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第2話「初めての監査」⑤

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 神楽坂の石畳を踏みしめて、綾瀬が火ノ森とマギアの洋館に戻ったのは夕方五時を過ぎた頃だった。空は茜色に染まりかけ、建物の古びた窓枠がその光を受けて金色に縁取られていた。


 ドアを開けると、ほのかなインクの匂いが鼻をくすぐる。エントランスから続く廊下の奥には、静かにコーヒーの香りが漂っていた。


 「おかえり。ご苦労さま」


 応接室のドアを開けた途端、草薙の穏やかな声が迎えた。テーブルの上には彼女の手により淹れたてのコーヒーが並べられている。


 火ノ森はソファに深く腰を沈め、腕を組んだ。いつもの軽さを脱ぎ捨てたような、落ち着いた表情で綾瀬を見上げる。


 「綾瀬。今日はよくやったな」


 「……あ、あの、ありがとうございます」


 綾瀬は上着を脱いで、おずおずと椅子に腰を下ろす。まだ心臓の鼓動がほんの少しだけ速かった。


 「初めてにしては、上出来すぎるくらいだよ。疑義に“気づく”だけなら簡単だが、それを“言葉にして相手に伝える”ってのは、なかなかできることじゃねぇ」


 火ノ森の言葉に、綾瀬は顔を上げた。


 「……実は、最後までずっと怖かったです。言った瞬間にまた怒られるんじゃないかって」


 「まあ、実際ちょっと怒鳴られてたな。あの課長、顔真っ赤だったし」


 「ちょ、火ノ森さん……!」


 草薙が呆れたように笑いながらも、優しい目で綾瀬を見た。


 「でも本当に、あなたの直感がなければあの“空箱”の水増しは見逃されていたかもしれない。あの現場は、“見せかけ”があまりにも整っていたから」


 「……私、ずっと思ってたんです。数字のズレを感じても、それを説明できなきゃ意味がないって。だけど今日、初めて……違和感に“理由”があるんだって、それを説明できた気がして」


 火ノ森が、ゆっくりと頷く。


 「そうだ。“感覚”はスタート地点だ。それが正しいかどうかは、現場を見て、数字を見て、自分の言葉で語れるようになって初めて意味を持つ」


 「言葉に……」


 「お前は今日、それをやった。“違和感”を“監査”に変えた。それがどれだけ大事なことか、わかってるか?」


 綾瀬は、まっすぐ頷いた。


 草薙が湯気の立つカップを差し出す。


 「お疲れ様。今日はもう、ゆっくりしていいよ」


 「ありがとうございます……」


 あたたかい紅茶の香りが、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。気づけば、ほんの少し、肩の力が抜けていた。


 「─戻ったぞ」


 重いドアが音を立てて開いた。現れたのは、白手袋をつけた桐原だった。コートの裾を翻し、ドアの影から姿を現す。


 「噂の新人、ついに“歪み”を暴いたとか?」


 「桐原さん……!」


 綾瀬が慌てて立ち上がると、桐原はおどけたように片手を上げた。


 「聞いたよ。帳簿は正しいが、中身がない。“空の幻影”─典型的な“虚在演算ヴォイド・アサンプション”だな。見かけの在庫で数字を飾る、在庫魔術の初歩中の初歩」


 「ま、魔術って……」


 「だが、その幻影は机上の監査じゃ見抜けない。帳簿が整ってるだけに、むしろ見過ごされがちだ。君の“監査眼”が、そこに反応したんだ。お見事だよ、綾瀬君」


 桐原の声は芝居がかっていたが、その瞳の奥にある熱は本物だった。


 「……いえ。火ノ森さんがいなかったら、たぶん私は何も言えなかったです」


 「違うね」


 桐原はゆっくりと首を振った。


 「君は“言った”。自分の感じた違和感を、理由も根拠も言葉にして、伝えた。それは、“魔術”だ。数字という無言の記号に、意味を吹き込む言葉の魔術だよ」


 その言葉に、綾瀬は目を見開いた。


 「これから何度も、“何かがおかしい”という場面に出会う。でも、今日みたいに一歩踏み出せるかどうかで、監査人としての未来が変わる。君には、その目と、心と、勇気がある」


 草薙が静かに補足する。


 「そして、経験を重ねれば、その“感覚”は“論理”になる。曖昧だった違和感に、名前がつくようになるよ」


 火ノ森が笑った。


 「つまりは─今日の一歩、でかかったってこった」


 綾瀬は、少しだけ照れくさそうに笑った。


 「……ありがとうございます。本当に、ここに来てよかったです」


 「うむ。ならば明日も元気に現場に出よう。次は在庫じゃなく、売掛金の“召喚魔術”を暴いてもらう」


 「えぇっ、もう次あるんですか!?」


 一同の笑い声が、静かな洋館の空気をあたためた。


 ─こうして、綾瀬香理の“初めての監査”は終わった。


 “見えてしまう違和感”は、ただのノイズではない。それは、数字の向こう側にある“真実”への入り口だった。


 彼女の監査眼は、まだ未熟かもしれない。


 けれど確かに、それは今─“監査”という名の物語を、歩み始めたのだった。

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