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公爵令嬢は捨てられる妄想が止まらない

作者: 納豆巻
掲載日:2026/01/17


挿絵(By みてみん)


1.忍び寄る影と、空回る努力


 最初は、ほんの些細な違和感だった。


「ねえ、ご存じ? アルフレッド殿下と、あの特待生の噂」


 王立学園のサロンで、極上の茶葉の香りとともに囁かれたその言葉。

 私は公爵令嬢エリーゼとして、婚約者としての余裕の笑みを崩さなかったけれど、カップを持つ指先は冷たく冷えていた。

 アルフレッド殿下は、お優しい方だ。身分の低い者にも分け隔てなく接する、素晴らしい人格者。きっと、平民の特待生であるミナという少女が学園に馴染めるよう、気遣っていらっしゃるだけなのだ。


 そう、自分に言い聞かせた。

 けれど、一度芽生えた不安の種は、私の心の奥底でじわじわと根を張り始めていた。

 図書館で二人きりで話し込んでいた。

 廊下で親しげに笑い合っていた。

 そんな噂が耳に入るたび、胸が締め付けられるような焦燥感に襲われる。


(いけないわ。ただ待っているだけでは……)


 私は不安を振り払うように、積極的に行動を起こすことにした。

 彼との時間を持ち、変わらぬ愛を確認すれば、こんな下らない噂など霧散するはずだ。


「殿下。今度の週末、王都で評判の歌劇団の公演がございますの。もしよろしければ、ご一緒しませんこと?」


 放課後、私は精一杯の笑顔で彼を観劇に誘った。あるいは、季節の花々が咲き誇る庭園でのお茶会に。

 けれど、殿下の反応は、私の期待とは裏腹なものだった。


「すまない、エリーゼ。その日は少し都合が悪くてね」


 殿下は困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに私を見た。


「実は今、友人の研究発表が佳境を迎えていて、その手伝いをしているんだ。とても重要な研究でね、少しの間、どうしても手が離せそうにないんだよ。本当にすまない」


「……左様でございますか。お友人のためなら、仕方がありませんわね」


 私は淑女の仮面を貼り付け、物分かりの良い婚約者を演じた。

 けれど、内心は穏やかではなかった。

 友人? 研究?

 そんな曖昧な理由で、私との時間を後回しにするなんて。今までなら、どんなに忙しくても少しの時間を見つけて会ってくださったのに。


(もしかして、その「友人」というのは……)


 私の脳裏に、噂の特待生ミナの顔がよぎる。

 まさか。まさか、そんなはずはない。

 私は必死にその疑念を打ち消そうとした。


 けれど、現実は残酷だった。

 殿下に断られたその数日後、サロンで新たな噂が爆発したのだ。


「聞いた? 殿下ったら、最近はずっと図書館の個室にこもりきりらしいわよ」

「ええ、しかもあの特待生の女と二人きりで! 遅くまで灯りがついているって、もっぱらの噂だわ」

「まあ、なんてこと……。エリーゼ様との観劇をお断りになってまで、そんな……」


 同情と好奇心に満ちた視線が、一斉に私に突き刺さる。

 私は呼吸ができなくなるほどの衝撃を受けた。


 嘘でしょう?

「友人の手伝い」というのは、あの女との密会のことだったの?

 私には「時間が取れない」と言っておきながら、あの女とは二人きりの時間を楽しんでいるというの?


「っ……!」


 その事実が、鋭いナイフのように胸を抉る。

 痛い。苦しい。惨めだ。

 愛する人に嘘をつかれ、他の女を優先される屈辱。公爵令嬢としての誇りを踏みにじられる感覚。


 ……けれど。

 その強烈な不快感の奔流の中で、私は奇妙な感覚に気づいてしまった。

 胃の腑が締め付けられる苦しみと、胸の奥にざわめく焦燥。

 そして、冷え切った背筋を、熱い電流のようなものが駆け抜けていく。


(……何? この感覚は)


 私は恐怖した。

 婚約者に裏切られているかもしれないという状況で、なぜ私の体は熱を帯びているのか。

 なぜ、こんなにも心臓が高鳴っているのか。

 これは、怒り?

