88 フィオネール家16 親性脳と昂揚感
その日の夜。
夕食を済ませ、お風呂にも入り、あとは寝るだけとなったテラは、いつものように裁縫箱を出して針を準備していた。
「リーフ? そろそろ、血を摂取するよね?」
「いつもありがとう、テラ。……前から思ってたんだけど……」
リーフは少しもじもじしながら、言葉を続けた。
「小さくならなくても問題ないかなと思っていて。……だから、このままでもいい?」
「そうなの? 血の量と関係あるのかなって思ってたわ。小さいからほんのちょっとでいいとか、そういうわけじゃないの?」
「うん……たぶん、関係ないかな」
「たぶん……? 大きい姿でやっぱり血がたくさん必要って言われたら、それはそれで困るというか……」
テラの言う事はもっともだった。
「あ、いや、たぶんじゃなくて……大きさは変わっても、本体はあくまで小さい姿なのがぼくだから……だから、あまり関係ないかなって」
「そう? それじゃ、今日はそのままで摂取する?」
「うん、ごめんね。ちょっと試したいと思っただけなんだけど……」
「ううん、いいよ。それじゃ、ちょっと待ってね」
テラはいつものように指先に針をちょっとだけ刺して、その傷口をグッと押すと、血がぷっくりと出てくる。
「はい、どうぞ」
テラは微笑んで、優しく手を差し出した。
リーフはテラの手を取ると、指先を見つめた。
そして、ペロリと指先の血を舐め摂ったと思ったら、その指を口に含んだ。
その様子はまるで、指に口づけをしているかのようだった。
しかも、ちょっと熱がこもった部類の――。
そのままチラリと上目遣いにテラに視線を移すと、目が合った。
「!!」
ひえぇぇぇぇぇぇ!!
テラの心臓は警鐘を鳴らし、全身の血が頭に上っていくのを感じた。
いや、いやいやいやいや!?
ちょっと、ちょっと!!
これ、見ちゃダメなやつでは!?
テラの心はパニック状態だった。
この光景は、見てはいけない、見せられるべきではないものだ。
小さいリーフの時って、こんなだっけ??
そりゃ血を舐めて傷口を吸ってたけど!?
小さなリーフは手乗りサイズ。
手乗りサイズのリーフがやることは可愛いだけだけれど、サイズが変われば、違うのも当然だった。
テラはその光景を全く想像していなかった。
いつも小さいリーフだったから、そのつもりだった。
しかし今、この目の前の光景に、テラは眩暈がしそうになった。
いや、すでにクラクラしている。
血を摂取されすぎて、クラクラしているんじゃない。
「……リーフ……悪いけど、血の摂取は小さいままで……お願い」
リーフは首をかしげた。
「? 量はそのままで大丈夫だけど……だめなの? 小さくなるのがちょっと面倒だなって思ってたから……」
「ダメ。これだけはダメ。絶対よ」
「……そう……」
リーフは、まるで世界がモノクロになったかのように、シュンとしてしまった。
思えば、リーフは今まで、テラに何かを拒否されたことがなかった。
お願いすると、なんでも『いいよ』と言ってくれ、受け止めてくれていた。
ダメと言われたのは、旅を始めた頃、的当てでズルをしようと持ち掛けた時くらいだ。
それ以外では、リーフのお願いが可愛いものばかりで拒否するものではなかった、というのが本当のところなのだけど、『ダメ』は無かった。
これはリーフにとって初めて真剣に『ダメ』とはっきり言われた出来事で、ショックが大きすぎてすっかり意気消沈してしまった。
「リーフ、そろそろ、寝る?」
今夜はリーフとの関係が変わって、初めて迎える夜。
テラは少しばかり緊張しつつ、リーフに声をかけた。
つい先ほど血を摂取していたリーフの姿が脳裏をよぎり、テラは慌ててその残像を追い払うように、小さく頭を左右に振った。
「うん……」
いつもはお姫様抱っこでテラをベッドに運ぶのに、今日はしないみたいだった。
お姫様抱っこは、リーフからの特別な愛情表現だと、テラは心のどこかで思っていた。
だからこそ、いつもと違う彼の行動に、ほんのわずかな寂しさを覚えてしまう。
「リーフは寝ないの?」
「……あ……うん……寝る……」
リーフの声は、どこか沈んでいるように聞こえた。
テラの横に入り、テラを抱きしめる。
いつものように、力を少しずつ解放して適度な温かさを保つ。
「リーフ、どうしたの? 元気がないみたい」
「ううん……」
「寝る前のおまじない、しようか?」
「うん……」
「今日よりももっと幸せな明日が待ってるわ、おやすみなさい、リーフ」
リーフのおでこにちゅっと軽く唇を落とす。
「……おやすみ、テラ」
リーフの声がわずかに震えているように聞こえて、テラは彼の顔を覗き込んだ。
闇に溶けるその輪郭の隅、目じりに濡れた光があった。
テラの心臓が、きゅっと音を立てた。
これは、私が傷つけてしまった涙だ……!
