7話
日曜の昼下がり、美寿紀は一人で実家の蕎麦屋に顔を出した。昼の客はひと段落した頃で、店内には常連客が二人ほど残っていた。湯気の立つ丼を前に、のんびりと箸を動かしている。
「お父さん、お母さん、聞いて!」
暖簾をくぐるなり、美寿紀は弾んだ声で切り出した。
「智幸ね、蕎麦打ち教室に通ってるの。それで、私も一緒に料理教室に行こうと思ってるの」
両親は目を丸くした。だがすぐに笑みが広がった。
「そうかい、それは嬉しいねえ」
「本気で継ぐ気があるなら、親としてはありがたいことだよ」
喜びの声が上がった。美寿紀は胸を張った。だが、父の顔が少し真剣になった。
「ただな……ウチにはウチのやり方があるんだ。長年やってきた味ってものがある。教室で習ったことをそのまま持ち込まれても困る」
母も頷いた。
「そうよ。伝統っていうのは大事だからね」
美寿紀は困ったように口をつぐんだ。せっかく明るく伝えたのに、両親の言葉には重みがあった。どう返せばいいのか分からない。
その時、店の隅で蕎麦をすすっていた常連客が口を開いた。作業着姿の中年男性だ。以前、智幸に「蕎麦はあんまりうまくねぇだろ」と言った人物だった。
「まあまあ、ご主人。どっちにしろ基礎は必要だよ。まだすぐに継ぐわけじゃないんだし、ここは二人の思った通りにさせてやったらどうだ」
父は驚いたように常連を見た。男は続けた。
「俺たち常連は、この店を支えたいと思って通ってる。だからこそ、若い二人が本気で学ぼうとしてるなら応援したいんだ。伝統は大事だが、基礎を知らなきゃ守れないだろ?」
母は少し考え込み、やがて頷いた。
「そうね……基礎を学ぶのは悪いことじゃないわね」
父もため息をつき、肩をすくめた。
「わかった。好きにやってみなさい。ただし、ウチの味を忘れないことだ」
美寿紀はほっとしたように笑った。常連客の一言が場を丸く収めてくれたのだ。
その夜、美寿紀は智幸に報告した。彼女は嬉しそうに話したが、智幸の胸には複雑な思いが広がった。
「ウチにはウチのやり方がある」――その言葉が重く響いた。伝統を守ることの難しさ。新しいことを学びながら、古い味をどう受け継ぐのか。自分にできるのか。
「必ずやり遂げる」
そう決意を新たにした。だが同時に、先行きへの不安も芽生えた。教室で学んだことと、店のやり方。その両方をどう融合させるのか。答えはまだ見えなかった。
智幸は静かに目を閉じ、心の中で未来の店の姿を思い描いた。希望と不安が入り混じったまま、次の一歩への覚悟が芽生えていた。




