第2話「初めての監査」②
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
「早速だが、今日から綾瀬君には監査を実施してもらう。火ノ森と共に、ある工場に向かってもらいたい。」
古い洋館に響く桐原の声は、まるで演劇の台詞のように大仰で、しかしどこか引き込まれる力強さがあった。綾瀬はスーツを軽く整え、決意を新たに外へと向かった。
マギアの社用車は、意外にも白い軽バンだった。塗装の剥げたボディには、控えめに「Magia Audit Firm」と書かれたロゴが貼られているが、どこか場違いな印象を与える。後部座席には、監査用のノートパソコンや書類ケースが無造作に積み重ねられ、まるで移動事務所のような雑然さだ。運転席に陣取った火ノ森は、ドリンクホルダーに栄養ドリンクを二本突っ込み、まるで長編バトルの準備でもしているかのようだった。シートベルトを締める彼の腕には、シャツの隙間からタトゥーが覗き、監査人とは思えないワイルドな雰囲気を漂わせている。
「緊張してるか? ま、大丈夫だよ。初現場なんて、だいたいのやつがそんなもんさ」
火ノ森の声は、軽バンのエンジン音に混じり、意外なほど軽やかだった。窓の外を流れる東京の街並み─神楽坂の石畳から高速道路へと移り変わる景色を眺めながら、彼は缶の栄養ドリンクを一口飲んだ。その笑顔には、どこか少年のような無邪気さが滲んでいる。
「火ノ森さんは……いつもこういう現場に行ってるんですか?」
綾瀬が運転席の彼に目を向け、遠慮がちに尋ねると、火ノ森はハンドルを握ったまま軽く首を傾げた。陽に焼けた横顔に、朝の光が鋭い影を刻む。
「まあ、桐原や草薙は頭脳系。俺は、物理系だな。足を運んで、目で見て、手で触って、帳簿にない“違和感”を探す。言ってしまえば――」
彼は一呼吸置き、まるで秘密の呪文を口にするかのように、唐突に口調を変えた。
「“現場感応型会計術!”……ってやつさ」
綾瀬は思わず目を丸くした。火ノ森までが、桐原のような「魔術用語」を口にするとは想像していなかった。軽バンの車内が、まるで彼の言葉に合わせて一瞬だけ異世界に変わったような気がした。
「……もしかして、桐原さんと同じ系統の話し方するんですか?」
「ん? いや、俺はあの人ほど凝った言い回しはできねーけど、ノリは合わせてるだけ。桐原はああいう話し方してるけど、誰よりも真面目に数字と向き合ってるんだよな」
火ノ森が軽く笑う。その顔は飄々としているが、どこか数字の裏に潜む真実を追い求める強い芯が感じられた。綾瀬は、運転席の彼をちらりと見つめ、彼の言葉が不思議と心に響くのを感じた。
目的地である郊外の工場兼本社に到着すると、空気は一変した。灰色のコンクリートに囲まれた建物は、どこか無機質で、敷地内を吹き抜ける風にはほのかに油と鉄の匂いが混じる。受付を抜け、案内された会議室は、蛍光灯の白い光が冷たく照らす無愛想な空間だった。そこに現れた経理課長は、中年の男性で、営業マンらしい人当たりの良い笑顔を浮かべていた。しかし、その笑顔の裏に、綾瀬は何か得体の知れない「隠し事の気配」を感じ取った。まるで、数字の向こうに霞がかかっているような、不自然な空気だ。
火ノ森は、まるでその場の空気を切り裂くように、テキパキと自己紹介を済ませると、テーブルの上に積まれた分厚い書類の束を見渡した。シャツの袖をまくり上げた彼の腕が、まるで戦士が剣を構えるように動く。
「まずは仕掛品と製品の在庫リストを拝見できますか」
経理課長が一瞬、書類に手を伸ばしかけたが、ふと何かを考えるように動きを止めた。その微妙な間が、綾瀬の胸に小さな波紋を広げる。
「ちょっと確認してきますので……」
「ふーん……確認。そっか、確認が必要なほど複雑な在庫か」
しばらく用意されていた書類を火ノ森と確認していると、戻ってきた経理課長から火ノ森に在庫リストが渡される。
火ノ森は渡された在庫リストを他の書類と見比べているが、表情は何かを感じているのか少し怪訝そうにしている。
「なんかこの在庫……」
火ノ森がぽつりと呟くと、会議室の空気が一瞬だけ重くなった。彼は綾瀬にちらりと目を向け、口の端に軽い笑みを浮かべた。
「綾瀬。お前の“監査眼”、使えるか?」
「えっ、でも私、まだ……」
綾瀬が戸惑うと、火ノ森は穏やかだが力強い口調で続けた。
「見ろとは言ってない。感じてみろって言ってんのさ」
その言葉に背中を押されるように、綾瀬は書類に目を落とした。数字の羅列が、まるで迷宮の地図のように広がっている。品番、単価、製造日付……そして、ふと引っかかる小さな違和感。彼女の指が、紙の上で静かに止まった。
「……これ、在庫の数量に違和感を感じます。……でも、違和感を感じる理由は分かりません」
ぽつりと漏らした綾瀬の言葉に、火ノ森がニッと笑った。まるで戦場で敵の弱点を見抜いた剣士のような、鋭くも満足げな笑みだった。
「やっぱり、その能力面白いな。よーし。その違和感の理由を探しに行ってみようか」
綾瀬は、確かにこの場で自分の力が役に立ちそうな予感が、胸の奥を熱く焦がした。会議室の蛍光灯の下で、彼女の視界は、まるで数字の迷宮に光が差し込んだかのように、ほんの少しだけ鮮やかになった。