3話
常連客の言葉が耳に残っていた。
「蕎麦はあんまりうまくねぇだろ。丼モノはまだ普通だけどな」
その率直さに、智幸は返事を失った。確かに不味かった。だが、彼女の両親の努力を思えば、口に出すことはできない。常連客が「いつか美味くなるかもしれない」と夢を見て通い続けていることも知ってしまった。だからこそ、余計に言えなかった。
その夜、智幸は机に向かい、パソコンを開いた。検索窓に「蕎麦 美味しくする方法」と打ち込む。すると、画面には見慣れない専門用語がずらりと並んだ。蕎麦粉の種類、水回し、延ばし方、切り方。どれも簡単ではなさそうだ。読み進めるうちに、蕎麦というものがただの麺ではなく、職人の技と知識の結晶だと知る。軽く「継ぐ」と答えた自分の浅はかさを思い知らされる。
さらに「出汁 基本」と検索すると、昆布や鰹節の扱い方が丁寧に解説されていた。出汁は蕎麦の命だ、と書かれている。智幸は思わず頷いた。まずはここから始めよう。蕎麦打ちまではすぐにできなくても、出汁なら家で試せる。
翌日、スーパーで昆布と鰹節を買い込んだ。台所に立ち、鍋に水を張って昆布を入れる。火をつけ、沸騰直前で取り出す。鰹節を入れると、ふわりと沈んでいく。ネットで読んだ通りにやってみるが、香りは思ったほど立たない。味見をすると、薄いような、でも妙にしょっぱいような、不思議な味になった。
「うーん……これでいいのか?」と首をかしげていると、居間から母の声がした。
「智幸、何してるの? 料理なんて珍しいわね」
父も新聞をめくりながら顔を上げる。
「お前、急にどうしたんだ。料理男子に目覚めたのか?」
智幸は慌てて鍋を隠すように振り返った。
「いや、ちょっと……試しにね」
両親は不思議そうに顔を見合わせたが、それ以上は聞かなかった。智幸は胸を撫で下ろす。今はまだ言えない。彼女にも、両親にも。
夜、布団に入っても眠れなかった。頭の中には蕎麦の映像が浮かぶ。ぼそぼそと切れる麺、薄いのに重い出汁。あれを「商品として出せる程度」に持っていくには、どうすればいいのか。
再びパソコンを開き、今度は「蕎麦打ち教室」と検索した。都内には意外と多く、初心者向けのコースもある。写真には、楽しそうに蕎麦を打つ人たちの姿が映っている。智幸は画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
「内緒でやるしかないな」
そう決めた。蕎麦好きではあるが、知識はない。だが、彼女のため、常連客のため、そして自分の未来のために。少しずつでも「商品として出せる程度」に近づけたい。
智幸の小さな挑戦が、ここから始まった。まだ誰にも言えない、ひとりきりの火種だった。




