159 狂気の儀式
人間界で皆既日食が起きていた頃。
精霊界は薄暗い空に覆われていた。
ピシッと何かが裂けるような音が響いた瞬間、フラクシスが驚いてセイヨウトネリコを見上げると、樹の先端部分から中ほどまで、幹が縦に真っ二つに裂けていた。
「……精霊界が崩壊し始めたのか」
フラクシスは冷静な口調の裏に、深く諦観した思いを含ませていた。
「この歪みをこれ以上放置すれば精霊界は崩壊し、精霊たちは消滅する……だが……」
フラクシスは分かっていた。
とうとう、この時が来たのだと。
アンリムが見たという予知の光景が目に浮かび、フラクシスの霊核を締めつける。
誰も望んではいなかった。
リーフに絶望を背負わせてしまった。
本当は、どうにかしてやりたいと思っていた。
しかし、アンリムの予知は外れない。
予知を知り未来を知っていたからこそ
せめて、幸せにと願っていた。
可能な限り、幸せな時間を長くと思っていた。
リーフ、そして、テラ。
どうか、精霊界を、世界を、許してはくれないだろうか――。
◇ ◇ ◇
精霊界には、古くから伝わるひとつの伝承があった。
遠い昔、同じようにセイヨウトネリコが枯れかけた際、肉体を得て『人神』となった精霊が、その絶大な『癒し』の力で危機を乗り越えたという話だ。
世界の歪みを正し、その樹を復活させるには、想像の域を遥かに超えるほどの膨大な『癒し』の力が必要とされていた。
『人神』とは、精霊が人間の肉体に宿ることで、その力が何倍にも増幅された存在を指す。
しかし、それは通常の人間には不可能な行為だった。
精霊の強大な霊力、霊圧に耐えきれず、器となる肉体は内部から崩壊し、爆散してしまうからだ。
では、いかにして精霊は肉体を得るのか。
それを可能にするのは、ただ一つ。
不老不死の人間だった。
歪みを正すためにリーフとテラがとるべき道は、もはや一つしか残されていなかった。
不老不死の肉体を持つテラが、自らを『贄』とし、リーフの依り代をその体内に宿す。
そして、テラの肉体を得たリーフが『人神』となり、セイヨウトネリコを癒す力を発動させること。
それが、精霊界の危機を救う、唯一の手段だった。
◇ ◇ ◇
テラは、セイヨウトネリコに向かって走り寄り、樹の全体が見える位置で立ち止まった。
そして、ただ呆然と見上げていた。
ファルとリモ、ヘリックスも、枯れゆくセイヨウトネリコをそれぞれの家の傍で同じように見上げていた。
皆既日食が始まって4分ほどが経過した頃には、セイヨウトネリコは4分の1ほど残っていた緑の葉をすべて色付かせ、枯れた葉を風に舞い散らせていた。
骨ばった枝がポキリ、ポキリと枯死していく光景は、精霊界の崩壊が始まったことを残酷に告げていた。
「リーフは? どこにっ!?」
テラは再び走り出し、周囲に目をやった。
ちょうどその時、樹の根元付近から、薄暗い景色を塗り替えるようなひときわ強い光が放たれた。
テラはその光の方向へ目を向けた。
「リーフだわ」
リーフは幹に手をつき、背中の両翼を煌めかせ、必死に力を使っているように見えた。
「リーフ!!」
叫んだけれど、届かない。
「リーフ!!!!」
テラの叫ぶ声に気付いたリーフが、パッと振り向いた。
焦りとか、後悔とか、絶望もあるだろうけれど、今まで見たことも無いその表情が、テラには深い『失意』として映った。
リーフ、私がいない世界なんていらないって言っていたけど、そうじゃないでしょう?
だって、リーフはどんぐりの精霊だもの。
『永遠の愛』と『もてなし』を花言葉に持つあなたが
そんなこと出来るわけがないのよ?
あなたに初めて力の説明をしてもらったとき、私はこう思ったの。
『どんぐりの花言葉『永遠の愛』は、人の愛情とは違って、
自然と共にあるどんぐりそのものなんだわ。
リーフの存在自体が永遠の愛を体現してるのね。
豊かな自然が100年後も1000年後も永遠に続くように。
そうしてリーフは『もてなし』、与え続けるのね』
だから、リーフ。
「あなたは精霊王なんだから……だめだよ?」
テラは、今にも溢れそうなほどの熱い涙を目にいっぱいに溜めた。
その涙はリーフへの謝罪と、深い愛、そして永遠の別れを予感させるものだった。
「……ごめんね、リーフ。私のせいで、たくさん悩んだよね。私の命はリーフに貰ったものだもの。リーフのために使うことくらい、なんでもないよ……リーフっ……」
テラは震えるその手で、小さなどんぐりの依り代を口元へと運んだ。
「テラ! 待って!! 何してっ!!」
ごくん。
その瞬間、リーフの体は瞬時に依り代に吸収され、テラの不死の肉体は霊核の侵入に激しく拒絶反応を起こした。
人の肉体が依り代へと変貌する、精霊の器と化すまでのおぞましい狂気の儀式だ。
テラは、全身の細胞が内側から千切れるような、想像を絶する激痛に襲われた。
霊核はまるで液体のように体中に広がり、心臓を包み込む。
体内を巡る血管が霊的エネルギーに侵され、全身が煮立つような感覚に襲われる――それは、不死の肉体が初めて味わう、『死ぬことも許されない』終わりなき苦痛の始まりだった。




