2話
智幸が、どうにか蕎麦をすすっていると、引き戸が開いて「よっ」と声がした。
入ってきたのは、作業着姿の中年男性だった。肩に少し埃がついていて、近所の工務店か何かの職人らしい。
「おう、今日も静かだな」
そう言いながら、彼は智幸の隣の席に腰を下ろした。
母が「いらっしゃいませ」と声をかけると、男は慣れた調子で「カツ丼ね」と注文した。
智幸は箸を止めた。どう返事をすべきか迷っていると、男がこちらをちらりと見て、にやりと笑った。
「初めてか? その顔はそうだな。……蕎麦はあんまりうまくねぇだろ」
智幸は思わず目を丸くした。だが、何も言えない。彼女の両親の店だ。否定も肯定もできず、ただ曖昧に笑うしかなかった。
男は続けた。
「丼モノはまだ普通だ。だから俺ら常連は、蕎麦より丼を頼むことが多い。まあ、腹は満たせるからな」
智幸は返事に窮し、ただ「そうですか」と小さく答えた。
男は湯気の立つカツ丼を受け取り、箸を割りながら言った。
「でもな、俺たちはこの店を見捨てられねぇんだ。先代のじいさんばあさんの頃は、蕎麦は本当に美味かった。人柄も良くてな。あの頃の味を知ってるから、いつかまた戻るかもしれないって夢を見てるんだ」
智幸は黙って聞いていた。男の声には、ただの愚痴ではない温かさがあった。
「今のご主人夫婦は味はダメだが、頑張ってる。だから俺たちは潰れないように通ってるんだ。……まあ、夢見てるだけかもしれんがな」
男は笑い、カツ丼をかき込んだ。
智幸は胸の奥が熱くなるのを感じた。
不味いと感じたのは自分だけではない。だが、それでも支えようとする人がいる。彼らの思いを裏切ることはできない。
その夜、智幸は決意した。
「隠れて蕎麦を研究しよう」
蕎麦好きではあるが、知識はない。だが、彼女のため、常連客のため、そして自分の未来のために。少しずつでも「商品として出せる程度」に近づけたい。
智幸の小さな挑戦が、ここから始まった。




