっていく。
今や全世界が、この配信を見ていた。
視聴者数は過去最高を更新し続けている。
王都。
貴族街。
酒場。
病院。
世界中の人間が、四十歳のおっさんを見守っていた。
健は配信ドローンを見上げる。
赤いランプが点滅していた。
少しだけ昔を思い出す。
あの日。
雨の中で追放された夜。
何もなかった。
誰もいなかった。
でも今は違う。
背後には、守りたい場所がある。
健は静かに口を開いた。
「……聞こえるか」
コメント欄が止まる。
風の音だけが流れた。
健は前を向いたまま続ける。
「正直、怖い」
住民たちが息を呑む。
「逃げた方が正しいかもしれない」
巨大な魔獣の咆哮が響く。
地面が揺れる。
でも。
健は一歩前へ出た。
「でも」
低い声だった。
決して大きくない。
なのに、不思議と全員へ届いた。
「俺は、この場所を投げない」
エルフの少女が目を見開く。
老ドワーフが拳を握る。
「仲間から逃げない」
温室都市の灯りが揺れる。
子供たちが泣きながら健を見る。
「未来をあきらめない」
その言葉は、静かだった。
英雄みたいな演説じゃない。
ただ。
長年、理不尽の中で耐え続けてきた男の言葉だった。
だから重かった。
健はゆっくり振り返る。
「……悪いが、少し忙しくなる」
一瞬の静寂。
そして。
「へっ」
老ドワーフが笑った。
「今さら逃げるかよ、馬鹿野郎」
エルフの少女も涙を拭う。
「わ、私も戦います!」
「お、おっさんだけ働かせるな!」
「水路防壁閉じろ!」
「子供を地下区画へ!」
住民たちが動き始める。
恐怖は消えていない。
それでも。
誰も逃げなかった。
『うおおおおおおお!!』
『おっさん!!』
『泣く』
『頼む、生き残ってくれ』
『世界中で応援してる!!』
コメント欄が流れ続ける。
視聴者数。
三千万突破。
歴代最高記録更新。
世界中が、この瞬間を見ていた。
健は深く息を吸う。
土の匂い。
作物の香り。
暖かな灯り。
ここはもう、ただのダンジョンじゃない。
自分たちの“居場所”だ。
そして黒い魔獣の波が、ついに目前まで迫る。
咆哮。
地鳴り。
殺気。
だが健は逃げない。
ゆっくりと地面へ手を置く。
その瞬間。
《奈落の菜園》全体が脈動した。
まるで大地そのものが、健へ応えるみたいに。




