10話
蕎麦打ち教室に通い続けてきた智幸は、ようやく「形になる蕎麦」を安定して打てるようになりつつあった。まだ完璧ではないが、麺の太さも揃い、湯にくぐらせても切れずに伸びる。講師から「少しずつ安定してきましたね」と声をかけられた時、胸の奥が熱くなった。
「これなら……家族に食べてもらえるかもしれない」
智幸はそう思い、教室で打った蕎麦を持ち帰った。夕食の時間、両親と美寿紀を食卓に呼び、湯気の立つ蕎麦を差し出した。
母は箸で持ち上げ、口に運んだ。しばらく噛みしめてから、にっこりと笑った。
「悪くないじゃない。香りもあるし、食感もちゃんと蕎麦らしいわ」
智幸は胸を撫で下ろした。だが、父は黙ったまま箸を動かしていた。やがて、低い声で言った。
「まだ店の味じゃないな」
その言葉は重く響いた。母の優しい評価とは対照的に、父の厳しさは「伝統の重み」を突きつけるものだった。智幸は唇を噛み、黙ってうつむいた。
美寿紀が慌てて声を上げた。
「でも、前よりずっと美味しいよ! 最初の頃とは全然違う。これなら続ければもっと良くなるはず」
彼女の笑顔に、智幸は少し救われた。母も「そうよ、練習を重ねればきっと店の味に近づくわ」と頷いた。だが、父の言葉は心に残り続けた。
その夜、布団に入った智幸は天井を見つめながら考えた。
「伝統を守るためには、基礎を完璧にしなければならない。だが、それだけでは足りない。自分の技術を磨き、店の味に近づける。いつか必ず、父に認めてもらう」
拳を握り、静かに誓った。希望と不安が入り混じる中で、智幸の挑戦は続いていく。




