【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜 ★(5/6)クラウス侯爵視点を書き足しました。
シリアス風味のハピエンです。
婚姻契約書に名前を書き終えたとき、もしかしたら私の人生は少し良くなるかもしれないと思ったの。
だけどそう簡単にはいかないみたい⋯⋯。
「レティシア、条件に異論はないか?」
低く、氷のように硬質な声で聞いてきたのは私の夫になったクラウス・ヴァルディス侯爵。
クラウスは私が部屋に入ってからずっと窓辺に立って顔を背けているの。だからどんな顔をしているのかまったくわからない⋯⋯。
騎士服を着て漆黒のマントを羽織った後ろ姿。
長身でとても逞しいということだけははっきりわかる⋯⋯。
「異論はございません、クラウス様」
椅子に座っている私は背中をすっと伸ばして静かに答えた。
「では、今日より君はヴァルディス侯爵夫人だ」
「はい⋯⋯」
まるで業務報告のように事務的ね。でも、それでもいいの。だって私にとってこの婚姻は『逃げ場』にすぎないのだから。
愛情なんて求めてはいない。そういうルールじゃないことはちゃんとわかっているわ。
私はレティシア・エルヴェール。
伯爵家の長女で、実母は私が生まれてすぐに亡くなった。そのあとすぐに義母がやってきて妹のアリシアが生まれた。妹と私は一歳違い。
妹は家族の宝物で私は『いらない娘』になった。
若い妻に夢中な父は私に関心を持ってくれなかったし、義母はまるで妹のアリシアだけが伯爵家の娘のように振る舞った。
私の部屋は屋根裏部屋に移され、使用人と一緒に働くことを命令された。
十八歳になると義母は私が屋敷に住んでいることすら邪魔に思うようになったらしい。急に縁談を持ってきた。
「あなたなんかをもらってくれる相手を探したことに感謝しなさい。相手は花嫁が見つからないで困っている侯爵よ。あなたにちょうどいい相手よ」
「はい⋯⋯」
私は断らなかった。
だって、この屋敷から出ることができるというだけでとても嬉しかったから。
クラウス・ヴァルディス侯爵は王国北部を治める軍事貴族だ。
彼は『結婚して体裁を整える』必要があるらしい。
結婚相手として十分な条件を備えた彼がどうして私なんかを選んだのか?
それはクラウスがふた目と見られないほど醜い顔をしているから。だから花嫁が見つからなかったのだ。
「レティシア⋯⋯。君の私室は西棟に用意した。必要なものは侍女頭のマルタに言ってくれればいい。彼女は俺の母親がわりのような人だ」
クラウスがゆっくりと振り向いた。
(⋯⋯あっ!)
私は思わず息を呑んだ。
****
クラウス・ヴァルビス侯爵は銀の仮面をつけていた。
顔の上半分を覆っている。表面に細かな装飾が施されたとても豪華な銀の仮面だ。
そして──。
仮面に隠れていない口元と顎の線はとても整っていた。あまりに美しいので生きた人間ではないみたいだ。
美しく輝く金色の髪、引き締まった唇、男らしく力強い顎のライン⋯⋯、すべてが彫刻のようだ。
「あ、⋯⋯あの」
私は思わず立ち上がりそうになり、ギュッとスカートを握って踏みとどまった。
視線をどこに置いていいか分からない。銀色の仮面が不気味だと思うべきなのに、そう思う前に見えている顔のあまりの美しさに戸惑った。
「驚かせてしまったな。この仮面のせいだろう」
クラウスが私に近づいてくる。黒いマントの裾がさらりと床をなぞる音が聞こえた。
私は慌てて首を横に振った。
「い、いえ。そんな……ただ、思っていたより、あの……」
「恐ろしくなかったか?」
静かな問いかけだった。けれどその奥に、恐れにも似た緊張がわずかに滲んでいるような気もする。
(きっとたくさんの人に『怖い』と思われる人生だったのね)
私はまたそっと首を横に振った。
「思っていたより、ずっと……綺麗な方でした」
「綺麗だと——?」
クラウスの唇がわずかに動いた。微笑んだのかもしれない。それとも何か言いかけて言葉を呑みこんだのかしら?
