4話
出汁作りを始めてから数日が経った。最初はぎこちなかったが、繰り返すうちに少しずつ手際も良くなってきた。昆布を水に浸す時間を長くしてみたり、鰹節を厚削りに変えてみたり。ネットで読んだ知識を試すたびに、味は微妙に変わる。だが、まだ「美味しい」と胸を張れるものにはならない。
そんなある日、母が台所に顔を出した。
「またやってるの? 智幸、最近台所に立つ時間が増えたわね」
鍋を覗き込みながら、母は楽しそうに笑った。
「へえ、昆布ってこんなふうに使うのね。私もやってみたいわ」
それから母はすっかり「出汁研究仲間」になった。鰹節を入れるタイミングを工夫したり、火加減を調整したり。智幸が真剣に味見をしていると、母は「ちょっと薄いけど、悪くないじゃない」と感想を言う。父は新聞を読みながら「お前ら、何をそんなに楽しそうにしてるんだ」と呆れ顔をしていたが、母は毎日のように台所に立ち、智幸と一緒に試行錯誤を繰り返した。
母の協力はありがたかった。思わぬ味方ができたようで心強い。だが、それでも美寿紀には言えなかった。彼女に「蕎麦が不味かった」とはどうしても言えない。だから、蕎麦打ち教室に通うことも秘密にした。
休日になると、智幸は「ちょっと用事がある」と言って出かけた。駅前の蕎麦打ち教室では、初心者たちが真剣に水回しや延ばしに挑戦している。粉を水に混ぜると、手のひらにしっとりとした感触が広がる。だが、力加減を間違えるとすぐにぼそぼそになってしまう。講師は「もっと優しく、でもしっかり」と声をかける。智幸は汗をかきながら、何度もやり直した。
延ばす作業も難しかった。麺棒で均一に広げるはずが、端が薄くなりすぎたり、真ん中が厚く残ったり。切る段階では「太い」「短い」と講師に笑われる。それでも少しずつ形になっていくのが嬉しかった。粉の香り、手に残る感触、失敗の悔しさ。すべてが新鮮で、智幸の心を満たした。
だが、その分、美寿紀と過ごす時間は減っていった。
「最近、会う時間少なくない?」
ある夜、美寿紀がぽつりと言った。天真爛漫な彼女の笑顔が、少し曇っている。智幸は胸が痛んだ。
「仕事が忙しくてさ」
そうごまかすしかなかった。彼女に「蕎麦打ち教室に通っている」とは言えない。言えば、蕎麦が不味かったことを認めることになる。それは彼女の両親を否定することにもつながる。
美寿紀は「そっか」と答えたが、どこか寂しそうだった。智幸はその横顔を見ながら、心の中で強く誓った。必ず、商品として出せる蕎麦を作れるようになる。彼女の夢を守るために。常連客の思いを裏切らないために。
母と一緒に台所で出汁を試し、休日には教室で蕎麦を打ち、そして彼女には秘密を抱えたまま。智幸の奮闘は、誰にも言えない形で少しずつ積み重なっていった。




