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嫌よ嫌よも嫌なんです…不味いんです…  作者: 双鶴


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プロローグ

宮田智幸は、どこにでもいるような青年だった。勤めている会社は中堅の事務系で、毎日決まった時間に出勤し、決まった時間に退勤する。特別に出世欲があるわけでもなく、かといって怠け者でもない。誠実で、真面目で、平凡。そんな言葉がぴったりと当てはまる。


ただ一つ、人に言える趣味といえば「蕎麦が好き」ということだった。もっとも、蕎麦通というほどの知識はない。どの店が名店だとか、どの産地の蕎麦粉がどうだとか、そういうことは全く知らない。ただ、昼休みに立ち食い蕎麦屋で温かいかけ蕎麦をすすって「やっぱり蕎麦はいいな」と思う程度の、素朴な好みだった。


そんな智幸には、三年前から付き合っている彼女がいる。村田美寿紀。大学時代に同じゼミで知り合い、自然に仲良くなって、気づけば恋人になっていた。美寿紀は天真爛漫で、いつも笑顔を絶やさない。小柄で、少し子どもっぽい仕草を見せることもあるが、それがまた可愛らしく、智幸にとっては憧れの存在だった。


社会人二年目になり、二人の関係も落ち着いてきた。結婚を意識するようになったのは、ごく自然な流れだった。そんなある日、美寿紀がふと口にした。


「結婚するなら、うちの蕎麦屋を継いでほしいな」


その言葉は、まるで冗談のように軽く発せられた。智幸も軽く笑って「いいよ」と答えた。蕎麦は好きだし、悪くない。だがその時は、彼女の言葉の重みを深く考えなかった。


美寿紀の実家は「吉利蕎麦」という住宅街の中にある個人店だ。古びた暖簾が下がり、木の引き戸が少し色あせている。看板には達筆で「吉利蕎麦」と書かれていて、どこか懐かしい雰囲気を漂わせている。智幸はこれまで一度も客として訪れたことがなかった。彼女の家に挨拶に行ったことはあるが、店の蕎麦を食べたことはない。


結婚を考え始めた今、彼女の条件を軽く受け止めてはいけないと思った。蕎麦屋を継ぐということは、ただの趣味では済まされない。生活そのものになる。だからこそ、まずは店の蕎麦を食べてみなければならない。


「まずは、店の蕎麦を食べてみよう」


智幸はそう決めた。休日の昼下がり、こっそりと「吉利蕎麦」へ足を運ぶことにした。


その日は少し曇り空で、風が冷たかった。商店街を抜け、住宅街の細い道を歩いていくと、やがて見慣れない暖簾が目に入った。そこに「吉利蕎麦」とある。思わず足を止める。


店の前には鉢植えが並べられていて、花は少し元気がないが、手入れはされているようだった。引き戸のガラスは曇っているが、掃除は行き届いている。中からは人の気配がほとんど感じられない。


智幸は深呼吸をした。胸の奥に、少し緊張が走る。これから食べる蕎麦が、自分の未来を左右するかもしれない。そう思うと、足が重くなる。だが、ここで引き返すわけにはいかない。


「よし」


小さくつぶやいて、暖簾をくぐった。


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