58 土砂崩れ
イーストロードに入って10日。
時折、先を急ぐ駅馬や旅客馬車に追い抜かれ、ファルとテラの足音だけが響くこの道を、ひたすら東へ進み続けてきた。
距離にして200キロほど――それでもまだ半分にも満たない。
まるで果てなく続くようなこの道に、冷たい風が容赦なく吹き抜け、身を刺すような寒さが肌に染みる。
東の地、レイジア地方では一月半ばの気候は厳しく、吐息すら白く舞い上がるほどだった。
日中とはいえ、谷あいの風景は冬の冷たい空気に包まれていた。
2日前に降った大雨の影響はなさそうで、凛とした静けさの中、小川の澄んだ水が岩の間を滑るように流れていた。
一行は、小川が見える街道脇の小さな草地で足を止めた。
「ねぇ、ファル。ちょっと休憩しようか」
「ああ、そうだな」
川のせせらぎ以外なにもない、辺りに広がる冬の静寂は、どこか心を落ち着かせるようでもあった。
ちょうどいい具合に座れそうな切り株が目に入ると、テラはそこに腰を下ろす。
ファルは草の上に座り、足を伸ばして軽くのびをする。
お茶を飲んだり、干し肉やお菓子を食べたりと、のんびり小休憩の時間だ。
「王都のハーブティーも美味しいけど、私はこっち、ムーンピーチ・フラワーのお茶が好きだわ。ほんと、美味しい! お菓子にも合うし、ふふっ」
テラはイーストゲートで手に入れた『ムーンピーチ・フラワー』のお茶を楽しんでいた。
当初の目的どおりならばイーストロードではなく、ノーサンロードをさらに南へ行くはずだったため、なんとなく、今日の午後のお茶はムーンピーチフラワーにしてみた。
「俺はどっちでも構わんけど、どっちか、なら王都のハーブティーだな。『オリーブ・ルミエール』で飲んだのは本当に美味かったんだ! 高いだけあるよな、ははは」
そんな話をしながら、テラがふとリーフに目をやると――
リーフの瞳がキラキラと煌めいていたため、テラはリーフに訊ねた。
「リーフ、どうかしたの? 力、使ってるの……?」
「あのね、テラ。……この先の道で……土砂崩れになってるみたい」
リーフの瞳が、まるで遠くの景色を見透かすように強い光を浮かべていた。
テラはお菓子を食べていた手を止め、冷たい風が頬を刺す感覚すら、意識の外へ追いやられた。
「ええっ! リーフ、ほんとに?!」
ファルも驚いて身を乗り出す。
「なんだって? 土砂崩れ!?」
ヘリックスとリモも、驚いた様子でリーフを見つめる。
「うん。……木々が同一方向に倒れた山の斜面……地面が斜めに崩れてる……」
リーフは静かに視線を遠くへ向けた。
リーフは大地を伝って力を伝えるけれど、彼の目には、遠くの山の植物たちが根こそぎなぎ倒され、大地が大きく剥がれ落ちた様子が、植物に干渉する彼の特別な感覚として伝わっていた。
テラはお菓子を持ったまま固まり、リーフの言葉に全神経を集中させた。
「どれくらい先? 他の道に迂回したほうがいいかな?」
「距離は……2キロくらい先。……だけど、これは……」
リーフの言葉が途中で止まる。
「どうしたの?」
「土の中に、……人の気配がする」
「!!」
その瞬間、テラの胸の奥で、鈍い衝撃のように心臓が跳ねた。
「これは……体の一部が埋もれているみたい」
凍りつくような沈黙が辺りに落ちる。テラの背中にぞくりとした悪寒が走った。
「それって、生きてるのかどうか、わかるのか?」
リーフの瞳が一瞬強く輝き、足元の大地へと意識を沈めていく。
――そして、ゆっくりと答えた。
「……うん……まだ、生きてる。小さいから、たぶん子ども」
「ええっ……でも、どうすればいいの……ファル!」
迷うことなく、ファルは立ち上がり、険しい表情で前を見据えた。
「生きてるって知ってるんだから、行くしかないよな。俺、急いで走ってくから、リーフ連れていっていいか?」
「え、ええ! もちろんよ。私、ファルの足手まといになると思うから、ファルはリーフと急いで!」
「よっしゃ、リーフ、一緒に来てくれ。それと、リーフの依り代は預かるよ。で、リモは依り代に入って。テラが一人になるから、ヘリックスはテラと来てくれ!」
ファルはリーフを肩に乗せ、一気に地面を蹴った。
冷たい空気が頬を斬り、焼けるような息苦しさが胸に広がる。
とにかく急がないと――今はただ、走るしかない。
「ファル、まだ大丈夫。生きてる」
肩の上のリーフの声が、焦りの中でも確かな希望を持たせる。
「ああ、急ぐぞ!」
硬い地面が足裏を打つ。
滑りかけても、決して減速することはなかった。
背中に、テラの祈るような視線を感じながら。だけど、今は前だけを見る。
そして、土砂崩れ現場へ――
ファルは息を切らしながら体力の限界を超え、一心不乱に走り続け、10分ほどで土砂崩れ現場に到着した。
視界の先には、崩れ落ちた斜面が広がっていた。
土埃の渦の中、動揺する人々の声が飛び交い、必死に瓦礫をかき分ける人たちの姿が見えた。
「はぁ、はぁ、ひでぇな……けっこうな範囲だ。リーフ、わかるか?」
「わかるよ、ちょっと待って」
リーフの瞳が眩いばかりに煌めいている。彼の力が大地へと広がり、見えないものを感じ取っている。
「うん……あのあたり。下のほうに押し流されてる」
