12話
夜の蕎麦屋。暖簾を下ろした後、店内の灯りの下で、美寿紀の両親と智幸、美寿紀が囲む食卓があった。湯気の立つ蕎麦が並べられる。だが智幸は箸を持つ手を少し躊躇した。香りは弱く、麺は伸び気味。客の評判通り「昔ほど美味しくない」ことは明らかだった。
父は湯呑を置き、低い声で言った。
「智幸さん。蕎麦はこの店の誇りだ。長年積み重ねてきた味を軽んじることは許されない。教室で学んだことをそのまま持ち込まれても困る」
その言葉は重く響いた。智幸は「わかっています」と答えたが、胸の奥では複雑な思いが渦巻いた。――この蕎麦を守る意味はあるのか? 伝統を継ぐべきなのか? だが、口には出せない。
母が静かに口を開いた。
「でも、基礎を学ぶのは悪いことじゃないわ。新しい知識を身につけることで、伝統をより深く理解できることもあるでしょう」
父は眉をひそめた。
「基礎は大事だ。だが、基礎だけでは客は満足しない。常連はこの店の味を求めて来るんだ」
智幸は黙り込んだ。蕎麦の味が落ちていることは自分も感じている。だが、それを口にすれば両親を傷つける。心の中で葛藤が膨らんでいった。
美寿紀は彼の肩に手を置き、真剣な眼差しで言った。
「智幸、あなたが諦めたら困る。だってこれは私の家の店なの。私も継ぐ覚悟でいるのに、あなたまで背を向けたら、二人で守る未来がなくなっちゃう」
その言葉に、智幸は思わず口から漏らした。
「……でも、この蕎麦を継ぐのは、無理かもしれない」
美寿紀の顔が強張った。
「無理なんて言わないで。私一人じゃ背負えない。でも、あなたとなら背負えると思ってる。だから一緒にやろうって言ったの。あなたが逃げたら、私も立てなくなる」
彼女の声は震えていた。父も母も黙り込み、重い沈黙が落ちた。智幸は自分の言葉の重さに気づき、唇を噛んだ。
翌日、蕎麦打ち教室で講師が言った。
「来週は実習として、打った蕎麦を人に食べてもらいましょう。評価を受けることも大事です」
智幸は息を呑んだ。昨夜の言葉が頭をよぎる。継ぐ覚悟を口にできなかった自分。だが、美寿紀の焦った顔が脳裏に焼き付いていた。
夜、帰り道で智幸は呟いた。
「俺にできるのか……?」
美寿紀は立ち止まり、真剣な眼差しで彼を見た。
「できるよ。だって私も一緒にやる。二人で続けることが一番大事なんだよ」
智幸はその言葉に頷いた。希望と不安が入り混じる中で、試練の場が近づいていた。




