11話
料理教室の扉を開けると、温かな匂いが迎えてくれた。智幸と美寿紀は並んで靴を脱ぎ、調理台へと向かった。蕎麦打ち教室とは違い、ここでは家庭料理や居酒屋風の肴、丼モノを学ぶ。講師は明るい女性で、「今日はかつ丼を作りましょう」と声をかけた。
二人は並んで作業を始めた。智幸は慣れない手つきでとんかつを切り分け、美寿紀は卵を割って出汁を合わせる。講師が「卵の火加減が難しいですよ」と言うと、美寿紀は迷わず挑戦した。
「智幸、卵はここで止めるの。半熟で仕上げると美味しいんだよ」
「なるほど……料理も蕎麦と同じでタイミングが大事なんだな」
二人で協力して仕上げたかつ丼を試食すると、衣の香ばしさと卵の柔らかさが絶妙に絡み合い、思わず笑みがこぼれた。講師も「上出来ですね」と褒め、美寿紀は嬉しそうに頬を染めた。智幸も「俺も少しずつ慣れてきた」と頷いた。
翌週は煮物、さらに次の週は酒の肴になる小鉢料理。智幸は蕎麦打ち教室との両立で疲れを見せながらも、料理教室では美寿紀と並んで包丁を握った。煮物の火加減に苦戦し、味が濃すぎて講師に「居酒屋ならいいけど蕎麦屋にはちょっと」と指摘される。美寿紀は「次は薄めにしよう」と笑い、智幸も「蕎麦の出汁と同じで、引き算が大事なんだな」と気づきを得た。
二人で学ぶ時間は楽しかった。だが、智幸は蕎麦打ち教室で「水回し」の難しさに直面し続けていた。休日の午前は蕎麦、午後は料理。粉にまみれ、包丁を握り、出汁を試す。学ぶことは山ほどある。少しずつ「継ぐ」という言葉が現実味を帯びてきたが、父の厳しい言葉は心に残り続けていた。
ある夜、帰り道で美寿紀が言った。
「ねえ、蕎麦だけじゃなくて、丼や肴もお店の大事な看板になると思うの。常連さんだって、蕎麦だけじゃなくて色々食べたいはずだよ」
智幸は少し考え込み、答えた。
「確かにそうだ。でも、俺はまず蕎麦を極めたい。料理は君が得意だから任せたい」
二人の視点の違いが浮かび上がった。美寿紀は「店全体の幅」を見ていた。智幸は「蕎麦そのもの」を見ていた。だが、その違いは衝突ではなく、補い合うものだった。
「じゃあ、私は料理で支える。あなたは蕎麦を極めて。二人で一つのお店を作ろう」
美寿紀の言葉に、智幸は頷いた。街灯の下で二人の影が並び、未来へと伸びていくように見えた。
その夜、智幸は布団に入りながら思った。
「蕎麦と料理、二人で並走して学んでいる。俺一人では不安でも、彼女と一緒なら続けられる」
希望と不安が入り混じる中で、智幸の挑戦は続いていく。




