78 フィオネール家06 セイヨウトネリコ
ファルと約束を交わし、『30分後』と言った時間ぴったりに、リモがリーフたちの部屋へ戻ってきた。
「お待たせ。リーフの準備は大丈夫?」
「うん、あ、ちょっと待って……」
リーフはテラに向き直って声をかけた。
「テラ、行ってくるね」
「いってらっしゃい。……気をつけてね」
リーフとテラも抱き合って、しばしの別れを惜しむ。
リーフの腕の中にテラの温もりが確かにあった。
体が離れると、その温もりはすっと薄れて消え、静かな寂しさが広がった。
「二人とも気を付けてね。いってらっしゃい」
「それじゃリモ、行こうか」
「ええ」
「ヴェルデシアへ」
「ヴェルデシアへ」
柔らかな光に包まれ、リーフとリモがすっと消えた。
何の物音もなく、何も無かったかのように、本当にすっと消えた。
その存在がまるで夢か幻だったかのように。
「リーフ、本当に行っちゃったのね……」
テラはリーフのいなくなった部屋を見渡す。
いつも持っていた依り代も、今はリーフの手にある。
リモがファルの部屋へ戻っている間に、テラはリーフの依り代から様々な物を出してもらっていた。
買っておいた食料の数々。
たくさんの薬草に薬草茶。
風邪に効く特製の薬草茶。
怪我を治す特製の消毒液。
誕生日にもらったオドントグロッサムの花束。
リーフが初めて贈ってくれた赤いベゴニアの花束。
「……花束は花瓶に入れようかな」
依り代から出さなくても良かったのかもしれないけど、なんとなく、手元に置いておきたかった。
テラは赤いベゴニアの花を見つめながら、改めて、その花言葉を思い出していた。
「行っちゃったわね。だけど、精霊にとってはとても大切な用なの。私からも謝っておくわ。本当にごめんなさい、テラ。そして、ありがとう。理解してくれて」
ヘリックスはテラの心情を思い、謝罪と感謝を口にした。
「ううん、平気よ! とても大切な用なんでしょう? 仕方ないわ」
「それで、テラには私からちょっとお願いがあるのよ」
「え? なにかな?」
「カリスの事。ユリアンが好意を寄せているから、その後押しってところかしら」
「ふふっ。それ、すごく楽しそうね!」
リーフはしばらく留守にして寂しいけれど、ヘリックスのお願いはなかなか面白そうだわと、テラはちょっぴりワクワクとした気持ちになった。
◇ ◇ ◇
異空間にある、精霊界ヴェルデシア。
その中心にある、精霊界の柱とも言うべきセイヨウトネリコの大木が存在する孤島に、リーフとリモは降り立った。
特定の場所を言わずにただ『ヴェルデシアへ』と口にすると、この場所へ転移する。
空は青く澄み渡り、夜は訪れない、不思議な空間。
大地はなく、海と空が溶け合うその空間に、無数の大小様々な島が浮遊していた。
「ここが精霊界の中心……」
リーフがぽつりとつぶやいた。
「この大木は、人間界にあるエルナス森林地帯の中心にある木と同じもの……」
リモが大木を見上げ、同じようにつぶやく。
「うん……立派な木だね。樹齢は……止まっているのかな」
「そうね、この木は時が止まっていて落葉しない、ずっとこのままね」
高さは50メートルほどあり、ドーム状の樹冠を成し、幹の直径は3メートルほどあった。
緑の葉が生い茂り、ここは夏を思わせる。
すると、一点に集まった光が、眩い輝きを放ちながら形を成していった。
その中から姿を現したのは、セイヨウトネリコの精霊だった。
「まさか、セイヨウトネリコの精霊!?」
リモが驚いたように声をあげた。
「こんにちは、私はセイヨウトネリコの精霊、フラクシス。初めましてだね」
セイヨウトネリコの精霊は最古の精霊のひとりであり、宿る樹は人間界はエルナス森林地帯の中心にあるセイヨウトネリコの大木。
白と緑を基調とした服に、銀の髪、銀の瞳をした神秘的な雰囲気をもつ、青年の姿をした精霊だった。