 悲しみ?

 それとも――。


 私はその感情の正体がわからず、ただ混乱と、認めがたい昂ぶりの中で、眠れぬ夜を過ごすことになった。


2.禁断の福音書


 限界だった。

 不安と、嫉妬と、そして正体不明の興奮に、私の精神はすり減っていた。

 何か、この状況を忘れさせてくれるものが必要だった。


 そんな時だった。

 私の部屋の安楽椅子に、侍女が片付け忘れたであろう一冊の本が置かれていたのは。

 古びた装丁の、どこにでもあるような恋愛小説。

 タイトルは『銀の檻、奪われた誓い』。


 気晴らしになればと、私は何気なくその本を手に取り、ページをめくった。


 物語は、遠い異国を舞台にした、将来を誓い合った二人に訪れる悲劇だった。

 純朴で誠実な主人公と、その美しい恋人。二人の幸福な未来は、腹黒い貴公子の登場によって狂い始める。

 貴公子は爽やかな笑顔の裏で、巧みな手練手管を使い、主人公から恋人を引き剥がし、籠絡していく。


 ※なお、主要登場人物は全員「男性」であった


 最初は、眉をひそめた。

 なんて救いのない話なのだろう。

 主人公は何も悪くないのに、ただ地位と権力、そして性的な魅力で勝る男に、最愛の人を奪われていく。

 恋人が貴公子の腕の中で堕ちていく様を見せつけられ、主人公は絶望の淵に立たされる。


「こんな悲しくて惨めな終わり、ちっとも面白くありませんわ……」


 私は不快感を覚え、本を閉じようとした。

 こんなものは悪趣味だ。今の私の惨めな状況を、さらに煽るだけの駄作だ。


 けれど、私の指は止まった。

 閉じたはずの本を、再び開いてしまう。

 視線が、主人公が恋人を奪われたと知った時の、魂が砕けるような絶望の描写に吸い寄せられる。


(……この感覚。似ているわ)


