81 フィオネール家09 不老不死
テラはゲストハウスを出発して、フィオネール家の敷地の外、そのすぐ後ろに広がる小高い山すそにある小さな森へと足を伸ばした。
今日はこの森で薬草を採取しようと一人で出掛けたのだけれど、ここならお目当ての薬草があるだろう、と思っての選択だった。
「リーフがいないから自分で探さないとだけど……リーフに出会う前は、そうやって生活してきたんだもんね」
リーフとリモが精霊界へ発って5日目の2月半ば。
そろそろ春の薬草が芽吹いてくる頃。
テラのお目当ては春の薬草、フキノトウだった。
カリスとファル、ユリアンにぜひ食べてもらいたいと、朝から張り切ってのお出掛けだった。
テラがしばらく森の中を進んでいくと、視線の少し先に、目当ての薬草らしき草が土から顔を出しているのが見えた。
「あっ、あれ、フキノトウじゃないかな」
冬枯れの草をよけながら近づいていくと、見えていたのは紛れもなく、探しているフキノトウだった。
しかし、近づいてみて初めて、そこが急勾配な斜面になっていることに気づいた。
「……ここは谷になってるのね。危ないわ」
足早にその場を離れようとした、そのとき。
踏んだ石に足を取られ、グラッと体勢を崩すと、叫ぶ間もなく、一瞬のうちにテラは転がるように落ち、岩場に叩きつけられた。
「……うっ……」
全身が焼けるように熱く、触れるものすべてが激しく痛んだ。
皮膚のあちこちが裂け、生暖かいものがじわりと伝ってくるのが分かった。
視界は赤く染まり、息をするたびに胸が軋んだ。
身動き一つとれない。
普通の人だと命を落とすほどの大きな怪我。
意識があるのか夢なのかすらはっきりしない。
テラは、不老不死になってから初めて味わう、全身を貫くような激痛に襲われた。
骨の軋む音や、内臓が揺れる感覚、息苦しさ。
死なないと、頭では分かっている。
けれど体は、そんな理屈など関係なく、恐怖に震えていた。
痛い……熱い……
いたい……アツイ……
………………リーフ……たす、けて…………
怪我をした瞬間からリーフの精霊因子が修復を開始するも、最初の数分間は永遠に感じられた。
大きな怪我の修復が終わると、とてつもない激痛は薄れ、体内から温かい何かがじんわりと広がるような感覚が訪れた。
出血が止まり、皮膚が元に戻っていくのを、テラは混乱しながらも感じ取る。
そして、5分が経過した頃には、テラの体からはほとんどの傷跡が消え、折れた骨も、裂けた皮膚も、完全に元通りになっていた。
まるで何もなかったかのように、完璧に。
しかし、疲労感と倦怠感、脱力感が全身を覆っていた。
起き上がろうとすると目眩がしてクラクラする。
酷く頭が痛い。
テラはしばらくその場で動けないでいた。
それからどれくらい崖の下にいたのか、ぼんやりと瞳に映る空はすでに夕暮れになっていた。
テラはようやく体を起こした。
目眩もないし頭痛もなくなった。
完全に回復したようだった。
「……帰らないと」
ゆっくりと立ち上がり、登れそうな場所を探す。
緩やかな斜面を四つん這いになって登りきると、歩いてきた森の小道にでた。
小道を下り、カリスの家へと続く道を一歩一歩、ゆっくりと歩いて戻る。
ゲストハウスに着く頃には、とっぷりと日が暮れていた。
「はぁ……」
私、いま、どんな顔をしてるんだろう……
テラは大きく息を吐き、ゲストハウスのドアノブに手をかけ、グッと力を込めて扉を開けた。
玄関ロビーでは、ファル、ユリアン、カリス、ヘリックスが帰らないテラを心配して集まっており、ファルとユリアンは探しに行こうとしていたところだった。
「ただいま。遅くなっちゃって、心配したよね」
服はところどころが破れ、まだ乾き切っていない赤い染みがいくつもあった。
顔にも血を拭き取った跡がある。
ファルとカリスとユリアンは仰天してテラに駆け寄った。
「テラ、大丈夫か!?」
「テラ! なんてことなの! 怪我してるじゃない!?」
