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第1話「監査眼」①

初投稿です。当面の間、週に3回(水、金、日)エピソード更新。

 午前八時半。


 梅雨明けを間近に控えた東京・品川。じめっとした湿気を孕んだ風が、通勤の人波とともに雑居ビルの谷間を流れ抜ける。その五階建ての一角、ビルの外壁に打ち込まれた金属プレートには、控えめに《NTSシステムズ株式会社》の文字が刻まれていた。鈍く光るプレートの文字列は、朝の灰色の空気に溶け込むように静かだ。


 オフィスの中もまた、音を潜めていた。


「……おはようございます」


 綾瀬香理あやせ・かおりは、声のトーンを一段下げて挨拶する。入ってきたのは経理部の一室。白のブラウスにネイビーのスカート、控えめなメイク。ダークブラウンのボブヘアは耳にかけられ、どこか不安げな気配を帯びている。


 返ってくるのは、無音。


 コピー機の駆動音と、パソコンのキーボードが一定のリズムで叩かれる音だけが、乾いた空間にわずかな動きを与えていた。


(……やっぱり、今日も無視か)


 綾瀬はほとんど無意識に唇を噛みしめながら、自分の席へと小さく頭を下げるようにして向かった。背筋は伸ばしているつもりでも、その足取りにはどこか遠慮がにじむ。


 この会社に派遣されて、一週間が過ぎた。最初から空気は重く、社員同士も最低限の業務連絡しかしない。無言のルールのようなものが、このフロア全体を支配していた。


 机に着き、パソコンの電源を押す。その瞬間、彼女の心は自然と過去へと引き寄せられていた。


 数字が、“ずれて”見える。


 初めてその感覚を自覚したのは、小学生のときだった。家計簿を手書きしていた母の隣に座り、ふと数字の並びを見て言った。


「これ、なんか間違ってる」


 母は笑って「そんなはずないわよ」と言いながら見返したが、実際、一カ所だけ転記ミスがあった。


「すごいね」と言われたが、綾瀬自身はよくわからなかった。ただ、“なんか変だ”という違和感が、胸の奥をチクチクと刺すように疼いていた。


 中学生になってもその感覚は消えなかった。テストの採点ミス、部活動の部費帳簿、文化祭の備品購入伝票。目を通しただけで、“何かが違う”という直感が働く。


 だが、それは何かが違うこと“だけ”が分かる感覚、それも数字限定のものだった。


 学校のテストに活かそうとしたこともあったが、あまり意味が無かった。答えた数値が間違っていることが分かったところで、なぜ間違っているのかも、正しい答えも分かるわけでもない。違和感がなくなるよう正解にたどり着くまで、総当たりで数字を書くわけにもいかなかった。


 高校では商業科に進み、簿記を学んだ。資格も取った。卒業して経理の道にも進んだ。だけどその直感が活かせる機会は意外と少なかった。なぜなら、帳簿を正しく“作成”するのが仕事であって、“感じる”ことだけでは評価されないからだ。


(わたしの目……役に立つようで、立たないのかも)


 ――それでも、彼女はその感覚を捨てきれなかった。


 数字が乱れていると胸が苦しくなる。逆に、帳簿がピタリと整ったときのあのすっきり感は、どんな達成感よりも心を満たしてくれた。

 

「……これ、昨日の請求書です」


 小声で、隣の女性社員に書類を渡す。彼女は一瞥しただけで無言で受け取り、すぐに自分の仕事に戻った。


 綾瀬はその背中に、何も感じていないふうを装って視線を戻す。


(うん、わかってる。今の私は、派遣。ただの作業員)


 無言を守ること。空気になること。仕事だけを、ただ正確にこなすこと。


 ――それが、綾瀬の自衛だった。


 給湯室で、インスタントコーヒーのスティックを破り、紙コップに湯を注ぐ。湯気の向こうに、少しだけ自分の表情が揺れていた。


「……やっぱり、ここ、息が詰まるなあ」


 湯気に紛れるように呟いた独り言。誰も聞いていない。聞かれても困る。けれど、声に出すことで、胸のなかのもやもやがわずかに解けた。


 コーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んだあと、席へ戻り、仕事に取り掛かろうとしたそのとき。


 パソコンのモニターに、メールの小さな通知がポップアップする。


《全社連絡:本日午後、監査法人マギアより監査人が来社予定。経理部は対応をお願いします》


(……監査か)


 心のどこかで、その言葉に反応している自分がいた。


 派遣社員にとって、外部監査なんて関係のない出来事。そう思いながらも、彼女の視線は“マギア”という名前の部分で止まる。


(……変わった名前。なんか、魔法みたい)


 胸の奥が、ふっとくすぐったくなるような奇妙な予感に、ほんの少しだけ波打った。

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