 殿下に観劇を断られた時のショック。

 図書館で密会しているという噂を聞いた時の、胸を抉られるような痛み。

 それが、この主人公の絶望と重なり合う。


 私は、震える手でページをめくり続けた。

 不快なはずなのに。読むのをやめるべきなのに。

 私の目は、文字を貪るように追いかけていた。


 そして、私は気づいてしまったのだ。

 主人公の絶望に自分を重ね合わせるたびに、あの夜に感じた背筋の震えが、より強く、より鮮明に蘇ってくることに。


「あ……」


 私は、本を胸に抱きしめた。

 理解したくなかった。けれど、魂が理解してしまった。

 私が感じていた「正体不明の悪寒」。

 それは、愛する人を奪われ、惨めに裏切られることへの、倒錯した悦びだったのだと。

 私は「可哀想な私」に浸っていただけではなかった。その惨めさ、に興奮していたのだ。


 その瞬間、私の世界に新たな色彩が加わるのを感じた。


3.鏡の中


 それからの日々は、まさに妄想の暴走特急だった。

 アルフレッド殿下のちょっとしたよそよそしさも、視線の逸らし方も、すべてが「私を裏切るための前戯」に変換される。


 そして迎えた、舞踏会の数日前。

 深夜、屋敷が静まり返った頃。

 私は鏡の前に立ち、「その瞬間」をシミュレーションしていた。


『エリーゼ! 君との婚約は破棄する! 僕はミナを愛しているんだ!』


 罵倒される私。嘲笑う令嬢たち。勝ち誇る平民の女。

 私の全てが否定され、尊厳が踏みにじられる瞬間。


「ああっ、アルフレッド様……酷い、酷いですわ……っ」


 鏡の中の私は、ボロボロと大粒の涙を流していた。

 目は赤く腫れ、誰が見ても同情を誘う悲劇のヒロイン。

 しかし――その口元だけが、だらしなく緩み、端からツーッと透明なヨダレを垂らしていた。


「ふふ……へへ……」


 瞳は絶望、口元は悦楽。

 そこに映っていたのは、公爵令嬢の皮を被った、業の深い怪物だった。


 私はハンカチで口元の汚れを拭うと、瞳で呟いた。


「もし、もしもそんな未来が訪れたら、アルフレッド様……」


 ――たまんねぇですわ。


4.舞踏会の肩透かし


 そして、運命の舞踏会。

 大広間には、着飾った貴族の生徒たちがひしめき合っている。

 私は壁際で、ハンカチを握りしめて待っていた。来る、ついに来る。私の処刑が。


 音楽が止まり、アルフレッド殿下が会場の中央に進み出た。

 隣には、噂の特待生ミナも控えている。


「皆、聞いてくれ!」


 アルフレッド様の凛とした声が響く。

 私は目を閉じ、ビクンと身体を強張らせた。さあ、私を突き落として!


「最近、私と特待生ミナ嬢の間に不名誉な噂が立っているようだが、それは全くの誤解である!」


 ……はい?


 私は薄目を開けた。

 アルフレッド様は、私の手を恭しく取り、高らかに宣言を続けている。


「ミナ嬢は、我が国の古代魔法史研究における稀有な才能だ。私は彼女と共同で論文を執筆していたに過ぎない! 学園側の要請で極秘に進めていたため、誤解を招いてしまったことを詫びたい!」


 会場から「おお……!」という感嘆の声が漏れる。


「私はここに誓う! 私が生涯愛するのは、我が婚約者エリーゼただ一人であると! 彼女への愛を証明するため、卒業を待たずに正式な婚姻の儀を執り行いたいと思う!」


 ワアアアアアッ!

 会場は割れんばかりの拍手と祝福に包まれた。

 感動のあまり泣き出す令嬢もいる。

 特待生のミナさんは、安堵したような笑みを浮かべていた。


 そして私は。

 極限まで高まっていた興奮が、急速に冷えていくのを感じた。


「……あ、あ、ありがとうございます……殿下」


 引きつりそうになる口角を必死に淑女の微笑みに固定する。

 よかった。婚約破棄なんてなかったんだ。私は愛されていたんだ。

 頭ではそう理解しているのに、ぶっちゃけ拍子抜けだった。


5.静かなる愛、あるいは正気への帰還


 舞踏会が終わり、生徒たちが去った静寂の中。

 私たちは夜風の吹き抜ける中庭のベンチに座っていた。


「……すまなかった、エリーゼ」


 二人きりになると、アルフレッド様は先ほどの堂々とした態度はどこへやら、気まずそうに項垂れた。


「君を不安にさせてしまったね。もっと早く説明すべきだったのだが、論文の完成までは秘密にする契約だったんだ」

「いいえ、殿下。お気になさらないでください(ええ、本当に。別の意味でドキドキしていましたから)」


 私は乾いた笑みを張り付けたまま答えた。


「……怒っているかい?」


 殿下は困ったように眉を下げ、私の冷たい手をそっと包み込んだ。

 触れられた瞬間、ビクリと肩が跳ねる。

 けれど、そこから伝わってくるのは、何処かで期待していた冷酷な拒絶ではなく、じんわりと温かい温もりだった。


「エリーゼ。僕たちの関係は、君が読んでいる物語のような……燃え上がるような恋ではないかもしれない」


 ドキリとした。

 まるで、私の歪んだ願望を見透かされたようで、心臓が跳ねた。


「僕は口下手だし、君との婚約も生まれた時からの決まり事だ。退屈な政略結婚に見えるだろう。けれど、僕は……君と積み重ねてきた時間を、些細な思い出を、何よりも大切に思っているんだ」


 殿下はそこで言葉を切り、私の目を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳には、一点の曇りもない、不器用な誠実さが揺れていた。


「初めて顔合わせをした日、緊張して泣いた君と一緒にクッキーを食べたこと。君からの見舞いの手紙。……僕にとって、君はただの婚約者じゃない。一緒に成長してきた、唯一無二のパートナーなんだよ」


