16話
家族会議の夜から数日が経った。美寿紀は一人、店の座敷に座っていた。暖簾は下ろされ、客の声も消えた後の静けさ。畳の上に座り、灯りに照らされた店内を見渡す。ここで幼い頃から過ごしてきた。両親の背中を見て育ち、蕎麦の香りに包まれてきた。
だが今、その香りは弱くなっている。常連客の言葉が耳に残る。「昔はもっと香りが立ってたんだがな……」。父は頑なに伝統を守ると言い、母は後継者の離脱に焦っている。智幸は新しい店を提案した。すべてが心に重くのしかかる。
美寿紀は膝に顔を埋め、涙をこぼした。
「私は店を捨てたくない。でも、智幸も失いたくない……。両方は無理なのに、どうしても両方欲しいと思ってしまう」
その矛盾が胸を締め付ける。伝統と未来、家族と恋人。どちらかを選べば、どちらかを失う。
ふと、幼い頃の記憶が蘇った。父が蕎麦を打ち、母が客に笑顔で接していた姿。あの頃の店は活気に満ちていた。だが今は、伝統に縛られ、変化を拒んでいる。
「伝統って、守るだけでいいのかな……? でも、壊す勇気もない……」
美寿紀は自問した。答えは出ない。だが、答えを出さずに逃げることもできない。涙を拭い、灯りの下で静かに呟いた。
「私は、まだ決められない。でも、逃げない。必ず答えを見つける」
その夜、智幸に会った。街灯の下で、美寿紀は涙を浮かべながら言った。
「私は両方を欲しがってる。無理なのはわかってる。でも、諦められない。だから、答えを探す。あなたと一緒に」
智幸は頷き、彼女の手を握った。二人の影が並び、未来へと伸びていくように見えた。