「この顔には……、戦で負った傷がある。炎に巻かれて生き残った。だが、その代償がこれだ」
彼は白銀の仮面の表面をゆっくりと指でなぞった。
「見せるつもりはない。恐れられるのはもうたくさんだからな。この顔を怖がらないのはマルタだけだ」
私は小さく息を吸い戸惑いながらも口を開いた。言わなければいけないことがあったからだ。
「私は恐れません。あなたがどんなお顔でも——。あの、実は⋯⋯、侯爵様との結婚は私にとって逃げ道なんです、だから⋯⋯感謝しています」
私の言葉を聞くと少しの間クラウスは黙っていた。そしてちょっとだけ温かい響きの声で話し出す。
「了解した。……ならば、我々は対等だな。俺も君には感謝している。この屋敷では自由に過ごしてくれ。やりたいことがあれば何をしても構わない。だが、もしも君が誰かに利用されるようなことがあれば、その相手を俺は容赦はしない。君は今日から俺の妻だからだ。俺が守る——」
「え?」
(守る⋯⋯? 守るなんて言われたの、初めてだわ⋯⋯)
なぜだろう、胸がほわんと温かくなっていく。
こうして私とクラウスは夫婦になった。
そして初夜をむかえた——。
*****
〜クラウス視点〜
(きっと彼女は怯えているだろう)
そうクラウスは思った。
怯えないはずがないではないか。
これから起こることは彼女にとって初めての体験で、しかもその相手は恐ろしい顔をしているのだから⋯⋯。
「『思ったよりもずっと綺麗です』——だと?」
クラウスは苦笑した。
「『この結婚は逃げ道』だとも言っていたな⋯⋯」
レティシアが義母に酷い扱いをされていることは噂で知っている。だからこそ、いわくつきの結婚相手であるクラウスを受け入れたのだろうと思っていた。
「優しい瞳をしていた⋯⋯」
レティシアが屋敷に来た時、クラウスは屋敷の二階にいた。
陽光が窓硝子に柔らかく反射している昼下がり——。
書斎のカーテンの陰から馬車の到着を見下ろしていた。
緑の芝生を踏んで馬車を降り立ったのはまるで物語から抜け出してきたようなロマンチックな雰囲気の女性だった。
美しい──そう思った瞬間、クラウスの胸はわずかに痛んだ。
レティシア・エルヴェール嬢。
クラウスの婚約者であり、数時間後には妻となる女性だ。
眩しそうな顔で空を見上げ、そして屋敷の中へ進むその姿は、凛とした気品と柔らかな気配を兼ね備えていた。
姿勢も、動きも、まなざしも、すべてが洗練されている。
(……なぜ、俺と結婚しようなどと?)
レティシアを見下ろしながらクラウスは、思わず銀色の仮面を指先でなぞった。
この仮面の下には醜い傷痕がある。それを見た女たちがどれほど目を背けたか⋯⋯。どれほど怯え、噂し、去っていったか⋯⋯。
(また同じかもしれない。財産に目が眩んで嫁いできたが、俺が仮面を外せばきっと目を逸らすだろう。怖れ、逃げ出すだろう——)
レティシアは『綺麗』だと言った。だがあれはきっと社交辞令に違いない。
(……それでも俺は期待してしまう。哀れなことに)
深いため息をついて、クラウスは寝室に向かった。
*****
寝台の上に静かに横たわり、私は横にいる彼の視線を受け止めていた。
蝋燭の明かりが、クラウスの肩越しにゆらゆらと揺れている。
「触れてもいいか?」
そう尋ねた彼の声は柔らかい。そしてとても慎重で、まるで私の返事ひとつで彼の胸に小さなひびが入ってしまいそうな——そんな響きがした。
「は、はい……」
私はそっとまぶたを閉じてうなずいた。
彼の手が私の髪に触れる。指先がとても丁寧に、宝石でも扱うかのように髪をすくい取る。
「君の肌は温かいな」
囁く低い声に、私の心臓はとくんと跳ねた。
クラウスは銀色の仮面を外さなかった。彼の顔の傷——、私はそんなことはどうでもいいと感じていた。
クラウスが私に触れてくれていることに、そしてその指がこんなにも優しいことに、胸がいっぱいになっていたからだ。
「怖くないのか?」
「え?」
この問いは仮面のことを言っているのかしら?
