146 エルナス森林地帯2
シダが生い茂り、苔生す地面を踏みしめながら、リーフたちは森を進み続けた。
約2キロおきに目印のヒイラギを成長させ、痕跡を消しつつ移動する距離は、一日あたり10キロから12キロほど。
夕方4時過ぎにはテントを作り、朝は5時に出発するのが生活パターンになってから、かれこれ2週間が過ぎていた。
「今日って何日だったかな」
森での生活が長くなるとどうにも日付の感覚が鈍くなり、テラはふと、リーフに訊ねた。
「今日は9月4日、木曜日だね」
「もう9月……どおりで少し涼しくなってきたはずよね」
7月下旬頃に王都を出発し、1カ月以上が過ぎていた。
暑かった夏も和らぎ、初秋の湿った土の匂い、重く静かな森の秋の気配が、辺り一帯を包んでいた。
「ねぇ、ヘリックス。到着まであと1週間くらいかな?」
テラは先頭を歩くヘリックスに声をかけた。
「そうね。ここまで順調に来たし、このまま、この調子で行けたらそうなるわ」
「楽しみね! とても美しい場所だってリーフに聞いたのよ」
「リーフとリモは行ったことがあるものね。私は行ったことが無いのよ。だから、実は私も楽しみなの」
ヘリックスはテラの方を振り返ると、にっこりと優雅に微笑んだ。
もちろん精霊界の中心へは何度も行ったことがあるのだけれど、エルナス森林地帯の中心部へ行くのは初めてのことだった。
ヘリックスは歩きながら、ふと、考えていた。
滅多に行くような場所じゃないから
つい、一緒に来てしまったけど……
リーフも精霊王になったし、
そろそろ引き継ぎをしてもらわないと
私の役目が終わらないのよね。
まあ、今は私も契約者がいるし、別にいいんだけど。
以前感じていた言い知れぬ不安。
リーフがファルの命を救ったことで『何か起きるのでは』と感じた不安は、リーフが精霊王になり、疫病を収束させたことで解決した。
少し前に精霊界の家で感じた僅かな違和感も、気のせいだった。
けれど、本当にそうなのか、と訝しく思う気持ちもあった。
しかし、現状、何も無い。
何かあれば、精霊界からコンタクトがあって然るべき。
何も無いのだから――それは、何も無いということ――。
考えても仕方ないわね、とヘリックスは中心部へ向けて、さらに歩を進めて行った。
◇ ◇ ◇
しんと静まり返る森で、足音と息づかいと、揺れる葉音だけが響いていた中に、気付けば川のせせらぎが混じっていた。
「川が近いわ」
ヘリックスが静かに呟いた。
川音のする方へ進んで行くと、深い森が途切れ、明るい陽光が差す谷間を流れる川沿いに出た。
川幅は広くなく、深さもさほど無いように見える小川は、岩間を滑るように澄んだ清らかな水が流れ、辺り一面の空気は涼しく爽快感に溢れていた。
「わあ! すごく素敵ね!」
テラは目の前に広がる川辺の風景に目を輝かせた。
「このあたりでちょっと休憩しようかしら」
先頭を歩いていたヘリックスが休憩を促した。
「もう休憩するの? ついさっき休憩したけど、いいの?」
「ええ。ほら、あの辺り、見てみて」
ヘリックスは少し先の岩場を指した。
「え? なあに?」
テラはヘリックスが指す方向に視線を向けた。
「温泉だね。あの辺りはお湯が湧き出しているみたい」
リーフもヘリックスが指した方向を確認し、温泉の存在を口にした。
「え! 温泉? 温泉があるの!?」
目を凝らして見ると、うっすらと湯気が上がっているのが分かる。
「ちょっと、見てきていい?」
「温泉があるのか! 俺も見てくる!」
テラとファルは、湯気が上がる場所へと一目散に走って行った。
「ファル! 温泉よ!」
岩場の水たまり、ではなく湯だまりは、澄んだ色をして底からお湯が沸き出しているようだった。
湯気が立ちのぼり、それがお湯だということは目に見えて分かった。
「湯加減はどんなだろうな。ちょっと手を入れてみるか?」
「え、大丈夫? 熱くないかな」
「湯気もそれほどじゃないし、川の水が混じってるんじゃないか? たぶん、大丈夫……」
そう言うと、ファルは水面に手を差し入れた。
「おおー!」
「どう? 熱くはなさそうね?」
ファルが熱そうな素振りを見せなかったため、湯加減が熱すぎることはないように思われた。
「ちょうどいいぞ! これはなかなか気持ちいいな! 風呂に入りたくなる!」
ファルの言葉に、テラも手をゆっくりと入れてみた。
お湯は熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどいい感じの湯加減だった。
「ほんと、温かくて、お風呂に入りたくなっちゃうわね! 浸かると気持ちいいだろうなぁ……」
浅めだけれど、人が一人か二人、足を伸ばして入れそうなほどの大きさの湯だまりは、まさに天然風呂。
テラはこの天然風呂に浸かるシーンを思い浮かべ、ほわぁと入浴気分の妄想を膨らませていた。
