第3話幕間:草薙あやめ、真実の匂い
初投稿です。
昔から、私は人の嘘がわかった。
嘘をつく人の身体からは、妙な匂いが立ちのぼる。鼻で嗅ぎ取る匂いというよりは、皮膚の内側から発されるような、頭の奥に引っかかる臭気。生臭さとも違う、焦げたような、埃っぽいような。まるで“空気の乱れ”そのもののような感覚。
正直、あまり気持ちのいいものじゃない。だから私は、人間関係が苦手だった。
思春期になる頃には、その能力のせいで友人付き合いにも支障が出た。「大丈夫」と言いながら陰口を叩く子も、「味方だよ」と言いながら他人を売る大人も、すぐに“匂う”から。
だから私は、“匂わない世界”を選ぼうとした。
法律と、会計。
理屈で構成され、数式と文言が支配する世界。そこに、人の“嘘”は入り込めないと思った。
コーヒーの香りが好きだったのも、もしかしたらその反動かもしれない。人の嘘の臭いを消すように、いつも事務所では深煎りの豆を淹れていた。
──けれど。
法曹の世界に入ってみて、私はすぐに気づくことになる。
ここもまた、嘘だらけだ。
私は法律事務所の所属弁護士として、主に企業法務とコンプライアンス案件を担当していた。顧問先の経営者たちは、訴訟の火種を消すために、平気で事実を捻じ曲げる。証拠の整合性よりも、“有利に話を持っていく”ことが求められ、契約書には“意図的な抜け道”が仕込まれる。
法の支配なんて、幻想だった。
会計だってそうだ。粉飾決算、循環取引、名義貸し。帳簿の裏にあるのは、利益と欲望。数字は嘘をつかない──たしかにそうかもしれない。でも、人間が嘘をついた数字なら、それは“最初から真実じゃない”。
そんな日々の中で、私は少しずつ、自分の仕事に意義を見失っていた。
──そんなある日、一本の案件が入った。
顧問先の大手アパレル企業で、経理部内の不正会計が疑われているという。内部通報を受けた会社が、私の事務所に対応を依頼してきた。だが、その調査は既に別の機関にも依頼されており──共同調査先には、監査法人マギアという、聞き慣れない名前があった。
「一緒に行ってくれ。先方と連携しながら、調査を実施してほしい」
上司の指示で私は企業に向かい、初めて、彼と出会った。
桐原千景。監査法人マギアの代表にして、公認魔術会計士を自称する奇人。
「この帳簿、どうやら“幻影勘定”が仕掛けられているな。……うむ、これは古典的な“仕入重複魔術”のパターンか」
初対面で聞かされた言葉に、私は内心で盛大に溜息をついた。
(なにこの人……頭おかしい)
見た目は完璧にスーツを着こなしたエリート。声も落ち着いている。けれど、語る内容は“魔術”だの“魔力残滓”だの、ファンタジー小説の住人のようだった。
当然、第一印象は最悪だった。
──しかし、だ。
数時間、調査の現場に立ち会ううちに、私は奇妙な違和感に気づいた。
桐原の発する言葉には、まったく匂いがしなかったのだ。
冗談めかした語り口、奇抜な言葉遣い。それでも、彼の言葉には一分の嘘もない。彼は本気でそう思い、本気で“真実”を見つめようとしている。演技でも、虚飾でもない。あれは――“信念の匂い”だ。
たとえばこう言われたとき。
「草薙。君の目には、言葉の歪みが映るのだろう? ならば、僕の魔術と君の“直感”は、補完し合えるはずだ」
あり得ないことを言っているのに、なぜか腹の底が震えた。
私はこの能力を「直感」だなんて呼ばれたことがなかった。
クライアントの嘘を暴くときも、上司は「偶然だよ」「うまく聞き出しただけだ」と言った。けれど桐原は、最初からそれを“才能”だと言った。
不思議な男だった。
変人で、自意識過剰で、世界観がおかしくて──でも、どこまでも真っ直ぐな人だった。
その後、数日をかけて調査は完了した。
典型的な架空仕入と循環売上、そして社長の個人口座への送金。すべて、桐原の指摘通りだった。
私は証拠保全の手続きと報告書の監修を終え、企業側の法的対応に一区切りをつけた。通常であれば、ここで解散だったはず。
……けれど。
調査最終日の夜。
資料を整理していた私の隣で、桐原がふいに言った。
「草薙。君が必要だ。ずっと、そばにいてほしい」
その言葉に、私は思わず手元のペンを落とした。
──え?
頬が熱くなる。
胸がどくんと跳ねた。
意味もなく、指先が震えた。
(ま、待って……“ずっとそばに”って……えっ……ちょっと、それ、どの意味で……?)
そんな私の動揺をよそに、桐原は涼しい顔で続けた。
「マギアに、来てくれ。僕の右腕になってほしい。君の力は、“真実”に届く」
……なるほど。
そういう意味ね。
私は思わず、笑ってしまった。
バカみたいにドキドキして、勘違いして、何やってるんだろう、私。
でも、その瞬間にはっきり分かった。
この人となら、本当に“意味のある仕事”ができるかもしれない。
私は今まで、ずっと孤独だった。
自分の能力を、異物のように隠していた。
けれど、桐原はそれを肯定した。
変人だけど、本気だった。
真実に向き合うために、“嘘がわかる目”を必要としてくれた。
ならば、もう一度信じてみたい。
人間にではなく──“真実”というものに。
「……分かりました。条件があります」
「うん?」
「マギアのメンバー、変人ばっかりですよね? せめて一人くらい、まともな人間が必要だと思うんです。私がそれ、引き受けます」
「ふふ。たしかに、マギアは個性の坩堝だからね」
「あと、魔術用語を仕事の書類に使うの、やめてください」
「検討はする」
「やめないつもりですね?」
──こうして私は、監査法人マギアの一員になった。
あのときのコーヒーの香りを、私は今でも覚えている。
嫌な匂いじゃなかった。
むしろ、温かく、心を落ち着ける香りだった。
あれはきっと、“真実”の匂いだったのだと思う。
こちらの作品はしばらく更新停止します。




