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第2話「初めての監査」①

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 東京・神楽坂。石畳の路地裏に漂うのは、どこか懐かしい空気。朝日の淡い光が、古びた街灯に反射し、細い路地を柔らかく照らし出す。そこに、ひっそりと佇む三階建ての古い洋館。蔦が絡まる外壁、煤けた赤レンガの風合い、窓枠の剥げかけたペンキが、時代に取り残されたようなレトロな趣を醸し出していた。綾瀬香理は、思わず足を止め、目の前の建物を見上げた。まるで古い映画のセットのようなその佇まいに、胸の奥で何かざわめくものを感じた。


「……ここ、ほんとに監査法人……?」


 重厚な木製ドアの上に掲げられた小さな真鍮の銘板が、かすかな光を反射している。彫られた文字は、まるで古文書のような荘厳さで綾瀬の視線を捉えた。


 監査法人マギア(Magia Audit Firm)


 その文字を目にした瞬間、先日の記憶がふっと蘇る。


 ─「君の監査眼、“ヴェリタスの瞳”を、眠らせておくのは惜しい」


 ─「監査の魔術は、地道な現場作業から学ぶものだから」


 あの変人・桐原の熱意に押され、半ば勢いでここに来ることを決めたのだ。だが、今、目の前に立つこの奇妙な洋館を前に、綾瀬の心に一抹の不安がよぎる。


(ほんとに……大丈夫かな、これ)


 意を決して、ドア脇の古びたインターホンのボタンに手を伸ばす。錆びた金属の感触が指先に冷たく、かすかに湿った空気が鼻をついた。チャイムを押すと、すぐに中からカチッと鍵の外れる音が響き、ドアが静かに開いた。


「おはようございます。……ようこそ、マギアへ」


 現れたのは草薙あやめ。黒髪のボブカットが揺れ、細いフレームの眼鏡が知的な印象を与える。黒のテーラードスーツに身を包んだ彼女の声は、落ち着きながらもどこか温かみがあった。まるでこの洋館の古めかしい空気と調和するような、穏やかな存在感だ。


「わ、草薙さん……。あ、あの、昨日は─」


 綾瀬が慌てて言葉を紡ごうとすると、草薙は柔らかく手を振って制した。


「もう大丈夫。派遣元にも、こちらからちゃんと連絡しておきましたから。今日からはうちの職員ですよ、綾瀬さん」


「……ありがとうございます」


 草薙の控えめな笑顔に、綾瀬の緊張がほんの少し解けた。彼女の声には、まるで春の微風のような安心感があった。


「中、案内しますね。桐原さんも今ちょうど事務所に戻ってきたところです」


 ドアの向こうに足を踏み入れると、外観の古めかしさからは想像もつかない、整然とした空間が広がっていた。エントランスの床は黒と白の市松模様のタイルで覆われ、磨き上げられた光沢が足音を軽やかに響かせる。ロビーの奥には重厚な木製の扉が並び、それぞれの部屋へと続く。その壁には、まるで魔法陣のように複雑にデザインされた世界中の通貨のイラストが額装されたアートや、羊皮紙を模した古代会計帳簿のレプリカが飾られている。ほのかに漂うインクと古い紙の匂いが、まるで図書館のような静謐な雰囲気を醸し出していた。


(なんか……変わってるけど、綺麗……)


 綾瀬は思わず感嘆の息を漏らした。この場所は、どこか現実離れした美しさと、監査法人とは思えない異質な空気を併せ持っていた。


「メンバーは私と桐原さんを含めて5人。それぞれ専門分野が違うんですけど、皆さんちょっと……個性的なので」


 草薙の言葉に、綾瀬は首をかしげた。


「えっ、個性的って─」


「─おう、聞こえてるぞ草薙! 失礼な紹介するなよ!」


 声のした方を振り向くと、応接室から大柄な男が手を振っていた。陽に焼けた肌に、明るい茶髪をラフにまとめ、シャツの袖を無造作にまくり上げたその姿は、まるで街のスポーツジムから飛び出してきたかのようだ。


「彼は火ノ森さん。マギアのメンバーで、資産評価とリスクマネジメントが専門。見た目はアレですが、腕は確かです」


 草薙が淡々と説明すると、火ノ森が不満げに声を上げた。


「“アレ”って何だよ!……ってか新入りちゃん? 綾瀬ちゃんだっけ。よろしくな!」


 彼の筋肉質な腕に、シャツの隙間からちらりと覗くタトゥーが目に入る。どう見ても会計士というより、ストリートファイターのような雰囲気だ。綾瀬は少し気圧されながらも、なんとか言葉を返した。


「よ、よろしくお願いします……」


 草薙が、まるで解説者のような口調で続ける。


「火ノ森さんは“財務格闘術”の使い手なんですよ。“貸借均衡陣”を拳にまとわせて、数字の誤差をぶん殴るタイプです」


「ちょ、草薙さん説明おかしいですよね!? 会計士ってそんなジャンルあるんですか!?」


 綾瀬が思わずツッコむと、草薙は涼しい顔で答えた。


「ないです」


「ないのか……!」


 綾瀬は思わずくすりと笑ってしまった。少しずつ、このマギアという場所の空気が分かってきた気がした。


 ─ゆるい。


 けれど、数字に対する真剣さは本物だ。


 ただ、その真剣さのベクトルが、ほんの少し、常識からズレている。


 そして─


「おや、綾瀬君。ようこそ、我がマギアへ」


 重厚な木製の階段をゆったりと降りてきたのは、黒のスーツに白い手袋をまとった男、桐原だった。銀縁の眼鏡の奥で、鋭い眼光がキラリと光る。彼の存在感は、まるでこの洋館そのもののように、どこか時代錯誤的で、しかし不思議な威厳に満ちていた。


「桐原さん……!」


 綾瀬が思わず声を上げると、桐原は大仰な仕草で両手を広げた。


「監査は始まった瞬間から“魔術戦”だ。数字の迷宮に潜む歪みを暴く者─それが我ら“監査魔術師オーディター・メイガス”だ」


「いやいやいや、それを名乗るの本当に桐原さんだけですからね!? 名刺に魔術って入れるのも協会から注意されてるでしょ!」


 草薙が即座にツッコむと、桐原はこともなげに肩をすくめた。


「注意されただけで、禁じられたわけではない」


「それ、たぶん今に禁じられますよ……」


 草薙の冷静なツッコミを受け流しながら、桐原はふと真剣な表情に変わり、綾瀬をじっと見つめた。その視線には、まるで彼女の心の奥を見透かすような力が宿っているようだった。


「今日からは君も“監査の使徒”だ。“見える目”を持つ者として、マギアの一員として─数字の闇を照らしてくれ」


 その言葉に、綾瀬の胸が熱く高鳴った。


 ─ちょっと変だけど、この人たちとなら、私も何かできるかもしれない。


 洋館の窓から差し込む柔らかな光が、彼女の決意をそっと照らし出した。

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