第2話「初めての監査」③
初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。
工場内の空気は、金属と油の混ざった匂いが重くこもり、奥に行くほど湿気と熱気が増していた。
「……こっちが完成品の保管棚です」
現場管理者である工場長に案内されたその一角には、天井まで届きそうな棚が並び、段ボール箱がずらりと積まれていた。ラベルの印字は整っており、品番、ロット、数量が明記されている。棚の足元には、今日納品されたばかりという伝票付きの箱が無造作に置かれていた。
「リストと付き合わせながら、実地でカウントするぞ。綾瀬、用意はいいか?」
「はい……!」
綾瀬は手にした在庫リストを握り、棚に向かって歩き出した。少し震える手でラベルを確認し、リスト上の品番と数量をチェックしていく。
数字に間違いはない。記載どおりのロット、製品名、数量が記されている。だが、視界の奥がふと揺れる。数字の整合に違和感はないはずなのに、何かが――おかしい。
(……なんだろう、この感じ)
整っている、はずなのに。綾瀬の胸の奥に、じわりとざわつきが生まれる。湿度でも暑さでもない、数字が放つかすかな“匂い”のような違和感。
「なあ、綾瀬。……これ、ちょっと持ってみろ」
火ノ森の声に顔を上げると、彼が手にしていたのは、ある製品の箱。外装には10個入りと印字され、重量も記されている。だが、火ノ森の表情にはわずかな疑念が浮かんでいた。
「いいか? こいつ、変に軽い」
綾瀬が受け取ると、確かに拍子抜けするほど軽い。中に何かが入っている感覚がない。
「……空?」
「開けてみよう」
テープを丁寧に剥がし、箱を開ける。そこには――何も入っていなかった。
「完全に……空箱、ですね」
「おう。ラベルは確かに“10個”って書いてあるが、中身ゼロだ」
火ノ森はすぐさま他の箱にも目を向け、ランダムにピックアップして開封を始めた。綾瀬も動く。リストに載っている数量の通りに現物があるかを、実際に確認する。
「……これも空……こっちも、中身が少ない?」
「こっちは5個しか入ってねぇな。半分だけだ」
その瞬間、綾瀬の中で点と点がつながった。
帳簿上の数量と、現物の数量が一致していない。いや、“一致させているように見せている”だけだ。記録された数量を補うように、空箱や中身の足りない箱が積み上げられていた。
「在庫、水増しされてます」
思わず口に出していた。自分の声に、自分で驚いた。
火ノ森が、うん、と頷く。
「実在性の偽装だな。現物がねぇのに、帳簿では存在してるフリをしてる。数字だけ残して、中身は空っぽだ」
「……どうして、そんなこと……」
綾瀬の問いに、火ノ森は即答しない。ただ、リストをひと目見てから口を開いた。
「例えば、資産の金額を実際より多くにみせかけるため、あるいは売上原価を少なくし利益を多く計上するため、あるいは……何かをごまかすため。理由はまだ特定できねぇが、やってることは明らかに“在庫の過大計上”だ」
綾瀬の胸の奥で、“ヴェリタスの瞳”が疼いた気がした。
数字の整合性だけでは捉えきれなかった“歪み”が、今、確かなかたちで浮かび上がってきた。自分の違和感が、初めて“証拠”と繋がった感覚。
(やっぱり……この感覚、間違ってなかった)
「火ノ森さん……これって……監査で“虚偽表示”になりますか?」
「そうだな。意図的なら“粉飾”。ただのミスなら“重大な誤謬”。どっちにしても、看過できる話じゃねぇ。だが、そこを判断するのは、お前の役目でもある」
「……え?」
「“見つけた”のは、お前だ。“違和感”を感知したのは、お前の“目”だ。だからこのあと─監査人たるお前がその違和感を、言葉にして説明しなきゃならねぇんだ」
(わたしが、言葉に……?)
あのとき、信じてもらえなかった。説明できなかった。でも今は、違う。
目の前には、空箱がある。数字と現物の不一致という、確かな“証拠”がある。
「……やってみます。私、ちゃんと伝えたいです」
火ノ森が笑う。
「上等。じゃあ、“魔術師”の一歩目だな」
綾瀬は、ぐっと拳を握った。怖さはある。けれど、言わなければならない。
この違和感には、意味がある。
この箱の軽さには、重さがある。