それとも、今から私たち二人がするだろうことを言っているのかしら?
前者なら不思議に怖くないし、後者ならばとても怖い⋯⋯。
「あの⋯⋯、クラウス様のことを、よく知りたいと思っています⋯⋯」
「俺もだ。俺も君のことをもっと知りたいと思っている」
彼の指が頬から肩へゆっくりと動いていく。私の体温と彼の体温が少しずつ混じっていく。まるで私たちの間にあった距離が少しずつ埋まっていくように⋯⋯。
それからとても静かに、私たちは口づけを交わした。
胸の奥が火が灯るように熱くなっていく。
彼が私を抱きしめるたびに私のなかになん度もなん度も火が灯る⋯⋯。
(この人をもっと知りたい。仮面の下の顔すらも⋯⋯)
すべてが終わると彼は私を長い間やさしく抱きしめてくれた。
彼の心臓のトクトクという鼓動と私の壊れそうなほどのドキドキという鼓動が重なったまま、ゆっくりと時が過ぎていく。
(ここが『逃げ場』ではなく、私の『居場所』になればいいのに⋯⋯)
私はふと、そう思った。
(もしかしたら私たちは親しくなれるかもしれないわ)
とも思った。
だけど、そうはならなかったの。
戦争がまた始まったから——。
*****
クラウスが戦地に発ってから二週間になる。
「手紙を書いてくれたら嬉しい」
戦地に行く前に少し気恥ずかしげにクラウスがそう言ってくれたので私はものすごく嬉しかった。
「はい、書きます!」
だけど、何通手紙を書いてもクラウスから返事は来なかった。
「きっとお忙しいのね⋯⋯」
そう自分を納得させようとしたけれどクラウスから執事への指示書は届いていた。つまり軍からの連絡が完全に途切れたわけではないということだ⋯⋯。
私は不安を感じ始めた。
(どうして返事が来ないのかしら?)
日に日に不安は大きくなり、眠れない夜が続いた。体調も悪くなり、吐き気まで感じた。
不安は疑念に変わり、疑念は胸を焼く炎になっていく。
そして一ヶ月後——。
「レティシア様、あの⋯⋯」
控えめな声とともに、侍女頭のマルタが入ってきた。赤毛の女性でこの屋敷に代々仕え、両親を早くに失ったクラウスの母親にような役目もしてきた人だ。
老執事は最初から私に優しかったけれど、マルタはずっととても冷たい態度だった。私が女主人になるのを認めたくなかったらしい。
だけどクラウスが戦地に旅立ってからは別人のように優しくなった。きっと本来は優しい人なのだろう、新婚早々夫が戦地に行った私に同情してくれたのだ。
マルタは金のトレイを持ち、そのトレイには封筒が乗せられていた。
「もしかしてクラウス様から?」
(ああ、お願いだから、そうだと言って!)
私の期待は膨らんだ。
だけどマルタは暗い表情で首を横に振った。
「いえ、それが⋯⋯、王都の法務局からです」
「法務局?」
法務局など、今まで一度も縁のない場所だ。
私は仰々しいその封書を震える指で開けた。
「えっ⋯⋯?」
それは離婚証明書だった。
クラウス・ヴァルディスの署名と印もある。
「どうして?」
息が詰まった。胸がぎゅうっと締めつけられて、今にも倒れてしまいそうになった。
「なぜ⋯⋯、どうして⋯⋯?」
あの夜、確かに彼と心を重ねたと感じたのに、違ったの?
