1話
引き戸を開けると、カラン、と小さな鈴の音が鳴った。
店内は思った以上に静かだった。昼時だというのに、客は一人もいない。四人掛けのテーブルが三つ、二人掛けが二つ。椅子はきちんと揃えられ、床も磨かれている。埃ひとつない。だが、どこか「使われていない」空気が漂っていた。
壁には色あせたメニュー札が並んでいる。「かけ蕎麦」「ざる蕎麦」「天ぷら蕎麦」…値段は手頃だ。だが、紙の端が少し黄ばんでいて、時の流れを感じさせる。
「いらっしゃいませ」
奥から声がした。美寿紀の母だ。柔らかい笑顔で迎えてくれるが、その声には少し疲れが混じっている。
智幸は席に着き、メニューを眺めた。心臓が妙に高鳴る。結婚を考える彼女の条件、その現実が目の前にある。
「かけ蕎麦をお願いします」
そう告げると、母は「はい」と答え、奥へ消えていった。
店内には、湯気の音だけが響く。静けさが、逆に緊張を煽る。智幸は、ふと壁際の棚に目をやった。そこには古い写真が飾られている。先代――美寿紀の祖父母が笑顔で店の前に立つ姿。客で賑わう店の様子も写っている。今とはまるで違う光景だ。
やがて、湯気とともに蕎麦が運ばれてきた。
「お待たせしました」
智幸は丼を前にして、箸を取った。見た目は普通だ。出汁の香りも、ほんのり漂う。だが、口に運んだ瞬間――。
「……」
言葉が出なかった。麺はぼそぼそと切れ、出汁は妙に薄いのに後味が重い。蕎麦好きの智幸にとって、それは想像を絶する「不味さ」だった。
しかし、顔には出せない。誠実な彼は、ただ静かに食べ進める。丼を持ち上げ、すする音だけが店内に響いた。




