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第1話「監査眼」③

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 ――監査眼。


(なんなんだろう……あの言葉)


 綾瀬香理は、自分の席に戻りながらも、無意識のうちに胸元へと手を当てていた。心臓が、まるで何かを思い出すようにドクドクと音を立てている。


“数値の歪み”─その言葉の響きが、頭の中で繰り返し反響していた。意味は分からない。けれど、耳にした瞬間、まるで心の奥底で眠っていた何かが目を覚ましたような気がした。


(……なんで、こんなに気になるの? )


 心のなかでそう呟きながら、彼女は机に視線を戻す。目の前には、入力を待つExcel画面と、束になった請求書。それらはすべて、綾瀬にとって“馴染みのある日常”のはずだった。


「……監査眼、か。ありえないよね……」


 ぽつりと漏らした独り言に、誰も返事はしなかった。だが、その言葉は彼女自身の心に小さな種を残していった。


(もし、私のあの感覚が、“特別なもの”だとしたら……)


 そんな考えが、頭の片隅にひっそりと芽を出す。だが、そのまま前職での事件を思いだす。

 

 新卒で入ったのは、都内の中堅メーカーの経理課。初めての正社員。初めての自分の席。緊張と期待が入り混じるなかで、三ヶ月目にその“事件”は起きた。


 仕入先からの納品伝票を整理していたとき、ふと違和感が胸を刺した。


「あれ……?」


 納品伝票に記載された納品日と、在庫管理台帳の入庫日が、二日ずれていた。そして、請求書の金額ともわずかに誤差がある。


 単なるミスかとも思った。だが、違和感は、それだけでは終わらなかった。類似の伝票が数件見つかり、同じように日付や金額が微妙に異なっていたのだ。そして、その伝票の全ての数字にあの違和感を感じたのだ。


(これ、おかしい……)


 思い切って、課長に相談した。


「この伝票、たぶん、何か変です。ズレてる感じがして」


 伝票をチラッと見た課長は面倒くさそうな様子だった。

「あー、それね。それで数字合ってるから気にしないでいいよ。」


「は、はぁ……」

(これで数字が合っている?そんなわけがない。私の感覚は間違っていたことなんてない)

 そう思っていたら、つい口から出てしまった。


「この数字間違っているはずです……。そう感じるんです……」


 ─その瞬間、空気が変わった。


「君ね……何の根拠があってそんなこと言うの?」


 課長は眉をひそめた。理由が言えない。説明できない。直感だなんて、言えるはずもなかった。


 それから彼女は、“厄介な新人”という空気をまとわされ、雑務ばかり押し付けられるようになった。


 ひと月後、人事部から“社風と合わなかった”という名目で退職を勧められた。何より、日が経つに連れ、ますます大きくなっていく伝票から感じる違和感や数字の歪みに彼女は耐えられそうも無かった。

 

 ─風のうわさで聞いた話。


 彼女が見つけたあの伝票の不一致は、後日、内部調査の引き金となったという。経理課長が関与していた横領の証拠として、問題視された伝票は――まさに、綾瀬が最初に違和感を持ったそれだった。


(……正しかったのに。どうして、それを説明できなかったんだろう)


 悔しさは、いまだに消えない。自分の目が確かだという自信と、信じてもらえなかった無力感。その間で、綾瀬は今も揺れていた。

 

 

「綾瀬さん、ごめん、これコピーお願い。至急で」


 突然の呼びかけに、彼女はハッと顔を上げた。いつも無表情な経理部の女性社員が、焦った様子で厚めのファイルを差し出している。


「は、はい、すぐやります!」


 ファイルを受け取ってコピー機のある部屋へと向かう。歩きながら、彼女はふとファイルの中身を覗いた。


 ――契約書、受領書、支払伝票。


 地味で雑多な書類たち。だが、彼女の視線は自然と“数字”に吸い寄せられていた。


(あれ……?)


 ふと、ページをめくる手が止まる。


 一枚の支払伝票に、微かな引っかかりを覚えた。


 仕入れ日付。金額。名義。


 数字自体は一見、問題なさそうに見える。だが、その伝票には、他の書類とは違う“感触”があった。まるで、ピースが無理やり押し込まれているような――整っているようで整っていない、不快なズレ。


(これ……なんか、変)


 彼女はコピー機を動かしながら、ファイルの束をもう一度めくる。


 同じ仕入内容が、月内で二度記録されている。しかも、日付が少しだけズレていて、取引先の名義も微妙に違う。


(偶然? でも、こんな偶然って……)


 ――頭の中が、ぐるぐると回り始める。だが、そこから先が分からない。


 違和感はある。でも、理由が説明できない。数字は何も語ってくれない。ただ、彼女の胸をざわつかせるだけだ。


(また……前みたいに、余計なこと言ったら……)


 指先が微かに震える。


 あの時と同じ。わかってる。けれど、声に出すことが、怖い。


 ――それでも。


(これ、やっぱり……放っておけない)


「栞理ちゃん、さっきのコピーまだ? 急ぎって言ったでしょ」


 後ろから飛んできた鋭い声に、綾瀬はびくりと肩を跳ねさせた。


 経理部のベテラン女性社員が、スマホを片手に眉をひそめて立っている。


「す、すみません! すぐお持ちします!」


 慌ててコピーをまとめながらも、彼女の胸の奥にはまだ“ざわめき”が残っていた。


(この感覚……絶対に、何かある)


 けれど、言うべきか、黙るべきか。


 その答えは、まだ出せなかった。


 ただひとつ分かるのは――彼女の“監査眼”が、確かに反応しているということだけだった。

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