表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/19

第3話「監査の本質」①

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 六月中旬。東京の空には梅雨の名残が漂い、窓の外では薄曇りの光が灰色の街並みに柔らかく降り注いでいた。


 「綾瀬さん、今日は一緒に現場行くわよ」


 草薙あやめがそう言ったのは、朝のミーティングの終わり際だった。資料を片づけながらさらりと告げられたその一言に、綾瀬香理は一瞬反応が遅れた。


 「え……草薙さんと……ですか?」


 「ええ。都内の中規模建設会社、トリニティ建設。前期からの継続監査。火ノ森さんとは違って、今日はちゃんと“机上監査”よ」


 淡々としたその口調には、圧も威圧もなかった。だが、綾瀬の胸の奥に、ほんのりと緊張が芽生える。


 (草薙さん……現場で一緒になるの、初めてかも)


 マギアに入って数週間。桐原の魔術めいた言葉遣いにも、火ノ森の豪快な現場主義にも、ようやく少し慣れてきた頃だ。その中で草薙はいつも静かに、けれど確かな存在感でチームを支えている。法務の知識、文書処理の正確さ、そして何より、どこか“切れ味の鋭い美しさ”を感じさせる人物。


 ――そんな人と、今日一日行動を共にする。


 「はいっ、よろしくお願いします!」


 返した声がわずかに裏返ってしまい、草薙がふ、と小さく笑った。


 「そんなに肩肘張らなくても大丈夫よ。むしろ今日は、あまり“事件”は起きないかもしれないわね」


 「えっ……?」


 「まあ行ってみればわかるわ。さ、行きましょうか」


 淡くグレーのパンツスーツに身を包んだ草薙の後ろ姿は、やはりどこか凛としていて、背筋が自然と伸びるような気がした。




 目的地のトリニティ建設は、都内北部にあるビルの一角にあった。エントランスは広く、社員たちが整然と行き交い、オフィス内には整った雰囲気が漂っていた。


 応接室に通された二人を迎えたのは、経理部長の清水と名乗る男性だった。物腰は柔らかく、応対も丁寧だ。


 「監査法人マギアの草薙です。前期に引き続きよろしくお願いします。こちら、初めて同席させていただく綾瀬です」


 名刺交換を済ませる綾瀬を見届け、草薙が応接室の椅子に座る。その動作ひとつひとつが洗練されていて、綾瀬は思わず背筋を正した。


 「では、早速書類をご用意いただけますか?」


 「はい、こちらが決算資料一式と、各科目の科目明細です」


 整然と並べられたバインダー。表紙に添付されたインデックス。科目ごとの資料にズレも乱れもなく、第一印象として“管理が行き届いている”会社だということが伝わってくる。


 (……すごくきれい)


 資料をめくりながら、綾瀬はそっとため息をつく。火ノ森と訪れた工場とはまるで違う。埃ひとつない事務所。整理された棚。作業員の笑顔。張り詰めた緊張感はないが、そのぶん“見えすぎる整然さ”に、何かが足りない気もした。


 ―何も、感じない。


 (……おかしいな。数字が全然、引っかからない)


 帳簿の数字は滑らかで、何ひとつ綾瀬の“監査眼”が反応しない。まるで異物のない水のように透き通っていて、何度見ても“ざわつき”が起こらなかった。


 (こんなに、何も感じないことってあるんだろうか)


 不意に、焦りがこみ上げてきた。


 “ヴェリタスの瞳”は、数字の歪みや矛盾に反応する。だが、今日は何も起きない。ただ資料を見ているだけで、まるで役に立っていない。


 「……綾瀬さん?」


 「は、はいっ!」


 草薙が静かに顔を向けていた。眉ひとつ動かさず、ただ穏やかに見つめている。


 「焦らなくてもいいわ。今日は“何も起きないことを確認する”のが目的なの」


 「……はい」


 綾瀬は、うまく返せなかった。


 “何も起きない”。それが、こんなに居心地が悪いとは思わなかった。


 (……私、結局、“歪み”が見えないと役に立てないのかな)


 


 午前中いっぱいをかけて、棚卸資産の資料と売掛金の明細書、さらには試算表の推移を確認したが、不審な点は一つもなかった。数字の遷移も自然で、仕訳の処理にも問題が見られない。


 「やはり、この会社……整ってますね」


 綾瀬がぽつりと漏らすと、草薙は資料をめくりながら静かに頷いた。


 「そうね。創業者が会計士出身だって聞いているわ。組織の仕組みがきちんと整備されているのは、その影響でしょうね」


 「……私、なんか……今日は何の役にも立ってない気がして」


 つい、本音がこぼれた。


 草薙は少しだけ表情を柔らかくした。


 「そう感じるのも、無理はないわ。でも――それは、誤解でもある」


 綾瀬が目を向ける。草薙はその視線を受け止めながら、資料をぱたんと閉じて微笑んだ。


 「綾瀬さん。監査ってね、“何かを見つけること”だけじゃないの。“何も問題がない”ということを、第三者として確認し、それを証明すること。それこそが、監査の本質よ」


 その言葉は、綾瀬の胸に静かに、けれど確かに届いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