私は何か間違ったことをしてしまったの?
「レティシア様、その⋯⋯」
マルタが言いにくそうに言葉を続ける。
「クラウス様より申し伝えられております。本日限りでヴァルディス家とのご縁は終了となりますゆえ、荷物をおまとめください。ご実家にお送りいたします——」
「実家に?」
実家に戻れるはずがないではないか⋯⋯。
「私は追い出されるの?」
まるで小さな女の子のような声を出してしまった。絶望して泣いている女の子の哀れな声だ。
「お可哀想なレティシア様⋯⋯」
マルタの目に涙が浮かぶ。
私は床に離婚証明書を落とした。白い紙に、クラウスの名が黒々と浮き上がって見える。
彼の銀の仮面のように冷たく、無情な文字だ⋯⋯。
私の胸の奥で何かがゆっくりと崩れた。
*****
屋敷を出たら空は濁った灰色をしていた。
私ははぼんやりと歩き続けた。体がとても重くてひどく気分が悪かった。
実家には帰れない。絶対に——。
あの家に私の居場所など最初からなかったのだから。
頼れる人も誰もいない。そして最悪なことにお金も持っていない⋯⋯。
体調の違和感に気づいたのは旅の途中で野宿をしている時だった。
胸の張り、吐き気、倦怠感⋯⋯。
まさか、と思いながら村人に聞いて産婆の家を教えてもらう。白髪の産婆は私を診察すると「おめでたですよ」と言った。
(ああ、どうしよう⋯⋯。私はクラウスの子を身籠ったんだわ)
あの夜を思い出すのも苦しかった。けれども胸の奥にぽつりと不思議な温もりも灯った。
(あなたには……、何があっても生きてほしい)
そう強く思った。
クラウスには知らせないと決めた。仮に知らせたとしても彼がこの子を欲しがるとは思えない。
私は仕事を探してなんとか生き延びた。けれど体は次第に重くなり、思うようには動けない限界が来たある日、たどり着いたのは孤児院だった。
院長は穏やかな人で私を助けてくれた。それから少しして私は男の子を産んだ。
私の頬を濡らすのは汗と涙と、そして安堵⋯⋯。
産声をあげたその子を抱きしめる。
「ありがとう……、ありがとう坊や。生まれてきてくれて……」
そして、三年——。
季節は巡り、流れていく。
「ママ!」
駆けてくる小さな足音に私はにっこりと笑う。
薄い金髪に青い瞳の私の坊や。誰かに似ている。でもその面影を見ても私はもう過去に囚われてはいない。
「ママ、お花が咲いてたよ!」
ちいさな手に握られているのは野に咲く名もなき白い花だ。とてもきれいだ。
「ママにくれるの? ありがとう、一緒に飾りましょうね」
「うん!」
子供の名前はユリウスと名付けた。
私は今、孤児院の副院長だ。文字が書けて計算ができるのを重宝されて、この職を与えてもらった。
「ねえママ、あれを見て。旗が見えるよ!」
「え?」
顔をあげると道の向こうから馬に乗った一団がやってくるのが見えた。
「なんの旗?」
「⋯⋯あれは、騎士団の旗よ」
クラウス・ヴァルディス侯爵が率いる騎士団の旗だった。
****
〜クラウス視点〜
騎士団の旗が風をはらみ、高々と翻る。
騎士団の一行は静かに道を進んでいく。
クラウス・ヴァルディス侯爵はその先頭にいた。
修道院の塔が遠くに見え始める。だがその距離が近づくほど、胸の奥の重さが抱えきれないほどに増していく⋯⋯。
(レティシア──)
心の中で名前を呼ぶだけで、胸が締めつけられた。
