9話
蕎麦打ち教室に通い始めてから数か月。智幸は、粉にまみれることにも慣れ、道具の扱いも少しずつ身についてきた。だが、安定して「蕎麦らしい蕎麦」を打てるようになるには、まだ遠い道のりだった。
ある日の教室。講師が声をかけた。
「今日は水回しを重点的にやりましょう。ここが一番難しいんです」
智幸は深く頷き、蕎麦粉に水を注ぐ。手のひらで円を描くように混ぜるが、粉が均一にまとまらない。ある部分はべたつき、別の部分は乾いている。講師が覗き込み、「もっと指先を使って、粉の声を聞いて」と言った。
「粉の声……?」
智幸は苦笑した。だが、講師は真剣な顔で続けた。
「蕎麦は正直です。ごまかしは効かない。水回しが乱れると、延ばすときにひびが入り、切るときにぼろぼろになる。職人はここで一番時間をかけるんですよ」
智幸は汗をかきながら、何度もやり直した。だが、結果は同じ。生地はまとまらず、延ばす段階で端が裂け、切ると太さが揃わない。試食すると、香りは立つが食感がばらばらだった。
「偶然うまくいったことはあった。でも、毎回安定して打てるようになるには、まだまだだな……」
智幸は深く息を吐いた。講師は肩を叩き、「焦らなくていい。蕎麦は一生修行です」と言った。その言葉に、智幸は「伝統の重み」を改めて感じた。
一方、美寿紀は料理教室で自信をつけ始めていた。親子丼、天ぷら、小鉢料理。講師から「味付けが安定してきましたね」と褒められ、彼女は嬉しそうに笑った。教室仲間とも打ち解け、楽しそうに話している。
「智幸、今日の親子丼、先生に褒められたんだよ!」
帰り道、美寿紀は弾んだ声で報告した。智幸は「すごいな」と笑ったが、心の奥では少し焦りを覚えた。彼女は着実に成果を出しているのに、自分はまだ壁にぶつかっている。
「蕎麦は難しいんだ。偶然じゃなく、毎回同じように打てるようにならないと……」
智幸は呟いた。美寿紀は「大丈夫だよ。私も最初は失敗ばかりだったし」と励ました。だが、智幸の胸には重い不安が残った。
夜、布団に入っても眠れなかった。父の「ウチにはウチのやり方がある」という言葉が頭をよぎる。伝統を守るためには、基礎を完璧にしなければならない。だが、その基礎が思うように身につかない。
「俺にできるのか……?」
智幸は天井を見つめ、拳を握った。偶然の成功ではなく、安定した技術。伝統と基礎の両立。その壁を越えなければ、未来はない。
翌週の教室でも、智幸は水回しに挑んだ。粉を手のひらで包み込み、指先で感触を確かめる。少しずつ、まとまりが見えてきた。講師が「今日は悪くない」と言った。智幸は小さく頷いた。
「まだ不安はある。でも、続けるしかない」
その決意は、静かに胸の奥で燃えていた。




