第1話「監査眼」⑥
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
他の経理部員達と会議室を出た綾瀬は、自席に戻った。
だが、書類に向き直っても、指先の震えは止まらなかった。
(やってしまった。冷静になったら私、とんでもないことを言っちゃったんじゃ)
正しい事をした。それは間違いない。でも私がやったことは明らかに派遣の領分を超えていた。
周囲の視線が、いつもより刺さるように感じられる。誰も何も言わない。だが、それが逆に重い。
綾瀬は深く息を吸い、画面のExcelに目を戻した。
(集中しなきゃ。いつも通り、仕事しないと……)
それでも、手元の数字はぼやけて見えた。セルの枠線がにじみ、クリックの音がひどく大きく感じる。
(監査眼なんて……そんな大層なもの、私にあるのかな)
桐原の言葉が頭をよぎるたび、嬉しさと不安が交互に胸をかき乱した。
(でも……確かに、あの伝票は、私が見つけたんだ)
その小さな誇りだけが、今の自分を支えていた。
─そうしてしばらく仕事をしていると、背後から声がした。
「……香理ちゃん。社長が呼んでる。今すぐ」
振り返ると、経理部のベテラン女性が立っていた。どこか目を逸らしながら言葉を発した彼女の顔には、同情とも苛立ちともつかない微妙な色が浮かんでいた。
(社長? 私を……?)
心臓が跳ね上がる。悪い予感が、血の中を冷たく流れ出す。
「……はい。わかりました」
立ち上がった足は重く、社長室へと続く廊下の一歩一歩がやけに大きな音を立てた。
(怒られる。派遣契約、切られる……)
わかっていた。それでも、胸の奥でかすかに“納得いかない”気持ちが燻っていた。
社長室の扉を開けた瞬間、張り詰めた空気が肌を刺した。
「綾瀬さん……あなた、自分が何をしたか、わかってるか?」
社長は机の奥に腰かけたまま、鋭い視線をこちらに向けていた。いつも経理部長と談笑しているときの軽薄な笑みは、そこになかった。
「いえ……私は、ただ……」
絞り出した言葉を、社長がすぐに遮る。
「“ただ”の派遣が、監査中に軽率な発言をするなど、あってはならないことだ。会社にとってどれだけの損失を生むか、君はわかっているのか?」
(そんなこと、わかってる。でも……)
言葉にはならなかった。ただ、指先が机の縁をぎゅっと握る。
「あなたの派遣契約は、今日付で終了です。派遣元にもすでに連絡しています」
─その一言で、すべてが終わった。
(……やっぱり、こうなるんだ)
心に浮かんでいた最悪の未来が、現実となって突き刺さる。目の前の光景がにじみ、涙がこみ上げるのを必死で堪える。
「……お世話になりました」
低く、頭を下げる。その瞬間、社長室の奥からかすかに聞こえてきたのは、経理部長が社長に何かを詰め寄られている声だった。
─だが、それはもう、綾瀬には関係のない世界だった。
ビルを出ると、午後の風が頬を撫でた。まだ夕暮れには早いのに、街はどこか薄暗く、冷え込んでいる。
綾瀬の足は、建物の前で止まった。目の前の景色が、どこまでも灰色に広がっていた。
「……やっぱ、黙ってた方がよかったのかな」
ぽつりと漏らした言葉が、ビル風に溶けていく。
その瞬間。
「いいや。言ってよかった」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、そこにはスーツの襟を立て、白手袋をした桐原が立っていた。微笑を浮かべながら、どこか舞台俳優のような立ち姿で。
その存在感は、まるでビル街の灰色に、突如咲いた一輪の赤い花のようだった。
「……桐原さん……?」
彼女の声はかすれ、混乱の色を帯びていた。
「綾瀬君。君の眼は本物だ。直感で“幽影仕入”を見抜き、恐れながらも声を出した。その勇気こそ、監査人に必要な資質だ」
(本物……)
胸の奥が、再び熱を帯びる。けれど、それでも現実は現実だった。
「……でも、褒められても、仕事はなくなりました」
自嘲気味に笑う綾瀬に、桐原はさらりと言った。
「うん。だから、うちで雇うよ。監査法人マギアでね」
一枚の名刺が差し出される。
艶消しの黒い紙に、銀の箔押し。
《監査法人マギア 公認魔術会計士 桐原 千景》
(……ほんとに“魔術”って書いてある)
思わず漏らした言葉に、背後から小さな笑い声が重なる。
「最初は私も戸惑ったけどね。でも、あの人にとって“魔術”は信念。数字の世界に宿る真理は、魔法にも等しいって本気で思ってるの」
草薙だった。どこから現れたのか、桐原の隣に自然と立っていた。
その笑顔に、綾瀬の心は少しだけ軽くなった。
「君の監査眼─“ヴェリタスの瞳”を眠らせておくのは惜しい」
桐原の声が、改めて胸に届く。
(ヴェリタス……“真実”の眼)
その言葉に、頬が熱くなる。
「君は見ることができる。数字の奥にある歪み、虚偽、隠された意図。それを暴くのが─我々、監査人の使命だ」
――使命。
綾瀬は、小さく深呼吸をした。
自信はない。けれど、確かにこの胸には、何かが灯っている。
「……雇ってくれるんですか?」
「もちろん。最初は雑用から。監査の魔術は、地道な現場作業から学ぶものだから」
綾瀬は、静かに頷いた。
「……よろしくお願いします、桐原さん」
そうして、19歳・元派遣職員の綾瀬香理は、監査法人マギアの一員となった。
「監査眼」と呼ばれたその力が、どこへ導くのか─まだ何も分からない。
けれど今、彼女の胸には、小さくても確かな未来の予感が灯っていた。