忘れようとしたのだ。何度も、何度も⋯⋯。
けれども彼女の笑顔や声、触れたときの熱さが、どうしても忘れられない。
(あの女は俺の顔の傷に耐えられなかった……)
侍女頭マルタの言葉が脳裏によみがえる。
——奥様はクラウス様を恐れているのです。傷を想像して耐えられなくなったのでしょう。でも、大丈夫でございますよ、私だけはずっと、ずっとクラウス様のおそばにおりますから。
醜い自分にはレティシアは過ぎた存在だったのだと自らを納得させようとした。
だけど夜の静けさのなかで──、ふとした瞬間にレティシアの声が、笑顔が蘇る。
(あの笑顔は偽りだったのか⋯⋯)
クラウスはギュッと唇を噛んだ。
実は、なん度も部下に命じて彼女の行方を追わせていたのだ。
諦めたふりをしながら、心のどこかではずっと希望を抱いていたからかもしれない。
そして彼女が男の子を産んだと知り、その子が自分にそっくりだと聞いた時、クラウスの胸のかの複雑な感情は自分でも制御できないほどになった。
怒りか、喜びか、それとも恨みか——わからない。
(レティシア、おまえは俺に何も言わず、なぜ一人で⋯⋯)
クラウスは強く思った。
会いたい——と。
風が吹く道を進んでいくと、修道院が近づいてきた。
(レティシア!)
クラウスは剣の柄を握りしめた。
*****
村の道を行進してくる騎士団の一団。その先頭に立つ黒馬にまたがった騎士の姿に私は息が止まりそうになった。
漆黒の軍装に身を包み長いマントをなびかせ、銀の仮面をつけた男——。
「ど⋯⋯、どうして?」
「ママ?」
不安そうな息子の声に私はハッとした。
「ユリウス、部屋の中に入りなさい!」
「でも——」
「いいからすぐに行って!」
息子の背を押して孤児院の中に追いやる。
それから覚悟を決めて振り向いた時、クラウスが乗る馬はもう目の前にいた。ゆっくりと馬から降りるとクラウスは銀の仮面の向こうから私をじっと見つめた。
「久しいな、レティシア」
ひどく冷たい声だ⋯⋯。
恐怖を感じて後ろに下がりそうになったけれど、なんとか踏みとどまった。
「……どうして、あなたがここにいらしたのですか?」
クラウスはその問いに答えず、ただこう言った。
「子供を渡せ」
突き刺すような響きの命令口調だ。
私は息を呑んだ。答える声が震えてしまう。
「……な、何のことでしょうか? 子供? 私に子供はいません」
「いないだと?」
銀の仮面の奥から冷笑の気配がする。
「調べはついている、間違いなく俺の子だ。つまり俺にはその子を引き取る権利がある」
(権利ですって? あなたは私を一方的に離縁したじゃないの! 手紙一つよこさなかったじゃないの! それなのに権利ですって?)
私は必死で考えた。
(どうしよう⋯⋯? このままではユリウスが連れて行かれるわ。こんな冷たい父親と暮らしてあの子が幸せになれるはずがないわ!)
私は自分の不幸な子供時代を思い出しゾッとする。ユリウスにそんな思いをさせるわけにいかない、絶対にだめだ!
「わ⋯⋯、私は、どんなに貧しくても、あの子を必死で育ててきたわ。病気をしても熱が出ても、ひとりで頑張ってきたわ。あの子は私のすべてよ。冷酷なあなたに渡したりはしないわ!」
「ならば、力ずくでも奪うしかないな」
その声の冷たさに背筋が凍りつく。
(逃げなきゃ……!)
