第3話「監査の本質」⑤
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
翌朝、神楽坂の監査法人マギアにて。
応接室では、草薙と綾瀬を中心に、火ノ森と桐原が揃って、前日の報告を聞いていた。テーブルの中央には綾瀬が作成した調書のドラフトが配布されている。
「……ふむ、なるほど。“意思決定のタイムラインと実行日の乖離は資料により補完可能”、ね」
桐原が指先で調書の一行をなぞり、口角を上げた。
「静かだが、よく整理された良い調書だ。“事件が起きなかったこと”を、ここまで丁寧に扱った調書は初めて見るかもしれないな」
「ありがとうございます……!」
綾瀬が思わず姿勢を正す。緊張混じりの返答に、火ノ森がにやりと笑った。
「おいおい、こいつ昨日まで何も発見事項がないときは“自分は何も見えない”とか落ち込んでたんだぜ? まさか一日でこんなに変わるとはな」
「火ノ森さん!」
「でも、わかるぜ。違和感がないってのは、案外キツい。俺なんか“歪み”を見て飯食ってるようなもんだからよ」
火ノ森の言葉に、草薙がふっと笑みを浮かべる。
「でも、その“歪みがない状態”こそ、実はいちばん尊いのよ。だって、誰にも見えない正しさを、言葉にしなきゃいけないから」
桐原が頷いた。
「“無音のオーケストラ”を聴き取るようなものだ。誰も気づかない静けさを、“ここに信頼がある”と証明する――それこそが監査の本質のひとつ」
綾瀬はその言葉を噛み締めるように、小さく頷いた。
「……実は最初、ほんとうに何も見えなくて焦っていました。けど草薙さんと一緒に現場を回って、“何も起きていないこと”にも意味があると教わりました」
草薙は穏やかに微笑んだ。
「現場で“見えない”こと。それはあなたの“センサーが外れていた”のではなく、“不正がなかった”ということ。そこに立ち会ったあなたの視点には、価値があるのよ」
「……“立ち会ったこと”が、大事……」
綾瀬の中で、その言葉が深く沈んでいった。
その日の帰り道。オフィスを出て石畳を歩く草薙と綾瀬の姿があった。夕陽が街並みに伸び、街灯がぼんやりと灯り始める。
「……ねえ、草薙さん」
「なに?」
「監査って、やっぱり魔術みたいですね。数字に触れて、その意味を浮かび上がらせるなんて」
草薙は、ふっと笑った。
「そうね。でも、私たちは“魔術師”というより、“翻訳者”なのかもしれないわ。無言の帳簿を、人に伝わる言葉に変える。それが私の仕事」
その言葉を聞いて、綾瀬はそっと手帳を取り出し、メモを取った。
数字は、何も語らない。
でも、私たちが語らせることはできる。
それが、信頼という“かたちのない真実”を、世界に証明する手段なのだ。
綾瀬香理の中に、新しい監査の原則が芽生えていた。




