第1話「監査眼」⑤
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
「いいや、それは偶然じゃない。“監査眼”─それは、数字に潜む歪みを感覚で捉える力だ。説明できなくてもいい。まず、“見える”ことが、なにより重要なんだ」
桐原の声は、あくまで穏やかだった。だが、その言葉の一つ一つが、まるで魔術の呪文のように空気を震わせる。
「君が見つけたのは、まさにその“歪み”だよ。きれいに“見えて”いた」
綾瀬の頭は、理解よりも先に動揺でいっぱいだった。それでも、胸の奥では確かな熱が灯り始めていた。
(やっぱり……私の感覚、間違ってなかった)
言われた言葉の意味すべてを把握できているわけではない。けれど、桐原の声が、その直感に“意味”を与えてくれた。それはまるで、ずっと探していたパズルの最後のピースが、ようやくはまったかのような、静かな衝撃だった。
だが、次の瞬間。
「ふざけるなッ……!」
経理部長が机を叩いて立ち上がった。怒鳴り声が会議室を切り裂く。唇は引きつり、額には汗がにじんでいる。
「魔術だの何だの……そんな戯言に、我々を付き合わせるなんて、冗談じゃない! こんな茶番を続けるなら監査なんて──これ以上付き合えるか!」
会議室の空気が、一気に重くなる。
(やっぱり……怒らせた。私、また余計なこと……)
綾瀬の手の中にある書類が、かすかに震えていた。脳裏には、あのときの記憶が蘇る。
前の職場で、不正の兆しを伝えようとして、信じてもらえなかった。声を出すたびに、空気が冷えていった。やがて、誰も彼女に口をきかなくなった。
─あの、孤独な沈黙。
(また……同じになるのかな)
さらに、部長の顔は険しく歪む。
「こんな子供に……派遣の子に何が分かるって言うんだ!」
その一言が、鋭い刃のように綾瀬の胸を貫いた。
(子供……派遣の子……)
何度も聞き慣れたはずの言葉なのに、今日だけは痛く響いた。
─でも、もう黙っていたくなかった。
怖かった。それでも、声が出た。
「……ごめんなさい。でも、私は……おかしいと思ったんです」
小さな声。だが、明確な意志を伴っていた。
言った瞬間、胸の中に広がったのは、恐怖と誇りが入り混じった、不思議な熱。
(言えた……!)
それは、人生で初めて、“ちゃんと伝えることができた”という実感だった。
そして、そのとき。
「落ち着いてください、経理部長」
桐原に続いて書類を確かめるようにめくっていた草薙の声が、冷たい水のように空気を鎮めた。
「桐原はふざけているように見えるかもしれませんが、会計に対する能力に間違いはありません。実際、こちらの書類、御社の規模から想定される使用量を大きく超えた複数の仕入れ、仕入先が異なるにも関わらず、様式が同一となっている請求書や納品書。これらを見る限り、御社の会計処理に疑いがあることは間違いありません」
「し、しかしだね……」
なんとか反論しようとする経理部長に対して、草薙は続けて言う。
「通常は経理部員が稟議を起案するところ、これらの仕入に限っては経理部長の貴方が直接起案している。さらに、この仕入先の振込口座は御社の社長の資産管理会社の口座と同一のものです。これらが意味するところは……架空仕入を用いた仕入資金の横領にほかなりません」
草薙の言葉に反論しようと言葉を探す経理部長だが、言葉が見つからず黙ってしまう。
「私たちは監査人です。会計に疑義があれば、それを正しく報告するのが職務です。綾瀬さんの指摘は、明らかに検討すべき重要な内容です」
その言葉に、綾瀬は反射的に顔を上げた。
(……私の“指摘”が……重要?)
あの言葉が、まるで心の中の凍りかけた何かを溶かすように感じられた。
会議室を占める沈黙の中、桐原がふっと笑う。
「いやあ、見事だった。完璧に“見えて”いたね」
その言葉は、彼女を咎めるのでも、慰めるのでもなく――“称賛”だった。
「監査眼。数字の背後に潜む“意図”と“歪み”を、理屈抜きに感じ取る力。時にプロの分析よりも早く、深く届くことがある」
(……監査眼。私の、感覚)
彼の言葉は、曖昧だったものに輪郭を与えてくれた。説明できなかったもどかしさが、初めて“意味”を持ってそこにあった。
草薙が、優しく微笑む。
「……よく、負けなかったね。理由が言えなくても、その違和感に気づけたのは、そして、その違和感を流さず言葉にできたことはすごいことだよ。」
「いえ……本当に、たまたまです」
そう言って、綾瀬は視線を落とした。
けれど、心の中では、草薙の言葉がゆっくりと染み込んでいた。
“すごい”なんて言葉、今まで誰からも言われたことがなかった。
だからこそ、胸の奥でそれがあたたかく輝いていた。
「いや、偶然じゃない」
桐原の声は、今度は低く、確信に満ちていた。
「君の監査眼─育てれば、本物になる。数字の海に潜む嘘と欺瞞を見抜く力。君にはそれが“見えている”。“真実”に届く、その眼差しがすでにある」
(本物の……力)
桐原の言葉が、彼女の心に一筋の光を差し込む。
─違和感だけを感じてきた人生に、初めて“名前”がついた瞬間。
まるで、静かに閉ざされていた扉が、音もなく開かれたようだった。