私は振り返り孤児院の宿舎の中に走り込んだ。たくさんの子供達の中から我が子を探すと手を握ってまた走り出す。
「ユリウス、裏口から出るのよ!」
「ママ、どうしたの?」
「いいから、早く!」
逃げられるはずがないことはわかっていた。
それでも逃げなければいけないのだ。
孤児院の裏は小高いヒースの丘。スカートが風にはためき転びそうになりながら私はユリウスの手を握って走り続けた。
丘を登る道は細くてところどころに大きな岩がある。
「ママ、どこに行くの?」
「わからないわ⋯⋯」
「もう走れないよ、僕」
丘の頂上まで登った時にユリウスが座り込んでしまった。
抱っこしようとした時、
「無駄だ——」
すぐ後ろから声が聞こえた。
クラウスだ。
私とユリウスは息を切らしているのに、クラウスは恐ろしいほど落ち着いていた。金色の髪の一房さえ乱れていない。
「どうか、私たちを放っておいてください!」
私は地面に両膝をついて両手を組み、クラウスに懇願した。
クラウスの仮面の下の表情がサッと変わる。
「動くな——」
剣を抜き、剣先を私に向けた⋯⋯。
*****
私は思わず息を呑み、ユリウスを抱き寄せた。
(この人は私を殺そうとしているの?!)
「やめて……お願い!」
次の瞬間、剣先が風を裂く鋭い音がした。
同時に足元の茂みから鎌首をもたげた毒蛇が飛び出してくる。
「あっ⋯⋯!」
思わず目を閉じ、恐る恐る開けた時には目の前に毒蛇の死骸があった。
クラウスは私ではなく蛇を狙ったのだ。
剣を収めるとクラウスは低く言った。
「……恨んでいるが命は助けてやった。ありがたいと思え」
吐き捨てるような言い方だった。声の中に激しい苛立ちがある。
私はユリウスを抱き寄せたまま震える声で言い返した。
「どうして私が恨まれなければならないのですか? 私を捨てたのはあなたのほうなのに……」
「俺が? ……君が、俺を捨てたんだ」
「私が、あなたを?」
「ああ、そうだ。君は何の説明もなく姿をくらませた。書くと約束した手紙も書かず——。醜い姿の俺を捨てたんだ)
「そんな……」
(——どういうことなの?)
私を捨てたのは彼だと思っていた。けれどももしかしたら違ったの?
ヒースの丘の上に吹く風が急に温かくなったような気がした。
クラウスの銀色の仮面に太陽の光が当たり、きらりと輝く——。
*****
(クラウスの言葉は真実かしら?)
もしかしたら、私たちの過去はどこかで何かがずれてしまったのかもしれない。
そして、そのずれが深い溝を作り、今、こうして再び顔を合わせている——。
私はクラウスを見上げた。彼の仮面越しに見える目は冷たい。だけど私に対する怒りや悔しさだけではなくて、何か違うものも滲んでいるように感じた。
「クラウス様、お願いします。もう一度私に教えてください。私が姿を消した理由をどう思っていらっしゃるのですか?」
クラウスは少しだけ黙って私を見つめ、その後で低い声で答えた。
「君が消えた後、屋敷の中で何があったと思っている? 侍女頭のマルタが泣きながら教えてくれたんだ、君が急に姿を消した理由を⋯⋯」
彼の言葉の途中で、私はピンと来た。
「侍女頭……?」
クラウスは深く息を吐き、また口を開いた。
「ああ、そうだ。マルタは、『奥様は「心の整理がつかない」おっしゃって屋敷を去って行かれました』と言った。だが俺はそれは嘘だと思った。君は俺なんかと一緒に居たくなかったから逃げたんだ」
クラウスの声は痛みと苦しみの響きを帯びていた。
彼が感じた悲しみを思って私は胸が苦しくなった。
そしてあの離婚申立書が送られてきた日のことが鮮明に蘇る。侍女頭のマルタの顔——、彼女はもしや密かに笑っていなかったか⋯⋯?
「クラウス様、私はあなたから逃げたわけではありません。マルタは嘘を言っているのです。私をあなたから引き離したのです」
私は涙をこらえながら説明した。
(ああ、クラウス様は私を信じてくださるかしら?)
