第1話「監査眼」②
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
午後一時。
経理部のドアが、コツコツと軽やかに叩かれた。
「失礼します。監査法人マギアより参りました。桐原と申します」
続いて、もうひとつ落ち着いた声が続く。
「同じく、草薙です」
書類に目を落としていた綾瀬は、ふと顔を上げて――息を呑んだ。
入ってきたのは、異様な存在感を放つ男女のペア。雑居ビルの空気が、一瞬で別世界にすり替わるような、不思議な感覚。
先に名乗った男性――桐原は、背筋をまっすぐに伸ばし、漆黒の三つ揃えスーツを完璧に着こなしていた。ネクタイピンには、幾何学模様を編み込んだ不思議な意匠が光る。魔法陣……そう形容するのが最も近い。ウェーブのかかった金髪に、切れ長の瞳。その瞳には氷のような静けさと、どこか芝居がかった柔らかな笑みが宿っていた。
(え……何、この人。役者さん?)
一方、彼の隣に立つ女性――草薙は、ストレートの黒髪をきっちりと束ね、淡いグレーのパンツスーツを軽やかに着こなしている。桐原とは対照的に飾り気がなく、理知的な雰囲気を纏っていた。だが、冷たさはない。目元は涼やかで、口元には柔らかい優しさが浮かんでいる。
(綺麗な人……でも、ちょっと怖そう)
その瞬間、経理部長が急いで立ち上がり、慌てたように応対に出た。普段はめったに崩さない無表情に、作り笑いが浮かんでいる。
「お、お待ちしておりました! 会議室を準備しておりますので、こちらへどうぞ!」
綾瀬は、他の社員たちと一緒に会議室へと書類を運ぶため、そっと立ち上がった。派遣社員である自分には、名刺交換やあいさつなど出る幕などない。そう思っていた、矢先。
「私は桐原、監査法人マギア所属、公認魔術会計士だ。マギア式監査魔術体系に基づき、本日の監査を実施する」
会議室に入るなり、桐原が淡々と、しかし確信に満ちた口調でそう言った。
(……魔術?)
会議室の空気が、一瞬で凍りついたようだった。社員たちが顔を見合わせ、微かなざわめきが走る。
(冗談? でも……この人、本気だ。しかも、なぜか説得力がある)
綾瀬の胸が、ドクンと高鳴った。奇妙な表現に聞こえるはずの言葉が、彼の声で語られると、なぜか現実味を帯びて聞こえる。数字の世界に“魔術”という言葉を持ち込む、その破天荒さが、妙に腑に落ちる感覚。
「草薙です。うちの代表が少し独特なだけで、監査はいたって真面目にやってます。どうか気にしないでください」
隣の草薙が、苦笑まじりにフォローを入れる。会議室の空気が少しだけ緩んだ。
「無粋だな、草薙。“魔術”は会計の浪漫だ。財務諸表という無形の宇宙を、秩序に変える技術。それが監査だよ。隠された数字の流れを見抜き、虚構を打ち破る……それが我々、魔術会計士の務めだ」
(浪漫って……なにそれ。でも……わかる、かも)
綾瀬は、自分の胸の奥が小さく震えるのを感じた。
数字の裏にある“ズレ”――誰にも見えないその歪みに、ずっと心をざわつかせてきた自分。理由はわからない。でも、見てしまう。感じてしまう。彼の言葉は、それを“正しいもの”として認めてくれるような響きを持っていた。
「ご安心ください。本社『NTSグループ』の監査の一環で、子会社であるこちらにも立ち寄らせていただきました。監査は半日程度で終わる予定です」
草薙が冷静に説明を加えると、経理部長は安堵したように頷いた。名刺交換が始まり、社員たちが整列する中、綾瀬は列に加わらず、会議室の隅で静かに佇んでいた。
─そのときだった。
「……君、監査眼を持っているな」
桐原の視線が、すっと彼女を射抜いた。
(えっ、私……?)
思わず目が合ってしまい、心臓が大きく跳ねる。周囲の空気が、再びざわついた。
桐原は彼女の目を真っ直ぐに見据え、微笑を浮かべたまま、静かに言った。
「うん、間違いない。君の瞳には、“数値の歪み”が映っている。監査の才能だよ。君には、それが“見えて”いる」
(数値の……歪み? 監査眼……?)
その言葉が、心に刺さった。誰にも理解されなかった感覚に、初めて名前が与えられたような気がした。
(それ……わたしの、あの違和感のこと?)
心の奥が、不思議な熱を帯びてざわめく。過去の苦い記憶、見えてしまったズレ、でも証明できなかった自分。そのすべてが、今、静かに肯定されるような錯覚。
─彼は、私の中の何かを“見ている”。
「今、“監査眼”って言った……?」「なんか……あの監査法人、ヤバくない?」「冗談だよね……?」
周囲の社員たちが小声でざわつく中、経理部長が慌てて締めに入った。
「で、では、そちらの先生方、本日はよろしくお願いいたします! 書類は後ほどお持ちしますので!」
社員たちがぞろぞろと会議室を後にする。綾瀬もそれに続こうとしたが、足が一瞬だけ止まる。
(監査眼……私の目が、そう呼ばれるものだとしたら)
ふいに、手元の資料の数字が、以前よりも鮮明に浮かび上がって見えた気がした。
まるで、今までただのノイズだった数字たちが、言葉を持って話しかけてくるように――。