第1話「監査眼」④
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
会議室のドアを開けた瞬間、綾瀬は空気の張り詰め方に、足を止めそうになった。
中では、経理部長が桐原と草薙に丁寧な口調で応対している。その表情には、普段の無愛想さは欠片もない。口角を引きつらせ、手元の書類を不自然なほど丁寧に並べている。
(緊張してる……? 部長が?)
その珍しい光景に一瞬目を奪われた綾瀬だったが、すぐに部長の視線が自分を捕える。そして、苛立ち混じりの声が飛んだ。
「綾瀬君、ようやく来たか。先生方がその書類を確認したいとのことだから、早くお渡しして」
「はい……失礼します」
綾瀬は小さく頭を下げ、慎重にコピーした書類を持って前に出た。緊張で足先がわずかに震えているのを自覚しながら、それを悟られないようにそっと手元の資料を差し出す。
桐原が笑みを浮かべて受け取り、草薙は丁寧にページをめくって中身を確認し始めた。
その瞬間――。
綾瀬の目が、渡した書類の中にある一枚に吸い寄せられる。あの“ざわつき”が、また胸の奥から湧き上がる。
(この伝票……やっぱり、おかしい)
心の中で何度も反芻してきた違和感。それが今、目の前に形をもって再び現れたような気がした。
(でも、言ったら……また、あのときみたいに)
喉が詰まる。胸の奥がじわじわと苦しくなる。
――だけど。
(間違ってるって、わかってる。ちゃんと、言わなきゃ)
あの過去を、ただの後悔で終わらせたくない。小さな炎のような意志が、胸の奥で静かに灯っていた。
「何か、気になることでもあるのかい?」
桐原の声が、静かに空気を揺らした。
それは、特別大きな声ではなかった。ただ、その声音には、不思議な圧と確信があった。まるで、すでに彼女の中の迷いを見透かしているような――そんな響き。
綾瀬の心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
(え……今の、私に?)
彼女の目が、反射的に桐原の顔を見た。
彼は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ただじっと彼女を見つめていた。目の奥には、軽薄さも冗談もなかった。ただ、まっすぐに問いかける意志があった。
綾瀬の喉が、ごくりと鳴った。息を吸い込む。言うか、黙るか。その境界線の上に立ったまま、足がすくみそうになる。
けれど、心の奥で言葉がかすかに形を持ち始める。
「……この伝票……たぶん、ですけど……同じ月の仕入れが、二回、重なって記録されてて……あと、支払先の名義が、なんというか……微妙に、変えられてるように見えて」
言った瞬間、会議室の空気が止まった。
(あ、言っちゃった……)
自分の声が、耳の中で反響する。まるで誰かの別の声のように聞こえた。
派遣社員の自分が、会議室で、監査中に、声を上げた――その事実が、頭に遅れてのしかかる。
「は?」
経理部長の顔が引きつる。
「……綾瀬。お前、それを何を根拠に……?」
声には、明らかな怒りと、そして焦りが混じっていた。目元がぴくぴくと痙攣しているのが見える。
綾瀬は一歩、後ずさりそうになりながら、ぎゅっと指先に力を込める。
「いえ……根拠は……ただ、見てて、変だなって。なんか、すごく、気持ち悪い感じがして……」
言葉は頼りなく、曖昧で、説得力はないかもしれない。
でも、それが彼女の“本当”だった。
――そしてそのとき、静寂を切り裂くように、桐原が朗らかな声をあげた。
「おお……“幽影仕入”ととは、また古典的な経理魔術の一手だねぇ」
ぱら、と桐原は書類をめくり、目を細めて笑った。
「しかも、パターンはおそらく一種類じゃない。日付のずれ、名義の分散、添付資料の省略……ふむふむ、これはいくつかの典型的な“薄影偽装”と組み合わされてるな」
「……桐原」
草薙が小さく眉をひそめるが、桐原はお構いなしに言葉を続けた。
「初歩的だが、十分に実務的なトリックだ。“納品の実体”をカモフラージュし、仕入を膨らませる手口“小規模ループファントム”。君の違和感は、その魔術の痕跡を捉えた。見事だよ、綾瀬香理さん」
綾瀬の目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
(え……違和感を、“見事”って……?)
頭の中は混乱していた。だが、桐原の言葉には、冗談めかしながらも確かな“肯定”が含まれていた。
「いえ、たぶん、たまたま……」
小さくそう言った綾瀬の声に、桐原は笑って首を横に振る。
「いいや、それは偶然じゃない。“監査眼”─それは、数字に潜む歪みを感覚で捉える力だ。説明できなくてもいい。まず、“見える”ことが、なにより重要なんだ」
彼の言葉は、まるで彼女の直感に、初めて“名前”を与えてくれたようだった。
心の奥にあった曖昧な感覚が、いまここで、“肯定”という確かな形を得て、胸の中に広がっていく。
(私の目……見えてたの? それって……もしかして、特別な……)
桐原の瞳がまっすぐに彼女を見つめる。
それはまるで、「ようこそ、こちら側へ」とでも告げているような視線だった。