「初めまして、フラクシス。私はスターチスの精霊、リモ。まさか、あなたに会えるなんて」
リモの淡いピンクの瞳が煌めいて、感激の色を見せていた。
「初めまして。ぼくはどんぐりの精霊、リーフ。まさか、今、あなたに会えるとは思ってもいなかったから……とても驚いたよ。会えて嬉しい。フラクシス」
リーフの緑の瞳はフラクシスを映してキラキラと輝いていた。
「ああ、たまには顔を出してみようかと思ってね。ここに来る精霊は今はもう滅多にいないから。何百年ぶりかな、ははっ」
フラクシスは少しおどけたように苦笑した。
「……フラクシスは人間界のあの木に宿っているよね? 君に話しておきたいことがあって」
リーフは、セイヨウトネリコの精霊に会えたら、話しておきたいことがあった。
エルナス森林地帯の中心まで行けば会えるだろうと思っていたけれど、今ここで会えたなら――。
「話しておきたいこと?」
「実は、エルナス森林地帯の中心、あなたが宿るセイヨウトネリコのそばに村を作ろうと思っていて。不老の守り人と精霊が長く暮らせる、定住できる村を……」
「定住……あの場所に? それは本気なのかい? リーフ?」
リーフが話すたびに本気なのかと聞かれる場所。
エルナス森林地帯はそれほどに人を一切寄せ付けない深い森だ。
「本気だよ。長く生きる守り人は普通の暮らしが出来ない。だから、どうしても定住地を作りたい……」
「私は最も古い精霊だけれど、精霊は守り人が大切だと言いながらも、そこまで考えて実行する精霊はいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、私は知らない。しかし……やはり君は、精霊界の意志で生まれただけあって、それが精霊たちの本当の願いだということなのかな」
「私の守り人も不老なの。長い間放浪したわ。定住地があれば、もう放浪しなくていいの。それがどれだけ救われるか……」
リモもファルと共に150年ほど放浪してきた経緯がある。
「よく分かるよ。私はもうずっとずっと、見てきたのだから。……そうだね、定住できる場所があれば、長く生きる守り人と安心して暮らせる。それは精霊にとっても幸せなことだ」
フラクシスの声は穏やかで、その視線はどこか遠くを見ているようだった。
「カスタスは村づくりに協力してくれるそうなんだ。それで……フラクシス、あなたが宿る場所が少しばかり賑やかになることを……許してもらえるかな……?」
「ははっ。カスタスが村づくりを手伝うのか。それは楽しみだ。きっと自然に溶け込むような素敵な村になる」
「それじゃあ……!」
「ああ、あの場所は別に私の物ってわけではないよ。ただ私が宿っている木があるだけだ。それに、賑やかなのは嫌いじゃない。村づくり、いいんじゃないかな。それなら……一度行ってみるかい? 連れて行くよ? 今回は特別だ」
フラクシスはにっこりと微笑んだ。
「ぜひ!」
「ぜひ!」
「それじゃ、ちょっと行こうか。ちゃんと付いて来るんだよ。私が宿る場所……エルナス・トネリコへ」
「エルナス・トネリコへ 」
「エルナス・トネリコへ 」
フラクシスに同行し、リーフとリモは人間界のエルナス森林地帯の真ん中、セイヨウトネリコの大木の前に現れた。
「すごい……!」
「ここが、エルナス森林地帯の真ん中……!」
リーフとリモは初めて見る美しい景色に目を見張った。
フラクシスはセイヨウトネリコの根元にある、人が通れるほどの穴を指し、話した。
「セイヨウトネリコの根元。ここが精霊界と繋がっている。住処を接続することが出来る特別な場所だ。接続しておきたいなら、今しておくといいよ」
「確か、この入り口は守り人しか使えないのよね?」
リモの問いに、フラクシスはセイヨウトネリコの大木を指して、説明を続けた。