リーフは土砂崩れの下の方を指さした。
土の中に埋もれている命の気配――急がなくては。
「まだ、生きてるか?」
ファルは荒い息を整えながら問いかける。
重苦しい空気が肺の奥にまとわりつき、土埃の匂いに喉が焼けるように痺れた。
「うん。生きてるのはひとり。たぶん、何かが上に乗ってて、ちょうど隙間があるみたい。少し補強する」
リーフの瞳がさらに強く輝き、彼の力が大地へと広がる。
見えない土砂の中で、蔦が音もなく伸び、絡み合いながら崩れそうな隙間を包み込んでいく。
「わかった。俺、降りるけど、いいか?」
「目立つことは出来ないから、地中の根を伸ばして周囲を囲む。土砂がこれ以上流れないようにしておくから。でもあまり持たないかもしれない。なるべく急いで」
リーフは瞳を輝かせ全身から放射状に光を放つと、光は土に吸い込まれていく。
すると周囲の草木や、なぎ倒されつつもまだ生きている草木がざわざわとリーフの力に呼応し始めた。
「誰か、手を貸してくれ! あっちの下のほうだ!」
「場所がわかるのか!?」
「ああ、わかる!」
土砂崩れの下の方へ移動し、ファルと共に、数名の人たちが土をかき分ける。
乾いた土が指の間からこぼれ落ちる。
爪の隙間にまで入り込む泥は、彼らの焦りを無言で刻み込んでいた。
すると――土の中から、崩れた馬車の破片が少しずつ姿を現した。
「これだ!! おい、返事をするんだ! おい?!」
「……たす……けて……」
わずかな隙間から微かに漏れたその声に、ファルの全身が緊張で強張る。
かすかに聞こえた声は、途切れがちで、土の中に吸い込まれそうだった。
土砂に埋もれた壊れた馬車の一部が、重たくのしかかっていた。
その巨体と土砂に挟まれ、わずかな隙間から小さな手がかすかに動くのが見えた。
「よかった、今、助けるからな!」
ファルの声は力強く響いた。だが、握りしめた指先はかすかに震えていた。
焦りと緊張が入り混じる中、リーフの瞳が輝き、その意識が大地に集中すると、地中深く眠る蔦がグンと動き始める。
すると、鈍く響く裂けるような音とともに、壊れた馬車の壁がじりじりと持ち上がる。
「今だ!」
ファルはすぐに身体を低くし、隙間へ手を伸ばした。
泥まみれの指が、ほんのわずかに動いた。その小さな動きが、希望そのものだった。
「大丈夫か!?」
子どものまどろむように閉じかけた瞳に、消え入りそうな儚さが滲む。それでも確かに、生の光が揺れていた。
ファルは全力で子どもを引っ張り出した。
子どもは6歳か7歳くらいの男の子だった。
腕に伝わる小さな体の重み。
その瞬間――周囲から歓声が上がる。
「よかったな。おまえが頑張ったから、助かったんだ」
ファルは男の子の頭をポンポンと軽く叩き、ニカッと笑った。
それは、救えたことへの喜びそのものだった。
男の子は、かすかに息をつくように安心したように目を閉じた。
「とりあえず、私の施療院へ運んでくれ!」
ファルと共に救助にあたっていた近隣の町の施療院の医師が、男の子の体を受け取り、てきぱきと診察を始めた。
多少の擦り傷はあったものの、大きな外傷はなく、施療院へ運ばれることとなった。
ちょうどそこへ、テラとヘリックスが駆けつけた。
テラは息を切らしながら、現場の様子を見渡す。
「はぁ、はぁ、よかった……間に合ったのね」
胸の奥で、強く締めつけられていた不安がすっと溶けていく。
目の前には、土にまみれたファルの姿、そして無事に救い出され、運ばれていく男の子。
「おう、テラ、お疲れ様! 間に合ったよ! リーフはさすがだな! 助けられたのもリーフのおかげだ」
ファルの声には、安堵の色が滲んでいた。
「そう、ほんとによかった……」
風が吹き抜ける。
まだ土埃が宙を舞っているけれど、救助を終えた人々の顔には、どこか希望の光が戻っていた。
そんな中、町人らしき男性が近づいてきた。
彼に声をかけられ、ファルは泥だらけの腕で顔を拭いながら見上げた。
男性は、ファルが懸命に子どもを救い出す姿を見ていたのだろう。
「兄ちゃん、ありがとうな! 見かけない顔だが、旅人かい?」
「ああ、ちょうど通りかかったんだ」
「土で汚れてしまってるし、よかったらうちの宿に来なよ」
宿の主人らしき中年男性の申し出に、救助の重圧から解放され安堵に包まれていたファルは、驚いたように眉を上げる。
元々、もう少し先の町で宿をとり、1泊する予定だった。
そして確かに今は風呂と休息が必要で、予定とは若干違うけれど、せっかくの申し出を断る理由も無かった。
「あ、ああ、ありがとうよ。連れがいるんだが、いいか? 2部屋必要なんだが」
「ああ、2部屋ね、もちろんさ!」
宿の主人の快活な返事に、ファルは安堵した。
しかし、彼の目に映る周囲の人々の表情は、まだ暗い影を帯びている。
救出された子ども以外、馬車に乗っていた者はすでに帰らぬ人となっていた。
旅人や町人たちの間に、静かな祈りが流れる。
それでもなお――ひとりの命が救われたことは、疑いようもない奇跡だった。
いつも『刻まれた花言葉と精霊のチカラ 〜どんぐり精霊と守り人少女の永遠のものがたり〜』を読んでいただき、大変ありがとうございます。
次回更新をどうぞ、お楽しみに!