15話
夜の蕎麦屋。暖簾を下ろした後、店内には美寿紀と両親だけが残っていた。静けさの中に、重い空気が漂う。
父は腕を組み、低い声で切り出した。
「美寿紀。『自分たちで新しい店をやる』と言ったのか?」
その言葉は石のように硬かった。父の目には揺るぎない意志が宿っている。
母は湯呑を握りしめ、声を震わせながらも食い下がった。
「でも、あなた。智幸さんは娘の彼氏でしょう? ただの後継者候補じゃないの。もし本当に離れてしまったら、店だけじゃなく、美寿紀の人生も揺らいでしまうわ。伝統を守るのは大事だけど、未来を閉ざすことが本当に正しいの?」
父は眉をひそめ、母を睨んだ。
「伝統を守る者だけが継げばいい。余計なことを考える必要はない」
美寿紀は二人の間で視線を揺らし、胸が締め付けられるように感じた。
「……私は、この店を守りたい。でも、智幸と一緒に未来を作りたい気持ちもある。両方を選ぶことはできないの?」
父は即座に首を振った。
「伝統は一つだ。守るか、捨てるか。曖昧な選択は許されない」
母はさらに言葉を重ねた。
「あなた、頑なすぎるわ。常連客だって昔の味を求めるけれど、時代は変わっている。智幸さんが新しい風を入れてくれるなら、それを受け入れることも必要じゃない?」
父は黙り込んだ。だが、その目はまだ硬い。
美寿紀は唇を噛み、ついに涙が頬を伝った。
「どうすればいいの……? 両親を裏切りたくない。でも、智幸と未来を作りたい。どっちも大事なのに、選べない……」
その涙に、母は手を伸ばし、娘の肩を抱いた。
「美寿紀……あなたが泣くほど苦しんでいるのに、私たちが頑なでいいのかしら」
父は沈黙したまま、時計の音だけが響いた。重い空気の中で、美寿紀は両親の間に立ち、未来の選択を迫られていることを痛感した。