「そういうこと。この根元の入り口は、あくまで守り人が使うもの。守り人はこの入り口から契約している精霊の住処へ行き来出来るようになる。それには、精霊が住処と接続している必要があるからね」
「わかったわ。ここに村を作るなら、接続しておくと何かと便利ね。私は今接続しておくわ」
リモはこの入り口と自身を住処を接続させた。
「精霊が精霊界からこの場所に来るには、今みたいに私に同行して来るか、もしくは、この付近に依り代があれば、ってことだね。それは人間界のどこでも同じだけれど」
「そうだね。人間界で精霊が戻る場所というのは、宿る場所か依り代だと決まっているから」
「リーフは接続しておかなくていいのかい?」
「……あの、実は、ぼくは住処に名前をつけていなくて、これから住処へ初めて行くところで……」
「ああ! そうだったね、ははっ。 何百年か前にカスタスがぼやいてたのを思い出したよ」
フラクシスまで知ってるなんて! とリーフは少し気まずくなった。
「それにしても、とても美しい場所ね。こんな場所に定住だなんて、夢みたいだわ」
「うん。こんな場所で静かにゆっくりと暮らせたら……」
「カスタスの腕の見せ所だね。さて、どんな風に考えているのかな」
三者三様に、それぞれ定住地を想像する。
リモはファルと、リーフはテラと、フラクシスは精霊や守り人の気配が感じられる賑やかになる森を。
「そういえばカスタスは、この場所にすぐ来れるって言ってたけど……どうやって?」
リーフが疑問に思ったことを尋ねた。
「ああ、それはカスタスが依り代を置いているからだよ。入り口のそばの石塔の中だったかな。昔はよく遊びに来ていたからね。最近は……二百年くらい来ていないけど」
「だけど、依り代はひとつしか持てないと思うんだけど……ここに依り代を置いてあるなら、カスタスは普段から依り代を使っていないのかな」
リーフはどうにも腑に落ちない。
この場所に依り代があるなら、人間界ではどこにも行かず、ずっと宿っている場所に……要するにフィオネール家の邸にずっといるのか、と考えた。
守り人と出掛けることも無いのかと。
「いや? 依り代は二つ持っていて、ここに来る時だけ接続して来ていたと思うよ。接続を切り替えているってことだね。よく考えたら面倒な事してるよね。ははっ」
「な、なるほど……! そういう使い方もあるんだね! すごく、驚いた……」
リーフは驚愕した。
依り代をふたつ持つということ。
接続を切り替えるという使い方なんて考えたことも無かった。
そもそもリーフは未だに接続すらしていないのだが。
「カスタスは宿る場所に住んでいるからね。依り代との接続が切れても大してリスクがないってのもあるんじゃないかな」
「ああ、そっか……。そういうこと……。ぼくの場合は……リスクが……」
確かに、宿る場所に住んでいるのならそうだろう。
リーフは旅をしていて、宿る場所からかなり離れた場所にいる。
依り代が無ければどうにもならないのだ。
「まあ、そういうことだね。じゃそろそろ精霊界へ戻ろうか。戻る時は普通に、いつものセリフで大丈夫だよ」
精霊界へ戻ると、リーフとリモはフラクシスと別れ、精霊界での10日間の旅を開始した。
ただ北へまっすぐ、飛んで行くだけの1万キロの旅。
行き先は、まだ見ぬリーフの住処だ。
フラクシスは二人を見送ると、ひとり言のようにつぶやいた。
「アンリム、君の予知は当たるよね」
「ええ。外れたことは一度も無いわ」
アンリムが光の中から姿を現した。
フラクシスが話しかけたのは白いキンギョソウの精霊アンリム。
彼女もまた、フラクシスと同様に最古の精霊のひとりだ。
「もちろん知っているよ。ただ時期が分からないのが不便だけれど」
フラクシスはクスクスと笑う。
「でも、着実に近づいていることは確かね」
1,000年前、白いキンギョソウの精霊が見た未来は、今確かに近づいていた。