「怪我したの!? 大丈夫!?」
痛ましい姿にもかかわらず、テラは気丈に明るくふるまう。
「驚かせちゃってごめんね。でも、もう治ったから平気よ」
「治ってる?」
「本当に大丈夫なのか? 何があったんだ?」
「うん、ちょっとうっかりしちゃった……」
「うっかりって……」
「ごめんね。いっぱい汚れたし、服も着替えないとだから……私、お風呂に入るわね」
そう告げると、テラは自分の部屋へと歩き出した。
「あっ、テラ! お風呂は準備できてる……」
テラの後ろ姿を見て、カリスは言葉を失った。
髪から背中、腰のあたりまでべっとりと赤く濡れていた。
カリスは驚いて小声で問いかけた。
「ファル、聞いていい? テラは、普通ではないのね?」
「俺からは何も言えない。ただ、見た通りだとしか……」
ユリアンもまた、ヘリックスに尋ねた。
「ヘリックス。これって、リーフと契約をしているから? リーフの力ってどんな……」
「テラが言わない以上、私からは何も言えないわ」
ヘリックスもファルも当然知っているけれど、テラの了承もなく、言えるはずがない。
テラの様子はあまりに痛々しく、四人はかける言葉も見つからなかった。
リーフじゃないと厳しいわね……
この状況でテラを癒せるのは不老不死を与えたリーフしかいない。
ヘリックスはリーフの帰りをただ待つしかないことを、不本意に思うのだった。
◇ ◇ ◇
テラは温かい水が肌を滑るのを感じながら、自分の体をゆっくりと観察する。
破れていた服を脱ぎ、汚れを流してしまえば、そこには何の傷跡もない。
青あざ一つ、擦り傷一つ、まるで何事もなかったかのように滑らかな肌がそこにある。
「何も、ない……」
あんなに全身を貫くような激痛だったのに。
骨が砕けるような音も、地面に叩きつけられる衝撃も、鮮明に覚えている。
皮膚が裂け、血が流れ、呼吸さえも苦しかったはずだ。
それが、わずか5分で完全に修復されてしまう。
頭では理解しているはずの『不老不死』という事実が、この完璧な回復を目の当たりにすることで、改めてテラの心を揺さぶる。
体は癒えても、あの耐え難い痛みと、初めて覚えた死への恐怖は、鮮烈な記憶として脳裏に焼き付いていた。
もしリーフがいたら、きっとすぐに気づいてくれただろう。
あの時、自分がどれほど怖かったか、どれほど孤独だったか。
今はただ、この完璧すぎる体の回復と、心に残る不安感との間に、言いようのない隔たりを感じていた。
風呂を済ませたテラは、何を食べる気にもなれず、そのまま部屋へと戻ると、倒れるようにベッドに横たわった。
一人きりの部屋で、誰にも聞かれることのない心からの言葉が漏れる。
「リーフ……早く……帰ってきて……」
肉体は完璧に回復しても、初めて味わった死への恐怖とリーフの不在が、テラの心を深く揺さぶった。
誰もいない部屋で、ベッドに横たわったテラの目に、花瓶に飾られた赤いベゴニアが映り込んだ。
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「…………帰ってきて……抱きしめて……」
その言葉は、誰に届くわけでもなく、ただテラの心の奥底から零れ落ちた。
身体は完全に元通り。
痛みも傷も一つもない。
しかし、あの数分間の激痛と恐怖、そしてリーフがそばにいないという現実が、まるで深い傷のように心に刻み込まれた。
不老不死だからこそ、初めて経験する弱さだった。
悲しみと寂しさがテラを支配し、普段の彼女からは想像もつかないほど涙が止まらなかった。
ただリーフに会いたいという一心で、彼女はただ泣き続けた。
怪我をした翌日から、テラは部屋に閉じこもったままで、二日間、一歩も外に出ることはなかった。
いつも「刻まれた花言葉と精霊のチカラ 〜どんぐり精霊と守り人少女の永遠のものがたり〜」を読んでいただき、ありがとうございます!
次回『82話 帰還』です。更新をお楽しみに!