クラウスは驚いたように目を見開き、私をじっと見つめた。
「それは——、本当なのか?」
「ええ、本当です!」
「⋯⋯」
クラウスは長い沈黙の後で、ゆっくりと頷いた。
「……あの女が」
その一言で私はクラウスが私を信じてくれたことがわかった。
ほっとして体から力が抜ける。地面にぺたりと座り込んだとき、ユリウスの小さな手が私のスカートをギュッと握った。
「ねえ、ママ。この人、だあれ?」
私とクラウスは顔を見合わせる。
「あのね、この人は⋯⋯、この人はあなたの⋯⋯」
言葉を探していると、クラウスが膝をついてユリウスと視線を合わせた。
「——俺はおまえの父だ。屋敷へ来るか? 小馬のおもちゃもあるし、菓子もあるぞ」
「うん!」
私とクラウスの、辛く苦しい誤解が解けた瞬間だった。
****
屋敷の正面扉がゆっくりと重々しく開いた。
老執事を先頭に侍女や侍従たちが一斉に頭を垂れる。
主人のクラウス・ヴァルディス侯爵が久しぶりに帰ってきたのだ。しかもその隣には妻である私と小さな男の子——ユリウスもいる。
「⋯⋯クラウス様のお小さい頃にそっくりでいらっしゃいますね。さあ、若様、どうぞこちらへ」
老執事がとても嬉しそうにそして少し涙ぐみながらユリウスを迎え入れてくれた。
ユリウスは大きな瞳を輝かせながら、クラウスの足元にぴったりとくっついている。もうすっかりクラウスに懐いていた。私はそれがすごく嬉しかった。
「パパ、ここに住んでるの?」
「ああ、そうだ。今日からはおまえも一緒だ」
クラウスが穏やかに言うと、ユリウスはニコッと笑った。
私の胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
「奥様⋯⋯、何も気づかずに、ほんとうに⋯⋯、ほんとうに申し訳ありませんでした。侯爵様からのお手紙で、初めてこの屋敷で恐ろしいことが起こっていたことがわかりました⋯⋯」
白髪の老執事は、私の前で深く頭を下げた。
「どうか頭を上げてください。あなたのせいではありません」
すべてはあの女の策略なのだ。屋敷を取り仕切っていた女にとって、年老いた執事を騙すことなど簡単なことだったのだろう。
「ありがとうございます、奥様⋯⋯」
「ねえねえ、お馬のおもちゃはどこにあるの?」
明るいユリウスの声に執事は涙を滲ませた目で優しく笑う。
「こちらでございますよ、ぼっちゃま」
執事がユリウスを子供部屋に連れていったちょうどその時——。
階段の上からカツン、カツンと高いヒールの音が聞こえてきた。
——マルタだ!
私はビクッとしてクラウスの腕をつかんだ。
侍女頭として長年クラウスに仕えてきた彼女は、見慣れた黒のドレスを着て、顔には無理に作った笑みを浮かべていた。
「まあ、奥様ではございませんか⋯⋯。ご無事でなによりですわ。お戻りになるとは思いませんでした。……それにしても、これは一体どういうことでしょう?」
言葉とは裏腹に、マルタの声には明確な敵意がにじんでいる。
「あ⋯⋯、あなたは——」
言いたいことがありすぎて言葉が出ない。
クラウスがサッと私の前に出た。
「黙れ、マルタ——!」
鞭のような声だった。
「おまえのやったことはすべて調べがついている。偽造書類、手紙の隠蔽、レティシアへの虚偽の伝言。……すべて、おまえが仕組んだことだ!」
「⋯⋯クラウス様?」
マルタの顔から血の気が引いていく。唇がわなわなと震えた。
「ああ、どうか、⋯⋯どうか私の話をお聞きください! その女の言うことなんて真に受けてはなりません! 私は……私はずっとあなたの傍にいて——!」