「今日はこの付近にテントを作ろうと思うんだけど、どう?」
丁度その時、夢のような提案をするリーフの声が背後から聞こえた。
「いいの!?」
テラはぐるりと振り返ると、空の青の瞳を輝かせていた。
「うん。温かいお風呂、久しぶりでしょ?」
「すっごく嬉しい! ありがとう、リーフ!」
喜びのあまり、テラはリーフに飛びつくようにして抱きついた。
野宿の日々は、水で濡らした布で体を拭く生活だった。
小川や湧き水がある所では、時々、髪を洗った。
温かいお湯に浸かる風呂が、恋しくないはずがなかった。
「やったな、テラ! 俺も風呂は有難い。ありがとうな、リーフ!」
テントを作るにはまだ少し早い時間だったけれど、今夜のテントの場所が決まったことで、ファルとテラは天然風呂の周りを整えることにした。
岩や石などを少しずつ移動させ、風呂の周囲を綺麗にせっせと整えると、大きめの布で幕を張った。
石鹸や桶なども準備して、入浴準備はバッチリだ。
「ふふっ。これで完璧よ!」
「どうする? 飯の前に入るか?」
「私は食事の後がいいかな。ファルは?」
「俺は飯の前にすっきりしたいんで、今から入るとするかな」
「わかったわ。ゆっくりどうぞ? 食事の用意はしておくわね」
では早速、とばかりにファルは入浴準備のためにテントに戻ると、テラは食事の支度に取り掛かった。
いつものように火を起こし鍋に水を注ぐと、今や定番となった野菜スープを煮込む。
ヘリックスも焚火の傍に座り、くつろいでいた。
ちなみにリーフはテントを作った後、そのままテントで休んでいるようだった。
「あれ? リモは?」
「リモはファルと一緒にお風呂よ?」
「あ、そうなんだ。……って、えっ!?」
「テラったら、面白いんだけど」
テラの反応に、ヘリックスはクスクスと笑っていた。
「精霊って、お風呂に入れるの?」
テラは、精霊は風呂に入らないと思っていた。
精霊は汚れないため、風呂を必要としないことは知っている。
そしてリーフは、テラが知る限り一度も風呂に入ったことが無い。
「さあ、どうかしら? 精霊だって入ってもいいんじゃないかしらね」
「そっか……。それに、ファルとリモは夫婦だものね」
「テラもリーフと一緒に入っていいのよ?」
「!! ま、まだ、私たち結婚してないから……っ」
テラは顔を真っ赤にしてヘリックスの勧めを断った。
「まだ? まだってことは……」
ヘリックスは、まだと言ったテラの言葉に食いついた。
無意識に口元がニヤリと緩んでしまう。
「あ、えっと……あの、実はリーフに……村が出来たら結婚しようって言われたの。だから、そういうのは、結婚してから……」
「まあ、まあまあまあ!! リーフったら、プロポーズしたの!? よかったわ! 大きな前進ね! おめでとう、テラ! 私もすごく嬉しいわ!」
ヘリックスはテラの手を取り、ブンブンと振るようにして喜びを爆発させていた。
「う、うん……ありがとう、ヘリックス……」
ヘリックスの喜びぶりに驚きつつも、こんなに喜んでくれるヘリックスに、テラは心から感謝した。
そんな会話をしていると、ファルとリモが風呂から上がったようで、ファルは少し火照った顔をして、リモと共に焚火のそばに腰かけた。
「テラ、いい風呂だったぞ! 先に済まないな」
「お帰り、ファル。リモもお帰り。スープも出来たから、夕食にする?」
「おお、ありがとうな! テラは飯食ったら風呂に入って来ていいぞ? 片付けは俺がやっておくから」
「ふふ、ありがとう、ファル」
「ねぇ、ヘリックスもお風呂どう? なんだか体に滲みるというか、すごく気持ちよかったわ。お勧めよ!」
リモがすっきりしたような面持ちで、にこにこ笑顔でヘリックスに入浴を勧めた。
「……私、飲み水としての温泉水は興味があるけど、入ったことは無いのよね」
ヘリックスは温泉水に興味があり、温泉に関しては意外に詳しいのだけれど、やはりヘリックスも入浴は未経験だった。
飲み水なら分かるけれど、入るとなると話は別なのだ。
「それならせっかくだし、ヘリックスも入ってきていいわよ? 私はまだ食事中だから」
そんなヘリックスの話を聞いて、テラも彼女に入浴を勧めた。
「じゃあ……お言葉に甘えて、私も入ってみようかしら」
リモとテラに勧められ、ヘリックスは初の温泉に浸かるという決心をし、お手製の浴場へ足を向けた。
ヘリックスの入浴初挑戦は、思いのほか満足のいく体験になった。
お湯に浸かり、体に滲みるような不思議な気持ちよさを満喫し、入浴もなかなか悪くないわねと、認識を変える結果になったのだから、入浴初挑戦は大成功といえるだろう。
その後テラも入浴し、久しぶりの温かいお湯で体と髪を洗い流した。
自然の中の天然温泉は歩き通しだった体を芯から癒し、心までもじんわりと癒してくれるようだった。




