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第3話「監査の本質」③

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 午後三時を回った頃だった。監査対象資料の大半を確認し終え、綾瀬がほっと息をついたところで、会議室のドアがノックされた。


 「失礼します。清水です」


 経理部長の清水が資料を一式抱えて戻ってきた。表情は穏やかだが、どこか読み取れない影があった。


 「草薙さん、1点だけ、少しご相談がありまして」


 「はい、どうぞ」


 草薙が姿勢を正す。清水は慎重に資料を机に置いた。


 「こちら、年度末に計上した“固定資産除却損”なんですが、決算期を跨いだ設備撤去に関するものでして。実は、社内でちょっとだけ懸念が出てまして……」


 草薙が資料に目を通し、綾瀬も隣から覗き込んだ。


 「……あの設備、期末で帳簿から落としましたよね?」


 「はい。ただ……撤去作業自体は、実際には今年度の四月に入ってからだったんです。そのタイミングが適切だったのかどうか……」


 草薙はペンを手に取り、しばらく黙って考え込んだ。そして、資料を一枚抜き出した。


 「除却の意思決定を記した稟議書……これですね。三月二十七日付。会議体の承認印もあります」


 「ええ。正式な決定はそのタイミングでして」


 「となると、“撤去作業”の実行は今年度でも、“会計上の除却判断”は期末で正しい。ただ……」


 草薙は資料の束を少し叩くように整えた。


 「その説明が、明示されていなければ、誤解を生む可能性はあるわ」


 清水の表情がかすかに曇る。


 「……やはり、そうですよね」


 綾瀬はそこで初めて気づいた。

 このやりとり、問題があるわけではない。だが、“説明がないことで信頼を損ねる可能性がある”という、極めて繊細な局面なのだ。


 「帳簿上の処理は正しい。でも、見る人が“あれ? 実際の撤去は翌期なのに、どうして前期で損失に?”と疑問を持つ。その疑問に事前に答えておくことも必要な仕事です」


 草薙はそう言いながら、さらりとメモを差し出した。


 「この“除却に至る意思決定のタイムライン”を説明する文書を、補足資料としてご提出ください。念のため、“除却の意思決定後から固定資産の撤去までの管理状況”のサマリも付けたほうがいいわね」


 清水は、安心したように息を吐いた。


 「……なるほど。“正しいこと”でも、説明がなければ“不安”を呼ぶ……」


 「そうです。そしてその不安は、数字の正しさをも否定しかねない」


 綾瀬の心に、草薙の言葉が静かに、しかし確実に響いた。



 会議室に再び静寂が戻ったあと、草薙は綾瀬に向き直った。


 「……わかったかしら? “違和感があるから説明する”のではなく、“たとえ問題がなくても説明する”。それが、信頼を積み上げる監査のもう一つの側面」


 「はい……でも、まだ正直、自分にできるかは自信がなくて」


 「それでいいの。私たちが“疑念を抱かせない”というのは、常にひとつ上の次元の仕事。疑念を晴らすよりずっと難しい。だから時間も経験も要る」


 草薙はふと視線を窓の外に向けた。


 「けれどね。綾瀬さん、覚えていて。“誠実であること”は、必ず言葉で示さなければならない」


 「……言葉で?」


 「ええ。数字だけでは、伝わらないの。だから私たちは、資料を読んで、疑問に思って、関係者に確認して、説明を補って、“意味を持った数字”にする。それが、私たちが果たすべき“保証”」


 “保証”という言葉が、ずしりと胸に響いた。


 “違和感がない”=“何もしない”ではない。


 むしろ、違和感がないときこそ、数字に意味を与えるという仕事がある。


 火ノ森のように“見抜く”監査もあれば、草薙のように“裏付ける”監査もある。


 そのどちらもが、誰かの信用を支える仕事なのだ。




 帰り道の地下鉄のホーム。草薙と並んで電車を待ちながら、綾瀬はぽつりと口を開いた。


 「今日、何も見えなかったと思ってました。でも、“何もないことを確認する”って、こんなにも重要なんですね」


 草薙は小さく笑った。


 「今日あなたが感じたこと。それは“見えなかったこと”じゃない。“見るために考えたこと”なの。監査はそこから始まる」


 電車が滑り込んでくる。駅の明かりに照らされる草薙の横顔は、どこか凛としていて、けれどとても人間らしかった。


 “真実の代理人”――その言葉の意味が、綾瀬の中でようやく輪郭を持ち始めていた。

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