「リーフ? もしかして、私がダメって言ったから?」
「ぼくが悪いの……ぼくがこの姿で血をもらったから……もう、しないから」
リーフの目じりから、涙がつーっと横顔を伝った。
テラは、これはマズイ、と思った。
リーフは悪くないのだ。
悪いのは……
「……リーフ、ごめんね。悪いのは私なの。リーフは悪くないの。だから、泣かないで?」
「そう……なの?」
「リーフは、とっても可愛くて……すごくカッコいいのよ? そんなリーフが、私の指にキスをするみたいにして血を飲んでいると……ただ血を摂取しているだけなのに、私、ドキドキしてしまうの。……だから、ダメって、言っちゃったの」
「指に、キス……?」
「リーフはそんなこと、これっぽっちも思ってないんだろうけど……私から見たら、どう見ても、指にキスしているみたいで……恥ずかしかったの。だから、悪いのは私で……リーフは悪くないよ?」
「そっか……指にキス……恥ずかしい?」
「こうやって正直に話すのも恥ずかしいけど! でもリーフが悪いんじゃないから、泣かないで? ごめんね」
「うん……わかった。ありがと、テラ……」
リーフの顔から、ようやく緊張が解けた。
濡れた瞳の奥に穏やかな安らぎが戻っていくように、瞳がキラリと輝いていた。
「ふふ、それじゃ、仲直りね」
テラはリーフの頬にふわりと手を添えると、その唇にそっと唇で触れた。
言葉ではなく、心を伝えるように、ほんの少し、数秒間をかけて。
「!!」
リーフは少し驚いてテラを見つめた。
「『仲直りのキス』だよ。リーフを泣かせちゃったもの」
「仲直りのキスは、ぼくからしてもいいの?」
「うん……いいよ?」
囁くような柔らかな声で、テラは優しく微笑んだ。
テラの声に導かれるように、リーフはゆっくりと距離を縮め、テラの唇に唇を重ねた。
リーフの霊核はほんのりと温かさを増し、その温かさに霊核が包まれて全身にほんわかとした感覚が広がっていた。
今朝の『初めてのキス』の時に感じた、体の奥底から湧き上がるどうしようもない昂揚感とは違う、温かな感覚。
もっと穏やかで、じんわり広がる、ほんわかとした幸福感。
リーフは『仲直りのキス』が気に入ってしまった。
しかし、テラと喧嘩することはないし、今回だって喧嘩したわけじゃない。
どうすれば『仲直りのキス』をもう一度できるのかな……?
リーフはほんわかとした感覚に包まれながら、すやすやと眠りについた。
テラは、親みたいな気持ちは終わりだと思っていたのに、どういうわけかそんな感覚でキスしてしまっていることに、ふと、気が付いた。
キスをしたのに……テラが密かに、そしてほんの少しだけ期待していたような、甘く、熱い雰囲気にはならなかった。
いい雰囲気にならなかった……
リーフ、寝ちゃったし。
今朝みたいな甘いキス……
いや、いやいやいや!?
なに期待してたの!?
あれからまだ一日も経ってないのに!
だけど、リーフ……
今朝はあんなに……
テラは今朝の出来事を思い出すだけで頬が火照る。
すでに寝ているリーフの腕の中で、リーフにぴったりと寄り添ってみる。
……明日は『いい雰囲気』になれるかな……?
リーフの腕の中で優しい温もりに包まれながら、淡い期待を胸に秘めて、テラも穏やかな眠りにつくのだった。
いつも「刻まれた花言葉と精霊のチカラ 〜どんぐり精霊と守り人少女の永遠のものがたり〜」を読んでいただき、ありがとうございます!
次回『89 準備万端』更新をお楽しみに!
※明日更新です!