 殿下は私の手を、強く、愛おしそうに握りしめた。


「新しい刺激も、劇的な展開もないかもしれない。けれど、僕は君とのこの穏やかな絆を……積み重ねた思い出を簡単に捨て去るようなこと、私には出来ない」


 その言葉が、凍りついていた私の心に染み渡っていく。

 まるで、冷たい氷が温かいお湯で溶かされていくようだった。


 ああ、そうだ。

 私は、この人のこういうところが、好きだったのだ。

 不器用で、真面目で、華やかさには欠けるけれど、誰よりも私のことを見てくれている。

 刺激や略奪なんていう劇薬がなくとも、ここには確かな温度がある。


 私が求めていたのは、誰かに奪われるスリルなんかじゃなかった。

 ただ、彼に愛されているという確信が欲しかっただけなのだ。

 それを捻じ曲げて受け取っていたのは、私自身の弱さだった。


「……殿下」


 気がつけば、私の目から涙が溢れていた。

 今度の涙は、演技でも、悔しさでも、ましてや興奮の涙でもない。

 安堵と、愛しさによる、温かい涙だった。


「エリーゼ……!」


 アルフレッド殿下が、泣きじゃくる私を優しく抱きしめる。

 その体温に包まれながら、私は泣きじゃくった。

 怪物は消えた。鏡の中のヨダレを垂らす女は、もういない。

 私はただの、愛される幸せな公爵令嬢に戻ったのだ。


 ――そう、この時は本気で、そう信じていたのだった。


6.そして、業は巡る


 それから数ヶ月。

 私は平穏で満ち足りた日々を過ごしていた。

 アルフレッド様とは以前よりも仲が深まり、あの忌まわしい「性癖」は、マリッジブルーが生んだ一時の気の迷いだったのだと結論づけていた。

 そう、あの日までは。


「ねえ、ご存じ? 最近のアルフレッド殿下の噂」


 いつものサロンで、その言葉は投下された。

 私は優雅に紅茶を飲みながら、余裕の笑みで聞き流そうとした。今の私には、殿下との強固な信頼関係がある。


「また? 今度はどなたと? まさか、また研究熱心な女性かしら?」


「いいえ、それが……今度は、新しく側近候補になったオスカー様よ」


「……え?」


 オスカー様。

 隣国の血を引く、美しくもどこか影のある青年貴族。最近、アルフレッド様と頻繁に行動を共にしているという。


「殿下ったら、オスカー様といる時だけは、気兼ねなく笑っていらっしゃるのよ」


「まあ……男同士の友情にしては、少し親密すぎやしませんこと?」


 カチャン。

 ティーカップがソーサーに当たる音が、妙に大きく響いた。


(……待って)


 私の脳裏に、あの「バイブル」が蘇る。

 私が性癖に目覚めるきっかけとなった小説、『銀の檻、奪われた誓い』。

 あの小説の登場人物は、すべて男性だった。

 略奪者も、奪われる恋人も。


 もしも。

 もしも、今回の相手が女性ではなく、男性だとしたら?

 私が入り込む余地のない、禁断の園だとしたら?

 婚約者である私を差し置いて、殿下が禁断の恋に溺れてしまったとしたら?


「っ……!!」


 ドクン、と心臓が跳ねた。

 呼吸が荒くなる。背筋を、あの懐かしい電流が駆け抜ける。

 ダメよ、エリーゼ。思い出して、あの夜の庭での誓いを。彼の誠実さを。

 貴方はもう、普通の幸せを手に入れたはずでしょう?


 けれど。

 けれど、止められない。


「……オスカー様と、殿下が……?」


 私は口元をハンカチで押さえた。

 抑えきれない笑みが、そして口の端から垂れようとする雫を、隠すために。


 鏡を見なくてもわかる。

 今の私はきっと、あの時以上の「いい顔」をしている。


 私の穏やかな日々は終わりを告げた。

 再び、不安と興奮がない交ぜになる、地獄のような、それでいて天国のような日々が幕を開けたのである。


 ――ああ、神様。私の業は、どこまでも深いようです……!


【おわり】

例によってあらすじ詐欺です。

これはひどい、そう思っていただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
えー王子とじゃなくてももっと優秀な人材だっているはずなのに怪しいですねぇ~。 性癖は犯罪を犯さない限り自由ですが、ほどほどに。
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