第3話「監査の本質」①
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
六月中旬。東京の空には梅雨の名残が漂い、窓の外では薄曇りの光が灰色の街並みに柔らかく降り注いでいた。
「綾瀬さん、今日は一緒に現場行くわよ」
草薙あやめがそう言ったのは、朝のミーティングの終わり際だった。資料を片づけながらさらりと告げられたその一言に、綾瀬香理は一瞬反応が遅れた。
「え……草薙さんと……ですか?」
「ええ。都内の中規模建設会社、トリニティ建設。前期からの継続監査。火ノ森さんとは違って、今日はちゃんと“机上監査”よ」
淡々としたその口調には、圧も威圧もなかった。だが、綾瀬の胸の奥に、ほんのりと緊張が芽生える。
(草薙さん……現場で一緒になるの、初めてかも)
マギアに入って数週間。桐原の魔術めいた言葉遣いにも、火ノ森の豪快な現場主義にも、ようやく少し慣れてきた頃だ。その中で草薙はいつも静かに、けれど確かな存在感でチームを支えている。法務の知識、文書処理の正確さ、そして何より、どこか“切れ味の鋭い美しさ”を感じさせる人物。
――そんな人と、今日一日行動を共にする。
「はいっ、よろしくお願いします!」
返した声がわずかに裏返ってしまい、草薙がふ、と小さく笑った。
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫よ。むしろ今日は、あまり“事件”は起きないかもしれないわね」
「えっ……?」
「まあ行ってみればわかるわ。さ、行きましょうか」
淡くグレーのパンツスーツに身を包んだ草薙の後ろ姿は、やはりどこか凛としていて、背筋が自然と伸びるような気がした。
目的地のトリニティ建設は、都内北部にあるビルの一角にあった。エントランスは広く、社員たちが整然と行き交い、オフィス内には整った雰囲気が漂っていた。
応接室に通された二人を迎えたのは、経理部長の清水と名乗る男性だった。物腰は柔らかく、応対も丁寧だ。
「監査法人マギアの草薙です。前期に引き続きよろしくお願いします。こちら、初めて同席させていただく綾瀬です」
名刺交換を済ませる綾瀬を見届け、草薙が応接室の椅子に座る。その動作ひとつひとつが洗練されていて、綾瀬は思わず背筋を正した。
「では、早速書類をご用意いただけますか?」
「はい、こちらが決算資料一式と、各科目の科目明細です」
整然と並べられたバインダー。表紙に添付されたインデックス。科目ごとの資料にズレも乱れもなく、第一印象として“管理が行き届いている”会社だということが伝わってくる。
(……すごくきれい)
資料をめくりながら、綾瀬はそっとため息をつく。火ノ森と訪れた工場とはまるで違う。埃ひとつない事務所。整理された棚。作業員の笑顔。張り詰めた緊張感はないが、そのぶん“見えすぎる整然さ”に、何かが足りない気もした。
―何も、感じない。
(……おかしいな。数字が全然、引っかからない)
帳簿の数字は滑らかで、何ひとつ綾瀬の“監査眼”が反応しない。まるで異物のない水のように透き通っていて、何度見ても“ざわつき”が起こらなかった。
(こんなに、何も感じないことってあるんだろうか)
不意に、焦りがこみ上げてきた。
“ヴェリタスの瞳”は、数字の歪みや矛盾に反応する。だが、今日は何も起きない。ただ資料を見ているだけで、まるで役に立っていない。
「……綾瀬さん?」
「は、はいっ!」
草薙が静かに顔を向けていた。眉ひとつ動かさず、ただ穏やかに見つめている。
「焦らなくてもいいわ。今日は“何も起きないことを確認する”のが目的なの」
「……はい」
綾瀬は、うまく返せなかった。
“何も起きない”。それが、こんなに居心地が悪いとは思わなかった。
(……私、結局、“歪み”が見えないと役に立てないのかな)
午前中いっぱいをかけて、棚卸資産の資料と売掛金の明細書、さらには試算表の推移を確認したが、不審な点は一つもなかった。数字の遷移も自然で、仕訳の処理にも問題が見られない。
「やはり、この会社……整ってますね」
綾瀬がぽつりと漏らすと、草薙は資料をめくりながら静かに頷いた。
「そうね。創業者が会計士出身だって聞いているわ。組織の仕組みがきちんと整備されているのは、その影響でしょうね」
「……私、なんか……今日は何の役にも立ってない気がして」
つい、本音がこぼれた。
草薙は少しだけ表情を柔らかくした。
「そう感じるのも、無理はないわ。でも――それは、誤解でもある」
綾瀬が目を向ける。草薙はその視線を受け止めながら、資料をぱたんと閉じて微笑んだ。
「綾瀬さん。監査ってね、“何かを見つけること”だけじゃないの。“何も問題がない”ということを、第三者として確認し、それを証明すること。それこそが、監査の本質よ」
その言葉は、綾瀬の胸に静かに、けれど確かに届いた。