「おまえはただ、母のいない幼い俺につけ込んで自分を母親のように見せかけていたにすぎない。今ならわかる。俺の顔の傷すらおまえは利用した。おまえ以外、誰もが俺を怖がると信じ込ませた。そしてレティシアを追い出し、俺の子を奪った。おまえの罪は、あまりに重い!」
クラウスの目は激しい怒りに燃えていた。普段の冷静さはそこにはなく、横にいる私が思わず息を呑むほどだった。
「よくもレティシアを追い出してくれたな。俺の名を騙り、嘘を並べ、彼女をひとりで子を産ませ、苦しめた。……おまえのせいで、おまえのせいで」
「どうかお許しを!」
マルタが床に膝をついた。顔を伏せて嗚咽を漏らす。
「お願いです! 母親代わりだった私にお情けを……!」
「情けだと?」
クラウスの声が低くなる。
「情けなどおまえに与える価値はない。マルタ、おまえを罪人として突き出す。誰か、この女を連れて行け! すべての私物は燃やせ、この女の髪の毛一本すら、俺の屋敷に属することは許さない——」
従者たちが慌ててマルタに近づく。
マルタは絶叫した。
「クラウス様! あなたはこの女に騙されているのよ!」
「黙れ!」
マルタは引きずられるようにして姿を消した。
呆然としていると、クラウスの逞しくて優しい腕が私の肩を抱く。
「レティシア、大丈夫か?」
「ええ⋯⋯」
ええ、もう、私たちは大丈夫——。
これから新しい日々が始まるのよ⋯⋯。
****
夜の帳が静かに降りていた。
ヴァルディス侯爵邸の寝室はほのかな蝋燭の光に包まれ、天蓋つきのベッドは柔らかな白い布で覆われている。
クラウスと私は並んで眠りについていた。けれど、まだ夢の国には旅立っていない。
ただ静かに互いの鼓動に耳を澄ませている。
「……ユリウスが、俺の仮面を怖がらなくてよかった」
クラウスがぽつりと呟いた。
少年のような声だった。仮面の下に隠れていた彼の素の声には、守ってあげたくなるほどの脆さと、切ないほどの願いが入り混じっている。
私は微笑んで答えた。
「だってクラウス様のお姿は、少しも怖くなんてないんですもの」
「そうか⋯⋯」
彼の肩がわずかに震えた。
私はゆっくりと身を起こし、勇気を振り絞って、クラウスの仮面に手を伸ばした。
「外してくださいますか? ⋯⋯お願い。あなた自身の顔を、私に見せて」
一瞬、彼は迷ったようだった。だけど私の瞳をまっすぐに見つめると、仮面の留め金に手をかけ、ゆっくりと外した。
カシャン、と小さな音を立てて銀色の仮面が枕元に落ちる。
月明かりが差し込む寝室——。
その光に照らされたクラウスの顔の上半分には火傷の跡が残っていた。皮膚は焼けただれ、幾筋もの傷が刻まれている。
けれど私はそれを、恐れや嫌悪とはまるで別の思いで見つめた。
「美しいわ」
そっと囁き彼の頬に手を添える。
「これまで、どれほど痛みに耐えていらしたの⋯⋯」
指先でそっと傷跡の輪郭をなぞった。
クラウスの目が見開かれる。青い瞳には、驚きと、戸惑いが浮かんでいる。
私は迷わずその傷跡に唇を寄せた。
「レティシア……?」
クラウスの声が掠れている。
彼の腕が私の背に回った。ぎゅっと抱きしめられる。心臓の音が耳に響いた。過去の痛みも未来への不安もどこかへ溶けていくような気がした。
唇が重なる。肌が触れ合う。そして心が寄り添った。
(ああ、ようやく私たちはここにたどり着いたのね)
「レティシア——」
「クラウス様⋯⋯」
熱を帯びた吐息が交わされ、静かな夜の帳の中で私たちが何度も互いの名前を呼び合うと、傷ついた日々のすべてが溶けて、そして消えていった⋯⋯。
【完】
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